2011年1月19日水曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.11 補遺「白糠炭山」pt. 2.
「「タキイシ」物語」には続けて,こうあります.
夫人足御料書
伝 次 郎
其方儀大黒町茂兵衛外壱人より入湯に罷越揚り場に脱有之衣類金子等盗取始末不届に付入墨鼓申付候
但入墨鼓候上蝦夷地クスリ領シラヌカ場所に石炭掘人夫として差遣す
坂田無宿 半四郎
其方儀無宿之儀を押隠し地蔵町新次郎身元請相頼み茶屋町茂兵衛方手伝中座敷に有之帯壱筋盗取地蔵町和平方月雇中同人倅喜一郎所持之莨入盗取其後右茂兵衛宅へ夜中立入金銭衣類等盗取始末不届に付入墨鼓中付候
但入墨鼓の上シラヌカ場所石炭掘為人足取遣す
白糠炭山では「採炭人」のほかアイヌが使役(「使役」ってなんでしょうね.強制労働?)されていたという記述がありますが,松浦竹四郎があったという,強制労働の無宿人についての送り状みたいなものですかね.
こういった,無宿人の他,家族・親戚から見放された放蕩人も奉行の判断で強制労働に就かされていたようです.その数二十数名とありますが,もちろんこれらは引用が示されていません.
最後に,産炭データから.
では白様ではどのくらい掘つたか、どうも不明である。ただ安政四年六月から翌年四月までの採炭高は五九九八石八斗であつたというが、私にはビンと来ない。では石炭の価格はどの位であつたか、自糠町史の記すところによると、「十六貫目俵百俵で約六頓に当るから、この当時の石炭代は一頓一両八分位にしかつかない」と、これに対し百俵掘取の人夫賃が二両一分余を要し、運賃が八両であつたから、さしたる利益もなかつたろうと思われる。賃金はというに栗原善八が一カ年三十両、益次と末吉は一日銀七匁、音松と清五郎は一日銀五匁だつたと、これも私にはビンと来ないことである。
数字はあがっていますが,その数字が意味するところのことを,歴史の専門家が「ピンとこない」といってます.わたしのような素人には,まったくわかりませんですね.
ま,どうやら,産業としては成り立たなかったと考えた方がよいようで.
もうひとつ.「自糠町史の記すところ」という記述がありますので,ネタはやはり「白糠町史」なのでしょうかね.
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.11 補遺「白糠炭山」pt. 1.
さて,茅沼炭山に移ろうとしたら,重要な資料を見つけてしまいました.
それは,片出敬次(1963)「タキイシ」物語=本道最初の炭山=.新しい道史,第1巻,第1号,26‐30頁.
この(論文ではないな)記事は,北海道最初の炭山といわれる「白糠炭山」について詳述したものですが,多分に「読み物」的で,明確な引用がないので記事の根拠を確認できず,困るのですが,重要なことが記述されているので,無視するわけにも行きません.
運がよければ,元記事をそのうちに…,ということで,メモ,メモ.
さて,
「白糠開坑に着手した箱館奉行は、翌安政四年閏五月に手附栗原善八を掛りに任命し、江戸から益次、末吉、音松、清五郎四名の採炭人と、募集した人夫を白糠に送つて愈々本格的に採掘に当らせ、また地元のアイヌをも使役した。」
とあります.
どこに元記事があるのか書いてないので,問題ですが,(たぶん,この記事を引用したのであろう)これまで見たすべての記事には書いていなかった「歴史に無視された四人の職人」の名前が出ています.
【採炭係・手付】─【採炭人】
栗原善八 ├ 益次
├ 末吉
├ 音松
└ 清五郎
「手付」という役職が箱館奉行所の中でどういう位置づけなのかも不明ですが,とりあえず,こういう専門職グループが成立します.「益次と末吉は一日銀七匁、音松と清五郎は一日銀五匁」と後述されていますので,前者の方が熟練工ということでしょうか.銀七匁は26.25g,同五匁は18.75gですから,現在の相場で,約75円/gですから,日当1,400~2,000円程度(と,いわれても高いのか安いのかわかりませんね(^^;).
たとえば,文政年間(1820年頃)の若い大工の日当が銀5匁4分という記録があります.これでは.だいたい同じくらいということになってしまいますが,未開の地で命をかけて働いて,江戸の若い大工の日当と同じ程度では,やりきれませんね.比較例が悪いのかもしれません.
「採炭人」四名は江戸からきたと書かれていますが,「東徼私筆」には“栗原が江戸から”きて“四名の職人は筑前柳川から”とされています(但し,「柳川」は筑後だと思います).
その技術として,落盤を防ぐための「留木」をもちい,「不危燈」を使用しているという記述が続きます.「不危燈」は「安全燈」であるという前提で書かれていますが,具体的にどういうものだったのかという記述や解析はありません.
2011年1月14日金曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.10 補遺「オソツナイ炭山」pt.2
「開拓使事業報告」がありました.
国会図書館・近代デジタルライブラリーで公開されています.
以前にさがしたときは,みつからなかったのに,なんででしょうね.
なにはともあれ,「オソツナイ」にかんする記録をさがしてみると,第三編の718頁にあります.そこには,以下のように表記されています.
「安政三年幕府始テ釧路字獺津内(オソツナイ)煤炭ヲ掘採シ幾モナクシテ止ム」
と,あります.
児玉清臣氏の記述とおなじですね.「カタカナ」が「ひらがな」に替わってはいますが.ということは,児玉氏は「開拓使事業報告」を直接みて引用したということになりますね.
一方,多羅尾忠郎の「北海道鉱山略記」は若干の編集がはいっているようです.ということは,記述をよくみれば,「開拓使事業報告」を直接みて引用したのか,「多羅尾忠郎」経由で引用したのか,ルートがわかりそうです.
ちゃんと比較していないのでなんですが,多羅尾の記述は,「開拓使事業報告」がネタ本ですね.比較してみるとおもしろいかもしれない.
「開拓使事業報告」では「札幌本庁」-「函館支庁」-「根室支庁」-「樺太支庁」にわけて記述しているのにたいし,多羅尾は北海道全体を「沿革」-「硫黄」-「石炭」-「石油」-「金銀銅鉛」-「砂金」-「砂鉄」-「統計」とわけなおしています.
「開拓使事業報告」がお役所向けなのにたいし(いわゆる「縦割り」ですね),多羅尾忠郎の「北海道鉱山略記」は技術者向きといったちがいがありそうです.
「北海道鉱山略記」をみて,思ったのですが,全体の構成から見ると「硫黄」が現代の感覚からは比較にならないほど重要な産業だったようです.そういえば,「マッチ」の材料としての「硫黄」は当時の日本の重要な輸出品だったとか,聞いたことがありますね.
江戸時代以前の石見銀山の銀の輸出といい,明治期の硫黄の輸出といい,日本が鉱物資源の輸出国だったとは….現代の感覚からは信じられませんけどねェ.
あ.肝心の「オソツナイ炭山」ですけど,コンだけの記述では,「北海道最初の炭鉱」の冠をかけるのは…,やはりキツイですよね.幕府側の記述が発見されて,詳細がわからないとね.
2011年1月13日木曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.10 補遺「オソツナイ炭山」
前出の多羅尾忠郎・編「北海道鉱山略記」の鑛業畧沿革・舊記には,次のような記述があります.
○仝年幕府始メテ釧路オソツナイ石炭ヲ掘採シ幾クモナクシテ止ム
上記「仝年」とは安政三年のことです.
「蝦夷地,最初の炭鉱 pt. 1」に引用した児玉清臣「石炭の技術史」にある記述と内容は一緒ですが,表現が微妙に異なります.これは児玉の編集によるものか,あるいは引用元が異なるのか,はわかりませんが,二者とも元々は「開拓使事業報告」を引用文献にあげていますので,多分そうなのでしょう.
「開拓使事業報告」は存在がわかりません.
たぶん,道庁赤レンガあたりに所蔵されているのでしょうけれど,見せてもらえるとも思えないので,このあたりが限界ですかね.
なお,「石炭の名前」に関係してきますが,多羅尾は「煤田」と「石炭」を使用しています.「炭田」と「煤炭」は見あたりません.
2011年1月10日月曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.9 補遺
1890(明治二十二)年,多羅尾忠郎・編「北海道鉱山略記」より
(シラヌカ石炭)
開拓使事業報告ニ曰ク,「シラヌカ」舊石炭坑ハ上古ノ石炭ヲ含ム岩石ト變シ坑ノ前邊灰色シェールノ近代ニ成ル岩層ノ一端アリ.坑上灰色砂石ハ此岩層ニ連續スル如クナレトモ坑近傍ノ岩石ハ其質甚堅硬ニシテ数多ノ黒斑アリ.往年開採ノ跡ヲ見ルニ岡麓ニ一ノ坑質アリ.坑口土石崩落匍匐シテ入ルニ凡八碼許ニシテ土石充塞シ進ムヘカラス.又其側面ハ板張ニテ岩層ヲ見ス.層厚サ半尺ヨリ四五尺ト云フ.坑外堆積中良質ト見ユル拳大ノ岩塊アレトモ,概子破砕シテ多ク「スレート」ヲ
混ス.炭質良ナルカ如シト雖モ,開採ニ堪ヘサルヘシ.
東蝦夷日誌ニ曰ク「シラヌカ」石炭ヲ掘出ス.其稼方九洲邊ノ掘方卜異ナルヿナシ
多羅尾忠郎という人物は,北海道庁属だそうです.どういう職なのかはわかりません.しかし,「灰色シェール」などという用語をつかうところからみて,地質学的知識をもった人物とみて差しつかえないでしょう.「開拓使事業報告ニ曰ク」という言葉遣いが気になりますね.二次資料中の引用不詳の部分でこの「開拓使事業報告」にあるという付記をしている文章がしばしばありますから,もとはこの「北海道鉱山略記」なのかもしれません.
なお,多羅尾忠郎は千島探検の記録も残してます.
2011年1月7日金曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.8「白糠炭山以前」
「石炭がある」ということと,「炭山がある」ということは別のことです.
近代鉱山用語として使われているわけではありませんので,あいまいな部分もありますけどね.「石炭がある」ということは地質学的な現象であって,「炭山がある」というのは人間による経済活動があることです.
白糠には数千万年前から「石炭」がありましたが,「白糠炭山」は安政四年から数年間しか存在していません.そういうこと.
「北海道で最初の炭鉱」であることはいいようなんですが,その開山年月日-閉山年月日となると,まだあいまいで,何月まで記述がある資料もありますが,その証拠となる史料が明記されていない場合がほとんどなので,わたしら(理系)の感覚としては「あいまい」とするしかありません.
あしからず.
それでは,白糠炭山開山以前に書かれたクスリ地方の石炭記録をリストアップしておきたいと思います.
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1781(天明元)年,「松前志」成立.
その「巻之十」に以下の記述があります.なお,この記述の発見者は高倉新一郎(北大名誉教授)であり,この記述は,児玉清臣「石炭の技術史」にあります.これが北海道の石炭についての最初の記述だとされています.
「タキイシ.此物東部クスリより出ず.黒うして滑かなり.燃ゆること薪の如し.大和本草に所載石炭の類なり.若水が説に烏石と言う即ち此なり.」
注:「クスリ」は「釧路のこと」とされがちですが,そうすると,精々が「釧路市」もしくは「釧路郡」程度の範囲を示すと誤解されがちです.しかし,この頃は行政界なんかなく,全くのアバウトの呼び名でしかありませんでした.概念的に近いものとなると,「釧路国」という古い呼び方が該当し,旧釧路支庁のほか,足寄郡の大半,美幌町・津別町・大空町なども含んでいました.
だから,もちろん,このあとに出てくる「白糠」も「クスリ(久摺)」の一部でした.
のちに,「久摺場所」とか「白糠場所」というような経済活動概念がでてくるとまた話が別ですけどね.
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1790(寛政二)年,「蝦夷草紙」成立.
著者はもちろん,最上徳内.その,「産物の事」に,次の記述があります.蝦夷地質学外伝 其の七 「蝦夷草紙」(最上徳内)参照
「石炭 クスリ〔久摺〕場所之内,ヘツシヤフ辺ニ有之」
「ヘツシヤフ」という地名ははっきりしませんが,現在の厚岸湾の尻羽岬付近の「別尺泊」は海岸にあり,石炭が露頭することからも調和的です.
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1799(寛政十一),谷元旦「蝦夷紀行」
その六月二十四日の記述.
「此日浜邊平にしてしめりよし.歩行も易し.石炭など,この邊より出づる.尤も上品なり.光黒くして滑澤あり.」
注:二十四日朝,白糠を出発し,クスリへ向かう途中なので,白糠石炭産地(石炭岬)についての記述と考えられています.
谷元旦ならば,スケッチぐらい残されていても良さそうなものですが,不詳.
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同年著者不詳の「赤山紀行」の記述.
「オタノシキ川より左に原を見て行けば,原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり.この附近石炭あり.桂戀の附近なるションテキ海岸には,磯の中にも石炭夥しく,総てトカチ領よりクスリ領までのうち,山谷海邊とも石炭なり.今度,シラヌカにて石炭を掘りしに,坑内凡そ三百間に至れども石炭毫も盡くることなしという.」
注:「赤山紀行」は「北海道炭砿港湾案内」(昭和六年刊)の冒頭に引用されているとされていますが,詳細不明.偽書かも? なぜなら,この時代は,まだ石炭の採掘はおこなわれていないので,「坑内凡そ三百間」なんてあり得ないのです.そもそも「赤山紀行」そのものの所在もわからないし….
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松浦武四郎
松浦武四郎はたくさんの記録を残していますので,逆に気をつけなければなりません.
たとえば,白糠付近を通ったと考えられるのは,1845(弘化二)年,1856(安政三)年,1858(安政五)年の三回になります.
じゃあ,この順に記録が残されているかというと,そうではなく地域別に分けられていたり,旅程が編集されていたりするので,「自伝」とクロスチェックしなければ,真実が見えてこない場合が多いからです.
なお,以下で「自伝」としているものは,松浦武四郎研究会(1988編)「校注 簡約松浦武四郎自伝」のことです.
1845(弘化二)年は,自伝によれば,四月の初旬に江差に上陸し,西蝦夷地へ向かいますが,途中で断念し,箱館経由で東蝦夷地へ(注:「西蝦夷地」は日本海側,「東蝦夷地」は太平洋側を漠然と示す当時の言葉です).レフンケ>ウス>モロラン>ユウフツ>サル>クスリ>アツケシ>ネモロ,ルートでネモロからシレトコまで探検し,十月に箱館に帰りました.
したがって,シラヌカも通っているはずですが,このときには「白糠炭山」は存在していません.
1856(安政三)年の自伝には,詳細な記録が残されていて,日単位で探検ルートを追うことが可能.
1856(安政三)年九月十九日,コンブイ(昆布森;釧路町)泊.二十日(不詳;滞留か).二十一日:夜,白糠番屋泊.二十二日,シヤクヘツ泊.
「安政三年六月に試掘が開始」されたという(某氏の)記述がありますから,このときの竹四郎の日記になにか書かれていても良さそうなものですが,自伝にはありません.「試掘」という言葉の意味が限定されてきそうです(同様に,「安政四年五月に採掘をはじめた」という(某氏の)記述がありますが,これも,いったいなにに書かれていたのでしょうね).
1858(安政五)年の自伝も詳細な記録があります.
1858(安政五)年三月十九日,夜中より出立.五ツ頃にヲホツナイえ着.支配人紋蔵,元締橋本 悌蔵昨夜泊まる.相驚き分かる.是より山中,乙名并に石狩土人へ遺し物致し,我はクスリえ先触出し,飯田は十勝の方え先触出し置く.
二十日,クーチンコロ,セツカウシ,イワンハカル,ニホウンテ,アイランケ,右五人山通り,アエコヤシ,サケコヤンケ,サダクロ,ヤアラクルの四人飯田召連浜通り帰る.シヤクヘツ昼,白糠泊る.詰合土居小藤太.
二十一日,此処石炭山見分,石炭御用として栗原善八と云ふ者詰合ふなり.日々出方余程のよしなり.流罪人等一同我が到りしを見て悦びたり.此者共流罪に成りし云々あり.小田井浜中まで来り居る.
二十二日,柴田弁一郎,小田井蔵太,越山平十郎出会,山行の事相談し,
二十三日,山行支度申附る.
(中略:山行資材リスト)
二十四日,大風曇,今日箱館仕出し薬種類の箱物着,松村精之助来り泊る.案内土人人別申出る.
(中略:同行アイヌ名簿)
酒三升,濁酒五升,縄たばこ十把,下帯十,手拭十遺す.
二十五日,今日シタカロ迄馬にて行は可なり一日に行,歩行にて行は二日と云か故に,未明出立と申定め置出立,薄暮シタカロえ着(今日の道,十二里)小使ラシウンテ宅へ行泊る.
安政五年行では,白糠に五泊もしています.これから内陸部へ向かうための準備でした.蛇足しておけば,当時は内陸部にはほとんど道がなく,和人の住処(番屋など)もありませんので,準備は大変だったのでしょう.
二十一日には,石炭山を見学したことが明記されています.「流罪人」にまで注意を払う武四郎の優しさがあらわれていますが,これが「流罪人が強制労働」させられていた記録なのでしょう.
なお,戊午「十勝日誌」,戊午「久摺日誌」は安政五年の十勝-久摺行をつづったものですが,白糠炭山についての記述は見あたりません.
しかし,「東蝦夷日誌・七編」には,以下の記述があります.
「白糠番屋(通行や、勤番所、板くら、馬や、人足小屋有)、土地山の下少しの間に立、南受沼形。有二辨才一。沖懸り宜し。北は山を受て暖地也。傍に観音堂有(合殿、岩船明神、三十番神、いなり明神)。此處眺望宜し。名義はシラリイカにして、汐越ると云儀。満汐の時は此ヲフネフの川より、チヤロ〔茶路〕・ワツテまで平場、惣て汐打入るゝ故に號く。土人小屋有。昔はクスリ〔久摺・釧路〕・白糠と別場所成しを、文化度一場所となしたり。近頃また此上より石炭を掘出し、今盛に掘居る也。其稼方九州邊の掘方と異る事なし。シレエト(岬)、此邊よリクスリサキ見え初る。人家(三十二軒、人別人別〔衍〕三百人餘)多し。」
また,いわゆる「竹四郎廻浦日記」や「戊午日誌」にも,白糠炭山関係の記述がありそうですが,資料を持っていないので,確認できません.
あしからず.
2011年1月6日木曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.7「罕有日記」
見逃してましたが,高倉新一郎(1987)「挿絵に拾う北海道史」に,「罕有日記」の「白糠炭山」に関する記述が載っていました.なお,「罕有日記」は「かんゆうにっき」とよみます.
「横に山腹を掘る事深さ十間程高さ六尺幅同断なり。左右は材木にて虎柵を立て頽堕を厭ふ。拾間奥より更に左右に深く掘込たり。奥に至る程炭質も細かに且質悪しと。又其南十二間に別窟を穿つ。製は前に同じ。深さ七、八間なり。蔵方の咄に二穴にて三千貫目程掘出す」
悲しいかな,現物ではないので,この前後になにが書かれているのか,書かれていないのか,確認できません.
高倉(1987)には,この引用文のあとに,引用不明の解説が続くので,上記の他にまだなにか記述があるのかもしれません.
この記述からは,「東徼私筆」ほかにあるように抗口が二つあることが確認できます.文脈からは,「東徼私筆」の絵「白糠石炭窟」にある上の抗口(あいまいに描いてある)のほうが,質が悪い坑道のようで,下の抗口(南の別窟)が新坑道(?)のようです.
「入北記」(玉蟲左太夫)には,「一つは「細炭且悪炭」のため,役に立たないが,もう一方は「極上石炭」である」としていました.この記述では,二つの坑道は別の炭層をおったもので,炭層自体に質の違いがあるようにも考えられますが,「罕有日記」の記述では,先の坑道では徐々に悪くなって,十間ほどで「細炭且悪炭」であり,新坑道ではまだ「七、八間」しか掘っていませんから,十間ほどで同じように「細炭且悪炭」になる可能性もあります.
つまり,おなじ炭層を掘っている.
このことが,担当者にはわかっていたから,すぐに「茅ノ澗炭山(=茅沼炭山)」へ移ることを決心させたのかもしれません.
ま,白糠炭山の精密な地質図でも入手できれば,判明することなんですけどね.
と,書いていたら,児玉清臣「石炭の技術史」のなかに「罕有日記」の記述を見つけてしまいました.なお,この文は白糠町発行の「叢書・白糠炭田に灯は消えず」という冊子にあるとされています.
「沙汀十町余にて山腹に石炭小屋あり。馬を下りて案内を乞う。石炭窟に入る。十二、三間を距て又一窟あり。窟中両又の穴を通す。皆良品を産するなり。掛りの吏人栗山善八(栗原の誤り)(此頃石炭場見立のよし)右石炭掘職の者江戸表より数人召連下り業を始むよしなり。右石炭山は汀内二町程奥にて五、六間の山腹なり。横に山腹を掘る事深さ十間程高さ六尺、幅同断也。左右は材本にて柵を組み欠損を防ぎ、虎柵を立て頽堕を厭う。十間奥より更に左右に深く掘り込みたり。奥に至る程石炭は細かに且つ質悪ししと。又其南拾弐間に別窟を穿つ。製は同じ。深さ七・八間なり。職方の者の咄しに二穴にて三千貫目程掘出すといふ。右石炭積置を見るに黒色にて油光あり、或は金気を帯るも見へたり。一塊を受けて東都へ呈す。……職方の賃銭米俵(米なら十六貫だが石炭だと十八貫目)壱俵掘出し代銀七分を与ふと。朝より八ッ半時までに十俵掘出す。江戸で九州炭壱俵の価格は八貫文のよし。」
「クスリ詰足軽腰山平右衛門と両人出張にて会釈あり。見畢って同伴小出崎を回り二、三町にてシラヌカ。」
高倉(1987)より,引用が長いですね(高倉分は太字で表示).見学日時は示されていませんが,児玉は「成石が見学した同じ月の末」としています(引用はありません).
また,高倉の引用のあとにある解説文の内容をしめすものは,ここにはありませんので,なにか別のものからということになります.
なお,児玉は「この白糠炭鉱の採掘記録によると」と書いていますので,「白糠炭鉱の採掘記録」なるものがあるはずですが,この「この」がなんなのかは示されていません.
前文には,坑内作業員の細目や「不危燈」=安全燈についての記述がありますので,これについて記述した資料があるはずで,この史料のことのはずですが,明示されていないのです.
史料は大部分が「お宝」ですから,特別な人,特別な機関に属する人でなければ触れることもできないのはしかたのないことなのかもしれません.しかし,その特別なことができる立場にいる人たちが,中途半端な引用をしたり,引用を明示しないために,そのこと自体が混乱を起こしているのは,どうなのかと思いますね….
2011年1月5日水曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.6「あやしい情報」
ものによっては,石川和助の「観国録」,窪田子蔵の「協和使役」に「白糠炭山」について書かれているという情報があります.
石川和助・窪田子蔵がクスリ付近を通過したのは安政三年のことで,石炭や木の葉の化石が落ちているなどという記述は確かにあります.しかし,白糠炭山が開かれたのは安政四年のことですから,当然こと,これについての記述はありません.
以下は,安政四年以降のクスリ地方の旅行記で,「白糠炭山」を検視した可能性がありますが,史料の所在が不明なので,レビューできません.
鳥井存九郎「北溟紀行」
鳥井存九郎は越後・村上藩士.老中・内藤信親(越後村上藩主)の命により,蝦夷地・樺太の調査にでました.
1857(安政四)年,箱館-松前-宗谷を経てカラフトに渡り,シラヌシより西岸をホロコタンまで北上.帰路,宗谷より蝦夷地東海岸を周回し帰藩したとあります.
森一馬「罕有日記」
森一馬は越後・長岡藩士.老中・牧野忠雅(長岡藩主)の命により,蝦夷地・北蝦夷地(樺太)の調査に派遣されました.西蝦夷地経由でカラフト北西岸のポロコタンに至り,カラフト南部・東蝦夷地を周廻し,帰藩したとあります.
なお,上記二件は,北大・北方史料DBにありますが,web上では公開されていないので,検討不能です.両方とも「写本」のようですが,「元本」はどこにあるのでしょうかね.
2011年1月4日火曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.5「入北記」(島義勇)
前回に引き続き,また「入北記」から,ですが,こちらは佐賀藩士・島団右衛門義勇の手になるもの.
島義勇も,玉蟲左太夫とともに,箱館奉行・堀織部正利煕の調査団に随行していました.そして,おなじ題の「入北記」を残したわけです.
島は,その後,明治政府側につき,明治維新を生き延び,蝦夷開拓御用係-開拓使判官を勤め,蝦夷地開拓に尽力します.
ところが,開拓使のゴタゴタに巻き込まれ,解任.
その後,明治七年,「佐賀の乱」をおこし,さらし首に.
しかし,北海道では,北海道神宮にまつられている神様でもあります.
では,「入北記」より,1857(安政四)年八月廿四日の段*.
「廿四日 クスリ川船渡し大河常水有り、三里程海辺ノ広野を歩し、それより小粒山海に沿ひし麓をすくまた二里有餘にしてシヨロロ(シヤリ江越ス新道有り行程四十里卜云)、大河有りて土人小家多し、これより土人小家たへす、二里程海辺を歩しシラヌカ、此に石炭山海岸にあるを堀り方に成り候、土人事になれす大にこわかる由なり、羆多き場所に而当春の子を土人一軒に三頭或ハ二頭をも捕へかいし家多し、それより四里八丁歩し、シヤリヘツの番家に宿す、大河都而五ケ所舟渡し、其外は洪水計の時潰し候所卜みゆる川三四ケ所有り、路傍の山、種々の雑木(良材なり)長す、昆布も有り。」
島は,石炭にはあまり興味がなかったようですね.
それよりも,そこで働かされているアイヌが坑道作業を怖がっていることに注意をはらっています.これが,アイヌが炭鉱で働かせられていたことの証拠ですね.
*入北記:杉谷昭(1975)「〔幕末維新拾遺〕その3=安政四年蝦夷地調査記録『入北記』の資料的研究(続々)=」より.
2011年1月3日月曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.4「入北記」(玉蟲左太夫)
1857(安政四)年,箱館奉行・堀織部正の調査団に同行した仙台藩士・玉蟲左太夫の「入北記」より.その巻六・八月二十四日の記.
「(前略)御手附栗原善八ナル者見込ノ石炭掘場アリ。一見セシニ当時折角盛ンニ掘居タリ。穴ハ二ツアレドモ一ハ細炭且悪炭ニ〆用ニ立タズ、一ハ極上石炭ノ由.僕試ノタメ一片ヲ持シ来タリ。尤此辺処々ニ石炭アル由.是ヲ掘リ開キナバ多分ノ有用ナルベシ、実ニ悦ブベキヿナリ。夫ヨリ三四丁ニ〆シラヌカニ至リ午飯ヲ喫ス。(後略)」
玉蟲の記録では,白糠石炭窟にある二つの坑道のうち,一つは「細炭且悪炭」のため,役に立たないが,もう一方は「極上石炭」であるとしています.
疑問なのは,もしそうであるならば,「細炭且悪炭」のほうは閉鎖し,良好なほうのみ出荷すればよかったはずなのに,担当者=栗原善八は品質管理をする能力がなかったということなのでしょうかね.つまるところ,炭質云々よりは,茅ノ澗のほうが箱館に近いという地理的条件が,白糠炭山を廃山にした大きな理由なのでしょう.
(コストの低い運搬方法さえあれば)この付近には,あちこちに石炭があるので,(良好な)石炭を掘り出せば,役に立つであろうとしています.
玉蟲は次世代の釧路炭鉱の存在を見通していたということでしょうか.そして,玉蟲には石炭の品質を見る目があったということでしょうか.
戊辰戦争のあと,玉蟲左太夫は,蝦夷地で捲土重来を期す榎本武揚との合流をのぞんでいました.しかし,榎本軍との合流を果たせず,捕縛されて獄へ.榎本が蝦夷地で苦戦している最中の1869(明治二)年四月,切腹死しました.
悲しいことに,玉蟲左太夫も成石修輔とおなじ道をたどったことになります.
才能もあり,青雲の志をいだいた,たくさんの人びとが「明治維新(?)」の犠牲になりました.
蛇足しておくと,榎本は堀織部正の蝦夷地調査行に同行していたという説があり,もしそうであれば,玉蟲が榎本とともに行動しようとしたというのは,いかにもありそうなことではあります.
2011年1月2日日曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.3「東徼私筆」
白糠炭山には,蝦夷地最初の炭鉱ということもあり,たくさんの記録が残されています.
有名なのが,成石修輔の「東徼私筆」*です.
成石修輔は関宿藩士で,生年不詳ですが,没年は1870(明治三)年6月.
かれは,藩命により蝦夷地を調査.たぶん絵がうまかったのでしょう.当時,絵が上手ということは,こういった調査・探偵作業には必要な才能でした.
「東徼私筆」は安政四年十月十七日に,復命されたものです.
これには「白糠石炭窟」という絵が残されています.絵は,この語でGoogleすれば,見つけられるでしょうから,その掲載はしません.
大野良子・校注「東徼私筆」から,その段(巻之五・七月十九日)
「(前略)…。シラヌカ番家の五六丁前に山腰石炭多し。栗原六八子といえる人江戸より来り給い、職人は筑前柳川の人なるよし。クスリの同心衆小向蔵太子も来り給い、石窟中を見物す。山腰二ケ所に炭穴有り。曾て間く。石炭穴は磐と磐との間より出て、其間三四尺を限ると。当所は穴の丈六尺も有るべし。窟中の模様は金銀窟におなじ。所々かんてらを照したり。」
この短文の中に,いくつか誤りが指摘されています.
たとえば,「栗原六八」は「栗原善八」,「栗原善八」は「江戸からきた」となっていますが,「箱館奉行所手付」となっている場合もあります.「職人」は「採炭夫」のことで「筑前柳川」ではなく,「筑後」のひととなっている場合も.同心「小向蔵太」は「小田井蔵太」の場合もあります.
ただし,これが成石修輔本人がおかした誤りかどうかは不明.実は,こういう貴重な資料ですが,本物は残っていず,現存するのはいずれも「写本」なのだとか.写本ならば,誤写も不思議ではありません.
修輔自身は,明治二年正月二十四日に,明治政府によって反逆者として捕らえられ,そのまま明治三年六月二十九日,五十三歳で獄死したとなっています.
原本が残っていないのは,このためか,と疑う人がいます.もしかしたら,明治政府やその追従者にとってつごうの悪いことが書かれていたのかもしれません.
写本の絵は,修輔の絵とは「比較にならないほど稚拙なものである」と評価される程度のものなので,実際にはなにが描かれていたのか,非常に気になるところです.
また,明治維新のどさくさで,どれだけたくさんの有能な人たちが政府によって惨殺されたのか.そういう事実がろくに発掘もされずに放置されていることからは,この国の歴史および歴史学なるものが,いかに眉唾ものなのか,疑わずにはいられません.
*:大野良子・校注「東徼私筆」では,著者は「成石修」になっていますが,これは漢文調のペンネームみたいなもので,「成石修輔」が本名.なお,名前の頭に「関宿」と振ってありますが,これは,これは出身の「関宿藩」のこと.中表紙および箱において,となりに校注者の大野良子の頭に「校注」と振ってあるので,妙なことになっていますが,誤解のないように.
また,箱では「成石修識」に見えるようになっていますが,これは本の装丁者の不注意.「成石修 識ルス」という意味です.
2010年12月31日金曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.2
白糠炭鉱は,1857(安政四)年五月,採掘を開始しました.
採掘の指導者は栗原善八という名前だそうです.
伝えには「奉行所手付」とするものもありますが,どういう立場なのかは微妙.「山師」であり,奉行所の「臨時雇い」と考えるのが一番ありそうですが,なんの記録も見つかりません.
実際の作業にたずさわった人も微妙で,筑後の人(九州・福岡の炭鉱労働者・採炭夫)が数人とするものもあり,箱館から連れてきた無宿人を強制労働させていたような記述をするものもありますし,アイヌが使役されていたという記述もあります.
いずれもありそうなことですが,どれも原典が明記されていないので,確認不可能.
実際に採炭をはじめると,採炭そのものは炭層が厚いので採掘しやすく,積み出し港にも恵まれていました.しかし,積み出した石炭は崩れやすく粉炭になり,扱いづらかったようです.
また,試掘段階では優良とされた炭質も,「火力が弱く,灰分が多い」ため,汽船の燃料としては歓迎されなかった,と,されています.
かなり,あいまいですが,要するに商品としてはあまり良いものではないと判断されたということでしょうか.くわえて,新しく発見された岩内の茅ノ澗の石炭のほうが炭質や企業パフォーマンスが良好(箱館に近いなど)とされたために,栗原善八以下の作業員は茅ノ澗に移動.必然的に,1864(元治元)年白糠炭山は廃山となりました.
わずか,七年の稼働でした.
これらの記述の元ネタは「白糠町史」あたりなのだろうと思われます.
こういった記述には,疑問の点,不明な点が多く,洗い直されるべきなのですが,今一歩がね….町史を貸してくれるところもないし….
2010年12月30日木曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt. 1
北海道で最初の炭鉱はどこにあったのか,というのはけっこう難しい問題のようです.
クスリ(久摺)辺り(旧釧路国)の海岸沿いに石炭露頭があったという記録はたくさんあるようですが,事業として石炭を採掘した記録となると,とたんにあいまいになります.
石炭が露頭していれば,付近の住民がひろって薪がわりに使用したということは,十分に考えられますが,小規模であったとしても,短期間であったとしても,産業としておこなわれたという確実な記録を見いだすのは,なかなか困難です.
たとえば,1799(寛政十一)に発行されたといわれている「赤山紀行」には以下のような記述があるそうです.
「オタノシキ川より左に原を見て行けば,原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり.この附近石炭あり.桂戀の附近なるションテキ海岸には,磯の中にも石炭夥しく,総てトカチ領よりクスリ領までのうち,山谷海邊とも石炭なり.今度,シラヌカにて石炭を掘りしに,坑内凡そ三百間に至れども石炭毫も盡くることなしという.」
この「赤山紀行」は「北海道炭砿港湾案内」(昭和六年刊)の冒頭に引用されていると児玉清臣「石炭の技術史」にありますが,詳細不明です.
そもそも「北海道炭砿港湾案内」そのものの存在が確認できないですし,「赤山紀行」の存在も確認できません.著者も不詳.
この時代は,蝦夷地のどこであれ,石炭が採掘されてたという傍証がまるでないので「坑内凡そ三百間」なんてあり得ないのです.
次の可能性は,これも児玉清臣「石炭の技術史」にある記述ですが,「安政三年,幕府は初めて釧路獺津内で煤炭を採掘し,幾許もなくして止む」と「開拓使事業報告」にあるそうです.「獺津内」は現在の釧路市益浦あたりの旧名であると釧路市のHPにでています(安政三年は西暦1856年).
おかしいのは,幕府側の記録ではなく,開拓使の記録であること.つまり,幕府側の記録には残っていないということでしょうかね.その割には,この記事の前に,「奉行は…安政二年七月『蝦夷地開拓觸書』を公布して,広く鉱産資源の….すでに露炭地として知られていた北海道東海岸の開発可否を検討するため,翌三年六月,調査団を派遣した.候補地は釧路の東方「オソツナイ」と,「シラヌカ」である.」とあります.妙に詳しい.
残念ながら,この部分が,なにに記述されているのか引用が明記されていないため,前後を確認することはできません.
したがって,「幾許もなくして止む」というのが,どの程度の規模だったのか,短期間でも商業ベースに乗ったのか,あるいは試掘程度だったのか,それも不明です.試掘程度では,「蝦夷地最初の炭鉱」と“冠”をかけるのは無理でしょうね.
しかし,もしこれの裏付けがとれたとすれば,現在,日本最後の炭鉱「釧路コールマイン」が釧路市興津にありますから,蝦夷地最初の炭鉱は最後の炭鉱でもあったことになります.
一方,同年同月,「シラヌカ」の石炭も採取され,箱館の英国人が鑑定し「良品」と位置づけたとあります.しかし,残念ですが,「別の記録」とあるだけで,なにに書かれているのか確認できません.「箱館の英国人」も何者なのかそれも不明.可能性があるのはガワー(E. H. M. Gower)ですかね.
白糠炭鉱は1857(安政四)年に採掘を開始.
こちらは,複数の記録が残っていますので,信頼できます.
つづく.
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