2009年4月3日金曜日
差別ということ
先日,「ウタリ協会」が「アイヌ協会」に改名することになったというニュースが流れました.
「アイヌ」が差別的な言葉として使われた歴史があり,これを嫌うアイヌが同胞という意味を持つ「ウタリ」を会の名に選んだという経緯があります.なお,「アイヌ」は自然や精霊に対する「人」という意味で,さらにその「人」の中でも「男」という意味を持ち,決して差別用語ではありません.
話しは変わりますが,私が子供の頃,こんな話しがありました.
外出から戻った母が,旭橋のたもとで知らない人から「あなた朝鮮人じゃあないですか」と声をかけられた,といって「失礼しちゃう」と少し怒っていました.当時の私は,なぜ母親がそのことで怒るのか理解ができませんでした.まだ,差別ということが理解できていなかったのですね.
母の名誉のためにいっておけば,母は決して差別を肯定するような人ではありません.でも,「朝鮮人ではないのか」といわれて,無意識のうちに機嫌が悪くなる程度のことはあったようです.
最近こんなことがありました.
「バカ・チョン・カメラ」=「バカでもチョンと押せば写るカメラ」を,私が話題にしたときのことです.高校生の長女が口をトンガラカセて抗議します.
「チョン」というのは朝鮮人に対する差別用語だから,使ってはいけないというのです.
一瞬,何を言われているのかが理解できなかったですが,彼女は「バカでも,チョンでも」という言い方を前提としていたのですね.私はそのときまで意識はしていなかったですが,背景にはこういうことがあります.
明治以降の日本帝國が示す侵略的傾向の結果としての朝鮮人強制連行.それ以後,日本国内に結構な数の朝鮮人が住んでいましたが(今でも住んでいますね),古くから代々日本にいるというだけの日本人は,強制連行のためによく日本語が理解できていない朝鮮人のことを,バカにして「バカ」と「朝鮮人」を同列にしたのです.そのとき使った言葉が「チョン」.
ちなみに,「バカ」は中国語の「馬鹿」が語源で,もともとは「馬と鹿の区別がつかない人」という程度の意味です.
話しを戻します.
不意をつかれた私は,それでもなんとか体勢を立て直し,「『バカ・チョン・カメラ』の『チョン』とその『チョン』とは(語源が)違うだろう」と反論しましたが,長女は納得しない様子です.
もちろん,「バカ・チョン・カメラ」の「チョン」は,「チョンと押す」という擬音語です.しかし,私も,そうはいいましたが,完全には自信が持てません.したがって「バカチョンカメラ」という言葉は自粛しようと心に決めた(口には出さずという意味)次第.
そういうことが気になってくると,いろいろ昔のことを思いだします.
若い頃,教育テレビで見たUSAの差別撤廃プログラムのことを思い出しました.
USAの高校で人種差別撤廃のプログラムを実施するドキュメンタリーでした.
プログラム前に,一緒に歩いている黒人と白人の二人の少年にインタビュー.
白人の少年は,インタビュアーに強い口調で反論します.彼は差別など露ほど思っていないし,実際に一緒に歩いている黒人の少年は真の友人であると主張します.
しかし,同意を求められた黒人の少年は静かに微笑んでいるだけ.
やがて,プログラムが始まります.
このプログラムは,いわゆる有色人種と白色人種の立場を逆転させるゲームです.有色人種は白色人種から普段いわれている言葉をぶつけていいし,白色人種はそれに対して抗議や反論をしてはいけないというものです.
プログラム終了後,白人少年は黒人少年に涙を流しながら「友達だと思っていたのに」と抗議します.しかし,黒人少年は一言「なぜ? 普段,君たちが僕らにしてることをしただけだよ」と.
差別の恐ろしさは,無意識に差別が染み込んでいるところにあります.
自分は差別していないつもりでも,相手から見れば「“立派な”差別」ということが,ありふれているわけです.
私には,中学時代からのアイヌの友人が何人かいます.
気のいいやつで,今でも付き合いがあります.
私は仲のいい友人のつもりですが,彼から見た私はどうなのでしょう.考えると恐ろしくなりますが,意識しすぎるのもどうかと思います.
鎖国時代は国内の戦争も外国との戦争もない平和な時代でした.
しかし,その平和な時代が,本来多様な人種構成(民族構成とか部族構成といった方がいいのかな)である日本人に妙な日本人意識を生み出し,そのあとに続く不幸な時代に,さらに意識的・政治的に作り出された歪んだ日本人意識が,今でも尾を引いているというわけです.
こんなことを考えなくていい時代がきてほしいものです.
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