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2019年12月29日日曜日

大千軒岳の金山

 全くひさびさの更新となります.

 前回ご案内の通り,「勝手にジオパーク」を構築中だったのですが,途中で「まぼろしの鷹栖石灰岩」について,ブログで全く紹介していなかったことに気付き,ついでに「北海道の石灰岩研究史」をまとめはじめたら,意外に時間がかかってしまいました.現在も進行中.
 まあ,急がば回れといいますから,しようがないですね.
 ということで古い文献を読んでいたら,ブログに補足しておかなければならない記述を見つけましたので,とりあえず紹介しておきます.

澤田鶴松(1930)北海道有用鉱産物調査(第二報:渡島支庁管内松前郡西半部)より.

「本地域の多くの河川は過去に於て,砂金採取の繰返されし事は事實なるも現今之を顧る者なし。然れども,尚ほ未採掘地たる河床、海濱、及び其他海蝕段丘上に着目する時は將來も亦望みなきにあらざるべし。乃ち、本地域地質の六〇パーセント以上を占むる古生層中には石英脈縦横に走り、其大なるものには脈幅一米に餘るあり。該石英脈は含金極めて微量なれば、之を直接採掘し、山金を得る事は望み尠し。然れども、本地域の河床或は海濱に産する砂金の源は此硬き白色石英脈なる事明なり。
 昭和三年準地方費道路開鑿の際、大澤村大字荒谷村の鱸の澤に於て、一女工夫五十四匁の砂金塊を拾得せる由。かゝる大塊の産出の極めて稀なるは勿論なれど、之が爲めに當地方は大いに砂金採掘熱を當時煽れりと云ふ。」

 これはなんのことかというと,もちろん「大千軒岳金山(松前金山)」に関する記述です.
 いわゆる松前古生層(現在なんと呼んでいるかは,勉強不足で知りません(^^;)中には最大1mあまりの石英脈が認められ,現在は金はきわめて微量(「ある」ということ)ではあるが,これから風化削剥・運搬された砂金が漂砂鉱床としてあったものだろう,という記述です.
 また,1928(昭和3)年の道路開削の際,女性工夫が54匁(約200g)の金塊を拾い,ゴールドラッシュが再来した,と書かれているのです.


 

2018年12月12日水曜日

三つの文化

 
 「新石器時代と“縄文”・“弥生”時代」で触れましたが,「“縄文”・“弥生”時代」に関する疑問.もっとスッキリさせてる本がありました.それは↓.

藤本(2009)

 この本の12頁に,下のような図があります.藤本さんは考古学者なので,層位学に逆らって「古い方を上に,新しい方を下に」描いています.「地層累重の法則」に従う地質屋としては非常に入力に苦しむ図ですが,ま,これは仕様がない((^^;).
 もう一つ.本文では(これまでに比べれば)非常に柔軟な思考をしているのですが,図にしてしまうとご覧のように枡目状の時代区分になってしまってますね.


藤本図

 これを,本文にあわせてイメージすると下のようになるかと思います.なお,時間軸を縦軸にすると,私には理解しにくくなるので横にしてみました.


メタ図

 これを見ると,「日本という天皇の国家」が幻想の上になり立つということがよくわかります.はっきり言って,戦乱の大陸・半島から流民・移民が,排他的とはいえない“縄文”人(水田文化の“弥生”人と自然の恵み重視の“縄文”人ではニッチが違う)の中に入りこみ,徐々に勢力を伸ばし“縄文”人を排除してゆく様子がよくわかります.
 縄文人の抵抗(=東北人と「日本国」との戦い)は網野(2008)の図(↓)が分かり易いですね.

網野(2008)


戦い

 そうはいっても,縄文人と弥生人とは明確に分けられるものではなく,アイヌと琉球人は比較的色濃く縄文人の血を残しているものの,北海道を含めた日本列島にいる“日本人”は,ほとんどみな縄文人と弥生人の混血なわけです.どちらかが濃い薄いはあるでしょうけど….

 最終的に列島を制覇した“弥生”人は,今度は昔追い出された大陸や半島へ向かって進軍を開始します.それが「大東亜戦争」だったのかもしれません.

 

2018年11月25日日曜日

新井白石の地質学

 
 新井白石は江戸時代中期の旗本であり,学者であった.現代的な分類で「~~学」,「~~学」といってもあまり意味のないことになるが,その頃の代表的な知識人といっていいだろう.かれは1657(明暦三)年に生まれ,1725(享保十)年に亡くなった.
 白石はたくさんの業績を残しているが,それは置いて,地質学に関係あるところを抜き出してみる.かれは1720(享保五)年,その時代の蝦夷地に関する知識を網羅した「蝦夷志」をあらわした.蝦夷志は,蝦夷地とその住人に関する記述であるが,「序」,「蝦夷地図説」,「蝦夷」,「北蝦夷」,「東北諸夷」からなる.
 そこに,地質学に関係する記述が一つ.以下.蝦夷志の「蝦夷」より….

「夷中は金玉を宝とせず(山に金銀を産し、海に青琅玕〈青玉〉を出すも皆採らず)。」
(奥州デジタル文庫「蝦夷志」より)

 具体的な地名こそないものの,蝦夷地の「山に金銀を産」するという.また「海に青琅玕〈青玉〉を出す」が,蝦夷(アイヌ)は「金玉を宝とせず」という(縄文時代の遺跡からは装飾として用いた翡翠が産している).

 「青琅玕」とは「青色の硬玉(=翡翠)」のこと.「青玉」とはサファイアを意味することが多いが,この場合はやはり「硬玉翡翠」のことであろう.道内に硬玉翡翠の産地は知られていない.「日高翡翠」といわれているのは「硬玉翡翠=翡翠輝石」ではなく,「クロム透輝石」(=軟玉翡翠)である.しかもこれが知られるようになったのは20世紀になってからのこと.「海から青玉が出る」というのは,本州の糸魚川や大陸から交易で持ってきたものが,間違って伝えられたものであろう.

 蝦夷地(道内各地)から銀はともかく,金は豊富に産し,松前藩を中心に民間人が採掘していたはずであるが,新井白石は知らなかった様である,この頃は,まだまだ「蝦夷地」は未知の世界だったのである.


2018年11月5日月曜日

新石器時代と“縄文”・“弥生”時代

 以前,「蝦夷の古代史」で縄文文化や弥生文化はあっても,縄文時代とか弥生時代はないのではないか…と書きました(2008.09.14)が,それは関根達人さんの「モノから見たアイヌ文化史」(2016)に図として明示されていました(2018.06.17).

 

 これは本土の時代区分と「東北地方」と「北海道」について示した図で,しかも,“弥生時代”末期からしかありませんが,このように図示することで明確になっています(関根氏は考古学者なので古い時代が上に示されていて,地質学を基盤とするわたしにはもの凄く違和感があるのですが…(層位学の原則として,下にある地層は古く,上にある地層は新しいから).それは別として…(^^;).



 これを別な面からサーチしたのが崎谷満(2008)「DNAでたどる日本人10万年の旅」です.明確に,日本列島には沖縄と本土(とくに関西)と北海道(ときどき東北も含む)の,最低でも三つの歴史がある,としています.これを図示してくれれば,ありがたいのですが,かれは分子生物学者で,他分野との無用な軋轢は避けようとしてるのか,言葉で示しているだけです(最近は「日本はひとつ主義者」たちも五月蝿いですしね).
 崎谷氏は歴史区分を「旧石器時代」と「新石器時代」にわけたうえで(新石器時代を「縄文と弥生」時代には分けていない:つまり,日本列島に縄文文化が散在するところに大陸から弥生文化がやってきて広がっていった:なお,「縄文人」といういい方もじつはおかしい;“縄文人”には複数のグループが混在している)議論しているのでわたしとしてはスッキリ.日本の歴史には「旧石器時代があるのに新石器時代がない」という,ずっと気になっていた違和感も解消.というわけで,学校で習った(即,国定の)「日本の歴史」はチャラに.こんなことを書くと,歴史家の方から,「地質学だって第三紀と第四紀があるのに,第一紀・第二紀はどしたんだ」といわれそうですが,これには深い(不快?)ワケがあります(「北海道化石物語」(構築中断中)の「新生代」あたり参照).簡単にいってしまえば,「第一紀~第四紀」という区分は廃止して,「古生代・中生代・新生代」という枠組みに組み直したはずなのに,新生代の区分は「第三紀と第四紀」を引き継いでもかまわないと考える研究者がいたことと,新生代を区分する「パレオジン・ネオジン」に「古第三紀・新第三紀」という誤訳を与えてしまった日本地質学会の重鎮がいたことです.この誤訳は,いまだに尾を引いています.

 崎谷(2008)について,もう一つ残念なのは,表題は「DNAでたどる…」なのに,材料がY染色体だけによるパースペクティブなこと.
 一方,篠田謙一「日本人になった祖先たち」(2007)は,こちらも副題「DNAから…」なのですが,ミトコンドリアDNAがメイン(一部,Y染色体についての記述もあります).こういったことをまとめて解説できる研究者はいないのでしょうかねえ….


 さて,全部一度(一度以上かな?(^^;;)読んだのですが,忘れている…というか,まったく自分のものになっていない((^^;;;).一遍全部通しで読みなおして,常識を再構築しなければ(^^;;;;).
 


2018年6月17日日曜日

関根達人(2016)モノから見たアイヌ文化史.

ようやく数十年来の疑問に答えてくれそうな本が出た.


いちばんの疑問は,「縄文文化」とか「弥生文化」とかはあるかもしれないが,“縄文時代”とか“弥生時代”はないんじゃろうと言うこと.
それは四頁の図1をみると一目瞭然.

といっても,まだ読み始めたばかりです.だから「答えてくれそうな…」なんですけれどね.(^^;;

 

2015年3月3日火曜日

鈴木醇,湊正雄,荒井源次郎・和子,知里幸恵・真志保…リレーション

 
先日,追悼集「鈴木醇,人とその背景」を眺めていたら,荒井源次郎氏の「鈴木醇先生の思い出」という一文が目にとまりました.

荒井源次郎(1900-1991)氏とは荒井和子(1927-2014)先生の父親で,民族差別撤廃運動の闘士であり,自宅は旭川(チカップニ)にあります.

その追悼文からは以下のことがわかります.
1)荒井一家が定山渓温泉街で木彫り熊の土産品製作販売を行っていた時に,鈴木教授の手元にスイス製の木彫り熊があることを聞きつけ,北大・地質学鉱物学教室に鈴木教授を訪ねる.
2)その時は,荒井夫妻で訪問し,教室内を見学している.
3)木彫りクマを借り受け,以来,鈴木教授との交流が続く.
4)戦争の激化とともに,定山渓の土産店は営業不振となり,昭和18年秋,荒井家は旭川へと引き上げる.翌年,鈴木一家の家財の疎開先となったりしている.
5)荒井家が旭川に戻ってからも,鈴木教授は道東・道北の出張(調査,巡検などであろう)時に荒井宅によるなどしている.

鈴木醇教授は,北大に「北方文化研究室」が設置された時に,理学部から委員の一人として参加しており,研究室の専任職員(研究員)には知里真志保氏がいた.
もちろん,鈴木教授が湊正雄氏に知里真志保氏を紹介したのは,この関係でしょう.

現在,旭川市チカップニにある旭川市立北門中学校には,荒井和子先生が収集した資料を基に「知里幸恵資料室」があり,校庭には「知里幸恵文学碑」が建てられています.

う~ん.円環が閉じてゆく!

 

2015年3月2日月曜日

近文地域の小学校とその歴史(番外編)

 
のちに北門尋常高等小学校となる上川第三尋常小学校は,計画当時,近文第五尋常小学校と呼ばれていました.
前述したように,この計画地は(市史によれば),以下のように記述されています.

三十四年七月,三線西一号共有地,今の大町二条六丁目に…近文第五尋常小学校を設けることに指定…」(旭川市史三巻二二九頁)

すでに論じたように三線西一号(三線南一号と同じ)には,大町は入りませんので(大町2-6は二線一号になる),上川第三尋常小学校の話のときには省略しましたが,念のため大町二条六丁目附近の地図を示しておきます.

+++


1902(明治35)年の近文二線一号(新旭川市史口絵より)
区画内は机上の空論かと思う.まるで,アフリカ大陸各国の国境線のようである.


1903(明治36)年の旭川市街図の一部
かなりいい加減な地図であるが,道路の配置は上図よりも現実に近い.


(1918:大正7年の1/25,000地形図・旭川の一部:二線一号)
第七師団への引き込み線が見える.
師団設置にともない,師団通り(現在の「みずほ通り」)に沿って市街地化が進んでいる.


(1948:昭和23年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
大町駅の南(現在の大町2条6丁目あたり)に,学校のような建物(グラウンド様の土地も含めて)が見える.
師団の練兵場の一角が市街地化している.
左下に見えるのは大有小学校.



(1956:昭和31年の同地域:1/25,000地形図・旭川の一部)
大町駅の南にあった学校様の建物には「工場の煙突マークと歯車マーク」が示されている.
ただし,廃校後,学校敷地が工場に払い下げられたことも考えられるので,学校ではなかったという証拠にはならない.
「師団通り」が「平和通り」に改称されている.


(1977:昭和52年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
大町駅舎が見える.グラウンド様に見えた土地には資材が積み上げられている.
大町岐線沿いに工場や木材置き場がならぶ.


(2008:平成20年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
大町岐線は撤去され,跡地は緑地かされている.
工場群はすべてパチンコ屋になっている.


なんで,パチンコ屋ばかりなんでしょうかね.
約30年ぶりに旭川に戻ってきた時に,新築の建物で新しい大学ができるという話がありましたが,開校する前にパチンコ屋になっていました.その後は葬儀場になった((^^;).
文化の果てる町であることを象徴してるのかと思ったりして.
 

近文地域の小学校とその歴史(附属小学校)

 
1923(大正12)年4月に旭川師範学校(道立)が設置されます.
三年後の1926(大正15)年;旭川市立(区立)北門尋常高等小学校(前述)代用附属小学校に指定されます.

その二年後の1928(昭和3)年1月に新北門尋常小学校が開校し,北門尋常高等小学校から519名が移籍します(前述したように,519名以外に生徒がいたのか,いたとすればどのような基準で分けられたのかなど,詳細は「市史」,「市教育史」などには記述されていませんので,一切不明です.もちろん「ほかにいない」とすれば矛盾が生じますので,北門尋常高等小学校に残った生徒がいると判断すべきでしょう.四年後,北門尋常高等小学校は廃止と記述されていることからも裏付けられます).

北門町9丁目に附属小学校校舎,新築.
1932(昭和7)年11月1日;旭川師範学校附属小学校,開校.

旭川市立北門尋常高等小学校の廃校と同日に,庁立旭川師範附属小学校が開校という奇妙なことが起きています.つまり,残った生徒(いたなら)は市(区)立から道(庁)立に移籍したということになります.
もっと奇妙なことに,1933(昭和8)年3月に「第一回卒業生から校旗寄贈を受ける」とあります.北門尋常高等小学校から前年11に移籍した,六年生から校旗を寄贈されたということでしょうかね?もちろん,できたばかりで校旗がないので,初代卒業生から寄贈されたというのは充分にあり得ることです.
もっと不思議なことには,1942(昭和17)年に「附属小学校開校10周年記念式が挙行」されているのに,1951(昭和26)に「開校50周記念式」が挙行されているのです.

ちょっと,理解を超えていますが,これは師範附属小学校の開校を前提とすべきなのに,旭川町(区・市)立であった「上川第三尋常高等小学校-北門尋常高等小学校」を,附属小学校の歴史に加えたり,引いたりしているからなのでしょう(そんな歴史って,ありかい(- -;).

以後,何回か○○附属と,大学の管轄が変わるたびに改称が行われますが,面倒なので無視します.

1971(昭和46)12月;校舎新築移転(春光町1区1条:現・春光町4条1丁目)
なお,移転地域は過去,第七師団の兵舎があった土地なので,調査が困難なため放置します.
(現在に続く)

なお,町の変遷は「近文地域の小学校とその歴史(上川第三尋常小学校;その2)」を参照のこと.

2015年3月1日日曜日

近文地域の小学校とその歴史(大有尋常小学校)

 
昭和二年三月教育五ヵ年計画を立案し,当時に置いて総工費…,その計画により同年新北門小学校(後の大有校)・四年啓明小学校・宮下小学校(後の日新校)の三校新設せられる」(旭川市史三巻二六七頁)

この頃は,まだ国民学校令(1941;昭和16)がまだだされていないので,「尋常小学校」と呼ばれていたはずです(「後」でも「大有校」という表現はなかったはずなので,誤解を招く非常に不正確な記述です).市史では,このあとどんどん記述が怪しくなり,「不詳」が多くなるので,現・大有小学校HPの沿革から引きます.

1927(昭和2)年12月:校舎新築落成(開校記念日は12月4日)
1928(昭和3)年1月:新北門尋常小学校開設

これを遡る1926(大正15)年,北門尋常高等小学校旭川師範学校代用附属小学校となっており,1928(昭和3)年には,生徒519名が新北門尋常小学校へと移籍しました.
市史には記述されていないため,519名のほかに生徒がいたのか,いなかったのか,もしいたとすれば,その生徒はどういう基準で北門尋常高等小学校に残ることになったのか,などはいっさいわかりません.

1935(昭和10)9月:旭川市大有尋常小学校と改称

旭川市史の「第十三編教育と宗教 第一章 学校教育」における昭和十年の記述の前後には,ことが明記されていず,どういう事情で改称されたのかはわかりません.
一説には,「北門尋常高等小学校」と「新北門尋常小学校」が紛らわしかったからとあるようですが,1932(昭和7)年には北門尋常高等小学校は附属小学校となり,廃止となって校舎すら存在しませんから,この説は疑問です.判らない事が多いなあ.(^^;;;

1941(昭和16)年4月:大有国民学校と改称

前出,国民学校令による改称ですね.

1947(昭和22)年4月1日:国民学校令廃止.旭川市立大有小学校となる.

(現在に続く)


(1931:昭和6年の旭川市街図の一部:二線南一号)
相当雑な地図であるが,大町岐線南に大有小学校が見える.


(1948:昭和23年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
旭町側には相当数の家屋が建ち並ぶが,川端町側はほとんど農地のままである.
石狩川にかかる異常に細い橋は「新橋」.


(1956:昭和31年の同地域:1/25,000地形図・旭川の一部)
町並みは1948の航空写真とほとんど変わらないように見える.


(1967:昭和42年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
川端町が急速に市街地化している.


(1977:昭和52年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)


(2008:平成20年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
大有小学校は新校舎に建て替えられている.
新橋の拡張工事が完了している.
錦町通り(命名時期不詳)の拡張工事が進んでいる.

2015年2月26日木曜日

近文地域の小学校とその歴史(近文尋常小学校)

 
1917年,
…大日本木管株式会社(本社尼ヶ崎,資本金三百万円)は,大正六年十一月近文に工場を設け,道産の樺・楓で木管の原料を製造した.」(旭川市史二巻四一九頁)
…大正八年の好況時代を絶頂に,それ以後不振となり,組織を改め,旭川木管株式会社となって,本道産の椴松を原料として,灌漑用,水力発電用等の導水用木管の製作に当つた.」(旭川市史二巻四三四~四三五頁)

残念ながら,その後の「旭川木管株式会社」の盛衰は追うことができません.たぶん,主要産業では無くなったのでしょう(冷たいもんですね).

(関係ないですが,「新・旭川市史」が出たのだから,「旭川市史」はテキスト化してHPで公開すべきだと思います.そうすれば,わかりにくい文章でもキーワード検索ができるようになる.)

閑話休題
大日本木管株式会社(旭川・近文工場)の絶頂期=1919(大正8)年に,
…四月一日北門尋常高等小学校の分教場を大日本木管株式会社近文工場倉庫に仮校舎として開設して西分教場と称し,尋常三年まで七十六名の児童を収容.大正九年四月一日,一学級増加尋常四年まで百十二名となる.」(旭川市史三巻二四八頁)

この記述では,1919年当時の尋常小学校四年生以上は「いなかった」とも,「本校に通った」ともわかりません.
とはいえ,地域で急激に膨張する人口.社員・工員とその家族が子弟の教育を必要としていたわけですね.

翌,1920(大正9)年,
大正九年一二月五日:西分教場校舎竣成移転」(旭川市史三巻二五二頁・表)
本文の方には「新築校舎(現・緑町一七丁目)百七坪落成,移転する」とあります.

残念ですが,前出1918(大正7)年の1/25,000地形図には,まだ該当すると思われる校舎は載っていません.現れるのは1931(昭和6)年の旭川市街図から(探せばあるのでしょうが所持してない).

二年後(1922),
大正十一年四月一八日北門校から分離し,近文尋常小学校と改称」(旭川市史三巻二四八頁)

翌,1923(大正12)には,前出・豊栄尋常小学校が廃校になり,生徒の一部は近文尋常小学校へと転校しました.
(以後,現在に続く)


(1918:大正7年の1/25,000地形図・旭川の一部:五線南三号)
大正7年にはすでに工場が建っているはずであるが,まだ反映されていないようである.
近文小は,もちろんまだない.
近文から旭川駅に続く鉄路から分岐した「大町岐線」がみえる.


(1931:昭和6年の旭川市街図の一部:五線南三号)
相当雑な地図であるが,近文小学校が見える.


(1948:昭和23年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
鉄道の南西側に巨大な木工場がある.
近文小学校建設の契機となった大日本木管株式会社近文工場は,
「近文駅前」という記述があるので,これではないと思われる.


(1956:昭和31年の同地域:1/25,000地形図・旭川の一部)
鉄道の北東側に工場のマークが二つ見える.
これが近文小学校建設の契機となった大日本木管株式会社近文工場.


(1967:昭和42年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
鉄道の南西側の木工場がさらに巨大化している.
近文小学校は新校舎に建て替えられている.


(1977:昭和52年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
鉄道の南西側の木工場が規模縮小している.
近文小学校は新校舎に建て替えられている.


(2008:平成20年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
木工場がなくなり,免許センターおよびバスターミナルがみえる.
大町岐線は撤去されている.

2015年2月23日月曜日

近文地域の小学校とその歴史(豊栄尋常小学校)

 
知里幸恵(知里真志保の姉)が通っていた小学校です.
ちなみに,真志保が旭川で一時期通っていたのが,前項の「北門尋常高等小学校の高等科」.
もともと真志保は,庁立旭川中学校を目指していたらしいのですが,不合格であったので「北門尋常高等小学校の高等科」に入学した模様.
中学校を落ちたので高等科へ.このあたりは,現代人にはちょっとわかりにくいですね.
なんで,こんなことになってたのかは,いずれ調べてみたいです(たぶん,どっかにあるでしょうけど(^^;).

明治四十三年九月十三日,(十六日開校式)特別教育規程にもとづきアイヌ児童教育の目的で,近文五線南二号に上川第五尋常小学校が設けられ…」(旭川市史一巻二八九頁)

明治43年は西暦1910年です.
“特別教育規程”というのは,これまたわかりにくいですが,政府によって明治32年3月に「旧土人保護法」が発令され,アイヌに対するさまざまな保護(規制?)が行われるようになります.そして,明治34年3月には,庁令で「旧土人児童教育規程」が定められていますが,明治41年3月に庁令で「特別教育規程」が定められ,「旧土人児童教育規程」は廃止されます(この後さらに,大正5年12月に庁令による「旧土人児童教育規程」が定められています).
この,「特別教育規程」によって「上川第五尋常小学校」が設置されたわけです.

ちなみに,この頃「上川○○尋常(高等を含む)小学校」には,上川尋常小学校,上川第一尋常小学校,上川第二尋常小学校,上川第三尋常小学校,上川第四尋常小学校,上川第五尋常小学校,上川第六尋常小学校があり,このほかに忠別尋常小学校がありました.ほかに「北鎮尋常高等小学校」がありましたが,こちらは第七師団の軍人・軍属の子弟のための私立学校でした.

ちなみに,知里幸恵は,この年(1910)4月,上川第三尋常小学校(前出)へ入学していましたが,アイヌであることをもって「上川第五尋常小学校」に転校させられたわけですね.「旧土人児童教育規程」第三条には「修業年限は四箇年とす」とありますが,「六箇年に延長することを得」とあり,知里幸恵の年譜を見れば,幸恵は小学校に6年間在学していました.

…その維持は他の旧土人保護法による国庫支出によるものと異り,部落共有財産よりの収入によってまかなわれる」(旭川市史一巻二八九頁)

なんと,国の法律によって決められた学校の運営にアイヌの財産が使われていたわけですか.

大正7年には,ほかの第○尋常小学校も固有名詞に改称されています.同時に他校は徐々に高等科が併設されるようになってゆきますが,豊栄尋常小学校は廃校になるまで高等科が併置されることはありませんでした.

大正七年四月一日,豊栄尋常小学校と改称」(旭川市史一巻二八九頁)


(1918:大正7年の1/25,000地形図・旭川の一部:五線南二号)
こちらは第三小学校と違い学校名が示されていない.


(1920:大正9年の旭川市街図の一部)
位置がかなりずれている.


旧土人教育規程廃止により大正十二年三月三十一日付廃校」(旭川市史一巻二八九頁)

となり,児童は北門尋常高等小学校と近文尋常小学校へ転校になりました.


(1948:昭和23年の三線西(南)一号附近:米軍航空写真)
(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」)
1948年は,豊栄尋常小学校が廃校になって久しいが,大きめの建物が見える.形から見て豊栄尋常小学校として使われていた建物に似ているようだ.そうすると,その東側に見える小さな建物は金成マツ(および知里姉弟と祖母)のいた聖公教会近文伝道所か.
左下に近文尋常小学校が見える.すると,その向かいは荒井和子先生のお宅.


(1956:昭和31年の同上地域.1/25,000地形図「旭川」より)
「錦町」,「緑町」の町名が使用されている.家屋の配置は1948とほとんど変わらない.


(1967:昭和42年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
急激に家屋が増えている.
豊栄尋常小学校の跡地には北門中学(旧校舎:1960年開校)が建っている.
ちなみに,この写真の撮影時,私が在校中.(^^;


(1977:昭和52年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
ほとんど空き地がないくらいに家屋が増えている.ウッペツ川改修工事が進行中.


(2008年の同地域)
(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」)
豊栄尋常小学校の跡地には北門中学校が建っている.これは新校舎.旧校舎のときと同じ場所に庭木が見える.豊栄尋常小学校のときにも同じ場所に庭木があり,当時の木がまだ生えているかもしれない.

(2015/02/26:修正)

2015年2月22日日曜日

近文地域の小学校とその歴史(上川第三尋常小学校;その2)

 
北海道区制の進行に従い,1914(大正3)年4月1日,旭川町が廃止され,旭川区が誕生します.
この四年後,それまで「上川」の冠を使っていた各小学校の校名が,固有名詞に置き換えられます.上川第三尋常高等小学校は「北門尋常高等小学校」と改称されました.

この前後に北門町11丁目に移転(教育大学附属旭川小学校沿革)したという情報もあるのですが,確認できません(このあたりから(これ以前も相当ですが(^^;)記述がわかりにくくなり,情報を拾うのが大変になります).

1919(大正7)年4月1日,北門尋常高等小学校・西分校(西分教所という表現もあるが開所(これについては近文小学校の頁で).

1923(大正12)年,豊栄尋常小学校(別頁:豊栄尋常小学校で)が廃校になり生徒の一部が北門尋常高等小学校へ転入しました.
また,この年旭川師範学校が設置され,これをうけて,北門尋常高等小学校は1926(大正15)年,師範学校代用附属小学校となります.

1928(昭和3)年,新北門尋常小学校が開校.北門尋常高等小学校から519名が移籍します.
新北門尋常小学校は1932年に大有尋常小学校に改称され現在に続きます.

一方,その1932(昭和7)年11月には,北門尋常高等小学校が廃止され,生徒は北門町9丁目に新築された旭川師範附属小学校へ移籍してゆきました.

+++


(1918:大正7年の1/25,000地形図・旭川の一部:三線南一号)
第三小学校が明記されている.第七師団への引き込み線も見える.



(1948:昭和23年の三線西(南)一号附近:米軍航空写真)
(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」)
北海道第三師範学校と呼ばれていた頃の教育大の敷地附近.
第三小学校は取り壊され,痕跡は判らない.
教育大敷地の右下(南東)に1932年新築の附属小学校,
さらに鉄道線路脇に大有小学校が見える.
左角の敷地はもともとアイヌに貸与された土地のはずであるが,建物がある.
附属中学校かと思われるが未確認.


(1956:昭和31年の同地域1/25,000地形図より)
三線道路の標示はあるが,北門町という町名が使われているのが判る.
町並みは,1948とほとんど変わらない.1949年に「学芸大学」に改称されている.
この年,私は三歳なので未就学(大有小卒です(^^;).


(1967:昭和42年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
1966年に「北海道教育大学旭川分校」と改称.
急激に町並みが現在に近づいている.



(2008年の同地域)
(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」)
附属小学校は春光町に移転のため撤去されている.大有小学校の新校舎が見える.

 (2015.02/26:一部修正)

2015年2月21日土曜日

近文地域の小学校とその歴史(上川第三尋常小学校;その1)

 
「知里真志保の旭川時代」からのスピンオフです.

上川盆地(とくに旭川)の発展のために,行政区分が変わったり,そのため地域名が変わったりもしました.人口の増加が小学校の増加を生み,並行して学制の変更によって名称が変わったりしました.
そのため,なにかを省略すると前後関係がつかめないということが起きるようになります.

いくつか資料を集めて,近文地域の小学校とその歴史について整理してみました.
以下.

旭川市史には,以下のようにあります.
三十四年七月,三線西一号共有地,今の大町二条六丁目に…近文第五尋常小学校を設けることに指定…」(旭川市史三巻二二九頁)

三十四年は明治のことです(歴史を調べる時に不便だから天皇暦はやめてほしいと思う.せめて西暦併記を).
また,三線西一号共有地とは,この地域はもともと「鷹栖村」に属しており,第七師団設置に関連してあたり一帯が旭川村に管理替えされたとき,鷹栖村と旭川村の「共有地」(協定があったわけではなく曖昧なまま“共有地”とされたのだと思われます)と呼ばれる地域ができました.

(新旭川市史口絵)

三線南一号の北の隅に「小学校」の文字が見えるが,これは市史編纂時の加筆であると考えられる.なお,ここは現在の旭町1条9丁目であると思われる.ここに小学校が建つのは明治36年であり,この地図に載っているのはおかしい.

なお,明治35年地形図(新旭川市史口絵)によれば,「三線西一号共有地」というのは存在しません.「三線南一号共有地」というのは存在します.その理由は定かではありませんが,思うに,一線から南西側の土地は想定外だったからでしょう.この時代以前の地形図には線-号のラインが想定されていないからです.また,この地域は上流側の乾燥した地帯と異なり,湿地だらけで経済価値の低い土地だったからです(のちにそこがアイヌに貸し与えられるという意味がおわかりでしょう:ここらあたりは石狩川が氾濫するたびに水没する地域でした).
第七師団の配置後,急激にこの土地の“価値”が上がり,急遽地名を振らなければならなかったが,正式なものはなく,「西○号」と「南○号」がその時その時に適当に振られたのだと考えられます.だから,「西○号」と「南○号」は同じものと考えるべきでしょう.
じつは,「三線南一号共有地」という土地も存在しません.ここは非常に微妙な土地で,半分は「旧土人(アイヌ)開墾予定地」であり,一部は開拓のために和人に払い下げられたもので,その間になんとも判断できない土地(無塗色=無区分)が横たわっています(前出:新旭川市史口絵).それで,「三線南一号」の区画には「共有地」と判断されるところは「ない」わけです.

さらに問題があって,「三線南一号」という区画には,のちになっても「大町二条六丁目」と呼ばれる地域はありません.現在の大町二条六丁目は,昔の「二線一号」にあります.したがって,「大町二条六丁目」という市史の記述は間違いと判断されるべきでしょう(ただし,予定地として上がっていたが,最終的に建てられたのは「三線南一号」だったという可能性は残ります).

この年十月二十日新築落成」(旭川市史三巻二二九頁)

翌年,
三十五年四月一日,旭川に町制施行とともに春光,北星地区一帯が旭川町に編入されたので,四月二十九日上川第三尋常小学校と改称」(旭川市史三巻二二九頁)

ここで「春光,北星地区」というのはのちの呼び方であり,適当ではないのですが,ほかに呼び方もありませんので我慢のこと.正確にいって,六号線以南および近文台南の平野部となります.
また,旭川町になったわけですから,本来は「旭川第三尋常小学校」と改称されるべきですが,すでに旭川村から分村していた東旭川村が学校に「旭川」の冠を使っており,混乱必至であったので「上川」を被せたようです.なお,東旭川地域の各校は現在でも「旭川」の冠を使っています(なんかね).

三十六年九月三線西一号,今の旭町一条九丁目に新校舎落成」(旭川市史三巻二二九頁)

前述と矛盾する市史の記述ですが,困ったものです.
前年(35年)の10月20日に新築落成している校舎が,また落成しています(困ったものです:なお,すでに新旭川市史が発行されています.このあたりの記述が整理されてるかと期待したのですが,記述が減ったぐらいで放置でした.無駄金使ってしまった.(^^;).
考えられるのは,“二線一号(大町2-6)”(あるいは別のところに)に「近文第五」が建てられ,旭川町に編入されたときに名称を変え,翌年,三線西(南)一号に新築転居したということですが,裏付けはありません.

三十九年修業年限二ヶ年の高等科併置」(旭川市史三巻二二九頁)

本文には「三十九年高等科併置」とありますが,後・沿革一覧表(旭川市史三巻二三四頁)には「四〇・四・一:高等科併置上川第三尋常高等小学校と改称」とあります.

当時の小学校は義務教育で修業年限が四年でした.しかし,全国的のプラス二年の高等科を併置するところが増え,それに沿ったものと思われます.この時,義務教育であった小学校は無料,高等科は授業料を払うのが普通だったそうです.その年,小学校令が一部改正され,就業期間が六年間に延長することが決まります.

翌年,
「四一・四・一:上川第三尋常小学校と改称」(旭川市史三巻二三四頁・一覧表)

つまり,「高等」の名は自然消滅したわけです.高等小学校は就業期間四年であったところが,二年に短縮.もちろん,高等小学校三年生が一年生に,四年生が二年生ですね.
ところが,1913(大正2)年に,

「大正二・四・一:高等科併置,上川第三尋常高等小学校と改称」
されるわけです.(続く)


(1903;明治36年「旭川市街全図」より一部)

線の記述はあるが,号の記述がない.第三線とかかれた文字の三区画南西に家屋マークがあり,解像度が悪いが,「第三尋常小学校」と読めると思う.しかし,ここは三線一号(現在の旭町2条10丁目あたり)であり,そこに小学校があったという記述は見あたらない.もしかすると,近文第五尋常小学校建設予定地は,この場所であり,市史の記述の間違いはここであった可能性もある.

2015年2月18日水曜日

知里真志保教授の略年譜に関する間違い(さらに訂正)

 
前回,湊(1982)*におかしな点があるということで,限られた情報をもとに,下のように結論しておきました.

1909.02.24:知里真志保,誕生(0歳)
1915.04:真志保,上川第五尋常小学校入学(6歳)
1921.03: 〃 ,豊栄尋常小学校(上川第五尋常小学校,改称)卒業(12歳)
1921.04: 〃 ,旭川北門尋常高等小学校・高等科入学(12歳)
1923.03: 〃 ,旭川北門尋常高等小学校・高等科卒業(14歳)

そのあとも,気になって,いくつかの資料を見比べていました.
まずは,本棚にあった「荒井源次郎遺稿 アイヌ人物伝」**に「知里真志保」の項があり,そこに略年譜が示してありました.
それを比べると,湊(1982)とまるで同じですから,この時の結論としては,湊先生が引用したとする「知里真志保著作集」の年表が間違っているか,荒井さんが(引用元を明記していない)湊先生の間違いを,そのままコピペしてしまったかのどちらかになります.

そこで,しようがないので,湊先生が引用したとする「知里真志保著作集」を借りだし(市図書館としては珍しく,禁帯出ではないのがあった(^^;).
で,結論は,湊(1982)の「知里真志保著作集」からの引用間違いが明らかに.ほかにも,旭川との関わり合いがいくつか明確になりました.
以下.

1909.02.24:知里真志保,誕生(0歳)
1915(T.04).04:真志保,幌別村登別小学入学(6歳)
1921(T.10).03:真志保,登別小学校卒業(12歳)
 その年,庁立旭川中学校を受験するも不合格.
1921(T.10).04:旭川北門尋常高等小学校***・高等科入学.
1922(T.11).xx:登別の尋常高等小学校****・高等科2年転入学.
1923(T.12).03:高等科卒.
1923(T.12).04:庁立室蘭中学校*****入学.
1927(S.2).02:旭川にて蓄膿症手術*******
1927(S.2).04:~一年間休学********
1928(S.3).04:復学
1929(S.4).03:室蘭中学,卒業.

かなり,複雑なので,省略があると前後関係がつかめなくなっても不思議はないですね.
1927(昭和2)年の旭川での蓄膿症手術のあと,一年間中学を休学していますが,この期間どこにいたかの記述は,今のところ見あたりません.ただし,藤本(1994)の伝記を読むかぎりでは,近文の金成マツのもとにいて,伯母・金成マツおよび祖母モナシノウクからアイヌ語およびユカルを学んでいたとすれば,その後の生涯が理解しやすいと思います.
「休学あけ,2回目の5年生の学籍簿に「将来の希望」は「語学者」とある」(「知里真志保著作集」年譜より)
ただし,金成マツの近文・聖公会赴任については記述は普通にありますが,いつ登別に戻ったのかの記述は見あたらないですし,祖母の没年についても同様ですので,引きつづき確認作業を進めないと,確定はできません.

資料の拾い読みをしていると,エピソードにいくつか矛盾が見あたります.
たとえば藤本(1994)の室蘭中学でのエピソード.

「室蘭中学の新入生百五十人中,知里君は第三位の合格点であった.従来のしきたりでは,成績のすぐれたものを二人ずつ各クラスの正・副の級長としていたので,知里君は第三組の級長になる順序.職員間では二,三人の反対者もあったが,私は彼を級長にした.別に支障はなかったように記憶する(福山********書簡)」

立派な校長事務取扱いの態度だが,知里真志保(2000)の「和人は舟を食う」中の「図書館通いー私の中学時代ー」の冒頭に,こうある.

「私が当時の室蘭中学校に入学したのは関東大震災の年,つまり大正12年のこと.登別の小学校から室中1年1組の副級長として中学生活の第一歩を踏み出した私は,現在振りかえってみてもあまり楽しい思い出をもたない.」

さても,歴史をふり返る作業は,まことに興味深いことが多い.

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* 湊正雄(1982):アイヌ民族誌と知里真志保さんの思い出(築地書館)の「略年譜」
** 荒井源次郎(1992):「荒井源次郎遺稿 アイヌ人物伝」(加藤好男:札幌)
*** 旭川北門尋常高等小学校:現在は存在しない.1928(昭和3)年,新北門尋常小学校(現在の大有小学校)へ519名移籍.1932(昭和7)年,廃校.廃止と同時に旭川師範附属小学校(現在の教育大・附属小学校)として新築移転.
**** 登別の尋常高等小学校:原著にそうあるので,正式名称不明.また,転入学の時期については姉・幸恵が亡くなった9月18日の直後とされるが,記述のある資料が見つからない.このときは,旭川にいた期間は二年に満たないことになる.
***** 庁立室蘭中学校:現在の室蘭栄高等学校.
****** 蓄膿症手術:「知里真志保著作集」年譜では期日不明だが,藤本(1994)*******では2月となっている.
******* 藤本英夫(1994)「知里真志保の生涯」(草風館)
******** 福山惟吉:真志保入学当時の校長事務取扱い


 

2015年2月9日月曜日

知里真志保教授の略年譜に関する間違い

 
湊先生がまとめた「知里真志保さんの略年譜」にちょっとした混乱があることがわかりました.

一九一五年(大正四年)四月,登別小学校を卒業し,四月に旭川北門尋常高等小学校高等科一年に入学,六歳.金成マツの家に住む.

と,いう記述です.
なお末尾注に(なお,「知里真志保さんの略年譜」作成にあたり,『知里真志保著作集』4(平凡社刊)を参照した.)とあります.従って,原著に当たらないと,どこから間違いが始まったのか判りませんが,この年譜は,すでにあちこちに引用され,一人歩きしているようで,別な記述でもみたことがあります.

さて,なにがおかしいかというと,北門尋常高等小学校ができた(上川第三尋常小学校を改称:近文地域が鷹栖村から旭川区に編入されたため)のは1918年であり,1915年に入学するのは不可能であること,また,このころの尋常高等小学校は現在の中学1~2年に当たるために,六歳で入学するのも不可能であること.
などです.


そこで,旭川の「小学校(近文地区)の歴史」を調べてみたのですが,これがなかなかの難物でした.
たとえば,北門尋常高等小学校が前身であるとされる「北海道教育大学附属旭川小学校」のHPには「本校の沿革」という頁があります.

それは,明治34年7月「近文第五尋常小学校」から始まるわけですが,まったく史実に即していません.近文第五尋常小学校といえば,当時は鷹栖村に属していました(学校は現在の大町2-6にあったらしい).その後,紆余曲折があって,旭川師範が設置された頃には,すでに北門尋常高等小学校(そのころは北門町11に移動していたとされる)として,旭川区立で存在していたものです.
その学校が,師範設置後数年たってから「旭川師範学校代用附属小学校」として用いられ,さらに1932(昭和7)年に,北門町9丁目(現在の教育大学附属旭川校・自然科学棟あたり)に新築移転して「旭川師範学校附属小学校」となったものです.
したがって,附属小学校のルーツといえば「旭川区立北門尋常高等小学校」が最初で,それ以前は無関係といった方がいいものでしょう.

しようがないので,附属小学校・豊栄尋常小学校・近文小学校・大有小学校の歴史を,旭川市史から拾いなおし,年表をつくって確認しました.所在地や経緯に若干の不明な点が残るものの(市史の記述では確認できない),知里さんの年譜確認には問題ない程度まで漕ぎ着けたとは思っています.


さて,知里真志保さんが生まれたのが1909(明治42)年.この年,伯母の金成マツは旭川市近文(当時は鷹栖村.現在の錦町15丁目.旭川市立北門中学校が建っているあたり)の聖公会伝道所に赴任.姉・幸恵は金成マツの元で上川第五尋常小学校に通学.
年譜では,“1915(大正4)年,四月,登別小学校を卒業”となっていますが,当時,真志保は6歳で卒業は不可能(尋常小学校の入学が6歳).
“四月に旭川北門尋常高等小学校高等科一年に入学”となっていますが,これは「旭川北門尋常高等小学校の前身である上川第三尋常小学校」でしょうか.しかし,なぜ姉・幸恵といっしょの「上川第五尋常小学校」ではなかったのでしょう?
じつは,当時「上川第五尋常小学校(1918(大正7)年,豊栄尋常小学校と改称)」は俗に“アイヌの学校”と呼ばれ,「旧土人教育規定」によって運営されていた“学校?”でした.こういうことがあって,このあたりが非常に判りにくくなっているのか,とも思われます.

さて,“1923(大正12)年三月,高等科を卒業し”となっていますが,この高等科とは,いったいどこだったのでしょう.大正12年3月までは,豊栄尋常小学校は存在していますので,豊栄尋常小学校を卒業してから北門尋常高等小学校・高等科に入学し,二年後の1923年3月に高等科を卒業したとすれば,この記述から入学時の記載を間違ってしまったという解釈ができます.


そうすると,
1909.02.24:知里真志保,誕生(0歳)
1915.04:真志保,上川第五尋常小学校入学(6歳)
1921.03: 〃 ,豊栄尋常小学校(上川第五尋常小学校,改称)卒業(12歳)
1921.04: 〃 ,旭川北門尋常高等小学校・高等科入学(12歳)
1923.03: 〃 ,旭川北門尋常高等小学校・高等科卒業(14歳)

となると思われます.

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この記事は訂正しました(2015.2.18)
 

2014年2月8日土曜日

「ワッソン報文」より

 
報文の正式名称は不明である.
報文は「開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文」中(p. 371-390)にあるが,目次には「ゼームス,アール,ワツソン氏北海道初期測量報文摘要」とあり,当該報文の標題は
「開拓使測量長ゼームス、アル、ワスソン」
「北海道初期測量報文摘要」
とある.ここでは仮に「ワッソン報文」と呼んでおくことにする.
冒頭の注では「1874年3月30日付けで,ワッソンがケプロン将軍に提出した報文の摘要」であることが示されている.ところが,本文では冒頭に「千八百七十四年第三月十四日」からの行動が示されている.報告書は前年の業務の報告であるはずで,本文が1874年の行動であるはずがない.
また,ワッソンは1874(明治7)年4月に陸軍省に転出したはずなので,1874年に測量行ができるはずがない.したがって,冒頭の日付は1873年の間違いであると判断する.
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1873年3月初旬,ワッソンは「北海道三角測量事業」の命を受ける.正式名称は不明である.仮に「北海道三角測量事業」と呼んでおく.この事業は途中で中止され,残った三角測量は福士成豊が引き継ぐ(たぶん)が,三角測量事業全体としては,のちに終了したことになっている.区別しないのは混乱の元である.
また,ワーフィールドが前年「札幌本道の建設にともなう測量」を行っているが,これは「地形測量」を前提とした「三角測量」ではない.したがって,これも区別されるべきである.

ワーフィールドが測量補助につかった生徒のうち6名を「北海道三角測量事業」に引きつづき使用することをワッソンが要請している.この間の経緯は不詳であるが,結局「札幌本道測量事業」に参加した数名は「北海道三角測量事業」にも参加しているらしい.
摘要には,ワッソンは10名の補助を要請したことが書かれているが,東京で決定した人員は以下のようであった.

補助 荒井都之助
補助生徒 溝口,關,野澤,永井,奈佐,松本,竹村,寺澤
訳官 井添
事務官 平林

「補助」と「補助生徒」にどのような差があるのか不明であるが,合計9名で要求より1名たりない.後に加わるデイが10人目かもしれない.
前年の「札幌本道測量」の時には,ワーフィールドにはJ. R. クラークが補助兼通訳として参加していたが,「北海道三角測量事業」からははずされており,ワッソンは日本人通訳は測量術を知らないので専門用語の通訳に難があることを嘆いている.
ここでは,荒井郁之助のほかは姓以外不詳であるが,別の資料からわかる名を記しておく.

荒井郁之助(開拓使五等出仕)(1875当時)
溝口善輔(開拓使十三等出仕)(1875当時)
野澤房迪(開拓使十三等出仕)(1875当時)(沼津兵学校出身)
永井直晴(開拓使十三等出仕)(1875当時)
関 大之(開拓使御用係)(1875当時)
奈佐 榮(開拓使御用係)(1875当時)(沼津兵学校出身)
松本安宅(開拓使 史生)(1875当時)
竹村義晴(開拓使 史掌)(1875当時)
寺澤正明(不詳)

1873.03.14(原本では「千八百七十四年第三月十四日」)
ワッソンが申請した外国人補助と測量機器は,USAに発注されたと記述.
1873.04.19
・日本汽船・北海丸に乗船し,4月29日,札幌に到着.
1873.05.05
・小樽から送付の機材・食料が到着(!),「同日一同野業に取掛れり」
・一同「ワツ(輪厚)」まで移動.昨年の札幌本道建設作業の残務を処理する.
ワッソンは,三角術測量のための基線設置に適地を探していたが,石狩川の150~200マイル上流に広原があることを知った.その実地検分のために「少人数にて該所迄,石狩川を遡るに決したり」.

1873.05.25
・ワッソンは荒井,井添,平林にアイヌ語通訳一名を加え,篠路から船で出発した.
1873.06.06
・45里上流の「イチヤン(一已)」に到着.急流のため,和船を「土人舟(チプ?)」に乗り換える.ときどき,アイヌ船でも危険なところがある.
1873.06.08
・小支流「ヒルシナイ(?春志内)」川口に露営.
1873.06.09
・「広原の下端なる「カワカミ(上川)」に着せり」
いわずとしれた(現)「上川盆地」である.
残念ながら,ここでは三角測量の基線を引く場所は見いだせず,帰途につき7月7日札幌に帰った.
当時の上川盆地は,のちに訪れたライマンが思わず「カジュメア!(インド北部の避暑地)」と叫んだほどの一大森林地帯で,10数kmの基線を引く場所は,容易には見いだせなかったのである.
ワッソンの上川盆地についての評価を記しておく.
「此原は四面山を遶らして暴風を防ぎ,且気候温かなり.加るに水利ありて木材に富み而して土壌肥沃なり.」
確かに,現在の上川盆地(旭川周辺)は四面を山に囲まれ,強風が吹くことはめったにない.「気候温かなり」というのは,冬期間を経験しなかったワッソンの誤評価であるが,6月の旭川であれば,札幌よりも暖かいかもしれない.
札幌の残留部隊は,測量機器の使用法を訓練していた.

ワッソンは,帰札ののち,あらたな基線候補地を探して「東海岸の勇払に向て」出発した.勇払方面を東海岸という表現は不正確である.それは,松前藩時代以来,日本海側を「西蝦夷地」,太平洋側を「東蝦夷地」と呼んでいたなごりであろう.
結果,勇払-鵡川間に適地を見いだした.ワッソンは,ほかに函館の平野部および黒松内低地帯を助基線の候補地にあげている.

1873.07上旬
・ワッソンは,松本鎮台(松本十郎:1873~1876.7開拓使大判官.「アツシ判官」の異名を持つ)の依頼により,石狩-札幌間の運河設置について判断調査を行う.結果は「良運河を造るヿ能はざるなり」.
1873.07.18
・連邦海軍大尉「M. S. デイ」,札幌着.
しかし,測量器械未到着のため「西海洋より噴火港迄を測量し,期に至りて函館に赴き,器械を得て勇払に至らんと決」した.

1873.07.27
・ワッソン,デイ,荒井,永井は札幌を出発.小樽内から長万部にいたり噴火港をまわって,8月3日に函館に着いた.(小樽内:現在の小樽市ではなく,札幌-小樽間にある星置川下流を小樽内とよび,過去松前藩によるオタルナイ場所があった)
1873.08.04
・函館に着いた船便には基線測量用および天文測量用の精密機器はなく,小型機器のみであったため,精密機器の到着まで小型機器を用いて「石狩川及ひ其支流の河畔なる広原等を測量するに決」した.この地域は北海道開拓の要地であり,いずれにしろ三角測量の必要な土地であったからだ.
・甲乙丙丁,四組に分け作業を進める(正式な名称かどうか不明:この名を使う).
甲組:デイ,荒井,松本+林訳官
石狩川河口より測量開始し,茨戸河口まで測量の予定(「其浅深を量り」とあるから,川底までの深さも測定した模様).
乙組:関,奈佐
「「タランシツト」を用ひ「バラト」,篠路,豊平の三川及ひ其支流を測量するヿに担当せり」(「タランシット」は「トランシット」のことで,「バラト」は茨戸).
丙組:溝口,野深
千歳川及ひ其数支流を測量
丁組:ワッソン指揮,永井・竹村・井添・平林(但し,井添は訳官,平林は事務官である)
石狩川を,茨戸河口から上流へ.
精密測量機器が未着であるため,アリダードを用いた平板測量,スタジア測量を用いたとある.

1873.09.02
・甲組,乙組,丙組出発.
「此器械を整備するが為め」日数を重ねたとあるが,機器の作成かあるいは修練のためかは不明.
・ワッソンは,舟を扱うアイヌが見つからなかったため出発が遅れた.理由は,石狩川の急流では,アイヌの方が和人より操船が巧みであるからでる.
1873.10.18
・ワッソン隊は石狩川支流・アイベツ(愛別)河口に到着した.
愛別は上川盆地の北の端にあり,石狩川はここから大雪山麓の渓谷に入る.舟での遡航は困難になり,また気候は晩秋を迎えていた.これ以上の遡航を断念し,10月12に野営した「シユーベツ」(忠別つまり現在の旭川付近)河口まで戻り,「シユーベツ(忠別川)」の測量に切り替える.帰途,舟二隻を転覆させ,機材流失.21日,忠別川の測量を始めたが天候不順のため遅延.26日,「バイー河口」にて終業(「バイー」は不詳.しかし「石狩川図」を見るかぎり,ワッソン隊は忠別川を遡ったのではなく,美瑛川を遡った可能性が高い.そうであれば,「バイー」は「バイエ(Biye)」すなわち現在の美瑛だと思われる).
1873.10.31
・ワッソン隊は空知河口へ.空知川測量を試みるも,季節はすでに初冬.作業不可能のため帰札へ.
1873.11.06
・ワッソン隊,札幌に到着.同時期,甲組(デイ隊)は石狩河口より幌向河口(現・南幌駅付近)までを測量し終わり,ほかの各組も予定を終了して札幌へ戻った.
1873.11.24
・ワッソン,デイ,荒井,東京へもどり,製図を開始する.
なお,通常「北海道石狩川図」と呼ばれる図は,この時の報文に添付されたものらしい.
・この年の成果は以下.

測量せる川名        停脚所の数        測量せる里数        測量者の名
石狩        1,050        150.82        ワスソン
チユーベツ        78        10.04        ワスソン
バラト        456        17.65        関
篠路        546        17.65        関
豊平        580        36.14        関
千歳        233        10.36        溝口
夕張        459        40.76        溝口
フシコユーバリ        41        3.13        溝口
モナメ        18        1.66        溝口
ユーニ        50        3.00        溝口
ヘルベツ        25        1.61        溝口
アノラ        155        6.24        溝口
ハシヤンベツ        31        1.24        溝口
パンゲトラタ        18        0.78        溝口
パンゲトラタ        22        0.88        溝口
ウエムベツ        49        1.82        溝口
スタベツ        43        1.80        溝口
ツクベツ        72        3.00        溝口
クオベツ        60        2.68        溝口
シマタツプ        288        14.60        溝口
ワツ        138        8.38        溝口
幌向        211        10.50        松本
イクシベツ        ー        ー        松本

ワッソンは,この報文に付け加えて,石狩河畔は農地に最適であることを示している(事実そのとおりになっている).しかし,「カモイコタン(神居古潭)」より下流域は水害があるであろうことも指摘した.
また,神居古潭より上流は「河上と云ふ」(としているが,これは「上川」の間違いであろう:翻訳者のミス)とし,上川はそこに通じる道がないことで開発困難であることを指摘した.
また,石狩川は幌向より上流は舟での遡航は困難で,喫水が4~5尺の船は空知河口までのぼれるが,それより上流は大型船は不可能であるとしている.
さらに,来年の測量の準備が整っていることや,デイや荒井の能力の高さを強調している.
以上.

昨年は,旭川-石狩間を何度となく,車で走った.北海道の広さを改めて実感した.
わずか百数十年前,道もないこの地を,徒歩や小船で,未来を信じて歩き回った人々に(その多くは名前すら残していない)感動を禁じ得ない.
 

2013年12月12日木曜日

「先生はアイヌでしょ」

 
荒井和子著「私の心の師 先生はアイヌでしょ」を読んでみた.

   


不謹慎だといわれるかもしれないけど「昭和」を感じてワクワクしてしまった.

なぜ,この本を読む気になったかというと,ある書評に“アイヌの居住地であった近文付近になぜ和人が住むようになったか”が書かれているというのを信じたてしまったからだ.
じつはそういう話は,ほとんどなかった.その後の話なのだ.
一(いち)アイヌ人女性教師(著者)の経験が綴られているだけの本だった(もちろん,その話は読み応えがあります).

それでも,近所の小中学校や今でも存在する個人病院の名,橋,その他地名が出て来て…,ちょっと私の子ども時代より少し先行しているのだけれど,重なる部分もあり非常に懐かしかったというわけだ.
今よりもはるかに貧しかった時代の話です.アイヌも和人も.

じつは,この本は「後編」であって「前編」がすでに出ているという.調べてみたらすでに絶版だった.
そのうち図書館から借りて読んでみようと思う(時間的制約が多いので売ってるもんなら買いたいのだけれどね).アイヌ差別の生活感あるヤツがでてくるだろうと思う.

問題の,アイヌ居住地だった石狩川以西に和人が大手を振って住むようになった経緯については,「旭川・アイヌ民族の近現代史」を読みなおしてみることにしようと思う.こちらは「記録」的で生活感(リアリティ)がないんだよねえ.

   

2013年12月8日日曜日

北海道の登山史

 
フラリと寄った,博物館のショップで高澤光雄「北海道の登山史」を買った.
期待してなかったけど,一ページ目から興味深いことがたくさん.読み応えありそう.(^^)
利尻山初登頂(?)のエピソードはワクワクしますね.



以前,「日本の登山史」とかいうバカ高い本を買ったけど,北海道の山については,まるで記述がなかった.「北海道は日本じゃあないのかよ」とツッコミを入れたかったが,偏見の持ち主には通じるわけないね.

   

さて,最近は目が疲れて,長時間の読書はできないけれど,楽しめそうな本です.

2010年11月6日土曜日

マラリア

 
 北海道におけるマラリア発生数(明治43~大正2年)

年度        人口        患者数        死亡者数        人口対患者数(%)
大正 二        1,803,181        6,440        9        0.357
大正 一        1,739,099        9,794        2        0.563
明治四四        1,667,593        12,559        14        0.753
明治四三        1,610,545        11,748        48        0.357

(西島浩,1967「北海道開拓と虫害(二)」より)



 一時期,「地球温暖化が起きると,日本でもマラリアなど南方の伝染病が流行るであろう」というキャンペーンがありました.最近はあまり聴きませんけどね.

 この話は,なにかおかしいな.と,思っていたのですけど,この資料を見つけました(実際には,数年前に見つけていたんですが,その後,入院したりなんだりで,失念してたヤツです).
 この記録によると,明治末期から大正にかけて,北海道の開拓が本格的に始まった時期ですが,死者が出るほどマラリアが流行っていました.
 もちろんこれは,公式な記録がとられ始めてからのものということで,実際には,明治の初めから発症の記録があるそうです.
 媒体であるハマダラカは北海道の気候に適応して生きていたということが記録されています.当時の北海道は,現在よりはるかに寒かったのにもかかわらず.


 北海道におけるマラリア発生数(昭和22~38年)

年度 患者数 罹患率 死者数 死亡率(%)
昭和
38        1        0.0        1        0.0
37        -        -        -        -
36        -        -        -        -
35        -        -        -        -
34        -        -        -        -
33        -        -        -        -
32        4        0.1        2        0.0
31        17        0.4        1        0.0
30        9        0.2        -        -
29        12        0.3        -        -
28        5        0.1        3        0.1
27        7        0.2        1        0.0
26        21        0.5        2        0.0
25        18        0.4        2        0.0
24        47        1.1        3        0.1
23        111        2.8        6        0.1
22        186        7.4        11        0.3

(西島浩,1967「北海道開拓と虫害(二)」より)



 別表ですが,昭和に入ってからも,北海道ではマラリアによる死者があったということです.昭和28年はわたしが生まれた年ですが,この頃になっても,まだ死者がいました(@_@;).
 この間,いま売れっ子である「戦場カメラマン」がいってましたが,現在の日本にはマラリアを治療できる施設がないそうです.たった半世紀でそうなってしまった.

 昭和32年以降は死者が記録されていませんので,この頃になってようやくマラリアの恐怖から脱したということになります.意外と最近まで,マラリアは流行っていたんですね.
 日本で,マラリアが流行しないのは,流行源であるハマダラカが生息しにくい環境を作りあげてきたためで,沼地・藪などを放っておけば,(別に温暖化などなくても)流行しているはずだということです.気温には関係がない.
 いまだに,不勉強なマスコミ関係者がポロッと「温暖化が進むと日本でもマラリアが流行る」などと平気でいってるのを聴きますが,歴史は「それはウソだ」ということを教えてくれています.

 なお,昭和38年に死者が一名出ているのは,敗戦後の南方からの復員兵であり,例外です.

 

2009年4月3日金曜日

差別ということ

 
 先日,「ウタリ協会」が「アイヌ協会」に改名することになったというニュースが流れました.
 「アイヌ」が差別的な言葉として使われた歴史があり,これを嫌うアイヌが同胞という意味を持つ「ウタリ」を会の名に選んだという経緯があります.なお,「アイヌ」は自然や精霊に対する「人」という意味で,さらにその「人」の中でも「男」という意味を持ち,決して差別用語ではありません.

 話しは変わりますが,私が子供の頃,こんな話しがありました.
 外出から戻った母が,旭橋のたもとで知らない人から「あなた朝鮮人じゃあないですか」と声をかけられた,といって「失礼しちゃう」と少し怒っていました.当時の私は,なぜ母親がそのことで怒るのか理解ができませんでした.まだ,差別ということが理解できていなかったのですね.
 母の名誉のためにいっておけば,母は決して差別を肯定するような人ではありません.でも,「朝鮮人ではないのか」といわれて,無意識のうちに機嫌が悪くなる程度のことはあったようです.

 最近こんなことがありました.
 「バカ・チョン・カメラ」=「バカでもチョンと押せば写るカメラ」を,私が話題にしたときのことです.高校生の長女が口をトンガラカセて抗議します.

 「チョン」というのは朝鮮人に対する差別用語だから,使ってはいけないというのです.

 一瞬,何を言われているのかが理解できなかったですが,彼女は「バカでも,チョンでも」という言い方を前提としていたのですね.私はそのときまで意識はしていなかったですが,背景にはこういうことがあります.
 明治以降の日本帝國が示す侵略的傾向の結果としての朝鮮人強制連行.それ以後,日本国内に結構な数の朝鮮人が住んでいましたが(今でも住んでいますね),古くから代々日本にいるというだけの日本人は,強制連行のためによく日本語が理解できていない朝鮮人のことを,バカにして「バカ」と「朝鮮人」を同列にしたのです.そのとき使った言葉が「チョン」.
 ちなみに,「バカ」は中国語の「馬鹿」が語源で,もともとは「馬と鹿の区別がつかない人」という程度の意味です.

 話しを戻します.
 不意をつかれた私は,それでもなんとか体勢を立て直し,「『バカ・チョン・カメラ』の『チョン』とその『チョン』とは(語源が)違うだろう」と反論しましたが,長女は納得しない様子です.
 もちろん,「バカ・チョン・カメラ」の「チョン」は,「チョンと押す」という擬音語です.しかし,私も,そうはいいましたが,完全には自信が持てません.したがって「バカチョンカメラ」という言葉は自粛しようと心に決めた(口には出さずという意味)次第.


 そういうことが気になってくると,いろいろ昔のことを思いだします.
 若い頃,教育テレビで見たUSAの差別撤廃プログラムのことを思い出しました.

 USAの高校で人種差別撤廃のプログラムを実施するドキュメンタリーでした.
 プログラム前に,一緒に歩いている黒人と白人の二人の少年にインタビュー.
 白人の少年は,インタビュアーに強い口調で反論します.彼は差別など露ほど思っていないし,実際に一緒に歩いている黒人の少年は真の友人であると主張します.
 しかし,同意を求められた黒人の少年は静かに微笑んでいるだけ.

 やがて,プログラムが始まります.
 このプログラムは,いわゆる有色人種と白色人種の立場を逆転させるゲームです.有色人種は白色人種から普段いわれている言葉をぶつけていいし,白色人種はそれに対して抗議や反論をしてはいけないというものです.

 プログラム終了後,白人少年は黒人少年に涙を流しながら「友達だと思っていたのに」と抗議します.しかし,黒人少年は一言「なぜ? 普段,君たちが僕らにしてることをしただけだよ」と.

 差別の恐ろしさは,無意識に差別が染み込んでいるところにあります.
 自分は差別していないつもりでも,相手から見れば「“立派な”差別」ということが,ありふれているわけです.


 私には,中学時代からのアイヌの友人が何人かいます.
 気のいいやつで,今でも付き合いがあります.
 私は仲のいい友人のつもりですが,彼から見た私はどうなのでしょう.考えると恐ろしくなりますが,意識しすぎるのもどうかと思います.

 鎖国時代は国内の戦争も外国との戦争もない平和な時代でした.
 しかし,その平和な時代が,本来多様な人種構成(民族構成とか部族構成といった方がいいのかな)である日本人に妙な日本人意識を生み出し,そのあとに続く不幸な時代に,さらに意識的・政治的に作り出された歪んだ日本人意識が,今でも尾を引いているというわけです.
 こんなことを考えなくていい時代がきてほしいものです.