2020年7月22日水曜日

まぼろしの赤山紀行(「赤山紀行」探索記Ⅱ)



 上野(1918)が最初に引用した「赤山紀行」は,

(一七)、寛政十一年(西一七九九、119)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くクスリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと云ふ(ル)

というものでした.これには著者名の記載がなく,わかる情報は1)1799(寛政十一年)年,作者はここを通過した,2)ルートは,オタノシキ川(現:阿寒川)から釧路原野を左に見てクスリ川(現:釧路川)まで,さらに桂戀(桂恋)附近のシヨンテキ海岸(現地名:不詳)附近まで.3)オタノシキ川からクスリ川まで石炭の転石があることです.
 話は繋がっていますが,著者は大楽毛川から釧路川まで,釧路原野を左に見て歩いているわけですから,「今度シラヌカにて石炭を掘りしに…」は過ぎ去ったルートのことを思い出して書いているわけです.4)その白糠では“石炭を掘っていて坑道掘りであること”,“坑道は三百間(約500m)に伸びるが石炭層は続いている”ということです.

 前々回は,児玉(2000)に掲載された「我が国主要石炭鉱業の時代別成立」の図の注の付表…

 「34.寛政11年(1799),谷元旦の釧路紀行。赤山紀行。釧路の石炭を紹介。」

から「赤山紀行」は“谷元旦の著作である”と書いてあると解釈しましたが,前回の山下(2012)から谷元旦が作者である可能性は,ほとんどなくなりました.そういう目で見ると,上記付表の注:34も,「釧路紀行=赤山紀行」とも「釧路紀行≠赤山紀行」とも解釈できます.困ったものです.
 そこで,この「赤山紀行」,喉に刺さった棘のように気になって,気になって…

 ついに「蝦夷蓋開記」のテキストをゲットしました.それは板坂耀子(2002編)の「蝦夷蓋開日記」で,「近世紀行文集成 第一巻」の中にありました.


 結論から言うと,文体は似ているものの書いてある内容はまったく違い,“赤山紀行”は「蝦夷蓋開日記」でも,そこから派生したもの(写本など)でもないようです.文体は当時流行っていた美文調でも,怪しげな漢文でもない,まったくムダがない.また筆者は当時の科学的知識(本草など)の造詣が深いことを物語るような内容です.化石などを採集したことも記録されています.
 さて,クスリ附近の海岸の石炭の様子…

ヲンネツフヨマイの出崎より石門を通り、懸崖絶壁の根より波の打入る洞六ケ所あり。夫より赤壁の間を行。此辺、壁の内壁珀を含む。石炭など多し。名づけて「石炭崖」となす。夫より出崎、浪高く、山路を越て浜へ出。流れあり。ヲソウナイといふ。又、出崎、越がたく山路を廻り浜へ出。石門あり。ヲコツヲ、沢川を経てロクネホツルに至る。

ということで,まったく「赤山紀行」の文章とは異なります.したがって,赤山紀行は元旦の書いたものではないということになりましょう.

 不思議なのは,シラヌカを通過しているのにもかかわらず,この行程の行きも帰りも「石炭窟」についてひと言もないこと.白糠に石炭窟があったとしたら,元旦がまったく触れないというのは,異様としかいいようがありません.本当に三百間もあったという白糠の石炭窟は,この時に存在したのでしょうか.

 なお,この板坂(2002編)には「解題」がついていて,「蝦夷蓋開日記」の概要が示されています.板坂(2002編)時点での「国書総目録」に示されている元旦の著作とされているものは「蝦夷紀行図譜」「蝦夷山川地理紀行」「蝦夷釈明」「蝦夷蓋開日記」「蝦夷風俗図式」の5点のみ.これらの書の内容や相互の関係は不明な点があるものの,いずれも寛政十一年の蝦夷地探検が題材である…寛政十一年といえば…

 江戸幕府が東蝦夷地を直轄とした時代で,北海道史には重要な時代なハズだけど,ここら辺りをまとめた研究はめったに見ない.和人の探検家が大挙してやってきた時代なのに.この時代の登場人物の個々についての伝記などならあるんだけどねえ….いずれ調べてまとめるとして.話を続けることにしましょう.