2008年9月27日土曜日

「大千軒岳とキリシタン」より

橋本誠二著「あの頃の山登り」の中に,「蝦夷地質学・外伝」に若干関係ある記述があったので,紹介します. 「大千軒岳とキリシタン」より  本文を引用すると長くなるので,抄訳.  橋本氏は,大千軒岳金山の存在に,疑問を持っているようです.  その理由は,次のようなものです.  第一に記録に残っている砂金の大きさから,それは古生層中の石英脈に産を発していると推定しています.そうすると,砂鉱床の起源は第三系の基底=不整合面に濃集したものと考えることができます.これは,砂金が産出したといわれている地域が大千軒岳の山体の高高度の地域にあることと整合的です.  次に,金山の発掘の様子を記録したキリシタン神父の記述からは,段丘堆積物ではなく,現河床堆積物を掘っていたらしいので,金鉱床が地表に現れてからさほど時間が経っていないと推測できます.  そうすると,巨大な金鉱床というのは考え難く,記録にある程の大人数で長期間掘ったというのは,おかしいということになります.  橋本氏は,当時の地質調査所のS博士の談を引用しています. 「まったく訳の判らぬ金山ですね.大体明治以降一粒の砂金も出ないのもいっそう不思議です」 (これは,正確ではなく,明治八年のH. S. モンローによる「北海道金田地方報文」によれば,「一粒の砂金」もでなかったのではなく,砂金は出るが,起業出来るほどではないという報告でした.)  橋本氏は,この矛盾を説明するには,金は日高静内からもってきたもので,大千軒岳麓に住んでいたキリシタンたちは,海外との密貿易要員だったのではなかったのかと推理しています.  江戸幕府のキリシタン弾圧の強化に耐えきれなくなった松前藩は,キリシタンの粛正に走り,106名を惨殺しました.が,おかしなことに,千軒もの小屋と五万人以上もいたというキリシタンのその後がどうなったのか,全く判りません.  大金山は元々虚構だったのだと考えると,腑に落ちるという訳です.  一考の余地はありそうです.  

2008年9月26日金曜日

橋本誠二名誉教授

蝦夷地質学(後編)のワンピース

 ぼちぼちと,蝦夷地質学(後編)の資料を集めています.
 先日,橋本誠二教授のエッセイ集を入手しました.没後,登山仲間が残されていた原稿を整理したものだといいます.
 私は橋本誠二教授とは,ほとんど面識がないので,どういう人だったのかは,まったく知りません.当時の大学院生の評価は,どうもあまり芳しいものではなかったような気がします.わかっているのは,いくつか日高山脈関係の論文に名前があるのと,北大教養部の教授をしていたことぐらいです.
 舟橋三男先生との共著論文があるので,それを手配した所です(私には,岩石の論文は,ほとんどチンプンカンプンなのですが…(^^;).

 橋本誠二(2002)「あの頃の山登り=北海道の山と人=」(茗溪堂)

 ザッと目を通してみましたが,登山に関することばかりでした.たまに本業の「地質学」に関することが挟まっているという感じでしょうか.本人も,登山がしたいばかりに北大に入って,登山がしたいばかりに地質学を始めたというようなことを書いています.
 実は,湊正雄先生が若い頃に巻き込まれたという,「上ホロカメツトク山」での雪崩事件について,何か書いてないかというのが,入手の当初のきっかけでした.こちらは,数行書いてありましたが,参考になるようなものではありませんでした(別途,資料が身近な所にあることがわかったので,これから調べに行く予定).

 それでも,いくつか気になる記述があるので,読み込んでみようと思います.

橋本誠二
1918(大正7)年1月19日〜1995(平成7)年6月5日
札幌に生まれる.札幌第一中学校に入学,登山を始める.
1936(昭和11)年04月;北海道帝国大学予科入学.山岳部入部.
1941(昭和16)年12月;同大学理学部地質学鉱物学科卒業.日本山岳会入会.
1947(昭和22)年02月;同大学,予科教授.
1955(昭和30)年;日本山岳会,第三次マナスル登山隊,先遣隊
1957(昭和32)年 04月;北海道大学理学部教授
1960(昭和35)年;アラスカ,メンデンホール氷河調査隊
1974(昭和49)年;秩父宮記念学術賞受賞(ヒマラヤ山地の地質研究)
1981(昭和56)年04月;北海道大学名誉教授
1984(昭和59)年06月〜1990(平成2)年5月;日本山岳会北海道支部長
1991(平成3)年05月;勲二等瑞宝章授章
1992(平成4)年;日本山岳会名誉会員
1995(平成7)年06月05日:逝去

         「あの頃の山登り」奥付より

2008年9月20日土曜日

「石井次郎教授追悼論文集」より

 東海大教授だった石井次郎氏は,1992年3月に定年退職した.その直後の4月1日に,心不全で死去されている.
 一年後,たくさんの関係者が集まり,「石井次郎教授追悼論文集」を発行した.
 その論文集の第三部には,石井教授の「思い出」が多数寄稿されている.


 1970年代の終わりから,積極的にプレート・テクトニクスによる日高変成帯の研究を展開してきたM氏は,その思い出を語っている.
 M氏が,北大理学部地質学鉱物学教室で研究生活をやっていたころの話である.

 M氏は指導教官と折り合いがわるく,博士論文提出後もオーバー・ドクターとして長い間研究職に就けない時期があった.そんなM氏に石井教授は「くじけないで,頑張ってくれ」と常に温かい言葉をかけ続けたのだという.

 少し関係を整理しておこう.
 石井さんは東海大学海洋学部の教授で札幌校に勤務していた.M氏は北海道大学理学部地質学鉱物学教室に籍を置くOD.両者の関係は薄い.わずかなつながりは,石井さんが北大教養部の非常勤講師(地学I担当)を併任していたということだけである.

 M氏はその後,石井教授のすすめで,東海大の海洋調査船に乗り,重大な発見をすることになる.


 少し脇道にそれる.
 石井さんがM氏に向けた気持ちは特別なものではない.石井さんは常に,若い研究者に対して,温かい気持ちをもって接していた.「思い出」の中には,いくつかそれが示されている.

 A氏も,博士号取得後,何年も就職が決まらずに,所属先を失うという最悪の事態を迎えていた.石井さんは,それまで全く面識がないにも関わらず,苦境を説明するA氏に「それは大変だな.ここの研究生になるか.」の二言で,救ってくれたのだという.三年後,A氏はS大学に就職が決まる.A氏は石井研究室を「駆け込み寺」と呼んでいる.

 T氏は,期限内に博士論文を提出することができず,研究生としての受け入れ先も見つからないという危機的状況にあった.石井さんは,またしても,T氏を研究生として受け入れる.T氏は「なぜ私が東海大学の研究生にならねばならないのか,といったことを全く気にもかけておられないことに,正直言って驚いた.」と書いている.
 石井さんは,充分にわかっていたのだと思う.当時の北大の大学院生たちの状況を.そして,若き研究者達の将来を気に留めていたのだろう.
 T氏は,現在,T大学に奉職している.

 かくいう私も,石井さんのお世話になりかけたことがあった.
 研究材料が集まらないのに,時間だけが過ぎて行き,「このままでは…」という状況のときだった.石井さんが,海洋調査船で収集した粘土鉱物を集めたミリポアフィルターを提供してくださったのだ.もしかしたら,その中に私が研究していた「石灰質超微プランクトン」が混じっているかもしれない,というのだった.
 結果は,僅かに「石灰質超微プランクトン」の産出がが認められた.しかし,残念ながら,論文として成立するような産出量ではなかった.採集地がかなり北洋だったためである.石井さんは我が事のように残念がっていた.






石灰質超微化石Braarudosphaera bigelowiのコッコスフェア(これは石井資料産ではなく,瀬棚層産の化石)石井資料からは現生のB. bigelowiのコッコスフェアが産出した.


 その関係で,指導教官から「船に乗りますか?」と聞かれたが,「地質屋は地表を歩くもので,船に乗るものではない」などと私は考えていたので,この話は具体化はしなかった.
 今考えれば,あのとき石井さんのお世話になっていれば,今こんなヤクザなことはやっていなかったかもしれない((^^;).


 話をM氏に戻そう.
 M氏が,石井さんの態度を怪訝におもうのは当然である.
 石井さんは,舟橋三男・湊 正雄両先生を尊敬しており,この舟橋・湊両先生は,ともに「地向斜造山運動論」の旗手であったのだ.その石井さんが,プレート・テクトニクス論を展開しているM氏に親切な言葉をかける….

 「当時の北大地鉱教室には,戦後の地質学において一時代を画した舟橋・湊両先生などが活躍していた最後の頃でした.その頃,プレート・テクトニクスが急速に台頭してきましたが,断固として地向斜造山論の旗を守っていました.」(M氏の追悼文より)

 石井さんは,元々,物理学が専門で応用電気研究所の助手をしておられた.学生時代は,ニセコ山頂で「零戦着氷防止」の戦時研究(中谷宇吉郎研究室)の手伝いをなさったこともあるそうだ.
 石井さんは,応用電気研究所・助手の席を蹴って地質学の路を選ぶ.山岳部の先輩でもあった湊先生が,熱く「地球の謎」について語る姿に憧れていたためだ.北大地鉱教室の大学院生となり,定時制高校の教員をしながらの研究生活であった.
 鈴木醇教授に連れられ,日高のクロム鉱山をまわる.
 湊正雄教授の指導下,幾春別に入る.桂沢ダムの建設に伴う水没予定地のアンモナイト層序学をおこなう.この時の標本は北大博物館に展示されているはずだ.
 十勝国上厚内産のデスモスチルス類の産出層準を決める研究を行う.定時制高校の教員というアルバイトのため,フィールドワークに夏休み中の一ヶ月という時間しかとれず,タイムリミットを悟り,石狩段丘の粘土層に関する研究に切り替える.以後,粘土鉱物の研究が発展し,「北海道第四紀火山噴出物の風化過程」で博士論文提出.北大理学部助教授を経て,北大水産学部製造学科海洋化学講座の助教授に.1968年,東海大学・札幌校に海洋学部が開設され,その教授となる.翌年から,北大教養部で非常勤講師も兼任し,このころM氏を含む若き研究者達と懇意になる.

 石井さんは,すでに応用電気研究所に職を持っていたのにもかかわらず,身につけていた物理学を捨て,地鉱教室・層位古生物学講座の湊教授の元で古生物学をやるという.1950年,石井さん27歳の春だった.苦労して博士号を取得したが職はなかった.湊教授の尽力で北大水産学部に職を得るが,ある事件が起き職を辞することを強要される.
 (石井さんが,経済的に苦労しながら研究生活を続ける若者たちを放っておけない所以である.)
 石井さんにかかわるたくさんの人たちが動き,たくさんの葛藤があり,そして,幸いなことに,石井さんは東海大学・海洋学部に職を得た.そして石井さんは,石井さんが大好きな若者たちと,ともに学び,ともに遊び,そして多くの研究者達を輩出していった.(この部分,八木健三さんの追悼文から抄訳した)


 何年前になるだろうか,科学史家と称する連中が,「地向斜造山運動論」から「プレート・テクトニクス」への転換を「善悪二元論」で展開し,この“パラダイムの転換”を「錬金術師にも等しい地質学者」に対する「真の科学である地球科学者」の勝利であるとした.私には,とてもそんな単純なことであるとはおもえない.

 

2008年9月15日月曜日

パーラートーエー(旭川)の広告(II)




 この広告担当者は本当にすごい人のようです.
 今日の広告の隅にあった「日本ってこんな国だったんだ!」シリーズです.

 ここに出ている本は「高田屋顕彰館・歴史文化資料館」のミュージアムショップでのみ扱っているオリジナルな本です.普通の本の流通ルートには乗っていません.つまり,この「顕彰館」の存在を知っていないと,判らない本なのです.

 ゴロヴニンの「日本幽囚記」は岩波文庫でも出てますが,このところヅーッと品切れ(本屋の「品切れ」は,意味がよくわからない言葉ですが)状態.購入不可の状態が続いています.

 この人は本当に歴史が好きなんですね.

 

2008年9月14日日曜日

蝦夷の古代史

 いくつか理由があって,北海道の古代史について知識を仕入れようと,かなり頑張ったのですが,判らないということが判りました((^^;).

 まず,北海道の古代史が本州の古代史とは異なる道筋を通ってきたことは明らかです.少なくとも江戸末期から明治初期に「日本」に組み込まれるまでは….じゃあ,どこまで遡れるのかということで,関連の資料を集めてみました.
 例えば,工藤雅樹さんの一連の「古代蝦夷」に関する著述,海保嶺夫さんの一連の「近世蝦夷地成立」に関する著述,関連して高橋崇さんの一連の「東北古代史」など.ほかにも類書はたくさんあるようですが,この御三方の著述が系統的で判り易いかと(若干,私には理系と文系の壁があるようにも感じられますけど).

 これらを読んでいるうちに気づくことは,「日本の歴史」のほとんど大部分は判っていないんだなあということです.「北海道」と「西日本」の歴史が大きく異なることは,誰でも納得することと思いますが,間に挟まる「関東~東北」日本の歴史は「西日本」の歴史に収斂するかどうかは難しいところですね.この背後には「日本は一つ」幻想があり,これらはナショナリズムと固く結びついていますから,なかなかほぐし難いところがあるのだと思います.
 むしろ,「沖縄の歴史」を持ってきて,日本には少なくとも「四つの地方史」があるとした方が,受け入れられ易いかもしれません.
 以下,いくつかの疑問から羅列してみましょう.

●「縄文式土器」,「縄文文化」,「縄文時代」,この三つの言葉の違いを説明せよ.
 これができる人は少ないと思います.辞書なんかを見ると,「『縄文式土器』をもつのを『縄文文化』といい,その時代を『縄文時代』という」なんてことが平気で書かれていたりします.確かに,そうなんでしょうけど,これは「定義」ではありませんね.

 では,
●「縄文時代」と「弥生時代」の違いはなんでしょう.

●「縄文式土器」と「続縄文式土器」の違いは?
 北海道では,「弥生時代は無く,代わりに続縄文時代がある」なんてことが平気で書かれています.「語るに落ちる」で“本州の時代区分”は北海道とは合わないことを示しているのですが,上記設問にしたがって「縄文式土器」と「続縄文式土器」の違いを調べると,「特徴は連続していることが多く,厳密な区分はできない」なんてことが書かれています.区別ができないのに区別をするのは,いったいなんなんでしょう.
 重要なことは,“本州”で弥生(式)土器がでるころを北海道では「続縄文時代」ということらしいですね.これも,背後に「日本は一つ」幻想があることの現れなのでしょう.

●「弥生式土器」と「弥生土器」の違いはなんでしょう?
 「弥生」は「縄文」と違い,土器の形式ではありません.単に「弥生」という地名のとこから出た土器というのが元々の意味ですから,「弥生式土器」というのは存在しないのです.

では,
●「縄文式土器」と「弥生土器」の違いはなんでしょう?
ついでに,
●「弥生土器」と「弥生文化」と「弥生時代」の三つの言葉の違いはなんでしょう?
 弥生土器は土器の形式ではなく,弥生文化に伴う土器のことですから,多種多様なものがあります.縄文式土器のように「縄文」があるから「縄文式土器」というわけにはいかないのです.

 これらの混乱は,次の「古墳時代」になっても続きます.
 「古墳時代」には,日本全国に「古墳」があるとされています.この時代の「古墳分布図」を見ると,(北海道を除いて)なるほど全国に「古墳」があるように見えます.
 ところが,典型的な「古墳」があるのは,実は「西日本」だけのようにも見えます.最近はGoogle Earthなどという便利なものがありますので,実際に見てもらえれば判りますが,「西日本」の古墳と「東日本」の古墳では一個の大きさ,群としての数・密度,比べ物になりません.
 面白いことに,北海道にも古墳があるんですが,これは北海道の時代区分では「擦文時代」に当たります.困ったことに,「擦文時代」は「西日本」ではすでに古墳時代が終わってしまったあとになり,すでに平安時代を迎えています.

 「…文化」を「…時代」に置き換えるのは大変危険なことなのだと思いますが,「日本は一つ」幻想に便利なせいか,個々の遺跡の「時代」が総合的に判定されることは,まだまだ少ないようです.

 最近,C14法などを駆使して測定すると,求められた年代が予想外に古く,縄文時代,弥生時代の開始の下限がぐっと下げられたようです.それはそれで,大陸の遺跡との対比はどうなるのかという問題を生んでいますが,それよりも,時代の分解能が上がったせいで,当然のごとく,各地での弥生文化の始まりが不揃いになり,「弥生時代」の始まりをどうするかという議論がやっと出ているようです.

 で,調べれば調べるほど,“日本”の歴史は判らなくなってくるのですが((^^;),実は,ヒントがあちこちに落ちていることに気づきました.
 例えば,高校の歴史参考書です.
 吉川弘文館「日本史年表・地図」の「縄文式文化」には「縄文式文化遺跡の分布」という図があるのですが,そこには縄文式土器には本州の東西では文化相の違いが見られることが示されています.
 「山川日本史総合図録」の「縄文文化〈I〉」には「縄文文化遺跡と貝塚の分布」という図があり,それは「(草創)・早・前期」・「中期」・「後・晩期」の三期に分けられており,「(草創)・早・前期」には北海道・本州・四国・九州に散発的に現れた縄文文化が,「中期」には関東地域に密集し,「後・晩期」になると東北地方へ,その中心が移動していく様子が見て取れます.
 つまり,精密な時間軸が設定できれば,どこかで新しい文化が発生し,発展して伝播して行く様子,消滅して行く様子を見ることができそうだということになりそうですね.逆に,現在の見方のように,団子状態にすると,当然,日本全土に縄文文化があったことになります.

 次の「弥生文化遺跡」では,「山川日本史総合図録」では「弥生文化〈I〉」に「弥生文化遺跡の分布」の図がありますが,これは弥生時代を一つにまとめているために北海道および本州最北端を「続縄文文化」としているほかは,すべて弥生文化で日本中が統一されているように見えます.
 吉川弘文館「日本史年表・地図」でも,「弥生式文化」の「弥生式文化遺跡の分布」では,一見すると,本州最北端(と北海道)を除き,弥生文化で統一されているように見えます.しかし,よく見ると,この図には時間による区分が取り入れられていて,前期には「西南日本」にしかなかった弥生文化が,中期になると「関東地域」に進入し,後期になると東北日本最北端を残しほぼ日本全域に広がった様子が見て取れます.
 弥生文化を示すもう一つの文化要素=青銅器ではもっと極端で,これらは,ほぼ西南日本のみにしか分布していません.

 つまるところ,「縄文-弥生」は時間軸の上下関係にあるだけでなく,(もちろん,「縄文」と「弥生」が同時に存在する時間もある上で)縄文は東日本,弥生は西日本という地域的な関係にもあるわけです(もちろん,沖縄地域はまた別な関係にある).したがって,日本全土を「縄文-弥生-古墳」という時代区分するのは「おかしい」ことになるのですが….

 この辺までは判ってきたのですが,「南日本(沖縄地域)」-「西日本(朝鮮半島影響下にある地域)」-「東日本(西日本と北日本双方の影響を受けている地域)」-「北日本(北海道)」の四つに分けた日本の古代の解説を見いだすことができません.ほとんどみなが「西日本」の歴史を「日本の歴史」として区分し,その時代に「その外の三つの地域」では何があったかは「西日本」との関わりで示される.そうでないところは,結局ほとんどがよくわからないということになりそうです.
 こういう認識をすると,「南日本」・「西日本」・「東日本」・「北日本」という名称自体にも問題がありそうですが,これ以上は…「北海道の歴史」を概観するついでに「日本の歴史」の概略を押さえておきたいというだけなのに,あまり深入りしてもしょうがないようです.

 

2008年9月12日金曜日

日高山脈・その名の起源

 日高山脈の研究は地質学者にとっては,長い間重要な研究テーマでした.
 ところが現在では,山をつくるメカニズム(=造山運動)などというものは存在せず,ただプレートの生成・消滅の過程でプレート同士がどういう位置関係にあるかだけで,海嶺ができたり,海溝ができたり,たまたま山脈ができたりするだけということになっています.つまるところ,現在では,山脈の研究は一級の研究テーマとは見なされていないことになります.
 洋の東西を問わず,天は神のもの,地は人のもの,その間にある高い山は魔のもの,として恐れられてきましたが,現代地球科学は山脈から魔物もたたき出してしまったようです.
 でも,実際に巨大な山脈に抱かれてみると,そこには,まだまだ魔物がいることを感じずにはいられません.地球の理論がわかっても山を征服したわけではないのです.


●神保小虎の提案
 さて,ものの起源が知りたければ,ググればよい時代ですが,「日高山脈」という名前を誰が付けたのかという話は,見たことがありません.
 「日高山脈」の名が最初に印刷物に登場したのは,1889(明治二十二)年1月25日のことです.当時,北海道庁の技師をしていた神保小虎(のちの東大教授)が,地学雑誌の第1巻第1号の「雑報」に「日高山脈」と題して以下の文を載せました.

 「北海道の圖を見れば,南の方エリモ崎より十勝岳に向ひたる眞直の山脉あり.之を日高山脉と假稱す.」
 以下,専門的な地質用語が頻出しますので(…中略…)しますが,外側に第三系があり,中軸には“太古層”が整然と帯状配列していることが書かれています.そして,最後に…
 「唯之のみに非らず.面白きヿ誠に多し.東京の地學研究者金槌を提げて来れ」
 とくくっています.

 この時代,実際に日高山脈に調査に入るのは,それこそ神保のように国のバックアップでもないと不可能だったので,そう簡単に地質屋たちが東京からハンマーをぶら下げて,やってきたとは思えませんね.その後どうなったか.それは現在調べている最中ですが,もちろん,本格的に「日高山脈」の研究が行われるのは,もっともっと後からのことになります.


●松浦武四郎の上申書
 では,ここで「日高山脈」と名付けられたその「日高」とは,一体なんだったのでしょうか.

 1869(明治二)年七月十七日.松浦武四郎が開拓使(この頃はまだ,「北海道開拓使」ではなく,「(蝦夷)開拓使」でした)に「蝦夷地道名之儀勘辨申上候書付」を提出しました.これは,渡辺隆「江戸明治の百名山を行く」(北海道出版企画センター)に示されているもので,通常は「道名の義につき意見書」と書かれていることが多いものです.
 実際に我々が見ることができるものでは,北大図書館の北方資料DBで公開されている「北海道々国郡名撰定上書」があります.なお,これ自体は市立函館図書館蔵書を昭和二年に写本したものとされていますので,表題(および内容も含めて)が元々と同じものなのかどうかは保証の限りではありません.

 ともかくも,この上申書の中で,武四郎は「蝦夷地」の新名称に,以下の六つの候補を順に挙げています.
 ・「日高見道」
 ・「北加伊道」
 ・「海北道」
 ・「海島道」
 ・「東北道」
 ・「千島道」

 一番最初にあげられているのは「日高見道」.
 この「日高見道」には,その名の由来が示されています.それは,「景行天皇二十七年春二月武内宿禰自東國還而奉言東夷之中有日高見國」(日本紀)というものです.砕いていうと,「景行天皇27年の2月に,武内宿禰が東国遠征から帰って『東の方に「日高見国」がある』と報告した」ということです.
 この「日高見国」が現在のどこに当たるのかは後でふれます.
 武四郎はもう一文を続けています.
 それは「三十二代崇峻帝四年八月狗襲発矣於狗襲有威人名曰雄猛狼也力當百人略當千人撃國人成王遂望日高見発兵撃陸奥陸奥重竹青為表練牛皮為裏合之造甲冑塗毒於矢先」というもの(ただし,この文字は私が写本から読み取ったものなので読み間違いがあるかもしれません).これもたぶん「日本紀」(=日本書紀)からの引用だと思われますが注記はありませんでした.どこかで読んだような記憶もあるのですが,何せ,最近は物覚えがわるくて((^^;).
 なんにしろ,武四郎は「日高見」が日本の古典に出ていることを強調しているわけです.

 一方,「北加伊道」以下の名称は武四郎オリジナルの発案によるもの.蛇足ですが,たぶん,武四郎はこの順に新名称を推薦したのだろうと思います.もしかしたら,我々は「北海道」ではなく「日高見道」に住んでいることになっていたかもしれないのですね.

 さらに蛇足すると,二番目の「北加伊道」の「加伊」は,武四郎によれば,熱田大神宮縁起に「夷人自らの國を加伊という」とあることを引用しています.武四郎は,今もアイヌは互いを「カイノー」と呼ぶとしています.いくつかアイヌ語関係の書物をあさって見ましたが,これはよくわかりません.ただ,知里むつみ・横山孝雄「アイヌ語会話イラスト辞典」(蝸牛社)には,「一人称(私,ボク,おれ)」を「kuani」としています.聞こえ方によっては,これが近いかなとは思いますが,その筆者は「普段の会話ではあまり使わない」としています.

 さて,これが「ほくかいどう」と読むのか「きたかいどう」と読むのかは判断できませんが,開拓使はこれを取り上げ,アイヌの土地を意味する「加伊」を「海」に換えてしまいました.そうすると,古くからある本州各地の呼び方「西海道」・「南海道」・「東海道」と非常に調和的な,大和的な名称に変わってしまったのです.
 これによって,武四郎は「北海道の名付け親」との肩書きを持つことになりますが,武四郎の真意からは「とんでもない改竄」と感じたのだろうと思うのは私だけでしょうか.結局,武四郎はこの後,開拓使を辞職し,蝦夷地には二度と足を踏み入れることはありませんでした.

●日高見国
 話を元に戻します.
 武四郎は,同上申書で「国名」についても提案しています.国名というのは判り難いかもしれませんが,その区分は,ほぼ現在の「支庁」に当たります.以下.
 ・渡島
 ・後志
 ・膽振
 ・日高
 ・石狩
 ・天塩(出塩・出穂)
 ・十勝(刀勝・利乳・尖乳)
 ・釧路(久摺・越路)
 ・根諸
 ・北見
 ・千島

 ここでも,「日高」が出てきます.武四郎はこの名前について「土地が南面していて,冬が早く明け,晴天が早くから続く」ことと,やはり「景行天皇二十七年春二月」の武内宿禰の報告を引用しています.ただし,こちらは引用が長く,前記に「其国人男女椎結文身為人勇悍是摠曰蝦夷亦土地沃壌而曠撃可取也」と続きます.
 この意味は,「その国の人は,男女とも髪を結び,入れ墨をしている.人となりは勇ましく猛々しい.これを総て蝦夷(えみし)と曰う.また,土地は肥沃であり,広大である.」となります.そして最後に「撃ちて,取るべし.」が付け加えられています.

 現代日本人の感覚では,「野蛮人の土地だけど,土地は肥沃で広大」だから「攻撃して,分捕ってしまえ」なんて,どっちが野蛮人だと思ってしまいますが,この当時では普通の感覚だったのかもしれません.もっとも,現代でも世界中の多くの国が同様のことを考え,同様の行動をしているようですが…(それらの国には,残念ながら「平和憲法」が無いのですね).

 さて,当時の「日高見国」はどこにあったのかというと,よくわかっていないようで,いまだに議論が続いているようです.武四郎は「常陸國または陸奥相馬郡」と記していますので,現在の茨城県と福島県から宮城県南部あたりなのでしょうか.
 宮城県石巻市桃生町太田拾貫壱番には,その名も「日高見神社」があり,その側を「北上川」が流れています.また,岩手県奥州市(2006年,水沢市・江刺市,胆沢郡前沢町・胆沢町・衣川村が合併して成立)水沢区字日高小路にも「日高神社」があり,もちろん水沢区にも「北上川」が流れています.
 そう,「北上(キタカミ)」は「日高見(ヒタカミ)」を語源としているようなのです.


●北上…>日高
 話を,グーッと元に戻しますと,日高山脈の語源は,「麓に日高国を抱く」こと.その「日高国」は,昔“まつろわざる”民がいた「日高見国」が語源.「日高」は北の地の山脈名になってしまいましたが,「日高見」は「北上」になってしまったらしいのですね.
 ちなみに武四郎は,アイヌはその昔,東北地方全域に住んでいましたが,大和政権の侵略によって最後は蝦夷ヶ島(=北海道)まで追いつめられてしまった,と考えていたようです.

 その昔,北上山地は「バリスカン造山運動」のかけらが残っている地域と考えられていました(私は,卒論でその一部の地質を明らかにすることを命じられていました).日本のバリスカン造山運動は「安倍族造山運動」と呼ばれていました.「安倍族」とは,東北地方に居を置く一族で,蝦夷だったのだろうともいわれています.
 同じ頃,日高山脈は「アルプス造山運動」の日本版と考えられていました(私はその麓にある博物館で,日高山脈がまだ海の底であったころに生きていた生物の化石の収集・研究・保存を仕事としていました).

 悲しいかな,「造山運動」という言葉は,現在では「死語」になっていて,地球の謎は「山脈」にあるのではなく,「海底」にあることになってしまいました.地表を歩いて調査する「地質屋」も絶滅し,高価な船や調査機器を使って海底に穴を掘る「地球科学者」に交代してしまいました.レリックもまだいるようですが….
 ハンマー一つで地球の謎に挑戦できる時代から,一部のエリートにしか肉薄できない学問になるのに平行して,地球の謎に挑む学問は市民の支持を失いつつあるようです.この(科学の)巨大化につれて市民の科学離れが起きるのは,ほかの科学の分野でも同じですね.もちろん,アマチュアの参加が許されないからです.

 そのうち地質学も,蝦夷の歴史と同じように,時間の狭間に埋もれてしまうかもしれません.蝦夷の歴史もまるで「化石」のように点々とヒントが残されているようで,昔地球の謎に挑んだ地質屋も「化石」を残してくれるでしょう.