2011年3月30日水曜日
炭田と炭山
前の記事「小樽で」の中で,「炭田」と「炭山」を使い分けています.
国語辞典などでは,解説を読んでもあまり違いがわかりませんが,一応違いを示しておきましょう.
「炭田」は地質学用語ではありません.
「鉱山学用語」としては,使用可かもしれません.なぜなら,「炭田」には経済的な意味があるからです.地層中にはしばしば,石炭層が含まれていますが,必ずしも企業化できるものとは限りません.「炭田」と呼ぶには,企業化ができるほど,経済価値のある石炭層が存在していなければ,ならないわけです.
さて,「炭山」も地質学用語ではありません.
「鉱山学用語」としても,使用はしないでしょう.炭山は単に“石炭のある山”ではなく,石炭を掘り出し,消費地に送り出すシステムであり,そこに働く労働者や,その家族まで含めた一つの完結したシステムのことです.
この“山”は江戸時代の初めにはすでに成立しています.多くは金属鉱山として.普通に歴史でいう士農工商などとは別の特殊な存在として認められていたようです.
非常におおざっぱですが,そういう使い分けをしています.
2011年3月29日火曜日
小樽で
日曜日(3/27)に,小樽市総合博物館で「石炭がもたらしたもの=炭山・鉄道・造山運動=」という題でお話しをしてきました.
そのあと,室蘭まで,娘のアパートの引越しにいって昨晩遅く帰ってきたので,今日は朝からヨレヨレです.
お話しの骨子は…,
かつては“産炭王国”とよばれた北海道ですが,すでに「石炭」を見たこともない,触ったこともない大学生が普通にいる時代になりました.この子らの多くは,卒業すると学校の先生になるわけですが,理科の先生になろうと,歴史の先生になろうと,「石炭」はどんどん現実感のない「もの」にリサイクルされてゆくわけです.
日本では,江戸時代の終わり頃になるまで,「石炭」に注目する人は,本草家や好事家を除けば,ほとんどいませんでした.それは,“石炭”の名称(呼び方)をしらべてみれば,すぐにわかります.
そんなものが,なぜ重要物資になったのかといえば,江戸時代の終わり頃に「鎖国」を解いたからです(1859:安政六,箱館開港).当時は,外洋を航海する大型船は帆船から蒸気船に移り変わっていっている時代で,外国からは石炭の供給を求められていました.
それに対応するために,箱館奉行は蝦夷地の海岸地域で産炭地を調査.クスリ場所の「白糠石炭窟」,イワナイの「茅ノ澗(茅沼)」で,産炭の試行錯誤を繰り返します.
その流れの中で,欧米の鉱山技術・地質学をはじめとする最新の科学技術が蝦夷地に流れ込みます.
やがて,旧幕臣グループ(榎本武揚を中心とする幕府留学生たち)やブレイク,パンペリー,ライマンらの米国鉱山学者・地質学者が育てた開拓使仮学校・地質測量生徒らが競い合って,石狩炭田を発見します.榎本は,明瞭に巨大な「石狩炭田」の存在を言い当てています.
巨大な「炭田」には,巨大な資本が投下され,各地で「炭山」が成立します.石炭を運ぶネットワーク=鉄道網がつくられ,人びとが集まり,なにもなかった谷間に巨大な集落が発生します.
18世紀後半から19世紀前半にヨーロッパでおきた「産業革命」のミニチュア版が東アジアの小さな島におこったわけです.
こんな風に,19世紀後半から20世紀前半にかけては,地下資源の重要性が認知され,各地につくられた大学には,必ず「地質学鉱物学教室」がありました.それらは,石炭・石油のエネルギー資源だけではなく,金属鉱山などの開発にも一役も二役も買っていたわけです.この国の義務教育の教科には,長い間,博物学がありました.
ところが,21世紀を迎える前に,各地の炭山は閉鎖され,金属鉱山もほとんどなくなってしまいました.
これに併行して,大学から「地質学鉱物学教室」が姿を消し,高校では「地学」が選択科目となり,授業は,ほぼおこなわれなくなりました.
こうして,現在では「石炭」を見たことも,触ったこともない若者がほとんどとなり,大人になっていったわけです.
マスコミでは,「地球」とか,「環境」とかいう言葉が発せられない日は,まず無いですが,実際に,地球がもっている時間とか,地球を構成している「もの」を理解している人たちが,どれだけいるのだろうかと疑問に思う日が続きます.
10年にいっぺんの地震・津波は,みんなよく覚えているので,この程度かと思っています.
しかし,100年にいっぺんの地震・津波には「まさか」と思い,1000年にいっぺんの地震・津波には「夢にも思わなかった」というのが普通の感想です.
しかし,地球の歴史は45~46億年といわれていますし,地球上に原始的な生態系ができてからも,すでに5億7000万年経っているのです.
ヒトの体験した自然災害は,地球の歴史が,ときに体験した事件に比べれば,そのスケールとは,じつは比べものにならないくらい小さなものです.
この時間の感覚,スケールの感覚は,地学の必修の必要性を要求しています.
人類に歴史が長くなれば長くなるほど,どんな事件に遭遇するかわからない.たまたまそういう事件に遭遇した生物たちは,すでに,化石としてしか見ることができません.
この時間の感覚,スケールの感覚は,地学の必修の必要性を要求しています.
地球上で起きる自然現象は,時として,我々にとっては壊滅的な破壊を与える事件になり得ます.
高校で地学を教えなくなったから,石炭を知らない大人が増えています.
津波警報が出ても避難する人は一割以下という統計がでているそうです.それは,地学を教えなくなったからだ,とは言い切れないでしょうけど,関係がないとはいえないでしょう.
我々が立つ,この大地のことを知るための学問をぜひ復活させてほしいものだと….
2011年2月15日火曜日
サヌシュベ根無地塊
石狩炭田には,いわゆる“根無地塊”と呼ばれるものが点々してとあることが知られていました.
でも,“根無地塊”という用語は「地学事典」(平凡社)にはありません.「根なし地塊>クリッペ」となっており,「クリッペ」を正式用語として採用しているようです.
「地学事典」の記述を読むかぎりでは,「クリッペ」は「ナップ」の一部が「浸食され孤立した異地性の岩体」となっています.じゃあ,「ナップ」はなにかというと,原位置から(衝上断層や横臥褶曲などによって)押し出され,(別の)現地性基盤を覆う「シート状の大きな異地性岩体」のことだとなっています.つまるところ,「クリッペ」も「ナップ」も(衝上断層や横臥褶曲などによって)移動したあとの「異地性岩体」であることには変わりなく,のちの浸食による残存部の大きさによるちがいのようです.
要するに,シート状の大きな岩体が「ナップ」で,シート状には見えない小さな岩体が「クリッペ」ということですね.しかし,「大きさによるちがい」が何を意味しているのかわかりませんし,ちがいで区分することにどんな意味があるのかもわかりません.
ちなみに,「ナップ[nappe]」はフランス語で「テーブルクロス」を意味する言葉だそうです.現地性岩体の上にテーブルクロス状に乗った岩体という意味なんでしょうね.困ったことに,もともと,このことを記載したのはドイツ人のA. Escher (1841)という人で,ドイツ語の「デッケ[Decke]」を使用していた(意味はやはり「テーブルクロス」)そうですから,「デッケ」を使用するべきなんでしょうね.なぜ,フランス語?.
一方,「クリッペ」は,G. Pusch (1829)が使用した語で,こちらもドイツ語.「クリッペ[Klippe]」は「崖」の意味だそうです.専門用語として,特別な意味を持たせるのは,かなり問題がありますね.だって,「崖」も「根無地塊」も同じ意味ではね.
しかも,「デッケ」と「クリッペ」は大きさが違うだけで,成因は同じ.大きさが違うと,なにか,地質学的に意義が違うというのでもなければ,普通名詞と誤解されやすい「クリッペ」は使用すべきではないかもしれませんね.
日本語の「根無地塊」には「異地性岩体」の意味があり,その大きさは関係ありませんので,適切な言葉と思えますが,なぜこれが採用されないのでしょうかね.
「根無地塊(根無し地塊:根なし地塊)」=「デッケ[Decke]」でいいと思いますけどね.
あ~~ぁ.前置きが長くなってしまった.
これらのデッケ群のうち,最大級のものが,「サヌシュベ根無地塊」といわれているものです.
穂別から夕張地域に抜ける峠の手前に「サヌシュベ川」と呼ばれる川があり,この名前を取ったものです.このあたりの国道を通ると,地辷り地形や妙な地形がよく見られるのはこのためです.
この「根無地塊」の研究をおこなってきたのが,前の記事にある「大立目謙一郎」氏.
前述したように,この根無地塊の研究は,石狩炭田の精密な地質図を作成することから始まっています.そして,その原因を求めるうちに,「日高山脈」の成立に結びついていったのでした.
現在の地質学史では簡単に,アルプスで発見されているデッケと同じだから,アルプス造山運動の日本版として考えられた,と,あっさり片付けられていますけど,いいんかな~,それで.
重要なのは,ライマン流の精密な地質図を作る地質学(アメリカ式実用地質学)は,民間の炭山開発の中で生き延びていたことで,地質図とかを重要視しない大学地質学(ドイツ式象牙の塔地質学)ではこういう研究に至らなかったということです.
結局,大立目さんは北大に戻りますが,そのため,北大には精密な地質図にうるさい学風ができあがります.湊先生が1/5,000でルートマップを作れとか,地質が理解できなければ,もっと細かい地質図を作れとかいっていたのはこのことです.
ただ,まあ,1/500で地質図を作ったからといって,複雑な地質が理解できるかというと疑問なんですが….結局は,露頭が良くないとね.
ところで,「サヌシュベ根無地塊」という名前について.
穂別から夕張へ出る峠付近にある川を「サヌシュベ川」と呼んでいます.
地形図には「サヌシュベ川」とありますので,一般的にはまた地質学上の用語としても「サヌシュベ」が用いられています.しかし,アイヌ語の性質からは「サヌシュペ」と書くべきものです.[-pet]は普通に「川」の意味ですからね.
また,知里真志保「アイヌ語入門」の記述からは,アイヌ語には「シュ[sh]」という発音はなく「シ[-s]」が正しいのだそうで,現在「サヌシュベ」と呼ばれている地名は,本来は「サヌシペ[san-us-pet]」らしいです.ただし,[san-]も[-us]も複数の用法・意味があり,この地名の意味はよくわかりません.
2011年2月9日水曜日
大立目謙一郎
大立目謙一郎さんは,北大地鉱教室・第一期生です.
大立目さんは理学部卒業後,北海道炭礦汽船株式会社に入社し,石狩炭田の地質を研究していました.
大学の地質学が実用とはかけ離れて象牙の塔化している中で,ライマン流の精密地質学は石炭開発をおこなう企業でのみ,生き延びていました(松井愈,1953)が,大立目氏はここでライマン流の精密地質学にであうことになります.
そして,石炭開発のために精密な地質図を作成していく中で,夕張炭田(石狩炭田)には,日本の他地域には見られない複雑な地質構造があることを発見します.これは,「サヌシュペ根無し地塊」として知られています.
これは,アルプス山脈に見いだされている「根無し地塊」に匹敵するもので,これがきっかけとなって,のちの「日高造山運動論」の展開につながって行きます.
以下は,大立目さんが研究半ばで倒れたとき,後輩にあたる湊正雄博士がその研究をまとめ,公表したときに,当時の北大教授であった鈴木醇氏が著した「序」です.
序
大立目謙一郎博士は、新進有為の士として誠に得難い地質学者であつたが、不幸にして太平洋戦争に應召出陣して、中國の戦地に於て病歿せられた事は誠に痛恨に堪えない。同博士が他界せらわてから、早や六年有半の星霜を経たが、同博士の残された数々の優秀な研究業績を顧る時、学界に於ける大なる損失を思い、今更ながら誠に感慨の深いものがある。
大立目博士は明治40年7月13日大立目謙次氏長男として仙臺に生れ、仙臺二中、北大豫科を経て、昭和5年3月當時創設された北大理学部地質学鉱物学科に第1回学生として入学、昭和8年卒業まで極めて学究均な学生として終始し、この間長尾教授並に上床教授指導のもとに修業並に卒業論文として次の二編を完成された。
(1)1932 (A)鵡川上流地方の第三紀層並に白亜堊層 (B)胆振邊富内地方の白堊紀層(修業論文)
(2)1933 邊富内、穂別川、登川地方の白堊紀層及び第三紀層の層位並びに地質構造について、附(A)北晦道産古第三紀介化石、(B)北海道産白堊紀介化石、(卒業論文)
これ等の論文中には層位学上及び古生物学上新に発見された幾多の新事実が発表されて居り、学生の業績としては稀に見る優秀なものであり、この時已に専門家としての頭角を現わして居り、これ等の研究はひいては、同博士他日の大成への基礎をなしたものである。
昭和8年3月北大卒業後は直ちに北海道炭鉱汽舶株式会社に入社、昭和14年7月には再び北大理学部に戻り助手後に講師に就任、その間室蘭高等工業学校講師を兼ねて居た。昭和17年6月招れて秋田鉱山専門学校教授に就任、又東北大学理学部臨時講師の嘱託を受けて居た。これ等の間熱心なる学生指導の傍、常に北海道に於ける第三紀層並に白亜紀層の研究に没頭され、特に石狩炭田の研究に対しては最も力を蓋し、これ等に関し重要なる多数の研究業績を残されたのである。今同博士の研究の後を偲ぶため前述2編の後に発表された層位学並に古生物学上に関する主なる論文を挙げれば次の加くである。
(3)1933. The Upper Cretaceous Oil-bearing Sedimentary Rocks of Hokkaido, Japan(北大理学部紀要 Ser. IV. Vol. II. No. 2)(上床教授と共著)
(4)1938. Molluscan FossiIs of the Hakobuti Sandstone of Hokkaido(北大理学部紀要 Ser.lV. No. 2)(長尾教授と共著)
(5)1938. A New Calianassa from the Palaeogne Isikari Series of Hokkaido(地質学雑誌 第45巻)
(6)1940. 北海道中部に於ける下部菊石層と輝緑凝灰岩層の層位関係に就いて(北海道地質調査会報告 第11号)
(7)1941. 石狩炭田南部の推被衝上構造の新事実に就いて(矢部教授還暦記念論文集)
(8)1941. 日高国南端部の所謂「歌露礫岩層」に就いて(地質学雑誌 第48巻)
(9)1942. 石狩油田産 Calyptogena 層化石に就いて(地質学雑誌 第49巻)
(10)1942. A Melanian Fossil from the Isikari Series (Palaeogene) in the Isikari Coal-field, Hokkaido.(地質学雑誌 第49巻)
(11)1943. A Brief Note on Fossil Corbiculids from the Kusiro Coal-Field in Hokkaido.(地質学弊雑誌 第50巻)
(12)1943. The Fossil Corbiculids from Hokkaido and Karahuto.(地質学雑誌 第50巻)
(13)1945. 夕張炭田邊富内地方の地質構造特に其の推し被せ構造について(石狩炭田の地質構造特に其の推し被せ構造に就いての研究 其の一)(地質学雑誌 第50巻)
(14)1943. 岩手県北端部Vicarya化石に就いて(地質学雑誌 第50巻)
(15)1943. The Fossil Corbiculids from the Palaeogene Isikari Series in the Isikari Coal-Field, Hokkaido.(北大理学部紀要 Ser. IV, Vol. VII, No. 1)(長尾教授と共著)
(15)1943. Three Species of Fossil Corbiculids from the Tertiary formation of Karahuto.(北大理学部紀要 Ser. IV, Vol. VII, No. I)
(17)1943. On the Two Fossils Corbiculids from the Palaeogcne Coal-bearing Tertiary of Obiraisibe, Tesio Province, Hokkaido (北大理学部紀要 Ser. lV, Vol. VII, No. I)
(18)1945. 石狩炭田の地質構造、特に推し被せ構造についての研究(遺稿)(其二)
上述の論文中特に優秀なる石狩炭田の地質特に推し被せ構造についての研究に對し地質学会学術奨励金が與へられその後問題(其二)に對しては理學博士の學位が授與せられた。
同博士は更に石狩炭田研究継続中昭和19年6月應召直に出陣されたが不幸中国の戦地に於て病を得て同年9月14日湖南省衡陽縣楊家拗野戦豫備病院に於て遂に逝去せられた事は返す返すも遺憾の至りである。
同博士の業績は上述の如き発表せられたものに留まらず、更に幾多の未発表の遺稿が残されて居た。これ等の内特に“石狩炭田の地質構造、特に推し被せ構造についての研究(其三)は已に学位論文として提出された同題(其二)のものに更に新しい材料を加えて完壁としたものであるので、この得難き資料を深く框底に蔵するに忍びず、此度機会を得て上梓するの運びに至つた事は学界にとり誠に喜びに堪えない。
由來石狩山地は層位学上及び古生物学上のみならず、地質構造の複雑なる點に於て幾多興味ある問題に富む地方なる事は人の知る所であるが、更に同地が北海道に於て最も重要なる炭田である事は云うまでもない。大立目博士の論文が、学問上の種々の問題を解明したと同時に、此の後同地方の地下資源開発の上にも極めて重要なる指針となるものである事は明かである。この事を思えば短い生涯を閉じた同博士の貢献は長く世を稗盆するものであつて、同博士も以て瞑すべきである。
大立目博士の重要な遺稿の一つが発表せらるるに當り、これと関連ある同博士の従來の業績を紹介して序言とするものである。尚本遺稿の発表に際しこれが整理其他に當られた北大湊正雄博士の努力に對し衷心感謝の意を表するものである。
昭和25年8月
北海道大学教授 鈴木 醇
北海道地質要報.第18号,資料「大立目謙一郎:夕張炭田夕張地方の地質構造特に其の推し被せ構造に就いて」より.
2011年2月5日土曜日
榎本の予言
「蝦夷地質学」で,榎本武揚が「石狩炭田」の存在を予言していたと書きました.
その記述を引用しておきます.
一、此地ノ石炭山ハ思フニ当(マサ)ニ 「イクシベツ」石炭山ト脉絡相貫通スルナルベシ。但シ「ホルムヰ」河口ヨリ空知河口迄舟行十六里余及ブト雖ドモ、両石炭山ノ距離ハ直路恐ラクハ五六里ニ過ギザル可シ。然レドモ此件ハ「ウアツソン」氏、荒井氏等ノ石狩河地図ト予ガ自ラ測定セシ図ノ成サレシ後ナラデハ確保シ難シ
この文章は,加茂義一氏が「榎本武揚」(1960刊)の中に再録したもので,原本は松本十郎・開拓使大判官が榎本から貰いうけ,当時は松本十郎の孫に当たる松本友という人物の個人所有物だったそうです.
現在どうなっているのかは不明ですが,いわゆる「お宝」なので,現物を確認することは不可能でしょう.
なお,加茂氏は「開拓使あての報告書」であるとも書いていますが,開拓使あての公文書が個人所有物というのも変な話ですね.ま,これは「写し」であって「原本」は開拓使で保存されていたのかもしれません.そうだとすると,原本は道立文書館あたりにあってもよさそうですが,そうだったら,加茂氏がすでに発見してても,よさそうですね.
よくわかりません.
現在,道立文書館のHPでは,所蔵資料の検索ができるようになっているようなんですが,インタフェイスが「?」で,検索方法がよくわかりません(もしかしたら「Windows-MSIE」にしか対応してないのかも.表示が変ですから).
ま,結果が出てきたとしても,どの資料もネット上で公開されているわけではないので,意味がないですけどね.なんのためのHP&検索窓なんでしょうかね?
原形が不明ですが,加茂氏の記述を解析すると,どうも表紙は以下のようになっているらしいです.
明治六年十月七日
イクシベツ石炭調査
榎本武揚
しかし,次の行には「石狩河枝流「イクシベツ」石炭山及「ソラチ」河石炭山略記」とあります.こちらのほうが記録の内容を正確にあらわしていますね.
上記文章は,付録の「ソラチ」河石炭山のほうにある記述です.つまり,空知川で発見された石炭脈が,はるか南方の「イクシベツ」=「幾春別」の炭脈までつながっているだろうと断言したわけです.これは,「石狩炭田」が存在することの予言でもありますし,この石炭を求めて,たくさんの人や資本が入りこんでくるであろうことの予言でもあります.
そして,そうなりました.
ところで,もし,この報告者が道立文書館の所蔵物だったら,どのようにデータ化されているんでしょうね.これが綴じられている,「開拓使公文書・第何巻」とかだけだったら,どんなふうにに検索をかけても,結果は出てこないでしょうね.そういうことかも.
たくさんある「壁」のひとつです.(^^;
2011年1月19日水曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.11 補遺「白糠炭山」pt. 2.
「「タキイシ」物語」には続けて,こうあります.
夫人足御料書
伝 次 郎
其方儀大黒町茂兵衛外壱人より入湯に罷越揚り場に脱有之衣類金子等盗取始末不届に付入墨鼓申付候
但入墨鼓候上蝦夷地クスリ領シラヌカ場所に石炭掘人夫として差遣す
坂田無宿 半四郎
其方儀無宿之儀を押隠し地蔵町新次郎身元請相頼み茶屋町茂兵衛方手伝中座敷に有之帯壱筋盗取地蔵町和平方月雇中同人倅喜一郎所持之莨入盗取其後右茂兵衛宅へ夜中立入金銭衣類等盗取始末不届に付入墨鼓中付候
但入墨鼓の上シラヌカ場所石炭掘為人足取遣す
白糠炭山では「採炭人」のほかアイヌが使役(「使役」ってなんでしょうね.強制労働?)されていたという記述がありますが,松浦竹四郎があったという,強制労働の無宿人についての送り状みたいなものですかね.
こういった,無宿人の他,家族・親戚から見放された放蕩人も奉行の判断で強制労働に就かされていたようです.その数二十数名とありますが,もちろんこれらは引用が示されていません.
最後に,産炭データから.
では白様ではどのくらい掘つたか、どうも不明である。ただ安政四年六月から翌年四月までの採炭高は五九九八石八斗であつたというが、私にはビンと来ない。では石炭の価格はどの位であつたか、自糠町史の記すところによると、「十六貫目俵百俵で約六頓に当るから、この当時の石炭代は一頓一両八分位にしかつかない」と、これに対し百俵掘取の人夫賃が二両一分余を要し、運賃が八両であつたから、さしたる利益もなかつたろうと思われる。賃金はというに栗原善八が一カ年三十両、益次と末吉は一日銀七匁、音松と清五郎は一日銀五匁だつたと、これも私にはビンと来ないことである。
数字はあがっていますが,その数字が意味するところのことを,歴史の専門家が「ピンとこない」といってます.わたしのような素人には,まったくわかりませんですね.
ま,どうやら,産業としては成り立たなかったと考えた方がよいようで.
もうひとつ.「自糠町史の記すところ」という記述がありますので,ネタはやはり「白糠町史」なのでしょうかね.
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.11 補遺「白糠炭山」pt. 1.
さて,茅沼炭山に移ろうとしたら,重要な資料を見つけてしまいました.
それは,片出敬次(1963)「タキイシ」物語=本道最初の炭山=.新しい道史,第1巻,第1号,26‐30頁.
この(論文ではないな)記事は,北海道最初の炭山といわれる「白糠炭山」について詳述したものですが,多分に「読み物」的で,明確な引用がないので記事の根拠を確認できず,困るのですが,重要なことが記述されているので,無視するわけにも行きません.
運がよければ,元記事をそのうちに…,ということで,メモ,メモ.
さて,
「白糠開坑に着手した箱館奉行は、翌安政四年閏五月に手附栗原善八を掛りに任命し、江戸から益次、末吉、音松、清五郎四名の採炭人と、募集した人夫を白糠に送つて愈々本格的に採掘に当らせ、また地元のアイヌをも使役した。」
とあります.
どこに元記事があるのか書いてないので,問題ですが,(たぶん,この記事を引用したのであろう)これまで見たすべての記事には書いていなかった「歴史に無視された四人の職人」の名前が出ています.
【採炭係・手付】─【採炭人】
栗原善八 ├ 益次
├ 末吉
├ 音松
└ 清五郎
「手付」という役職が箱館奉行所の中でどういう位置づけなのかも不明ですが,とりあえず,こういう専門職グループが成立します.「益次と末吉は一日銀七匁、音松と清五郎は一日銀五匁」と後述されていますので,前者の方が熟練工ということでしょうか.銀七匁は26.25g,同五匁は18.75gですから,現在の相場で,約75円/gですから,日当1,400~2,000円程度(と,いわれても高いのか安いのかわかりませんね(^^;).
たとえば,文政年間(1820年頃)の若い大工の日当が銀5匁4分という記録があります.これでは.だいたい同じくらいということになってしまいますが,未開の地で命をかけて働いて,江戸の若い大工の日当と同じ程度では,やりきれませんね.比較例が悪いのかもしれません.
「採炭人」四名は江戸からきたと書かれていますが,「東徼私筆」には“栗原が江戸から”きて“四名の職人は筑前柳川から”とされています(但し,「柳川」は筑後だと思います).
その技術として,落盤を防ぐための「留木」をもちい,「不危燈」を使用しているという記述が続きます.「不危燈」は「安全燈」であるという前提で書かれていますが,具体的にどういうものだったのかという記述や解析はありません.
2011年1月15日土曜日
鉄道と機関車
「鉄道」と「機関車」は,じつは別のものです.
というか,別に発達してきたものです.
本来の鉄道は,重量物を運ぶために引かれた「鉄製の軌道」のことです.その上を走る(重量物を運ぶための)台車は人が押そうが,牛馬が引こうが,或いは蒸気機関車が引こうが,ディーゼルカーが引こうが,電車が引こうがちがいはありません.「鉄道」なのです.
一方,われわれが「鉄道」といって思い浮かべる(鉄道の上を走る)「機関車」は,当初が「蒸気機関車」であり,これは今の自動車のように(軌道上ではなく)自由に走るものでした.舗装が整備されていない当時の道路では,重いだけの蒸気機関車は無用の長物にひとしいものでしたが,これを「鉄道」と結びつけることによって世界が変わったのです.
日本には,すでに「鉄道」と結びついた「機関車」が明治になってから入ってきましたので,日本人には「鉄道」と「機関車」がべつなものだなんて,ほとんどの人は気付いていません.これを指摘したのは,わたしの知る限りでは,牛沢信人(1982)「茅沼「はじめての鉄道」論争」ぐらいです.
なんだか,このパタン,日本人には「科学」と「技術」そして「科学技術」の区別がつかないという話によく似ています.西洋でべつなものとして生まれ,発達したものが,ジョイントして新たなものに生まれ変わり,その後,日本に入ってきたから,日本人は「おなじもの」と思ってしまうのですね.
日本の都市には「科学館」なるものがよくありますけど,中身は「科学技術館」ですね.本来の科学=自然科学は「科学館」ではなく,なぜか「博物館」にあります.これは,科学史を勉強しないと,理解ができない現象です.
話を戻します.
日本で最初の「鉄道」は,北海道にありました.それは,江戸時代の茅沼炭山で石炭を運び出すために設けられたものでした.牛沢氏の論文を見ると,一時は茅沼炭山で日本最初の蒸気機関車が走っていたと誤解されていたこともあるようです.
一方で,「茅沼鉄道(茅沼軌道と改ざんされてたりもする)」は「日本最初の鉄道」であるのは間違いないのに,日本最初の鉄道は,明治に入ってから,新橋-横浜間につくられた「鉄道+蒸気機関車」であるというのが,日本史上の定説になっています.妙なことですが.
一説によると,新しいことはなんでも明治政府が始めたことにしておきたいという圧力があるんだそうで,江戸幕府が将来を見つめて新しい科学技術を導入していたという事実はタブーと化しているのだそうです.
うん.なんか思い当たる.
2011年1月14日金曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.10 補遺「オソツナイ炭山」pt.2
「開拓使事業報告」がありました.
国会図書館・近代デジタルライブラリーで公開されています.
以前にさがしたときは,みつからなかったのに,なんででしょうね.
なにはともあれ,「オソツナイ」にかんする記録をさがしてみると,第三編の718頁にあります.そこには,以下のように表記されています.
「安政三年幕府始テ釧路字獺津内(オソツナイ)煤炭ヲ掘採シ幾モナクシテ止ム」
と,あります.
児玉清臣氏の記述とおなじですね.「カタカナ」が「ひらがな」に替わってはいますが.ということは,児玉氏は「開拓使事業報告」を直接みて引用したということになりますね.
一方,多羅尾忠郎の「北海道鉱山略記」は若干の編集がはいっているようです.ということは,記述をよくみれば,「開拓使事業報告」を直接みて引用したのか,「多羅尾忠郎」経由で引用したのか,ルートがわかりそうです.
ちゃんと比較していないのでなんですが,多羅尾の記述は,「開拓使事業報告」がネタ本ですね.比較してみるとおもしろいかもしれない.
「開拓使事業報告」では「札幌本庁」-「函館支庁」-「根室支庁」-「樺太支庁」にわけて記述しているのにたいし,多羅尾は北海道全体を「沿革」-「硫黄」-「石炭」-「石油」-「金銀銅鉛」-「砂金」-「砂鉄」-「統計」とわけなおしています.
「開拓使事業報告」がお役所向けなのにたいし(いわゆる「縦割り」ですね),多羅尾忠郎の「北海道鉱山略記」は技術者向きといったちがいがありそうです.
「北海道鉱山略記」をみて,思ったのですが,全体の構成から見ると「硫黄」が現代の感覚からは比較にならないほど重要な産業だったようです.そういえば,「マッチ」の材料としての「硫黄」は当時の日本の重要な輸出品だったとか,聞いたことがありますね.
江戸時代以前の石見銀山の銀の輸出といい,明治期の硫黄の輸出といい,日本が鉱物資源の輸出国だったとは….現代の感覚からは信じられませんけどねェ.
あ.肝心の「オソツナイ炭山」ですけど,コンだけの記述では,「北海道最初の炭鉱」の冠をかけるのは…,やはりキツイですよね.幕府側の記述が発見されて,詳細がわからないとね.
2011年1月13日木曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.10 補遺「オソツナイ炭山」
前出の多羅尾忠郎・編「北海道鉱山略記」の鑛業畧沿革・舊記には,次のような記述があります.
○仝年幕府始メテ釧路オソツナイ石炭ヲ掘採シ幾クモナクシテ止ム
上記「仝年」とは安政三年のことです.
「蝦夷地,最初の炭鉱 pt. 1」に引用した児玉清臣「石炭の技術史」にある記述と内容は一緒ですが,表現が微妙に異なります.これは児玉の編集によるものか,あるいは引用元が異なるのか,はわかりませんが,二者とも元々は「開拓使事業報告」を引用文献にあげていますので,多分そうなのでしょう.
「開拓使事業報告」は存在がわかりません.
たぶん,道庁赤レンガあたりに所蔵されているのでしょうけれど,見せてもらえるとも思えないので,このあたりが限界ですかね.
なお,「石炭の名前」に関係してきますが,多羅尾は「煤田」と「石炭」を使用しています.「炭田」と「煤炭」は見あたりません.
2011年1月10日月曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.9 補遺
1890(明治二十二)年,多羅尾忠郎・編「北海道鉱山略記」より
(シラヌカ石炭)
開拓使事業報告ニ曰ク,「シラヌカ」舊石炭坑ハ上古ノ石炭ヲ含ム岩石ト變シ坑ノ前邊灰色シェールノ近代ニ成ル岩層ノ一端アリ.坑上灰色砂石ハ此岩層ニ連續スル如クナレトモ坑近傍ノ岩石ハ其質甚堅硬ニシテ数多ノ黒斑アリ.往年開採ノ跡ヲ見ルニ岡麓ニ一ノ坑質アリ.坑口土石崩落匍匐シテ入ルニ凡八碼許ニシテ土石充塞シ進ムヘカラス.又其側面ハ板張ニテ岩層ヲ見ス.層厚サ半尺ヨリ四五尺ト云フ.坑外堆積中良質ト見ユル拳大ノ岩塊アレトモ,概子破砕シテ多ク「スレート」ヲ
混ス.炭質良ナルカ如シト雖モ,開採ニ堪ヘサルヘシ.
東蝦夷日誌ニ曰ク「シラヌカ」石炭ヲ掘出ス.其稼方九洲邊ノ掘方卜異ナルヿナシ
多羅尾忠郎という人物は,北海道庁属だそうです.どういう職なのかはわかりません.しかし,「灰色シェール」などという用語をつかうところからみて,地質学的知識をもった人物とみて差しつかえないでしょう.「開拓使事業報告ニ曰ク」という言葉遣いが気になりますね.二次資料中の引用不詳の部分でこの「開拓使事業報告」にあるという付記をしている文章がしばしばありますから,もとはこの「北海道鉱山略記」なのかもしれません.
なお,多羅尾忠郎は千島探検の記録も残してます.
2011年1月7日金曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.8「白糠炭山以前」
「石炭がある」ということと,「炭山がある」ということは別のことです.
近代鉱山用語として使われているわけではありませんので,あいまいな部分もありますけどね.「石炭がある」ということは地質学的な現象であって,「炭山がある」というのは人間による経済活動があることです.
白糠には数千万年前から「石炭」がありましたが,「白糠炭山」は安政四年から数年間しか存在していません.そういうこと.
「北海道で最初の炭鉱」であることはいいようなんですが,その開山年月日-閉山年月日となると,まだあいまいで,何月まで記述がある資料もありますが,その証拠となる史料が明記されていない場合がほとんどなので,わたしら(理系)の感覚としては「あいまい」とするしかありません.
あしからず.
それでは,白糠炭山開山以前に書かれたクスリ地方の石炭記録をリストアップしておきたいと思います.
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1781(天明元)年,「松前志」成立.
その「巻之十」に以下の記述があります.なお,この記述の発見者は高倉新一郎(北大名誉教授)であり,この記述は,児玉清臣「石炭の技術史」にあります.これが北海道の石炭についての最初の記述だとされています.
「タキイシ.此物東部クスリより出ず.黒うして滑かなり.燃ゆること薪の如し.大和本草に所載石炭の類なり.若水が説に烏石と言う即ち此なり.」
注:「クスリ」は「釧路のこと」とされがちですが,そうすると,精々が「釧路市」もしくは「釧路郡」程度の範囲を示すと誤解されがちです.しかし,この頃は行政界なんかなく,全くのアバウトの呼び名でしかありませんでした.概念的に近いものとなると,「釧路国」という古い呼び方が該当し,旧釧路支庁のほか,足寄郡の大半,美幌町・津別町・大空町なども含んでいました.
だから,もちろん,このあとに出てくる「白糠」も「クスリ(久摺)」の一部でした.
のちに,「久摺場所」とか「白糠場所」というような経済活動概念がでてくるとまた話が別ですけどね.
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1790(寛政二)年,「蝦夷草紙」成立.
著者はもちろん,最上徳内.その,「産物の事」に,次の記述があります.蝦夷地質学外伝 其の七 「蝦夷草紙」(最上徳内)参照
「石炭 クスリ〔久摺〕場所之内,ヘツシヤフ辺ニ有之」
「ヘツシヤフ」という地名ははっきりしませんが,現在の厚岸湾の尻羽岬付近の「別尺泊」は海岸にあり,石炭が露頭することからも調和的です.
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1799(寛政十一),谷元旦「蝦夷紀行」
その六月二十四日の記述.
「此日浜邊平にしてしめりよし.歩行も易し.石炭など,この邊より出づる.尤も上品なり.光黒くして滑澤あり.」
注:二十四日朝,白糠を出発し,クスリへ向かう途中なので,白糠石炭産地(石炭岬)についての記述と考えられています.
谷元旦ならば,スケッチぐらい残されていても良さそうなものですが,不詳.
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同年著者不詳の「赤山紀行」の記述.
「オタノシキ川より左に原を見て行けば,原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり.この附近石炭あり.桂戀の附近なるションテキ海岸には,磯の中にも石炭夥しく,総てトカチ領よりクスリ領までのうち,山谷海邊とも石炭なり.今度,シラヌカにて石炭を掘りしに,坑内凡そ三百間に至れども石炭毫も盡くることなしという.」
注:「赤山紀行」は「北海道炭砿港湾案内」(昭和六年刊)の冒頭に引用されているとされていますが,詳細不明.偽書かも? なぜなら,この時代は,まだ石炭の採掘はおこなわれていないので,「坑内凡そ三百間」なんてあり得ないのです.そもそも「赤山紀行」そのものの所在もわからないし….
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松浦武四郎
松浦武四郎はたくさんの記録を残していますので,逆に気をつけなければなりません.
たとえば,白糠付近を通ったと考えられるのは,1845(弘化二)年,1856(安政三)年,1858(安政五)年の三回になります.
じゃあ,この順に記録が残されているかというと,そうではなく地域別に分けられていたり,旅程が編集されていたりするので,「自伝」とクロスチェックしなければ,真実が見えてこない場合が多いからです.
なお,以下で「自伝」としているものは,松浦武四郎研究会(1988編)「校注 簡約松浦武四郎自伝」のことです.
1845(弘化二)年は,自伝によれば,四月の初旬に江差に上陸し,西蝦夷地へ向かいますが,途中で断念し,箱館経由で東蝦夷地へ(注:「西蝦夷地」は日本海側,「東蝦夷地」は太平洋側を漠然と示す当時の言葉です).レフンケ>ウス>モロラン>ユウフツ>サル>クスリ>アツケシ>ネモロ,ルートでネモロからシレトコまで探検し,十月に箱館に帰りました.
したがって,シラヌカも通っているはずですが,このときには「白糠炭山」は存在していません.
1856(安政三)年の自伝には,詳細な記録が残されていて,日単位で探検ルートを追うことが可能.
1856(安政三)年九月十九日,コンブイ(昆布森;釧路町)泊.二十日(不詳;滞留か).二十一日:夜,白糠番屋泊.二十二日,シヤクヘツ泊.
「安政三年六月に試掘が開始」されたという(某氏の)記述がありますから,このときの竹四郎の日記になにか書かれていても良さそうなものですが,自伝にはありません.「試掘」という言葉の意味が限定されてきそうです(同様に,「安政四年五月に採掘をはじめた」という(某氏の)記述がありますが,これも,いったいなにに書かれていたのでしょうね).
1858(安政五)年の自伝も詳細な記録があります.
1858(安政五)年三月十九日,夜中より出立.五ツ頃にヲホツナイえ着.支配人紋蔵,元締橋本 悌蔵昨夜泊まる.相驚き分かる.是より山中,乙名并に石狩土人へ遺し物致し,我はクスリえ先触出し,飯田は十勝の方え先触出し置く.
二十日,クーチンコロ,セツカウシ,イワンハカル,ニホウンテ,アイランケ,右五人山通り,アエコヤシ,サケコヤンケ,サダクロ,ヤアラクルの四人飯田召連浜通り帰る.シヤクヘツ昼,白糠泊る.詰合土居小藤太.
二十一日,此処石炭山見分,石炭御用として栗原善八と云ふ者詰合ふなり.日々出方余程のよしなり.流罪人等一同我が到りしを見て悦びたり.此者共流罪に成りし云々あり.小田井浜中まで来り居る.
二十二日,柴田弁一郎,小田井蔵太,越山平十郎出会,山行の事相談し,
二十三日,山行支度申附る.
(中略:山行資材リスト)
二十四日,大風曇,今日箱館仕出し薬種類の箱物着,松村精之助来り泊る.案内土人人別申出る.
(中略:同行アイヌ名簿)
酒三升,濁酒五升,縄たばこ十把,下帯十,手拭十遺す.
二十五日,今日シタカロ迄馬にて行は可なり一日に行,歩行にて行は二日と云か故に,未明出立と申定め置出立,薄暮シタカロえ着(今日の道,十二里)小使ラシウンテ宅へ行泊る.
安政五年行では,白糠に五泊もしています.これから内陸部へ向かうための準備でした.蛇足しておけば,当時は内陸部にはほとんど道がなく,和人の住処(番屋など)もありませんので,準備は大変だったのでしょう.
二十一日には,石炭山を見学したことが明記されています.「流罪人」にまで注意を払う武四郎の優しさがあらわれていますが,これが「流罪人が強制労働」させられていた記録なのでしょう.
なお,戊午「十勝日誌」,戊午「久摺日誌」は安政五年の十勝-久摺行をつづったものですが,白糠炭山についての記述は見あたりません.
しかし,「東蝦夷日誌・七編」には,以下の記述があります.
「白糠番屋(通行や、勤番所、板くら、馬や、人足小屋有)、土地山の下少しの間に立、南受沼形。有二辨才一。沖懸り宜し。北は山を受て暖地也。傍に観音堂有(合殿、岩船明神、三十番神、いなり明神)。此處眺望宜し。名義はシラリイカにして、汐越ると云儀。満汐の時は此ヲフネフの川より、チヤロ〔茶路〕・ワツテまで平場、惣て汐打入るゝ故に號く。土人小屋有。昔はクスリ〔久摺・釧路〕・白糠と別場所成しを、文化度一場所となしたり。近頃また此上より石炭を掘出し、今盛に掘居る也。其稼方九州邊の掘方と異る事なし。シレエト(岬)、此邊よリクスリサキ見え初る。人家(三十二軒、人別人別〔衍〕三百人餘)多し。」
また,いわゆる「竹四郎廻浦日記」や「戊午日誌」にも,白糠炭山関係の記述がありそうですが,資料を持っていないので,確認できません.
あしからず.
2011年1月6日木曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.7「罕有日記」
見逃してましたが,高倉新一郎(1987)「挿絵に拾う北海道史」に,「罕有日記」の「白糠炭山」に関する記述が載っていました.なお,「罕有日記」は「かんゆうにっき」とよみます.
「横に山腹を掘る事深さ十間程高さ六尺幅同断なり。左右は材木にて虎柵を立て頽堕を厭ふ。拾間奥より更に左右に深く掘込たり。奥に至る程炭質も細かに且質悪しと。又其南十二間に別窟を穿つ。製は前に同じ。深さ七、八間なり。蔵方の咄に二穴にて三千貫目程掘出す」
悲しいかな,現物ではないので,この前後になにが書かれているのか,書かれていないのか,確認できません.
高倉(1987)には,この引用文のあとに,引用不明の解説が続くので,上記の他にまだなにか記述があるのかもしれません.
この記述からは,「東徼私筆」ほかにあるように抗口が二つあることが確認できます.文脈からは,「東徼私筆」の絵「白糠石炭窟」にある上の抗口(あいまいに描いてある)のほうが,質が悪い坑道のようで,下の抗口(南の別窟)が新坑道(?)のようです.
「入北記」(玉蟲左太夫)には,「一つは「細炭且悪炭」のため,役に立たないが,もう一方は「極上石炭」である」としていました.この記述では,二つの坑道は別の炭層をおったもので,炭層自体に質の違いがあるようにも考えられますが,「罕有日記」の記述では,先の坑道では徐々に悪くなって,十間ほどで「細炭且悪炭」であり,新坑道ではまだ「七、八間」しか掘っていませんから,十間ほどで同じように「細炭且悪炭」になる可能性もあります.
つまり,おなじ炭層を掘っている.
このことが,担当者にはわかっていたから,すぐに「茅ノ澗炭山(=茅沼炭山)」へ移ることを決心させたのかもしれません.
ま,白糠炭山の精密な地質図でも入手できれば,判明することなんですけどね.
と,書いていたら,児玉清臣「石炭の技術史」のなかに「罕有日記」の記述を見つけてしまいました.なお,この文は白糠町発行の「叢書・白糠炭田に灯は消えず」という冊子にあるとされています.
「沙汀十町余にて山腹に石炭小屋あり。馬を下りて案内を乞う。石炭窟に入る。十二、三間を距て又一窟あり。窟中両又の穴を通す。皆良品を産するなり。掛りの吏人栗山善八(栗原の誤り)(此頃石炭場見立のよし)右石炭掘職の者江戸表より数人召連下り業を始むよしなり。右石炭山は汀内二町程奥にて五、六間の山腹なり。横に山腹を掘る事深さ十間程高さ六尺、幅同断也。左右は材本にて柵を組み欠損を防ぎ、虎柵を立て頽堕を厭う。十間奥より更に左右に深く掘り込みたり。奥に至る程石炭は細かに且つ質悪ししと。又其南拾弐間に別窟を穿つ。製は同じ。深さ七・八間なり。職方の者の咄しに二穴にて三千貫目程掘出すといふ。右石炭積置を見るに黒色にて油光あり、或は金気を帯るも見へたり。一塊を受けて東都へ呈す。……職方の賃銭米俵(米なら十六貫だが石炭だと十八貫目)壱俵掘出し代銀七分を与ふと。朝より八ッ半時までに十俵掘出す。江戸で九州炭壱俵の価格は八貫文のよし。」
「クスリ詰足軽腰山平右衛門と両人出張にて会釈あり。見畢って同伴小出崎を回り二、三町にてシラヌカ。」
高倉(1987)より,引用が長いですね(高倉分は太字で表示).見学日時は示されていませんが,児玉は「成石が見学した同じ月の末」としています(引用はありません).
また,高倉の引用のあとにある解説文の内容をしめすものは,ここにはありませんので,なにか別のものからということになります.
なお,児玉は「この白糠炭鉱の採掘記録によると」と書いていますので,「白糠炭鉱の採掘記録」なるものがあるはずですが,この「この」がなんなのかは示されていません.
前文には,坑内作業員の細目や「不危燈」=安全燈についての記述がありますので,これについて記述した資料があるはずで,この史料のことのはずですが,明示されていないのです.
史料は大部分が「お宝」ですから,特別な人,特別な機関に属する人でなければ触れることもできないのはしかたのないことなのかもしれません.しかし,その特別なことができる立場にいる人たちが,中途半端な引用をしたり,引用を明示しないために,そのこと自体が混乱を起こしているのは,どうなのかと思いますね….
2011年1月5日水曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.6「あやしい情報」
ものによっては,石川和助の「観国録」,窪田子蔵の「協和使役」に「白糠炭山」について書かれているという情報があります.
石川和助・窪田子蔵がクスリ付近を通過したのは安政三年のことで,石炭や木の葉の化石が落ちているなどという記述は確かにあります.しかし,白糠炭山が開かれたのは安政四年のことですから,当然こと,これについての記述はありません.
以下は,安政四年以降のクスリ地方の旅行記で,「白糠炭山」を検視した可能性がありますが,史料の所在が不明なので,レビューできません.
鳥井存九郎「北溟紀行」
鳥井存九郎は越後・村上藩士.老中・内藤信親(越後村上藩主)の命により,蝦夷地・樺太の調査にでました.
1857(安政四)年,箱館-松前-宗谷を経てカラフトに渡り,シラヌシより西岸をホロコタンまで北上.帰路,宗谷より蝦夷地東海岸を周回し帰藩したとあります.
森一馬「罕有日記」
森一馬は越後・長岡藩士.老中・牧野忠雅(長岡藩主)の命により,蝦夷地・北蝦夷地(樺太)の調査に派遣されました.西蝦夷地経由でカラフト北西岸のポロコタンに至り,カラフト南部・東蝦夷地を周廻し,帰藩したとあります.
なお,上記二件は,北大・北方史料DBにありますが,web上では公開されていないので,検討不能です.両方とも「写本」のようですが,「元本」はどこにあるのでしょうかね.
2011年1月4日火曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.5「入北記」(島義勇)
前回に引き続き,また「入北記」から,ですが,こちらは佐賀藩士・島団右衛門義勇の手になるもの.
島義勇も,玉蟲左太夫とともに,箱館奉行・堀織部正利煕の調査団に随行していました.そして,おなじ題の「入北記」を残したわけです.
島は,その後,明治政府側につき,明治維新を生き延び,蝦夷開拓御用係-開拓使判官を勤め,蝦夷地開拓に尽力します.
ところが,開拓使のゴタゴタに巻き込まれ,解任.
その後,明治七年,「佐賀の乱」をおこし,さらし首に.
しかし,北海道では,北海道神宮にまつられている神様でもあります.
では,「入北記」より,1857(安政四)年八月廿四日の段*.
「廿四日 クスリ川船渡し大河常水有り、三里程海辺ノ広野を歩し、それより小粒山海に沿ひし麓をすくまた二里有餘にしてシヨロロ(シヤリ江越ス新道有り行程四十里卜云)、大河有りて土人小家多し、これより土人小家たへす、二里程海辺を歩しシラヌカ、此に石炭山海岸にあるを堀り方に成り候、土人事になれす大にこわかる由なり、羆多き場所に而当春の子を土人一軒に三頭或ハ二頭をも捕へかいし家多し、それより四里八丁歩し、シヤリヘツの番家に宿す、大河都而五ケ所舟渡し、其外は洪水計の時潰し候所卜みゆる川三四ケ所有り、路傍の山、種々の雑木(良材なり)長す、昆布も有り。」
島は,石炭にはあまり興味がなかったようですね.
それよりも,そこで働かされているアイヌが坑道作業を怖がっていることに注意をはらっています.これが,アイヌが炭鉱で働かせられていたことの証拠ですね.
*入北記:杉谷昭(1975)「〔幕末維新拾遺〕その3=安政四年蝦夷地調査記録『入北記』の資料的研究(続々)=」より.
2011年1月3日月曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.4「入北記」(玉蟲左太夫)
1857(安政四)年,箱館奉行・堀織部正の調査団に同行した仙台藩士・玉蟲左太夫の「入北記」より.その巻六・八月二十四日の記.
「(前略)御手附栗原善八ナル者見込ノ石炭掘場アリ。一見セシニ当時折角盛ンニ掘居タリ。穴ハ二ツアレドモ一ハ細炭且悪炭ニ〆用ニ立タズ、一ハ極上石炭ノ由.僕試ノタメ一片ヲ持シ来タリ。尤此辺処々ニ石炭アル由.是ヲ掘リ開キナバ多分ノ有用ナルベシ、実ニ悦ブベキヿナリ。夫ヨリ三四丁ニ〆シラヌカニ至リ午飯ヲ喫ス。(後略)」
玉蟲の記録では,白糠石炭窟にある二つの坑道のうち,一つは「細炭且悪炭」のため,役に立たないが,もう一方は「極上石炭」であるとしています.
疑問なのは,もしそうであるならば,「細炭且悪炭」のほうは閉鎖し,良好なほうのみ出荷すればよかったはずなのに,担当者=栗原善八は品質管理をする能力がなかったということなのでしょうかね.つまるところ,炭質云々よりは,茅ノ澗のほうが箱館に近いという地理的条件が,白糠炭山を廃山にした大きな理由なのでしょう.
(コストの低い運搬方法さえあれば)この付近には,あちこちに石炭があるので,(良好な)石炭を掘り出せば,役に立つであろうとしています.
玉蟲は次世代の釧路炭鉱の存在を見通していたということでしょうか.そして,玉蟲には石炭の品質を見る目があったということでしょうか.
戊辰戦争のあと,玉蟲左太夫は,蝦夷地で捲土重来を期す榎本武揚との合流をのぞんでいました.しかし,榎本軍との合流を果たせず,捕縛されて獄へ.榎本が蝦夷地で苦戦している最中の1869(明治二)年四月,切腹死しました.
悲しいことに,玉蟲左太夫も成石修輔とおなじ道をたどったことになります.
才能もあり,青雲の志をいだいた,たくさんの人びとが「明治維新(?)」の犠牲になりました.
蛇足しておくと,榎本は堀織部正の蝦夷地調査行に同行していたという説があり,もしそうであれば,玉蟲が榎本とともに行動しようとしたというのは,いかにもありそうなことではあります.
2011年1月2日日曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.3「東徼私筆」
白糠炭山には,蝦夷地最初の炭鉱ということもあり,たくさんの記録が残されています.
有名なのが,成石修輔の「東徼私筆」*です.
成石修輔は関宿藩士で,生年不詳ですが,没年は1870(明治三)年6月.
かれは,藩命により蝦夷地を調査.たぶん絵がうまかったのでしょう.当時,絵が上手ということは,こういった調査・探偵作業には必要な才能でした.
「東徼私筆」は安政四年十月十七日に,復命されたものです.
これには「白糠石炭窟」という絵が残されています.絵は,この語でGoogleすれば,見つけられるでしょうから,その掲載はしません.
大野良子・校注「東徼私筆」から,その段(巻之五・七月十九日)
「(前略)…。シラヌカ番家の五六丁前に山腰石炭多し。栗原六八子といえる人江戸より来り給い、職人は筑前柳川の人なるよし。クスリの同心衆小向蔵太子も来り給い、石窟中を見物す。山腰二ケ所に炭穴有り。曾て間く。石炭穴は磐と磐との間より出て、其間三四尺を限ると。当所は穴の丈六尺も有るべし。窟中の模様は金銀窟におなじ。所々かんてらを照したり。」
この短文の中に,いくつか誤りが指摘されています.
たとえば,「栗原六八」は「栗原善八」,「栗原善八」は「江戸からきた」となっていますが,「箱館奉行所手付」となっている場合もあります.「職人」は「採炭夫」のことで「筑前柳川」ではなく,「筑後」のひととなっている場合も.同心「小向蔵太」は「小田井蔵太」の場合もあります.
ただし,これが成石修輔本人がおかした誤りかどうかは不明.実は,こういう貴重な資料ですが,本物は残っていず,現存するのはいずれも「写本」なのだとか.写本ならば,誤写も不思議ではありません.
修輔自身は,明治二年正月二十四日に,明治政府によって反逆者として捕らえられ,そのまま明治三年六月二十九日,五十三歳で獄死したとなっています.
原本が残っていないのは,このためか,と疑う人がいます.もしかしたら,明治政府やその追従者にとってつごうの悪いことが書かれていたのかもしれません.
写本の絵は,修輔の絵とは「比較にならないほど稚拙なものである」と評価される程度のものなので,実際にはなにが描かれていたのか,非常に気になるところです.
また,明治維新のどさくさで,どれだけたくさんの有能な人たちが政府によって惨殺されたのか.そういう事実がろくに発掘もされずに放置されていることからは,この国の歴史および歴史学なるものが,いかに眉唾ものなのか,疑わずにはいられません.
*:大野良子・校注「東徼私筆」では,著者は「成石修」になっていますが,これは漢文調のペンネームみたいなもので,「成石修輔」が本名.なお,名前の頭に「関宿」と振ってありますが,これは,これは出身の「関宿藩」のこと.中表紙および箱において,となりに校注者の大野良子の頭に「校注」と振ってあるので,妙なことになっていますが,誤解のないように.
また,箱では「成石修識」に見えるようになっていますが,これは本の装丁者の不注意.「成石修 識ルス」という意味です.
2010年12月31日金曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.2
白糠炭鉱は,1857(安政四)年五月,採掘を開始しました.
採掘の指導者は栗原善八という名前だそうです.
伝えには「奉行所手付」とするものもありますが,どういう立場なのかは微妙.「山師」であり,奉行所の「臨時雇い」と考えるのが一番ありそうですが,なんの記録も見つかりません.
実際の作業にたずさわった人も微妙で,筑後の人(九州・福岡の炭鉱労働者・採炭夫)が数人とするものもあり,箱館から連れてきた無宿人を強制労働させていたような記述をするものもありますし,アイヌが使役されていたという記述もあります.
いずれもありそうなことですが,どれも原典が明記されていないので,確認不可能.
実際に採炭をはじめると,採炭そのものは炭層が厚いので採掘しやすく,積み出し港にも恵まれていました.しかし,積み出した石炭は崩れやすく粉炭になり,扱いづらかったようです.
また,試掘段階では優良とされた炭質も,「火力が弱く,灰分が多い」ため,汽船の燃料としては歓迎されなかった,と,されています.
かなり,あいまいですが,要するに商品としてはあまり良いものではないと判断されたということでしょうか.くわえて,新しく発見された岩内の茅ノ澗の石炭のほうが炭質や企業パフォーマンスが良好(箱館に近いなど)とされたために,栗原善八以下の作業員は茅ノ澗に移動.必然的に,1864(元治元)年白糠炭山は廃山となりました.
わずか,七年の稼働でした.
これらの記述の元ネタは「白糠町史」あたりなのだろうと思われます.
こういった記述には,疑問の点,不明な点が多く,洗い直されるべきなのですが,今一歩がね….町史を貸してくれるところもないし….
2010年12月30日木曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt. 1
北海道で最初の炭鉱はどこにあったのか,というのはけっこう難しい問題のようです.
クスリ(久摺)辺り(旧釧路国)の海岸沿いに石炭露頭があったという記録はたくさんあるようですが,事業として石炭を採掘した記録となると,とたんにあいまいになります.
石炭が露頭していれば,付近の住民がひろって薪がわりに使用したということは,十分に考えられますが,小規模であったとしても,短期間であったとしても,産業としておこなわれたという確実な記録を見いだすのは,なかなか困難です.
たとえば,1799(寛政十一)に発行されたといわれている「赤山紀行」には以下のような記述があるそうです.
「オタノシキ川より左に原を見て行けば,原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり.この附近石炭あり.桂戀の附近なるションテキ海岸には,磯の中にも石炭夥しく,総てトカチ領よりクスリ領までのうち,山谷海邊とも石炭なり.今度,シラヌカにて石炭を掘りしに,坑内凡そ三百間に至れども石炭毫も盡くることなしという.」
この「赤山紀行」は「北海道炭砿港湾案内」(昭和六年刊)の冒頭に引用されていると児玉清臣「石炭の技術史」にありますが,詳細不明です.
そもそも「北海道炭砿港湾案内」そのものの存在が確認できないですし,「赤山紀行」の存在も確認できません.著者も不詳.
この時代は,蝦夷地のどこであれ,石炭が採掘されてたという傍証がまるでないので「坑内凡そ三百間」なんてあり得ないのです.
次の可能性は,これも児玉清臣「石炭の技術史」にある記述ですが,「安政三年,幕府は初めて釧路獺津内で煤炭を採掘し,幾許もなくして止む」と「開拓使事業報告」にあるそうです.「獺津内」は現在の釧路市益浦あたりの旧名であると釧路市のHPにでています(安政三年は西暦1856年).
おかしいのは,幕府側の記録ではなく,開拓使の記録であること.つまり,幕府側の記録には残っていないということでしょうかね.その割には,この記事の前に,「奉行は…安政二年七月『蝦夷地開拓觸書』を公布して,広く鉱産資源の….すでに露炭地として知られていた北海道東海岸の開発可否を検討するため,翌三年六月,調査団を派遣した.候補地は釧路の東方「オソツナイ」と,「シラヌカ」である.」とあります.妙に詳しい.
残念ながら,この部分が,なにに記述されているのか引用が明記されていないため,前後を確認することはできません.
したがって,「幾許もなくして止む」というのが,どの程度の規模だったのか,短期間でも商業ベースに乗ったのか,あるいは試掘程度だったのか,それも不明です.試掘程度では,「蝦夷地最初の炭鉱」と“冠”をかけるのは無理でしょうね.
しかし,もしこれの裏付けがとれたとすれば,現在,日本最後の炭鉱「釧路コールマイン」が釧路市興津にありますから,蝦夷地最初の炭鉱は最後の炭鉱でもあったことになります.
一方,同年同月,「シラヌカ」の石炭も採取され,箱館の英国人が鑑定し「良品」と位置づけたとあります.しかし,残念ですが,「別の記録」とあるだけで,なにに書かれているのか確認できません.「箱館の英国人」も何者なのかそれも不明.可能性があるのはガワー(E. H. M. Gower)ですかね.
白糠炭鉱は1857(安政四)年に採掘を開始.
こちらは,複数の記録が残っていますので,信頼できます.
つづく.
2010年12月18日土曜日
石炭の名前(8)
前回までに,我が国では(読み方は別として)江戸時代には(公式には)「石炭」と書かれており,その名称は明の李時珍(1518-1593)が編纂した「本草綱目」に由来することが判明しました.
「本草綱目」には,昔は「石墨」と記述されていましたが,現在では俗称の「煤炭」が使われているとも解説されていました.つまり,現代中国で使われている「煤炭」は元々は俗称だったわけです.
江戸時代の本草学者が使っていた「石炭」は,明治時代の公文書などでは中国での俗称であった「煤炭」に変わり,昭和にはまた「石炭」にもどっています.
さて,「江戸時代には(公式には)」という回りくどい書き方をしました.本草学者のようなインテリは,もちろん,土人の言葉など下賤であり使いたくありません.だから,高級な学術用語である「漢語」の「石炭」を使ったわけですね(ここで,「土人」という言葉を使いましたが,江戸時代の「土人」は「現地住民=土着民」の意味であって,和人にたいしても使われていました.現代のような「民族差別語」の意味はありません.マスコミ界のタブー語でもありませんので勘違いの無いように).
閑話休題
ただ,漢語としての「石炭」という文字はいいとして,どのように読むか(つまり「和語」として)となると,千差万別ということになります.
インテリとしては,漢語の読み方を使いたい.だから,和漢三才図会では「石炭[shí-tàn]」をひらがな化した「しつたん」を使っています.これがのちに「せきたん」という呼び方に変わってゆくわけですが,和語としての呼称は一般人を中心に普通に生き延びていたようです.
なぜなら,“石炭”を薪代わりに使うのは,「木炭」を買うことのできない貧民階級だったからです.当時の貧民階級は,もちろん「漢語」など理解できませんからね.
蛇足しておくと,経済的に余裕のある階級が“石炭”を使わないのは,“石炭”を焚くと「臭い」からだそうです.
すでにあげた,各本草本には,たくさんの現地語が収録されてあります.その名称は,もちろん,「燃える」ことからきたもの,「色が黒い」ことからきたもの,「木炭の代わりに使う」ことからきたもの,などさまざまです.その地方だけで通じるローカルネームが多いことも特徴です.
これは,当然で「あるから使う」だけで,わざわざ「遠くまで運んで使うもの」ではないことを示しています.産業としては成立していなかったので,全国的に通用する名前は不用だったわけですね.
これに対し,中華圏では,用途別の名称,たとえば,「墨」の代わりに使う「石墨」,鉄を融かすために使う「鉄炭」のほか,粒度分類に由来する煤炭の名称もあり,日本よりははるかに広範囲に使用されていたようです.「烏金石」なんてのは,ただの「烏石(からすいし)」でもいいようなものですが,細工物に使うということで「烏金石」と呼ばれたのでしょうね.
しかし日本では,日本の産業・産物を紹介した「日本山海名物図会」(1754:宝暦四),「日本山海名産図会」(1799:寛政十一)には,石炭のことなどまったく触れられていません.
それが,なぜ,江戸時代末期から急速に注目されるようになったのでしょう.
それは,「蝦夷地質学」を読んでください((^^;).
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