2010年8月31日火曜日
“幻”の対馬銀山
いわゆる“対馬銀山”は日本最古の銀山といわれ,八世紀から十三世紀にかけて,日本でほとんど唯一の産銀地とされています(十三世紀以後は,その始まりははっきりしませんが,石見銀山が加わるとされています).
現在追求中の「海洋史観」の初期には,対馬から産した銀が朝鮮半島との交易において重要な位置を占めていることが示されています.しかし,「対馬銀山」とは,どのようなものだったのかとなると,ほとんどはっきりしません.
それで,あちこち調べると,ますます混乱してゆく一方なのですが,このブログは,調査の「メモ書き」のつもりですから,とりあえず,どの程度混乱しているのかを示しておきたいと思います.
●名称
いわゆる“対馬銀山”と,書きましたが,「対馬銀山」という言葉には,なにか実態があるわけではありません.歴史資料に「対馬銀山」という言葉が出ているものはないようです(「ないようです」というのは,わたしは歴史の専門家ではありませんので,知りうる範囲はごく狭いですし,お宝のような史料には,もちろんアクセスできる権利がない:歴史のほとんどは,公開されていない史料から成り立っているのです).
誰が,最初に「対馬銀山」という言葉を使ったのかも,不明です.
平林(1914)は「佐須鉱山は対馬国下県郡佐須村字樫根にあり.本邦に於ける銀の最初の発見地である.」としています.続けて,「即ち,旧記に載する所の天武天皇白鳳三年(西暦六百七十五年)於対馬国佐須山得銀云々とは,此山であつて往昔に専ら銀鉛鉱のみを採掘したるものである.」とあります.
この言葉が正しいとすれば,“対馬銀山”は,本来「佐須銀山」と呼ばれるべきものです(ちなみに,いっぱんに「石見銀山」と呼ばれているものは,正式には「大森銀山」が正しいようですね.石見国にあるから“石見銀山”,対馬国にあるから“対馬銀山”というようなセンスです.もちろんこれでは,ひとつの「国」に銀山が二つ以上あったら混乱を招くことになりますね.実際,石見銀山には混乱があります).
なお,「対馬国下県郡佐須村字樫根」とは,現在の「長崎県対馬市厳原(いずはら)町樫根(かしね)」にあたります.また,「旧記」というのはなんであるかの記述はありません.
また,上原(1959)によれば,「佐須鉱山,安田鉱山などその一部が銀山あるいは銀・鉛鉱山として個々に小規模に稼行された」とあります.
1941(昭和十六)年,東邦亜鉛株式会社が「対州鉱山」を買収,鉱山の運営をはじめますが,この頃には,付近の鉱山は「対州鉱山」として統合されたようです.そうすると,「対州銀山」という名前も候補に挙がりますが,“旧記”にかかれた鉱山が「対州鉱山」のように統合されたものに匹敵するのかというと,問題ありです.
なお,上原は「対州鉱山」を三つの鉱帯(東部・中央・西部:どうでもいいですが,「東部」・「西部」なら,「中央」ではなく「中央部」でしょうね.なぜわざわざアンバランスな命名をするのか,わかりかねます)に分け,その各々に,いくつかの「ヒ(金偏に通;以下おなじ)」(鉱脈)を割り当てており,「中央鉱帯」には「佐須[ヒ]」・「安田[ヒ]」の名前もあります.したがって,“旧記”にかかれた“銀山(銀坑)”とは,「佐須[ヒ]」のことである可能性が高いです.
しかし,実態はまったく不明ですが,開坑年代の不詳な“間歩”もたくさんあるようで,「間違いなく佐須[ヒ]のことをいっている」と断言することはできないようです.
平林武(1914)本邦に於ける銀鑛の鑛床に就き(承前).地質学雑誌, 21(244): 12-36.
上原幸雄(1959)対州鉱山の地質鉱床とその探鉱について.鉱山地質,9(37): 265-275.
●地質
対州鉱山(というよりは)“南部対馬島”(一時期は「下県郡」と呼ばれたこともあるようです)の地質図は,いくつか公表されていて,それらによれば,古第三系とされる対州層群(砂岩・頁岩およびその互層)と,これを貫く花崗岩が分布し,花崗岩から分岐したと思われる石英斑岩や玢岩が,岩床状あるいは岩脈状に分布しているといいます.
これらの貫入岩類には,著しく変質したものと,そうでないものがあり,鉱脈とされるものは,この著しく変質した貫入岩類に関係があるようです.
ただし,この石英斑岩や玢岩の一部は発泡し,熔岩状に見えるものもあるという記載があります.そうすると,これらの火成岩は対州層群の堆積時に同時的に活動した可能性もあります.
二つの解釈は,花崗岩との関係(対州層群は花崗岩の貫入により,ホルンフェルス化しているとされる)で,矛盾を生じますが,貫入岩類には,堆積とほぼ同時期のものと,花崗岩の貫入にともなう二系統があるのかもしれません.
なお,上原(1959)は「いずれの[ヒ]も地表における露頭はほとんどな」いとしており,史上最初の鉱脈の発見はいかなる経緯によるものなのか,興味深いところがあります.
●鉱床および鉱脈
鉱床および鉱脈については,上原(1959)が精密に分類していますので,それを参照してください.ここでは省略します.なお,各[ヒ]の主要構成鉱物は方鉛鉱を主体に閃亜鉛鉱を伴い,わずかに磁硫鉄鉱を随伴するのが主で,閃亜鉛鉱主体の場合も[ヒ]によってはあるようです.
「銀」については,記載がありません.
なお,ネット上では,「対馬銀山」は「黒鉱」であるという情報が流れていますが,上記「地質」の状況からは,「黒鉱」である可能性はありません.
対馬北部の地質を考えても,黒鉱の鉱山の存在は考えられません.
これらの誤情報は,某ネット百科事典から流出しているもののようで,それには,「黒鉱」と書いてあります.なお,このネット百科事典の記述は,某百科事典を引用していますが,百科事典を引用文献とするのは奇妙なことで,百科事典の編集者が地質や鉱床の研究をしているわけはなく,百科事典自体がなにかの研究を引用しているはずです.ここでは,その詳細はわからないので「名称」のところで,定義にこだわったわけです.
●銀もしくは鉱石
残念ながら,対州鉱山で採取される鉱石がどのようなものなのか記載したものは,ほとんどありません.
たった一つ,みつかったのが,平林(1914)に示された鉱石の分析値です.これは,平林が1910(明治四十三)年に調査したときのものとされています.
鉱程 金 銀 鉛 亜鉛
笊揚鉛鉱 0 0.2207 76.10 ―.―
同亜鉛鉱 0 0.0208 ―.― 49.70
手選塊亜鉛鉱 0 0.0062 ―.― 48.60
ただし,これは,一般的な鉱石の分析値とか,高品位な鉱石と思われるものの分析値とかではなく,選鉱課程のいくつかの鉱石について,金・銀・鉛・亜鉛の値を示したものに過ぎません.単位は示されていませんが,たぶん重量%と思われます.したがって,どのような意味を持つのかということは一概には言えません.
全鉱山中で,この鉱石が「銀」の含有量が多いのか,少ないのか,普通なのかといったことすらわかりませんが,いえることは,この鉱石の「銀」の含有量は驚くほど少ないのではないでしょうかと.
要するに,「銀山の鉱石」とは言いがたいのではないかと言うことですね.
これが,この鉱床の一般的な含有量だとすれば,同鉱床で「自然銀」があったとは考えにくいのではないでしょうかね.そもそも,このタイプの鉱床に「自然銀」が産出することがあるのかどうかは,鉱床学の専門家に聞いてみなければわからないですし,残念なことに,こういう具体的なことに触れた鉱床学の教科書も見あたらないもので,なんともいえません.
一般的には,「銀」と「鉛」は親密性があり,方鉛鉱にはしばしば,銀が含まれています.これを「貴鉛」と呼ぶことがあるそうですが,先ほどの平林(1914)には,興味深い記述があります.
「当山に於て所謂る[ヒ]筋と称せるものは真実此断層に伴へる粘土を指せるものにして,採鉱は専ら此粘土を追へるものなり.此鉱床は元来方鉛鉱を目的として採鉱されしものにして,現在見られ得べきものは其抜掘跡なりとす.故に鉱石の大部分は閃亜鉛鉱にして,稍々多量の磁鉄鉱及び少量の方鉛鉱を見るのみなるも,若し今後地下深所に及び古人の未着手なる部分に達せば,方鉛鉱の量は恐らく稍々多量に出づへきものなるべしと考ヘらる.」
当時,残存していた粘土脈には,古人が銀採取のために,選択的に「方鉛鉱」を抜き取った形跡があり,閃亜鉛鉱が残されているようだということですね.つまるところ,“古人”は,方鉛鉱に,少ないながらも「銀」が含まれていることは承知していたのかもしれません.
・銀の産出量
いくつかの記述には,“対馬銀山”の産出量とおぼしき記述があります.
それは,(書き方があいまいなので,「たぶん」でしかないのですが)「延喜式」に“税金”として「1200両を納める」とあるらしいです.これは,自動的に「1200両/年」と解釈されています.もうひとつ,「對馬國貢銀記」にも「1200両」という記述があり,これもその裏付けとして扱われています.
「對馬國貢銀記」のその部分を見ると,「満千二百両以為年輸」とあります.これだけですと,「1200両を一区切りとして,一年間の仕事とし,(国に)納めた」という意味かと解釈することが可能かとも思われます.じつはそのあとの文が問題で,(現代文訳は困難なのですが)「その一区切りが終わったからといって終わりにはできない.坑道を放置すれば,雨水が坑道に満ちてしまうからである」と書いてあるようです.
してみると,1200両分の銀が確保できたとしても,鉱山としての業務は続けていたとするべきなのでしょうか.ただし,じゃあ「更に銀を掘っていた」ということも,たんに「排水作業のみを行っていた」とも解釈できるので,断定はできないですね.
そう,1200両というのが、何を意味しているのかは依然と問題なわけです.
・銀の価値
対馬が国に納める銀の量は年間1200両と決められており,これは,我妻(1975)によれば,以下のように判断されています.
当時の「両」には,「大両」と「小両」があり,どちらをとるかで換算量が異なります.“旧記”の「両」がいずれに当たるのかは不明なのですが,1200両は,現在の重さに換算すると大両ならば45kg,小両ならば15kgになるそうです.
現在,銀の相場は,2010.08.30現在で1gあたり¥53前後なので,¥2,385,000もしくは¥795,000程度になります.これは,“対馬銀山”に関する記録では,対馬銀山が産出した銀の量として,しばしば記述されているものです.しかし,現在の度量・価値に換算すると驚くほど少ないという感じですね.
しかも,これは天皇に収めた銀の量だけしか表していませんので,“対馬銀山”総体では,どのくらいの量の銀を産出したのかという話にはならないわけです.
“対馬銀山”が産出した銀の量は「不明」ということです.
ただし,一般人について,当時の「銀」にはどういう価値があったのかということを考えると,一般人は「そんなものは持っていてもしょうがない」というのが常識的なところかと思います.(当時の社会体制・経済機構は,わたしにはわかりませんが,)銀は対朝鮮半島,対中国の貿易についてのみ意味があって,個人にはあまり意味がなかったのじゃあないかと思います(こういうことを解説している歴史書はないもんでしょうかね).
そうすると,“対馬銀山”の銀産出量は1,200両/年以外のものはなかったと考えるのが妥当ということになります.
一方で,産出量の半分を天皇に召し上げられていたとすれば,2,400両/年となり,1/10を召し上げられていたとすれば,12,000両/年となります.
いずれにしても,わからないことだらけということなんですが…(歴史は,こういうあいまいなことで成り立っているのですから,怖いですね).
我妻 潔(1975)「対馬国貢銀記とその製錬法」(日本鉱業会誌,91(1051): pp.不詳:日本鉱業会誌は公開されていないですが,カマサイ氏のHP「冶金の曙」(番外編>銀製錬事始>★「対馬国貢銀記とその製錬法」)に一部が転記されています(わたしにとっては,虎の巻のようなありがたいHPです).
●幻の金山
日本学士院編「明治前日本鉱業技術発達史」によれば,「続日本紀」による記述とことわったうえで,以下の記述があります.
「天皇の五年三月に,さきに対馬に派遣した三田首五瀬から金が献上された.天皇は大いにこれを賞賛し…(中略)…賞与をあたえた.そして,天皇はこの対馬からの献金を記念して年号を大宝と改元し,天皇の五年をもって大宝元年と定めた.」
つまり,対馬に金山があったという記述です.
しかし,これは,三田首五瀬(みたのおびいつせ)の起こした詐欺事件であったとも書かれています.
対馬国から最初に銀が献上されたのが,674(白鳳三)年とされていますから,「銀があるんだったら,金があってもいいだろう」ぐらいの感覚で派遣されたのでしょうけど,まんまと引っかかったものです.
しかし,その献上された「金」はどこから産出したものなのでしょうね.
この金山詐欺事件のことを知ったときには,先ほどの「銀の産出量」のことも絡めると,いっしゅん「銀山」も詐称ではないかと疑ってしまいました.
歴史には,わからないことがたくさんあります.
わからないことがあるのはいいんですが,わからないことがあいまいなまま,いい加減な情報が一人歩きして,歴史が構成されているというのは…,どうもね.
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿