2010年8月31日火曜日
“幻”の対馬銀山
いわゆる“対馬銀山”は日本最古の銀山といわれ,八世紀から十三世紀にかけて,日本でほとんど唯一の産銀地とされています(十三世紀以後は,その始まりははっきりしませんが,石見銀山が加わるとされています).
現在追求中の「海洋史観」の初期には,対馬から産した銀が朝鮮半島との交易において重要な位置を占めていることが示されています.しかし,「対馬銀山」とは,どのようなものだったのかとなると,ほとんどはっきりしません.
それで,あちこち調べると,ますます混乱してゆく一方なのですが,このブログは,調査の「メモ書き」のつもりですから,とりあえず,どの程度混乱しているのかを示しておきたいと思います.
●名称
いわゆる“対馬銀山”と,書きましたが,「対馬銀山」という言葉には,なにか実態があるわけではありません.歴史資料に「対馬銀山」という言葉が出ているものはないようです(「ないようです」というのは,わたしは歴史の専門家ではありませんので,知りうる範囲はごく狭いですし,お宝のような史料には,もちろんアクセスできる権利がない:歴史のほとんどは,公開されていない史料から成り立っているのです).
誰が,最初に「対馬銀山」という言葉を使ったのかも,不明です.
平林(1914)は「佐須鉱山は対馬国下県郡佐須村字樫根にあり.本邦に於ける銀の最初の発見地である.」としています.続けて,「即ち,旧記に載する所の天武天皇白鳳三年(西暦六百七十五年)於対馬国佐須山得銀云々とは,此山であつて往昔に専ら銀鉛鉱のみを採掘したるものである.」とあります.
この言葉が正しいとすれば,“対馬銀山”は,本来「佐須銀山」と呼ばれるべきものです(ちなみに,いっぱんに「石見銀山」と呼ばれているものは,正式には「大森銀山」が正しいようですね.石見国にあるから“石見銀山”,対馬国にあるから“対馬銀山”というようなセンスです.もちろんこれでは,ひとつの「国」に銀山が二つ以上あったら混乱を招くことになりますね.実際,石見銀山には混乱があります).
なお,「対馬国下県郡佐須村字樫根」とは,現在の「長崎県対馬市厳原(いずはら)町樫根(かしね)」にあたります.また,「旧記」というのはなんであるかの記述はありません.
また,上原(1959)によれば,「佐須鉱山,安田鉱山などその一部が銀山あるいは銀・鉛鉱山として個々に小規模に稼行された」とあります.
1941(昭和十六)年,東邦亜鉛株式会社が「対州鉱山」を買収,鉱山の運営をはじめますが,この頃には,付近の鉱山は「対州鉱山」として統合されたようです.そうすると,「対州銀山」という名前も候補に挙がりますが,“旧記”にかかれた鉱山が「対州鉱山」のように統合されたものに匹敵するのかというと,問題ありです.
なお,上原は「対州鉱山」を三つの鉱帯(東部・中央・西部:どうでもいいですが,「東部」・「西部」なら,「中央」ではなく「中央部」でしょうね.なぜわざわざアンバランスな命名をするのか,わかりかねます)に分け,その各々に,いくつかの「ヒ(金偏に通;以下おなじ)」(鉱脈)を割り当てており,「中央鉱帯」には「佐須[ヒ]」・「安田[ヒ]」の名前もあります.したがって,“旧記”にかかれた“銀山(銀坑)”とは,「佐須[ヒ]」のことである可能性が高いです.
しかし,実態はまったく不明ですが,開坑年代の不詳な“間歩”もたくさんあるようで,「間違いなく佐須[ヒ]のことをいっている」と断言することはできないようです.
平林武(1914)本邦に於ける銀鑛の鑛床に就き(承前).地質学雑誌, 21(244): 12-36.
上原幸雄(1959)対州鉱山の地質鉱床とその探鉱について.鉱山地質,9(37): 265-275.
●地質
対州鉱山(というよりは)“南部対馬島”(一時期は「下県郡」と呼ばれたこともあるようです)の地質図は,いくつか公表されていて,それらによれば,古第三系とされる対州層群(砂岩・頁岩およびその互層)と,これを貫く花崗岩が分布し,花崗岩から分岐したと思われる石英斑岩や玢岩が,岩床状あるいは岩脈状に分布しているといいます.
これらの貫入岩類には,著しく変質したものと,そうでないものがあり,鉱脈とされるものは,この著しく変質した貫入岩類に関係があるようです.
ただし,この石英斑岩や玢岩の一部は発泡し,熔岩状に見えるものもあるという記載があります.そうすると,これらの火成岩は対州層群の堆積時に同時的に活動した可能性もあります.
二つの解釈は,花崗岩との関係(対州層群は花崗岩の貫入により,ホルンフェルス化しているとされる)で,矛盾を生じますが,貫入岩類には,堆積とほぼ同時期のものと,花崗岩の貫入にともなう二系統があるのかもしれません.
なお,上原(1959)は「いずれの[ヒ]も地表における露頭はほとんどな」いとしており,史上最初の鉱脈の発見はいかなる経緯によるものなのか,興味深いところがあります.
●鉱床および鉱脈
鉱床および鉱脈については,上原(1959)が精密に分類していますので,それを参照してください.ここでは省略します.なお,各[ヒ]の主要構成鉱物は方鉛鉱を主体に閃亜鉛鉱を伴い,わずかに磁硫鉄鉱を随伴するのが主で,閃亜鉛鉱主体の場合も[ヒ]によってはあるようです.
「銀」については,記載がありません.
なお,ネット上では,「対馬銀山」は「黒鉱」であるという情報が流れていますが,上記「地質」の状況からは,「黒鉱」である可能性はありません.
対馬北部の地質を考えても,黒鉱の鉱山の存在は考えられません.
これらの誤情報は,某ネット百科事典から流出しているもののようで,それには,「黒鉱」と書いてあります.なお,このネット百科事典の記述は,某百科事典を引用していますが,百科事典を引用文献とするのは奇妙なことで,百科事典の編集者が地質や鉱床の研究をしているわけはなく,百科事典自体がなにかの研究を引用しているはずです.ここでは,その詳細はわからないので「名称」のところで,定義にこだわったわけです.
●銀もしくは鉱石
残念ながら,対州鉱山で採取される鉱石がどのようなものなのか記載したものは,ほとんどありません.
たった一つ,みつかったのが,平林(1914)に示された鉱石の分析値です.これは,平林が1910(明治四十三)年に調査したときのものとされています.
鉱程 金 銀 鉛 亜鉛
笊揚鉛鉱 0 0.2207 76.10 ―.―
同亜鉛鉱 0 0.0208 ―.― 49.70
手選塊亜鉛鉱 0 0.0062 ―.― 48.60
ただし,これは,一般的な鉱石の分析値とか,高品位な鉱石と思われるものの分析値とかではなく,選鉱課程のいくつかの鉱石について,金・銀・鉛・亜鉛の値を示したものに過ぎません.単位は示されていませんが,たぶん重量%と思われます.したがって,どのような意味を持つのかということは一概には言えません.
全鉱山中で,この鉱石が「銀」の含有量が多いのか,少ないのか,普通なのかといったことすらわかりませんが,いえることは,この鉱石の「銀」の含有量は驚くほど少ないのではないでしょうかと.
要するに,「銀山の鉱石」とは言いがたいのではないかと言うことですね.
これが,この鉱床の一般的な含有量だとすれば,同鉱床で「自然銀」があったとは考えにくいのではないでしょうかね.そもそも,このタイプの鉱床に「自然銀」が産出することがあるのかどうかは,鉱床学の専門家に聞いてみなければわからないですし,残念なことに,こういう具体的なことに触れた鉱床学の教科書も見あたらないもので,なんともいえません.
一般的には,「銀」と「鉛」は親密性があり,方鉛鉱にはしばしば,銀が含まれています.これを「貴鉛」と呼ぶことがあるそうですが,先ほどの平林(1914)には,興味深い記述があります.
「当山に於て所謂る[ヒ]筋と称せるものは真実此断層に伴へる粘土を指せるものにして,採鉱は専ら此粘土を追へるものなり.此鉱床は元来方鉛鉱を目的として採鉱されしものにして,現在見られ得べきものは其抜掘跡なりとす.故に鉱石の大部分は閃亜鉛鉱にして,稍々多量の磁鉄鉱及び少量の方鉛鉱を見るのみなるも,若し今後地下深所に及び古人の未着手なる部分に達せば,方鉛鉱の量は恐らく稍々多量に出づへきものなるべしと考ヘらる.」
当時,残存していた粘土脈には,古人が銀採取のために,選択的に「方鉛鉱」を抜き取った形跡があり,閃亜鉛鉱が残されているようだということですね.つまるところ,“古人”は,方鉛鉱に,少ないながらも「銀」が含まれていることは承知していたのかもしれません.
・銀の産出量
いくつかの記述には,“対馬銀山”の産出量とおぼしき記述があります.
それは,(書き方があいまいなので,「たぶん」でしかないのですが)「延喜式」に“税金”として「1200両を納める」とあるらしいです.これは,自動的に「1200両/年」と解釈されています.もうひとつ,「對馬國貢銀記」にも「1200両」という記述があり,これもその裏付けとして扱われています.
「對馬國貢銀記」のその部分を見ると,「満千二百両以為年輸」とあります.これだけですと,「1200両を一区切りとして,一年間の仕事とし,(国に)納めた」という意味かと解釈することが可能かとも思われます.じつはそのあとの文が問題で,(現代文訳は困難なのですが)「その一区切りが終わったからといって終わりにはできない.坑道を放置すれば,雨水が坑道に満ちてしまうからである」と書いてあるようです.
してみると,1200両分の銀が確保できたとしても,鉱山としての業務は続けていたとするべきなのでしょうか.ただし,じゃあ「更に銀を掘っていた」ということも,たんに「排水作業のみを行っていた」とも解釈できるので,断定はできないですね.
そう,1200両というのが、何を意味しているのかは依然と問題なわけです.
・銀の価値
対馬が国に納める銀の量は年間1200両と決められており,これは,我妻(1975)によれば,以下のように判断されています.
当時の「両」には,「大両」と「小両」があり,どちらをとるかで換算量が異なります.“旧記”の「両」がいずれに当たるのかは不明なのですが,1200両は,現在の重さに換算すると大両ならば45kg,小両ならば15kgになるそうです.
現在,銀の相場は,2010.08.30現在で1gあたり¥53前後なので,¥2,385,000もしくは¥795,000程度になります.これは,“対馬銀山”に関する記録では,対馬銀山が産出した銀の量として,しばしば記述されているものです.しかし,現在の度量・価値に換算すると驚くほど少ないという感じですね.
しかも,これは天皇に収めた銀の量だけしか表していませんので,“対馬銀山”総体では,どのくらいの量の銀を産出したのかという話にはならないわけです.
“対馬銀山”が産出した銀の量は「不明」ということです.
ただし,一般人について,当時の「銀」にはどういう価値があったのかということを考えると,一般人は「そんなものは持っていてもしょうがない」というのが常識的なところかと思います.(当時の社会体制・経済機構は,わたしにはわかりませんが,)銀は対朝鮮半島,対中国の貿易についてのみ意味があって,個人にはあまり意味がなかったのじゃあないかと思います(こういうことを解説している歴史書はないもんでしょうかね).
そうすると,“対馬銀山”の銀産出量は1,200両/年以外のものはなかったと考えるのが妥当ということになります.
一方で,産出量の半分を天皇に召し上げられていたとすれば,2,400両/年となり,1/10を召し上げられていたとすれば,12,000両/年となります.
いずれにしても,わからないことだらけということなんですが…(歴史は,こういうあいまいなことで成り立っているのですから,怖いですね).
我妻 潔(1975)「対馬国貢銀記とその製錬法」(日本鉱業会誌,91(1051): pp.不詳:日本鉱業会誌は公開されていないですが,カマサイ氏のHP「冶金の曙」(番外編>銀製錬事始>★「対馬国貢銀記とその製錬法」)に一部が転記されています(わたしにとっては,虎の巻のようなありがたいHPです).
●幻の金山
日本学士院編「明治前日本鉱業技術発達史」によれば,「続日本紀」による記述とことわったうえで,以下の記述があります.
「天皇の五年三月に,さきに対馬に派遣した三田首五瀬から金が献上された.天皇は大いにこれを賞賛し…(中略)…賞与をあたえた.そして,天皇はこの対馬からの献金を記念して年号を大宝と改元し,天皇の五年をもって大宝元年と定めた.」
つまり,対馬に金山があったという記述です.
しかし,これは,三田首五瀬(みたのおびいつせ)の起こした詐欺事件であったとも書かれています.
対馬国から最初に銀が献上されたのが,674(白鳳三)年とされていますから,「銀があるんだったら,金があってもいいだろう」ぐらいの感覚で派遣されたのでしょうけど,まんまと引っかかったものです.
しかし,その献上された「金」はどこから産出したものなのでしょうね.
この金山詐欺事件のことを知ったときには,先ほどの「銀の産出量」のことも絡めると,いっしゅん「銀山」も詐称ではないかと疑ってしまいました.
歴史には,わからないことがたくさんあります.
わからないことがあるのはいいんですが,わからないことがあいまいなまま,いい加減な情報が一人歩きして,歴史が構成されているというのは…,どうもね.
2010年8月28日土曜日
海洋史観
「文明の海洋史観」という本で,歴史の見方を変えなければならないという強迫観念みたいなものができてしまって,あちこち探し回ってました.
でも,また,だまされてたみたいです((^^;).
なにかというと,簡単なことでした.
以前,「蝦夷の古代史」のところで,ちょっと触れてますけど,朝鮮半島の影響下にある“西日本”をネグレクトしてしまえば,それこそ,縄文時代(もしかしたら,旧石器時代から?)からこの方,海域を舞台としたダイナミックな「人と物」の移動があったことが見えてくるわけです(逆に,この西日本の“大和”政権の勢力圏が,どんどん拡大して,固定していくのが,公的な“日本の歴史”ですけど).
“日本の歴史”の中では,縄文時代なんか,素朴な小集団が手近にあるもを採集して,その日暮らしの生活をしていたなんてイメージで教えられてきましたね.だけど,かれらは移動するのが常態なので,少人数の集団でしかありえないし,だから国家なんかつくってるヒマもない.かれらの文化が原始的なのではなくて,それがかれらの文化なわけです.
“日本の歴史”を見直していたんでは,「日本の歴史」はわからないというパラドクス.
さて,以前に読んだ本ですけど,また読みなおすことにしました.
中橋孝博「日本人の起源」
池橋 宏「稲作渡来民=「日本人」成立の謎に迫る」
海保嶺夫「エゾの歴史=北の人びとと「日本」」
瀬川拓郎「アイヌの歴史=海と宝のノマド」
後藤 明「海を渡ったモンゴロイド=太平洋と日本への道=」
後藤 明「海から見た日本人=海人で読む日本の歴史」
などなど.
それにしても,読んだはずの本が,新鮮だこと((^^;)
& 読むスピードが遅くなってること…((^^;).
2010年8月15日日曜日
リンク
ごくまれにですが,それまでなんの関係もないと思い込んでいた複数の事項が,ある日突然リンクして,「ああ,そういうことだったのか」とふしぎに思いつつも,納得することがあります.
そんな例を一つ.
たとえば,「海洋史観」を身につけようと,彷徨している最中に,見つけた本一冊.
村井章介「海からみた戦国日本=列島史から世界史へ=」(ちくま新書127)
個人的な興味で調べている「アイヌ史」と「石見銀山」が一つの本に載っているというのは,はじめてのことです.
日本海を内海とした交流・物流の視点から見る「コシャマインの戦い」.
石見銀山の「起承」.
銀山革命と世界史.
ただ,残念なことは,この本は,どうやら歴史をよく知っている人のためのようで,ダイジェスト版にしか見えません.書いていないことが多すぎるような気がします.
もちろん,わかっていないことも多すぎるのでしょうけどね.
アイヌ民族の成立と世界史がどうかかわっているのか.北方世界の交流と物流.
たしか,むかし,函館で「学芸職員研修会」をやったときに,「館」の発掘の話があったと記憶します.当時は,発掘が進んでいるというような,現状報告に近いものだったかとおもいますが,少しリアルになったような,まだまだ,霧の中のような….
石見銀山の話もそうです.
たんに掘り出した銀鉱石を朝鮮半島へ運び出すだけだったものが,朝鮮半島にあった銀製錬の技術が日本に渡ったことで,石見銀山に革命が起き,世界の銀の1/3を産するほどになる.たぶん,そこで活躍したであろう「倭寇」.
でも,まだわからないことのほうが多すぎる.
たとえば,石見銀山よりはるか以前からあった「対馬銀山」の位置づけはどうなっているのか.
そこでおこなわれていた「鉱山技術」・「冶金技術」は…?.
謎解きは,まだまだ続く.
2010年8月7日土曜日
ハリマオ+α
土生良樹「神本利男とマレーのハリマオ=マレーシアに独立の種をまいた日本人」という本があります.
おもしろい本でした.
村上もとかの「龍-RON-」を彷彿とさせる冒険小説です.
一気に読めます.しかし,読んでる途中で,違和感「バリバリ」になります.
なぜなら,最初から最後まで,当事者しかわかるはずのない「会話」が多用されていることから,これはフィクションである筈なのです.
いくつか,神がかり的なエピソードも挿入されています.
しかし,「序文」では,拓殖大学総長・小田村四郎が,これを「伝記」とよんでいます.同時に,「一時的に史実を歪曲捏造し,祖国の歴史と父祖の偉業を敵視する自虐史観に充ちた,独立国家にあるまじき歴史教科書が出現した…」とかいていることから,かれは,これを「ノンフィクション」であり,「歪曲」されていない事実と見なしていると考えられます.
また,帯に示された一文「アジア解放の理想を胸に戦争のさ中、「マレイの虎・ハリマオ」こと谷豊を救出、ともにイギリス植民地主義と戦った一代の快男児・神本利男。マレーシア在住の著者により10年がかりで明らかにされた、その壮絶な生涯。」とあります.
「明らかにされた…」が微妙ですが,普通ならこれは「(調査によって)明らかにされた」と読むでしょう.たとえば,Amazonの分類では「ノンフィクション」に入っていますし,現在,一つだけある「書評」も「ノンフィクション」という前提で書かれています.
しかし,本文を読めば,これはどうも「(筆力によって)明らかにされた」ということしか考えられません.
前の記事「ハリマオ」で,紹介した二冊は,「不明」のところは「不明」とかく,あきらかな「ノンフィクション」ですが,そういう姿勢は,こちらにはありません.
どちらかというと,前二冊の「ノンフィクション」が「伝説」を解体しようとしたのに対し,こちらは「伝説」を製造する側であるらしい.
断っておきますが,「冒険小説」としてはおもしろいし,ある程度のレベルに達していると思います.しかし,これを「事実」と見なすひとたちがいるのは,どうも….
怖いので,これ以上立ちいる気はありませんが,「歴史論争」なるものの,一端を見たような気がします.
あ,もうひとつ.
この本は,少数の理想主義者がいたとしても,「軍人」は無知蒙昧であり,「軍」は暴走するものだから,「正義の戦争はあり得ない」ことを示していますが,こちらは,フィクションではないようです.
しかし,「自虐史観」という妙な言葉を使う人たちは,このことには触れないようにしているようですね.
2010年8月2日月曜日
ハリマオ
「海洋史(観)」で,彷徨を続けています.
手当たり次第によんでいますが,いまひとつピンとこないですね.
そこで手をだしたのが,「ハリマオ」.
もちろん,これはこれで,おもしろい話題なんですが,背景のほうが重要.
谷一家のように,「マレーにいって一旗」あげようというような人たちが,普通にいたことです.
わたし自身は,いちど居ついたら,まず腰をあげないタイプなので,日本人にも,海外で「一旗」という人たちが,けっこう居たことが,実感できないのです.しかし,子供のころみたTVドラマが,(その背景に)そういう人たちが居たことを証明しているわけです.
もちろん,TVドラマの「ハリマオ」は子供だまし(荒唐無稽に近いもの)ですが,子供のころみたものは,なんとも,否定しがたい((^^;).
現在,そのDVDが販売されているようですので,ついでに,紹介しておきましょう.
いかが?
そういえば,むかしカラオケでよく歌った「石狩挽歌」の歌詞.
「沖を通るは笠戸丸」の笠戸丸は,ブラジル移民で有名な船ですね.
わたしの親父は,戦争中,軍属として北支にいました.青春を過ごした北支が懐かしいのか,死ぬ数年前に北支に旅行に行きました.親父の子供のころは,そういうのが当たり前だった時代なんでしょうね.
わたしの子供のころは,海外で生活するなんて,考えられない時代だった.
なにせ,一ドル=360円の時代ですからね.
これが外に出たいと思わない理由なのかな.
してみると,海外を彷徨するなんてのは,じつは普通にやってたことなのかもね.
2010年7月23日金曜日
「文明の海洋史観」
がっかりしました.
「文明の海洋史観」,「おや?なにかあるのかな」と思ったのは,「序」だけで,あとは「なにやらよくわからない」(-_-;
購入前には,海洋史観で歴史を解き直しているのか,と思ったのですが,どうもそうではない.
で,まあ表題をよく見直すと,そこには「文明の海洋史」ではなく,「文明の海洋史観」とありました.確かにウソではない.(^^;
子供のころ,「ナントか占い入門」という本を入手して読みました.しかしその本には,始めから最後まで「ご託」が並べてあるだけで,その「ナントか占い」のノウハウどころか,購入者であるわたしの運勢すらわかるようにはなっていなかった(当たっているとか,当たっていないではなく,「運勢」そのものがかいてない).なにが「入門」なのかすら,わからなかった記憶があります.
ま,そこまでひどくはないですが,「海洋史」がほとんどなくて,とにかく「ご託」の多い本でした.
「序」に感激したことは伝えましたけど,「起之章」は,概論みたいなものかと思ったら,そうではなくて,どうやら,これがこの本の「海洋史」のすべてらしい.
「承之章」は,がまんして読みましたけど,ひじょうにケツのすわりが悪い.これはそもそもいらない.
そもそも,今時,東京学派(東大アカデミズム)とか,京都学派ってなんのことって感じ.すでに大学といえば,東京帝国大学・京都分校とか,東京帝国大学・北海道分校しか,ないんじゃあないの?と,外にいる人間にはそうとしか思えないのでね(みんな,おんなじことをいっている=これを「パラダイム」という).
「転之章」には「文明の海洋史観」という題があたえられてますが,ここでもやはり,「海洋史」ではなくて「海洋史観」でした.
ポロリ,ポロリ,と「海洋史」がでてきますが,“わたし”の「史観」としてとりこめるような話ではなかったです.こうなったら,とびとびにでてくる(引用されてるじゃあないです.本の題名がでてくるだけ)本の題名をひろって,ぜんぶ読むしかないようです.
海洋史のモデルがどういうふうに事実や,論文と関連をもつのかがわからない.わたしのような歴史の素人が読む本ではなくて,歴史をすべて頭にたたき込んでいる人(=学者)が,海洋史観で整理しなおすための本なのかもしれない.
「結之章 二十一世紀日本の国土構想」は,なんとなくわかりますけど,すでに二十一世紀に入った現在,ずれはじめている部分があるように見えます.
理論はペーパーにしたとたん,現実とズレはじめるようです.著者はマルクス主義をこき下ろしてますけど,二の舞になるんじゃあないでしょかね.
いや,ならないか.
マルクスはあとで検証されてしまうようなことをかいてますけど,「海洋史観」というのがなんであるか明確にかいていない以上,検証のしようもないというところですかね.
「ダーウィンの「種の起源」が,なにが書いてあるのかわからなくて,解説書を読まなければわからないほどだったので,延々といまでも生き延びている」という皮肉をいう人がありますが,けっこう真実(^^;.
なんども挑戦してますけど,けっこういい睡眠薬です(^^;.
明確に述べてしまうと,矛盾を突くのはたやすいですが, 本質を隠したままだと,反論も難しいですからね.
ライエルの「地質学原理」もこの手の本だとか….
正直なところ,期待が大きかっただけに,ガッカリです.
しかし,「モデル論」はおもしろいので,これに添った話をしている人を探しますか.あるのかな?
まだ当分,彷徨は続く…(やっぱ,歴史はウソばかりなのかなあ…).
2010年7月13日火曜日
「世界史の中の石見銀山」+α
解決方法が一つ見つかったような気がします.
それは,江戸時代の鉱山用語,とくに石見銀山で使われていた言葉にポルトガル語由来のものがあるかどうかですね.
調べてみようかと思ったんですが,これからポルトガル語をやるものもね.
脳細胞にもう余裕がないです.(^^;
どなたか,やってみませんか?
2010年7月12日月曜日
「世界史の中の石見銀山」
ひさびさの,鉱山史ネタです(ちょっと違うけど).
「世界史の中の石見銀山」(豊田有恒;祥伝社)という本が出ています.
記述されている「事実」に関しては,目新しいものはなにもありません.
この本の目的は石見銀山でもちいられた高度な鉱山技術と日本に大量に移入している「ポルトガル語」を結びつけ,当時の世界情勢から多くのポルトガル人が日本に帰化したであろうことを推定しているものです.
したがって,鉱山史的な情報が書かれていると思うと,がっかりする.
ポルトガル人の「高度な鉱山技術」の一端でも書かれていれば,それで,私は十分満足だったんですが…(残念).
序章「石見銀山は,今」
ま,「序」ですね.
第一章「金銀王国ジパング」は,石見銀山を中心とした日本の鉱山の歴史が略述されています.
目新しいものは,何一つありません.皆,一度は眼にしたことのある史実の継ぎ合わせです.
豊田有恒氏をして,これだけの情報しかないんですから,たぶん,これしかないんでしょう.日本には,鉱山史とか,鉱山技術史を調べてる学者はいないんでしょうかね.
ま,ある意味,「これだけなんだ」と安心しましたけどね.
第二章「日本と世界の大航海時代」は,背景となった世界史の略述.
視点が面白いので,思わず,世界史の勉強をやり直したくなりました.
世界史図録を横に置きながら,何度も読み返しました.
第三章「なぜ日本の外来語にはポルトガル語に由来する単語が多いのか」
ここが,この本のメインパートですね.こちらは,日本史の略述.
第四章「石見銀山を支配した謎の豪商・神屋家」
ここは,一番興味があるところですが,雑学は多いけれども,肝心の「神屋」家の実態については,何一つ目新しいことはありません.というよりは,ほとんどわからないということが書かれているだけです.
残念.
終章「石見銀山とポルトガル」は,なにが言いたいのかよくわかりません.
総じて,どの部分も,引用が明示されていず,巻末に「参考文献」が羅列されているだけです.
どの部分も,裏付けが明示されてないので,ただのSFですといわれても仕方がないです.もともと,豊田氏はSF作家ですしね.
歴史には「ウソ」が多いことは,実際に自分で原著に近い文献を調べてみるとしばしば体験できます.それ経験すると,引用が明示されていない話は,確認・検証ができないので,眉唾で聞くしかなくなります.
たぶん,歴史の定説というのは,最初は大家が「私はこう思う」から始まってしまっているのでしょう.
でも,それを覆すのに,おなじ様な「私はこう思う」では,誰も受け入れてくれません.状況証拠だけではどうにもならない,たくさんの証拠と水も漏らさぬ論理の構造が必要.後発は,けっこうつらい宿命を負っているものです(ここは一般論).
もっとも,ポルトガル人のDNAが“日本民族”に蓄積されていようが,いまいが,今のところ,私にはあまり興味がないですが….
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