2018年7月1日日曜日

有珠嶽とアイヌの傳説

 吉田巌(1910)「有珠嶽とアイヌの傳説」が入手できましたので,脚注つきでUPしておきます.

有珠嶽とアイヌの傳説     吉田巌

地理學上より見たる有珠嶽、歴史學上より見たる有珠嶽、古人の紀行に日誌にその記事や求む可し。近くは加藤學士の調査報告書*1及吉田博士の大日本地名辭書*2これを盡くせり。然も余はアイヌの傳説にして未世に紹介せられざるものあるを怨む。もとより零啐*3のものなりといへども一は以て這般*4の噴火を記念し、一は同好の士の參考に資せむとするまた強ち徒事にあらじと信ず。讀者希くは微意を諒せられむことを。
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*1:加藤學士の調査報告書:加藤武夫(1910)北海道有珠岳火山及び洞爺湖地質調査報文:第一編 地形論,第二編 一般地質構造論,第三編 有珠火山論,第四編 洞爺湖論,第五編 雑纂,のことと思われる.
*2:吉田博士の大日本地名辭書:吉田東伍(1907)大日本地名辞書.目次を見るかぎり北海道の地名には触れていない.
*3:零啐:漢語らしい.零=「0(この場合は「無」のことか)」,啐=「おどろく,よぶ,さけぶ,しかる」:「誰も言及しない」の意か.
*4:這般:(しゃはん)「この度の」.
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有珠嶽の名義に就きて
傳説を叙せむとするに先ち、一言有珠嶽の名義に就きて辮ずる處あらむとす。有珠嶽の名義に就きては諸説あり。然れどもアイヌ名はウスヌプリ*1にて原名ウショロヌプリ*2より轉約せし者なり。ウショロは灣、ヌプリは山の義、これ恰も陸奥宇曾利郡(宇曾利はアイヌ語ウショロ)に於ける恐山(恐はアイヌ語ウショロ)のそれと地形の髣髴たるを見る。又或書にイケウヱウセグル*3を以て有珠嶽の本名なりと註したる者あり。その解に曰く輕石を切り出すの義と、これ何によりてさる解釋を與へられしものなるか、余はこれを疑ふ者なり。何となればイケウヱウセグルとは山名にあらずして山神又は山靈の名なればなり。獨有珠嶽に限らず、山各靈ありと信ずるはアイヌの常習なり。イケウヱウセグルの名は有珠嶽占有のものにはあらざるなり。
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*1:ウスヌプリ:初出は松浦武四郎か.山田秀三(1984)が引用.
*2:ウショロヌプリ:初出は松浦武四郎か.
*3:イケウヱウセグル:永田方正(1891).「Ye kere use guru イェ ケレ ウセ グル 軽石ヲ削リ出ス神(有珠ノ噴火山ノ名ナリ)」とある.カタカナ綴りの違いについては,不詳.知里(1956)には「ye」の項目はあるが,「イケ・」に該当する項目はない.
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 「ウㇱ(us)」は,「入江;湾」(知里,1956).「ウソㇽ(us-or)」は「湾;湾内」(知里,1956).知里(1956)のどちらの項目にも有珠山の例は出ていない.

アイヌ神話の一
昔時大海の中に一の噴火山ありき。多くの神々其の周圍に集り、如何せばやと鎮火の議を凝しぬ。さる折しも一匹の燕、何思ひけむそのあたりを飛翔りて、切に嘲笑ひぬ。神々見とがめて曰く燕よ、汝何條鎮火の術をか知る、むだ口すな、そこ退けと追ひ立てければ、彼少からず怒り、體こそ小けれ吾が爲さむ様見給へとて天上さして舞ひ登るよと見えしが矢の如く走せ下りてスックと許焼山を含み抜き放ちてぞ陸上に移しける。もとより神ならぬ烏の仕業鎭火す可くもあらばこそ、其儘ひた焼けに焼けたるは今の有珠嶽なり。

 有珠山の創世にツバメが関係している伝説は,更科(1981)にもありますが,プロットはまったく異なります.もっと,別なバージョンもあったのかもしれません.
 記録されることもなく,伝承がなくなってしまったとすれば,まったく残念なことです.


アイヌ神話の二
昔老アイヌ子供を随へて有珠岳に登る。子供『山が育つたな』とつぶやきしに老アイヌさることやあると叱しけれは山神聞きとがめて怒をなし噴火せしめきといふ。

 山神はなにを聞きとがめたのでしょうね.
 子供にバカにされたと思ったのでしょうか,あるいは子供に「成長した」と褒められたのに,爺さんがとがめたので,それを怒ったのでしょうか.
 この文だけでは,どちらにでも解釈できそうです.


アイヌ神話の三
太古モシリ(蝦夷島)成れる時、天神、使者キラウシカムイ*1(額に角ある鬼の如き神と云ふ)をして下界にイナオ(木幣)を數多持ち下らしめ人類をしてこのイナオに倣ひて削り成さしめ惡といふ惡を祓ひ善徳を得しむ可き術を授けしめむとしき。故キラウシカムイ獨功を壇にせむと慾心を發して今の有珠缶を指して天降りぬ。天神、使者が邪心あるを知悉して大にこれを惡み、未山に達せざるに先ち引捕へてイナオを奪ひ使者をばテイネポキナシリ*2(地獄)にまで踏落し畢んぬ。故、その地獄の穴とは今の噴火口なり。使者絶命せり。獨彼のイナオは罪なきアイヌの手に入りぬ。これをイナオの起源とす。
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1*:キラウシカムイ:正確な綴りは不明であるが,「kiraw」は「つの(角)」(知里,1956)である.
*2:テイネポキナシリ:teyne-poknasir(ティネポㇰナシㇽ)「'じめじめした下界'の意.悪人の霊が死後に行く世界」(知里,1956).

 この話は,更科(1981)が引用・再掲載しています.
 しかし,プロットはおなじですが,内容が微妙に異なります.引用したい方はご注意ください.
 また,吉田が「キラウシカムイ」としたカムイは,更科では「キラウシコロカムイ」に,吉田が「テイネポキナシリ」とした地獄は,更科では「ポクナモシリ」になっています.「ポクナモシリ」は「pokna-mosir(ポㇰナモシㇽ)」,意味は「あの世(下方の・国)」(知里,1956)でしょう.


アイヌ神話の四
(天)
昔アブタ(膽振國虻田、古名ポンチプカ*1)に一人のオツテナ*2(酋長)ありけり。性兇猛、一村擧つて彼が振舞を悪みぬ。誅伐の天刑は村民の手によりて演ぜられぬ。然るにその怨靈有珠岳の三兄弟なる妖魔*3と結托し村民に仇を報ぜむとしき。怨靈妖魔相共に魔劍を揮ひて村民を惱ましぬ。魔劍もと錆びたるが如く光を認むる能はず。村民暗中刄に倒るる者多し。天神これを憐み、ヤアウオシケツプ*4(蜘蛛)をして怨靈妖魔を逮捕せしむ可く下界せしむ。ヤアウオシケツプ乃絲を吐き網を張りつつ有珠岳を覆ひ一擧して彼等を得むとし、山麓六隅の柳を柱として、六條の綱を結び固めぬ。魔靈恐怖して其逃途を求む。不幸なる哉、一個の網の目のち切れたる處を發見せられ遂に彼等を逸し畢んぬ。かくしてその切目こそはやがて火を吐き石を飛ばしいやましに良民を苦しましむる穴とはなりぬ。噴火口は實に魔靈の仕業に因りて作られしものなり。
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*1:ポンチプカ:不詳.ポン・チュㇷ゚カ(pon-chup-ka)か?,しかし,「小さな東」では意味不明.ポン・チカㇷ゚(pon-cikap)か?.ポンチカㇷ゚は「小さな鳥」であるが,ポロチカㇷ゚をタカ(オオタカ),ポンチカㇷ゚で「ハヤブサ」と区別することがあるらしい.
*2:オツテナ:オッテナ(ottena)=日本語「乙名」よりできた言葉らしい.①(内地の人が決めた)集落の頭となる役人.②(和人からアイヌ男子を呼ぶ場合は)「旦那」であり「おっさん」の意でもあるらしい.集落の長としての「酋長」のアイヌ語はkotankonnispa/kotankor nispaもしくはkotankor kur.性格が「凶猛」で人望がないのに「長」と呼ばれるのは不思議である.この場合は,和人が勝手に決めた「村役人」であるか.
*3:有珠岳の三兄弟なる妖魔:不詳.前後に解説なし.
*4:ヤアウオシケツプ:yaoskep ヤオㇱケㇷ゚(あみ・編む・もの=クモ)(知里,1962; 1976)のことか?

 このお話はまだ,ほかでは未見です.


(地)
ニサッサホ*1(曉明星)一人の兒星を持てり。兒星先ちて現はるる時は天災地妖ありと稱す。その故は己れの兒に災渦あらむとすれば先だてて看護せむとする親の情なればなりと云ふ。さてニサッサホは絶世のピリカメノコカムイ(美女神)にしあれば、天神、即其の美容に獰猛なる彼酋長の怨霊を魅し、耳目を迷眩せしめ手足身心の自由をさへ束縛せしめし一刹那に乗じヤアウオシケプを下したりし苦心も遂に水泡に歸し殆策の出づる處を知らざりし折柄アイヌの大英雄ポンヤウンベは同族ポンチプカウングル(虻田住民)の難を聞き其の居所エシカラ、トミサンペツ、コンガニヤマ、カニチセ*2より雲に乗りて飛來せり。時にアプタのウヱンメノコ(烏呼なる女)何思ひけむ裾をかかげで(ママ)有珠山に向ひ臀をあふりぬ。ポンヤウンベ烈火の如其非禮を怒り、同族の難を救はむ勇氣だに失せて呆れにこそは呆れたれ。今は悪靈の爲すがままに打任せたるのみかは己れも山を踏破り履にじりて散々に破壊せしめ、ここに虻田の生靈は悲惨なる最後を見るに到りにき。
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*1:ニサッサホ:nisatsawot nociw(田村辞書),nishat-shaot-kamui(ネフスキー「アイヌ・フォークロア」).
*2:エシカラ、トミサンペツ、コンガニヤマ、カニチセ:不詳.ポンヤウンベの伝説にはしばしば出てくる地名のようであるが,意味不明.


アイヌ神話の五*1
昔トカプチ*2(十勝)にイモシタグル*3とて暴戻慳貪飽くを知らざる大惡漢ありき。一朝忽焉として鬼籍に入りしが彼が現世の罪業は以てカンドモシリ*4(極樂)に入るを許されざれければ怨靈妖魔と化して至る處に出現していたく良民を害しぬ。遂に十勝を脱して有珠山に來りて放火したり。天神これを捕へもて蹂躙したり。山の噴火口を生ぜしは天神の踏しだきし餘勢に基くと。
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*1:この話は工藤梅次郎(1926),更科源蔵(1981)が引用している.細部が微妙に異なる.工藤(1926)は「神様のお怒り」という題名,更科(1981)は「有珠岳の噴火」という題である.
*2:トカプチ:不詳.リーズナブルな解説をおこなった地名解は未見.
*3:イモシタグル:不詳.工藤(1926),更科(1981)は「イモシタクル」としている.「-クル」は「-kur(・クㇽ):魔神;人」の意と思われる.
*4:カンドモシリ:不詳.工藤(1926),更科(1981)は「カムイモシリ」としている.



噴火と説話
有珠山の噴火はアイヌの口碑に存するものによればその幾度かの災禍に事實相前后し、年代相錯綜し複難を極めたれば、稍正確に近きものは、和人の古記録に其の片影を窺ひ知るを得可きのみ、然も再三噴火の慘狀を經驗せし古老は往々生存せざるに非らざれども今や年一年に亡し殆全く其實を傳ふる者なきに至れり。
有珠嶽の噴火は有珠虻田を中心として、辨邊*1禮文華*2長萬部*3遊樂部*4、落部、其他噴火灣一帯の各部落、舊室蘭*5、幌別、白老より遠く十勝地方に迄も聞えその神話さへ傳へられたり。
今本章を終らむとするに當り、有珠、虻田等のアイヌ古老の口碑による昔時噴火の説話要領を摘記せむ。
有珠嶽の噴火は、前のは春、後のは秋なりき。(前とは文化*6、後とは嘉永*7に事實年代相符合す)その以前の噴火(寛文)*8にはアブタ(當時のアブタは今の所謂虻田村トコタン*9の地)全部、熱火を浴び、土砂、石灰のため廢村に歸し、酋長の如きは實に壮烈なる最後を遂げたりとぞ。虻田會所詰の役人巡檢せし折、酋長が灰中に座したるまま合掌して山神に禱り動かざるを見て、怪み觸るれば全身壊れて灰となりぬ*10。彼が最愛の美女チシコサンの如きは如何にもして行方を知るを得ざりきといへり。爾來鮭の漁獵盛なりし河川も乾きて跡を没しアブタは廢村となり(アイヌの所謂トコタンの意義はこれなり)僅に逃れし者はフレナイ(今の虻田)に部落を移すに至れり。文化、嘉永の噴火には、有珠虻田共飲料水の盡きむを恐れ、豫め、多量を汲みて貯へたりと言ふ。又鹿、熊の皮などを打ち被ぎて逃げ延びしも、土砂、熱灰を浴びて全身焼欄し、海水に飛込む者はさながら釜中の魚の如く死にきと言ふ有珠の如きは降灰の甚しき爲、自他の家を辮別し難からむを慮り豫め各戸長き棒杭等を立てゝ落延びたるものなりと言ふ。
(完)
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*1:辨邊:弁辺(べんべ).現在の豊浦町.弁辺はアイヌ語の「ペッ・ペッ(pe-peか?)」に由来するとされる(更科,1982).
*2:禮文華:礼文華(れぶんげ).
*3:長萬部:長万部(おしゃまんべ)
*4:遊樂部:遊楽部(ゆうらっぷ).八雲町遊楽部.
*5:舊室蘭:元室蘭(現在の崎守町)か?
*6:文化:文政噴火のことか?.1822(文政五)年旧暦閏一月十六日より有感地震.十九日午後八時ころ噴火.上記の通りのことが起きた.
*7:嘉永:嘉永六(1853)年.旧暦三月六日から鳴動.十五日大噴火.二十二日火砕流発生.
*8:その以前の噴火(寛文):1663(寛文3)年,旧暦七月十一日から十三日まで微震.十四日の明け方より山頂カルデラよりプリニー式噴火.
*9:トコタン:この表現では「トコタン」という地名があるように受け止められるが,トコタンは「ㇳコタン(tu-kotan)」=「廃村」の意味.
*10:酋長が灰中に座したるまま合掌して山神に禱り動かざるを見て、怪み觸るれば全身壊れて灰となりぬ:同様の伝説が更科(1981)に記録されている.なお,アブタコタンの廃村は文政噴火のこととされているので,この記述には混乱がある.