2009年5月29日金曜日

ゾンビ・ハンティング

 

 先日,地団研の研究誌「地球科学」が届いた.
 かなり前から,JGL [Japan Geoscience Letters ]というのが添付されている.
 その記事からは,地質学が滅び,地球物理学に吸収されて,“地球科学”になってゆくのが実感されていた.
 最新のno. 2 (May, 2009)に面白い(興味深い)書評が載っている.
 評者は上田誠也,本は泊次郎著「プレートテクトニクスの拒絶と受容」である.

 この本の存在は以前から知っていたが,どうせ,ウッド(1985)「地球の科学史—地質学と地球科学の戦い—(谷本 勉,2001訳)」(朝倉書店)の焼き直しだろうと思い,買う気も起きなかった.
 前にもどこかで,「プレートテクトニクスの拒絶と受容」の書評を見たが,先入観に訂正を加えるような記述は,なかった.今回,上田の書評を見て,私の先入観より,もっとひどいことを実感した.

 明らかなゾンビ・ハンティングである.
 これが,雑誌「地球科学」に添付されていることに,思わず笑ってしまった.

 上田は「ぜひ英語版も出していただきたい」と結んでいるが,もしそうなったら.日本の井尻正二は,旧ソ連のレーニンやスターリンと並び称せられることだろう.

 私は,学生時代を井尻正二氏の盟友である湊正雄先生の下で過ごした.
 学生時代にも,上田誠也の「新しい地球観」(岩波書店)ほかのPT普及書を興味深く読んでいたが,「読むな」と注意されたり,本を取り上げられたなどということはなかった.授業では,湊先生は南部北上山地や日高山脈での知見に基づく地向斜造山運動論を展開されていたが,先輩に聞くと,昔よりはトーンが落ちていて,(心の中では)PTに理解を示しているようだ,とのことであった.

 大学院時代のことだが,卒論学生で南部北上山地の古生界-中生界の古地磁気についての予察的研究をおこなったものがいた.だいたい,当時の卒論は,教官の指導が間に合わなくて,卒論発表直前になって,大学院生がよってたかって“でっち上げる”というのがパタンだったが,その学生さんも,同様だった.

 彼の集めた試料による古地磁気のデータは,非常に面白いものだった.
 南部北上山地は,古生代には南半球にあったが,中生代のうちに赤道を越え,北半球にやってきたと解釈できるものだったのだ.一晩のうちにそういう発表になった.これには,湊先生の最後の弟子といわれている,現・北大のK氏の指導力が大きかった.
 卒論学生さんは事態をよくわかっていないようであったが,我々大学院生は,湊先生がどんな反応を示すか,恐いもの見たさというか,興味津々であった.結果はあっけないものだった.ほとんど何の反応もなかったのだ.(我々は,湊先生が怒鳴りだすのを,ある意味,期待していたのだが)むしろ,反応は卒論学生の努力に好意的だったとも思える.
 事実は,ゾンビ・ハンターがいうような,単純な「善悪二元論」で割り切れるようなものではないのである.

 井尻正二は地団研の中で,絶対的な権力を振るっていたそうである.
 井尻氏は,当時はしばしは北大に出入りしていて,時々(授業ではない場合も多かったが)教室で講演をなされることがあった.私がまだ三年目の学生だった頃だと記憶するが,井尻氏が野尻湖での発掘について講演なされた.
 講演の最中に,井尻氏が気になることを言われた.
 それは,野尻湖人のキャンプと象の道の位置関係についてだった.そこを目指して次回の発掘をする(だったか,「した」だったか,今はもう憶えていないが)というので,当時まだ学生で,井尻氏が「日本のスターリンだ((^^;)」とは知らなかった私は,つい質問してしまった.「野尻湖人のキャンプがそこにあったら,象はそこを通らないのではないか」と.井尻氏は,あたふたと言い訳を始めたが,納得できるような説明ではなかったと思う.
 私は,別にシベリア送りにはならなかったし,教官たちの中にも「お前の言う通りだ」といってくれた人もいた.
 私は,井尻氏を悪鬼のような人だったとは思ってないし,日本のスターリンだとも思っていない.むしろ,一つの信念を持った立派な人だったと思っている.現在の知識や常識から見て正しかったのか正しくなかったのかは知らないが,現在の知識や常識で,過去の人を甦らせて退治するのは「卑怯だ」とは思う.


 今は知らないが,当時の大学院生は議論好きで,何かにつけて酒を飲みながら議論した.私が博士課程に進んだ頃は北大地鉱教室でも,普通にPT論をぶつ人が多かった.彼らは,湊先生の講座にいる大学院生は,やはり“一種の敵“((^^;)と見なしているようで,よく議論したものだった.
 私は別に,地向斜造山運動論者でもなかったし,PT論を邪説だと思っていたわけでもなかったが,おもしろ半分に相手をした.
 その頃から,PT論者と話すときに違和感を覚える「言い方」あった.
 それは,彼らは「信じる」・「信じない」という言い方をすることだ.現在でも,彼らは「改宗」とか「調伏」とかを平気で使う.

 昔,八木健三さんが何かのエッセイに書いていたのをまだ覚えている.八木さんが海外留学していた頃,ことあるごとに「お前は,PT論を信じるか,信じないか」と問われたという.
 最近,ようやくわかってきたのだが,PT論の背後にはキリスト教の影響が見え隠れしているようだ.そう考えると,「地質学者vs.地球科学者」を論じる地球科学史家が,善悪二元論で「地質学者」を斬って捨てるのも,何となく理解できるというものだ.

 少なくとも科学を「信じるもの」((^^;)は,「地向斜造山論では説明できない事実がPT論では大部分説明できる」という言い方をしてほしいものだ.どっちにしても,これらは「仮説」にすぎない.自然をより多く説明できる方がより真実に近いとは言えるが,「真実だ」とは誰も言えない.PT論が未来永劫真実であると言える人がいるか.
 現在は「間違っている」とされる過去の知識も,その当時は「巌のような真実」とされていたことは例に挙げるまでもないだろう.
 まさに「神のみぞ知る」だ.

 現在,地質学は滅びてしまって,地質学者を名のる人はいない.
 大学や公立研究機関で生き延びている人たちは,皆「地球科学者」を名のっている.ちょっと前まで,「勝ち組」・「負け組」という分け方が流行っていたが,これに近いものだ.大勢は「勝ち組」に乗るだけのことだ.

 同様なことが,地団研にもある.
 私と同じような世代の人で,昔は地団研会員で,今はアンチ地団研という人も多いことだろう.実は,私の学生時代にも「そうなるであろう」と思われたひとたちがたくさんいた.大学内で指導者層に地団研会員が多いからという理由で地団研会員だったひとたちだ.もう一つの体制内でうまく生き延びるために(仮に)地団研会員だったひとたちだ.地団研の勢力が弱まれば,宗旨替え((^^;)は何ほどのことではない.これが(生き延びた)科学者の実態だ.

 実際に,これはどちらでもよかったのだと思う.
 例えば,地質学雑誌に「地向斜造山運動論(あるいはPT論)は真実だ」という論文が載ったことがあるだろうか.「自然科学は小さな事実の記載の積み重ね」というのが私の持論だが,その通りのことがおこなわれている.地域の地質であり,そこに胚胎する化石や岩石・鉱物であり,一時的な自然現象であり,そういったことの記載だ.
 様々な地質現象の記載が基本であり,全てだ.現在でもそうだと思う.
 パラダイム論が「地質学雑誌」に載ることはない.どうやら,これを称して「地質学会にPT論が受け入れられなかった」と言っているようだが,それだったらお門違いだと思う.今だって,「仮説」を論文として掲載することはないと思う.考察の一部に言及することぐらいはあるだろうけど.
 そんなわけで,ほぼ99%の地質学者は「地域の地質」や「化石」や「岩石」や実際に起きた「自然現象」に興味があっただけで,「地向斜造山論」や「PT論」に興味があったわけではないと思う.
 実際に「地向斜造山論」あるいは「PT論」が基本になければ困る論文が,地質学雑誌の歴史の中でいったい,いくつあったのだろう.

 おっと,話がどんどんズレていきそうだ.
 ホイッグ史観を科学史と称するのは止めてほしいと思うものだが,きっとまた勝利の雄叫びをあげる“科学史学者”がでてくるんだろうなあ…((--;).
 

2009年5月27日水曜日

「鑪と刳舟」


 

 ある知り合いが,この本の存在をおしえてくれました.
 前から,その存在はなんとなく知ってはいたのですが,「鑪」はともかく「刳舟」には興味がないので,抛ってあったものです.
 古書店にあったので,購入して読んでみました.

 お笑いですが,「鑪」と「刳舟」には,やはりなんの関係もありませんでした.
 別々の系統のエッセイ集を二つ同じ本にいれたというだけのことです.これで,¥6,000もするなら,別々の本にして半額にしてほしいところです((^^;).

 さて,読んでみると,どんどん失望感が膨らんでゆきます.
 いわゆる“たたら本”に書いてあるようなことが,延々と書いてあります.説明のない特殊な用語が頻出し,確認しようもない事柄が続きます.すでにこのブログで疑問を呈したたくさんの事柄が,新しい事実もなく書かれているわけです.

 いい加減,飽きがきた,そのときです.

 「鑪探訪記」という章に入ると,目が覚めました.実は,これはリアルタイムの「たたら」のルポルタージュだったのです.
 そうすると,この本は,私が今まで読んできた,いわゆる“たたら本”のネタ本,元本ということになります.この著者は,この当時のたたら関係の著書といえば,自然科学の分野では俵国一の「古来の砂鉄精錬法」と榊藤太による短い一冊,人文系では結城・磯貝の「中国地方に於ける砂鉄精錬法の史的研究」,福士幸次郎の「原日本考」,宍戸儀一の「古代日韓鉄文化」ぐらいしかなかったといっています.そして,著者が専攻する民俗学の分野では,柳田國男の「地名の研究」や「海南小記」などに地名や火の神に関する文章があるだけだったとしています(俵のは自然科学系というよりは技術系だと思いますけどね).

 これまで読んだ多くのいわゆる“たたら本”の著者は,ほとんどの場合引用文献を明示していず,まるで自分が調べたか,自分が創作したかのように著述していましたが,「おおもと」は,ここにあったわけです.

 この「鑪探訪記」は昭和19年から20年にかけて現地を踏査して集めたものです.
 しかし,印刷を控えたこの原稿は東京大空襲により焼失.手元に残されていた原稿をもとに書き直したものだといいます.そして,発行されたのが1996年(!).
 約50年もの間,宙に浮いていたとすれば,いったいどうやってその内容が流出したのでしょう.“たたら研究”は不思議なことばかりですね.

 いくつか,主だった“たたら本”を集めて,その記述と記述年代を比較検討すれば,系統発生が見いだせるかもしれません.しかし,丸写しなのに,引用文献をのせない世界は「科学」とはいいたくありませんし,読んでて不愉快になりますね.
 ま,引用が明記されてない本は,信用しないことです.

 

2009年5月1日金曜日

砂鉄“研究”史(4)の付録

  
地質学分野の「砂鉄研究」(付録)

●マグネタイト系列とイルメナイト系列
 「たたら研究者」が問題にする「真砂」と「赤目」は,実は,鉱床としては非常に特殊なものです.
 花崗岩質岩類を源岩とする「真砂粉鉄」や「赤目粉鉄」は,通常は,採取しても採算が取れないので「鉱床」としては扱われないものなのです.源岩中の全鉄量は数%以下で鉄の値段を考えると,ここから鉄の原料を取り出しても,全く割の合うものではないからです.もともと,渡邊萬次郎(1935)が示したように,岩石全体の中でも,花崗岩中の鉄成分は塩基性岩中のものにくらべても相対的に少ないのです.
 かろうじて,採算が取れるようにできるのは,花崗岩体の一部が「真砂化」していて,大量の「水」を使えば,比較的簡単に採算が合う程度にまで濃集可能だからです.
 もっとも,人件費の高い現在の日本では不可能な相談でしょう.

 地質屋が通常「砂鉄鉱床」と呼ぶものは源岩から(主に)「鉄」を多量に含む鉱物が風化・浸食作用によって取り出され,さらに堆積作用の過程で,同じようなサイズ・同じような比重の物質が濃集し,したがって,同じような鉱物が濃集して採集・分離・調整などの手間がほとんどいらず,手間をかけても経済的に成り立つようなものをいいます.
 したがって,ほとんど大部分が堆積性の砂鉱床.
 真砂化した花崗岩から直接人為的に“砂鉄”を取り出すということは,ほとんど頭にないわけです.したがって,「鉄穴流し」は「(人工的な)風化残留鉱床」というような分類しかできないわけです.もちろん,「鉄穴ながし」では,すでに沖積層に堆積している砂鉱床も段丘堆積物中の砂鉱床も区別せずに稼業しているでしょうから,「(人工的な)風化残留鉱床」だけではなく,「堆積性鉱床」も採掘していたことになります.だから,“赤目もどき”も混じってきます.

 堆積性の砂鉱床の構成鉱物は,その鉱床の上流にある地質に左右されますので,日本のように地質が複雑な地域では,単純である方が少ないと思っていいでしょう.更に原鉱物に風化作用が加わりますので,さらに変化します.もともと一定な成分を要求する企業的な製鉄作業には,原則的に向いていないことが理解できると思います.
 もちろん,そうだからこそ,比較的均質な原料を供給できる鉄穴流し(特に真砂)による人工的な風化残留鉱床を作り出し,たたら製鉄によって優秀な「鉄」を生産してきたわけですね.

 地質屋の頭には「砂鉄鉱床」は複合的な鉱物組成を持つという先入観があります.だから,砂鉄鉱床は含有鉱物や鉱床の形態などの記載が進む一方で,砂鉄の持っている本質的な研究はなかなか進みませんでした.


 一方で,1970年代の初め頃から,別な方面から,重要な論文が出始めます.
 それは,日本列島全体という大きなスケールで,岩石中の鉄成分に大きな違いがあるというものでした.

 石原舜三氏は花崗岩地帯に胚胎する各種金属鉱床について研究していました.
 石原氏は,いくつかの金属鉱床が帯状に配列し,それらは花崗岩に大きく関係していることに気が付きました.
 花崗岩の研究を続けるうちに,1974年頃には,「日本の花崗岩の帯磁率については,それが高低2群に分かれ,中間値があまりないこと,それぞれが見事な帯状配列を示すこと」がわかってきました.実験室では精密な帯磁率計を使いますが,フィールドでは,小型の磁石がくっつくかくっつかないかというような,目に見えて大きな違いがあります.
 石原氏は1977年に,磁石にくっつく方をmagnetite series (マグネタイト系列:磁鉄鉱系列),くっつかない方をilmenite series (イルメナイト系列:チタン鉄鉱系列)として公表しました.(図)





















 ただし,石原氏によれば,マグネタイト系列の命名は問題ないのですが,イルメナイト系列の方は,イルメナイトを主とするというわけではなく,正確にはopaque oxide-free,もしくは,Fe-Ti oxide-free なのですが, これらがきれいな和文にならないからつけてしまったといっています.
 以下,その違いについての関係分だけを示します.

  項目     磁鉄鉱系列        チタン鉄鉱系列

不透明鉱物  磁鉄鉱(0.2~2容量%)  チタン鉄鉱(0.2容量%以
       チタン鉄鉱,赤鉄鉱    下)磁硫鉄鉱,(グラフ
       黄鉄鉱(黄銅鉱)     ァイト)
       くさび石,緑れん石

黒雲母(角閃 Fe3+/Fe2+,Mg/Feが高  Fe3+/Fe2+,Mg/Feが
石)の性質  く,屈折率低い.     低く,屈折率高い.
                    ザクロ石-白雲母-黒雲母
                    花崗岩,白雲母花崗岩は
                    この系列.

簡易識別方法 研磨片,薄片上の低倍率観察による磁鉄鉱の有無.
       野外における磁石鑑定法では,肉眼的に磁性を持つこ
       とが分かれば磁鉄鉱系列としてよい.

産出位置   縁海側(大陸側)の産出. 大洋側の産出.

形成過程   上部マントルや地殻下部  大陸地殻の頁岩を含む岩
       のような深所で発生し,  石の溶融により生成した
       地殻物質と反応しにくい  か,深所で発生したマグ
       機構(割れ目を充填上昇  マが上昇過程で堆積岩類
       するなど)で上昇固結し  と反応した可能性が大き
       たと予想される.     い.
          (このブログは表の表現に弱いので申し訳ない)

 岩石としては同じ「花崗岩」ですが,マグマが地下深部から上昇する過程の違いによって,結果として帯磁率の違いにより二つの系列ができるわけです.これは図のように大きく分帯ができるわけですが,もちろん,小さなスケールでは,つまり地域によっては,混在していたりもするわけです.また,花崗岩体だけではなく,これに付随する火山岩類にも二つの系列の違いが認められるとされています.
 見た目で同じ花崗岩でも,特に不透明鉱物にはこれだけの違いがあります.岩石学的な検討を伴った「真砂粉鉄」・「赤目粉鉄」の議論はほとんど見たことがありませんが,そういう議論は地質屋には全く理解できないものでした.

 石原俊三(1974)は「真砂」と「赤目」を岩石学の言葉で語ろうとしていますが,すっきりしません.Fe-Ti比など話しが具体的になると特にそうなのですが,「真砂」と「赤目」についていわれてきたことは,ほとんどが根拠がないようなのです.
 もともと定義が不十分なうえに好き勝手に解釈されて使われてきた用語なので,一つを否定しても「いやいや,それは実は真砂でない」などといわれれば,それまでということになります.
 過去に「真砂粉鉄」を商品として売り出していた地域=鉱山を特定し,母岩の性質,鉄鉱物の性質などを特定し,一つ一つ虱潰しに検証すれば,なにか判って来るかもしれませんが,今時そんな研究をしても,好奇心は満足できても「業績」にはならんので,多分やる人はいないでしょう.

 科学は真実を追究するためにあるのではなく,時代にマッチした業績を上げるためにあるのですからね.
 

砂鉄“研究”史(4)の4

 
地質学分野の「砂鉄研究」(4)

●チタン成分の見直し
 一方,砂鉄研究の進行とほぼ同時か少し遅れて,砂鉄のチタン成分の論文が増加し始めます.これまでは砂鉄中の主な部分である「鉄」を取り出すことが最重要課題だったのですが,その「鉄」を取り出すことの障害になっていた「チタン成分」の「チタン」そのものが素材としての重要性が指摘され始めたのです.

 原田準平(1951)「チタニウム」(北海道地質要報).
 原田準平(1953)「チタニウム資源とその利用」(北大鉱床研究会会報).
 菊地 徹(1953)「北海道のチタニウム資源」(北大鉱床研究会会報).

 これに先行する,斎藤正次(1942)「チタン鉄鉱資源,特に鉱床の性質に就いて(1-2)」(地学雑誌)もありますが,1953年から,目に見えてチタン関連の論文が増え始めます.平社敬之助(1955)の雑誌名を見ていただくとわかるように,なんと「チタニウム」という研究誌があったようです.残念なことに,この実態は全くわかりません.
 ほかにも「北大鉱床研究会」なるグループがあったようですが,こちらも実態がよくわかりません.北大地鉱教室の歴史は,これからも追い続けてゆくつもりですので,なにか判りましたら,お知らせしましょう.

 高沢松逸(1953)「北見紋別志文のチタン鉄鉱床」(北大鉱床研究会会報)
 地質調査所北海道支所探鉱課(1955編)「北海道のチタン資源 第1報」(地質調査所報告)
 平社敬之助(1955)「北海道における含チタン砂鉄について」(チタニウム).
 平社敬之助(1955)「北海道産含チタン砂鉄処理に関する調査研究報告書」(北海道商工部資源課).
 平社敬之助・田中時昭(1955)「北海道産含チタン砂鉄の磁性に関する研究」(鉄と鋼).
 番場猛夫・五十嵐昭明(1956a)「北海道茅部郡鹿部村含チタン砂鉄鉱床調査報告」(地質調査所月報).
 松村 明(1956)「北海道上川郡下川町の含チタン砂鉄鉱床調査報告」(地質調査所月報).
 番場猛夫・五十嵐昭明(1956)「北海道室蘭鉱山の含チタン砂鉄鉱床調査報告」(地質調査所月報).
 松村 明(1956)「北海道川上郡下川町北部地区の砂チタン鉱床調査報告」(地質調査所月報).
 梅本 悟・松村 明(1957)「北海道勇払郡穂別および紋別市志文含チタン砂鉄鉱床調査報告」(地質調査所月報).
 野口 勝・中川忠夫(1958)「北海道勇払郡穂別含チタン砂鉄鉱床試錐調査報告」(地質調査所月報).
 藤原哲夫(1960)「オホーツク海と根室海峡沿岸地域の砂チタンおよび含チタン砂鉄鉱床について」(北海道地下資源調査所報告).
 地質調査所(1960)「本邦の含チタン砂鉄および磁硫鉄鉱資源」(地調報告,特別号).
 北海道立工業試験場(1960)「北海道における含チタン砂鉄の性状試験」(昭和34年度 選鉱製錬試験資料).
 北海道立工業試験場(1961編)「北海道における含チタン砂鉄の性状」(選鉱精錬試験報告書).
 藤原哲夫・二間瀬洌(1961)「北海道の砂チタンおよび含チタン砂鉄鉱石(1)-特に化学組成について-」(北海道地下資源調査所報告).
 加藤金二(1961)「北海道産チタン砂鉄の研究(第2報)」(チタニウム).
 服部富雄(1962)「本邦砂鉄の構成鉱物と粒度分布について一本邦の含チタン砂鉄資源補遺一」(地質調査所月報).
 藤原哲夫(1962)「北海道の砂チタンおよび含チタン砂鉄鉱石」(北海道地下資源調査所報告).
 藤原哲夫・渡辺卓(1962)「長万部町北部および黒松内町東部鉄鉱床調査報告」北海道地下資源調査資料,No.75.


 不思議なことに,1962(昭和37)年以降,チタン鉄鉱を含めて砂鉄に関する報告は,全く影を潜めます.
 東京オリンピックの開催が1964年.「もはや戦後ではない」といわれたのがこの頃でしょうか.平和で経済的に豊かに.このことは,国内の地下資源に関する研究を不要のものとしてしまいます.やがて,鉄以外の金属鉱山も,炭坑も,日本から姿を消してゆきます.
 「これでよかったのか」というような問いはしないことにしましょう.
 ともかくも,砂鉄や砂チタンは人の都合には関係なく,まだそこにあります.必要になれば,使うことを,また考えるでしょう.

 これらの成果について,いくつか記しておきたいことがあるのですが,知り合いに頼んだ文献がまだ到着していないので,これらは検討を済ませてから,後日また触れることにしましょう.
 

砂鉄“研究”史(4)の3

 
地質学分野の「砂鉄研究」(3)

●復興のために(砂鉄の復権)
 1946年,極東国際軍事裁判,開廷.同年,日本国憲法公布.
 1947年,日本国憲法施行.
 1948年,極東国際軍事裁判,判決でる.
 1950年,朝鮮戦争勃発.“特需”が増大.警察予備隊設置.
 1951年,“糸ヘン景気”好調.
 1952年,“三白景気”
 1953年,「朝鮮休戦協定調印」
 1956年,“神武景気”高潮
 1957年,“なべ底景気”到来
 1959年,“岩戸景気”
 1961年,株式大暴落.
 1964年,東京オリンピック開催.
 1965年,米軍のヴェトナム北爆開始.
 1967年,鉄鋼業界の景気回復始まる.

 終戦直線から始められた砂鉄鉱床の精査は,「戦時」には間に合いませんでした.しかし,終戦後,少しの休止期をおいて再開されます.
 1950年代から始まる復興-好景気は,朝鮮半島で起きた動乱がきっかけになっていなかったとはいえないでしょう.この好景気を背景に,砂鉄鉱床の調査が進められます.
 総合的な調査としては,1953(昭和28)年~1954(昭和29)年にかけて,地質調査所・北海道支所・探鉱課が斎藤正雄・番場猛夫らを首班とし道内全域にわたる調査を行いました.これらは,地質調査所(1955)「北海道のチタン資源」(地調報告,165号)として公表されています.
 一方,1954(昭和29)年から日本全国を対象とした「未利用鉄資源」の調査が進められ,これらの成果は,地下資源開発審議会鉱山部会・未利用鉄資源開発調査分科会(1955~1962編)「未利用鉄資源.第1~9輯」(日本鉄鉱連盟)として出版されています.
 同様のことは,北海道独自にも行われ,北海道大学・地質調査所北海道支所・札幌通産局・道立地下資源調査所・道立工業試験場などが北海道各地の砂鉄鉱床について明らかにし,北海道未利用鉄資源開発調査委員会(1955~1962編)「北海道の未利用鉄資源調査報告 第1~9輯」(北海道未利用鉄資源開発調査委員会)として出版されました.
 個別の論文としても,大町北一郎・鈴木淑夫・早川 彰(1955)「北海道苫小牧市を中心とせる海浜砂鉄鉱床について(I-II)」(岩石鉱物鉱床学会誌)などがあります.

 こういった,総合的な砂鉄鉱床の調査に並行して,砂鉄そのものの鉱物学的検討も進められます.

 種子田定勝(1949)「磁鐵鑛に關する岩石學的一考察(1~2)」(地質学雑誌)
 岩崎岩次(1950)「火山岩中の所謂磁鉄鉱の化学組成とその母岩の岩漿の時期(1 ~ 3)」(九州鉱山学会誌)
 渡辺万次郎・苣木浅彦・山江徳載(1951)「金属鉱物相互の固溶及び離溶とその選鉱製錬上の意義について」(東北大学選鉱製錬研究所彙報)
 竹内常彦・南部松夫・岡田広吉(1954)「砂鉄中のマグヘマイトについて」(東北大学選鉱製錬研究彙報)
 竹内常彦・南部松夫(1956)「砂鉄中の含水酸化鉄について」(東北大学選鉱製錬研究所彙報)
 平社敬之助・田中時昭・栗原二郎(1956)「北海道産砂鉄の性状並びに化学組成に関する研究(I-II)」(北大工学部研究報告)
 竹内常彦・南部松夫・岡田広吉(1956)「砂鉄の性状に関する研究」(地下資源開発審議会).
 平社敬之助・田中時昭・栗原二郎(1959)「TiO2-Fe2O3-FeO系人工砂鉄に関する研究」(日本鉱業会誌).
 服部富雄(1962)「本邦砂鉄の構成鉱物と粒度分布について」(地質調査所月報)

 こういった研究のいくつかを実際に読めば「砂鉄は真砂と赤目に分けられる」などという話しは,いかに現実離れしているかということはわかると思います.悲しいかな,私にはこういう鉱物学的な話しをわかり易く伝える能力がありませんので,目についた論文を揚げるだけでお茶を濁しておきます.

 一方で,以下のような,研究史や総合的な解説なども現れてきます.
 大町北一郎(1953-1954)「北海道の鉄鉱床と製鉄史について(1~4)」(北海道鉱山学会誌)
 渋谷五郎(1954)「磁鉄鉱の問題」(北海道地質要報).

 

砂鉄“研究”史(4)の2

 
地質学分野の「砂鉄研究」(2)

●鉄の時代・その始まり
 1894年,日本軍,朝鮮出兵.同年,日清戦争始まる.
 1895年,日清講和条約締結.同年,台湾総督府設置.
 1901年,八幡製鉄所操業開始.
 1904年,日露戦争始まる.
 1905年,日本海海戦.
 1906年,南満洲鉄道会社設立.
 1909年,室蘭製鉄所完成.
 1910年,韓国併合.同年,朝鮮総督府設置.

 皇軍の大陸侵攻が始まるのと並行して石狩炭田ほかの炭田の開発が進みます.北海道各地の鉱山が発見されてゆきますが,大規模な地質調査は,ほぼ棚上げ状態となります.
 なぜ?
 地質屋の数が限られているのに,あちらの方には開発しなければならない資源がたくさんあるからですよ.

 日清戦争の結果,日本は中国の鉄鉱石を確保.その鉄鉱石を原料とした八幡製鉄所が,1901年に操業開始.しかし,西欧からの製鉄技術の導入・技術移転がうまくいかず,しばしば操業を停止するなど,経営が黒字に転じたのは1910年頃になってからといわれています.
 1909(明治42)年に完成した室蘭製鉄所(当時は北海道炭礦汽船の輪西製鉄場)では,八雲・古武井産の砂鉄を塊状鉄鉱と混合した原料による精錬を開始しています.このような混合原料による製鉄は日本最初のものといわれています.
 しかし,この砂鉄を利用した製鉄は,砂粒が高炉中での通風を妨げ,また含有するチタン分がスラグ中に高融点の物質を生じ,溶融物の流動性を低下させ,鉄の分離を困難にするという,実用上の障害が現実問題としておこってきました.実際に,大正年間から昭和初期にかけては,ほとんど利用されていなかったようです.

 明治末期から大正期にかけての日本は,鉱業発展期にあたると考えられています.
 これを受けて,地質調査所(日本)は,1910(明治43)年から1924(大正13)年まで,鉱物調査事業を実施しました.主として北海道の油田・炭田その他の鉱産地の調査が目的です.
 この事業は,北海道が,それまで地質調査所がおこなっていた1/20万地質図幅の調査範囲外だったためだといわれています.しかし,年表にあるとおり,大陸に広がってゆく日本の支配地域における地下資源を調査する必要があり,その調査要員を育成する場だったともいわれています.
 この結果は「鉱物調査報告」(1~37号,明治44~昭和5年)としてまとめられています.その中には,大日方順三(1912)「渡島国亀田郡尻岸内村 同茅部郡及胆振国山越郡 砂鉄調査報文」(113-118頁,鉱物調査報告,第12号),納富重雄(1919)「北見国斜里郡斜里村砂鉄調査報文」(43-47頁,鉱物調査報告,第28号)などの砂鉄に関する調査の報告もあります.
 前者は噴火湾南部の砂鉄の鉱量・品質について述べ,いわゆる浜砂鉄は採掘が容易なので,船や鉄道で運搬するのがよいと書かれています.後者は,斜里村のウナベツ河口付近の砂鉄に付いて述べ,堆積鉱床の層厚の変化が大きく,総鉱量はあまり期待できないとしています.


●鉄の時代・火薬の匂いと共に
 1914年,ドイツに宣戦布告,第一次世界大戦に参戦.
 1918年,政府,シベリア出兵を宣言.
 1928年,張作霖爆殺事件.
 1931年,満洲事変起きる.同年,関東軍チチハル占領.
 1932年,関東軍,ハルビン占領.同年,第一次上海事件.同年,満州国建国.五一五事件.
 1933年,関東軍,熱河省侵攻.同年,日本,国際連盟より脱退.同年,関東軍,河北へ侵入.
 1934年,溥儀,満州国皇帝となる.
 1936年,二二六事件.同年,日独防共協定成立.
 1937年,盧溝橋事件.日中戦争始まる.同年,日独伊防共協定成立.
 1938年,国家総動員法発令.同年,日本軍,広東・武漢三鎮を占領.
 1939年,日本軍,海南島占領.同年,ノモンハン事件.同年,第二次世界大戦始まる.
 1940年,日本軍,北部仏印に進駐.同年,日独伊三国同盟締結.大政翼賛会発足.
 1941年,関東軍,特殊演習.真珠湾奇襲,太平洋戦争始まる.
 1942年,日独伊軍事協定調印.同年,シンガポール占領.ミッドウェー海戦.
 1943年,日本軍,ガダルカナルを撤退.同年,イタリア,無条件降伏.
 1944年,サイパン島の日本軍全滅.テニヤン・グアム島の日本軍全滅.レイテ沖海戦.B29の東京空襲始まる.
 1945年,東京大空襲.硫黄島の日本軍全滅.米軍,沖縄本島に上陸.ドイツ無条件降伏.広島・長崎に原爆投下.終戦.

 俵国一が「古来の砂鉄精錬法ーたたら吹製鉄法」を出版してから二年後,ようやく岩石学者によって鉄鉱物;磁鉄鉱-赤鉄鉱の岩石中での動向が語られます.
 渡邊萬次郎(1935)「磁鉄鉱及び赤鉄鉱の成因的関係に関する諸問題(1), (2)」(岩石礦物礦床學,13巻)は,岩石中の鉄の動向についての諸問題を概説しています.
「マグマ中の鉄は主としてFeOとして晶出し,鉄苦土珪酸塩類中の主成分をなすが,一部はCr2O3, TiO2などと結合して,クロム鉄鉱(FeO・Cr2O3),チタン鉄鉱(FeO・TiO2)などとして晶出する.一部は,赤鉄鉱(Fe2O3)になり,あるいは磁鉄鉱(FeO・Fe2O3)となる.」
「クロム鉄鉱(FeO・Cr2O3)などは主として塩基性岩に産し,2FeO・SiO2,FeO・SiO2などの諸分子も塩基性岩におけるほど増加する.これに反して,赤鉄鉱(Fe2O3)はほとんど酸性岩中に限られ,磁鉄鉱(FeO・Fe2O3)はそれらの中間に位置する.言い換えれば,酸性岩におけるほど,Fe2O3:FeOの比は大きい.」
 渡辺萬次郎は1944年にも「砂鉄鉱床に関する二三の観察」(岩石鉱物鉱床学会誌,31巻)を公表しています.その一部を抜粋.
「岩石の分解漂流によつて生じた砂礫の中に,特に多量の鐵礦物が集中したのが砂鐵 (iron placer) である。こゝに鐵礦物と言つても,その大部分は磁鐵礦で,赤鐵礦や褐鐵礦は,多量に伴なふことがあるが,これを主とすることはない。この外チタン鐵礦は,極めて屡々微細な顯微鏡的薄葉をなして,砂鐵の中の磁鐵礦中を格子状に貫ぬき,稀には却つてその方を主とすることもある。クローム鐵礦また屡々伴はれるが,それに富めば,砂クローム礦として區別せられ,紫蘇輝石等の珪酸鐵を主とするものは,砂鐵としては取扱はれぬ。」
 共に一般論に近いものですが,以前に紹介した「たたら研究者(冶金学者・技術者)」がしていた「真砂・赤目」などの議論とは,だいぶ異なることがわかると思います.

 砂鉄鉱業の不振から,明治末期から大正期の「鉱物調査報告」以来,長期間にわたって砂鉄鉱床の調査は行われませんでした.しかし,中国での軍事衝突以来,日本では鉄資源が不足し,また砂鉄が脚光を浴びることになります.
 その背景には,1930(昭和5)年頃,三菱製鉄の向山幹夫技師がチタンを含む砂鉄を原料とする電気製鉄を実用化したことがあります.

 製鉄業界に民間企業が参入し,徐々に鋼材生産高が増加し,鋼材輸出高が輸入高を追い越したのは1934(昭和9)年頃とか.しかし,民間企業の論理は輸入した安い銑鉄やくず鉄を鋼材として輸出することにありました.鉄鉱石から鉄を精錬する高炉は,ほとんど企業としては成立していませんでした.
 それでも,国内の砂鉄は鉄の原料として期待が高まってゆきました.

 1936年には,長谷川熊彦著「砂鉄=本邦砂鉄鉱及び其利用=」(日本工学全書)が出版されます.これは,論文ではなく,教科書です.私はまだこの本は見たことがありませんが,教科書が出版されるほど,この時代には「砂鉄」が重要視されていたということですね.長谷川熊彦も官営・八幡製鉄所で砂鉄の電気製鉄に関する研究を長い間続けていたということです.


 1930年,北海道帝国大学に理学部開学.
 地質学鉱物学教室,第一講座・第二講座開設.第一期生入学.この日,北海道に地質学の基礎を研究する機関が生まれました.翌1931年,地質学鉱物学教室・第三講座増設(第三講座はのちに鉱床学講座と呼ばれます).上床国夫教授,原田準平助教授.
 1933年,吉村豊文が助教授として赴任.

 1938年,吉村豊文は「胆振穂別鉱山の鉄鉱床」(岩石礦物礦床學)を公表.
 穂別鉱山の鉄鉱床とは穂別村中穂別のシュッタの沢付近に露出するイルメナイト砂岩のことで,白亜系蝦夷層群上部と函淵層群の漸移層に存在する黒色堅硬な鉱石です.当時は坑道が掘られ,鉱石として採掘されていました.むかわ町立穂別博物館に行くと実物が見られますし,現地ではまだ転石の採集が可能です.
 函淵層群は白堊紀当時の海が浅海化してゆく岩相を示していて,この鉱層は蝦夷層群から函淵層群に漸移する時に(構造運動とは異なる)著しい浅海化があったことを示すものとされています.要するに白堊紀の(浜)砂鉄ですね.
 この地域は,北大地鉱教室・第一期生の大立目謙一郎のフィールドでした.大立目は卒業後,北海道炭礦汽船に入社.石炭層の調査の傍ら,引き続きこの付近の調査を続けていました.大立目が明らかにしてゆくこの付近の地質構造の複雑さは,やがて日高山脈の成因論に結びついてゆきます.この地域での蝦夷層群と函淵層群の境界には古生物学的ギャップや構造的ギャップがなく岩相は漸移的に変わってゆきますが,この著しい浅海化を示すイルメナイト砂岩層に境界をおいたのは,大立目の見解でした.

 1943年,吉村泰明によって「北海道噴火湾沿岸の砂鉄の賦存状態に就いて」(地学雑誌)が公表されます.吉村泰明はこの中で,これまで行われてきた砂鉄の研究は「主として砂鉄の精錬に関する研究であって,砂鉄の鉱床に関する研究は殆んど行われて居らず,只僅かに数カ所で鉱量調査が行われたに過ぎない」ことを指摘しています.また,砂鉄研究は軍事と経済のバランスによって,今(当時)脚光を浴びていることも指摘しています.
 砂鉄鉱床の研究が遅れているために,鉱量の計算も粗雑で,そのため採掘も原始的で経済的でないため,砂鉄鉱床の研究を急がなければならないとしています.

 しかし,吉村豊文(1938),吉村泰明(1943)などの調査は局地的なもので,北海道全体の砂鉄鉱床がどうなっているのかというような広域的な調査は,終戦間近になってからのことになります.
 1944(昭和19)年,戦時緊急開発調査としておこなわれた舟橋三男による鷲別から噴火湾沿岸を経て亀田半島に至る調査が行われます.これはのちに舟橋三男(1950)「西南部北海道砂鉄鉱床概観」(北海道地下資源資料)として公表されます.舟橋は1941年に北大地鉱教室を卒業.この時は理学部助手でした.

 終戦時の1945(昭和20)年には,北海道工業試験場が苫小牧から噴火湾沿岸,亀田半島を周って湯ノ川に至る調査(斎藤正雄ほか,1946:噴火湾を中心とせる海浜砂鉄鉱床調査報告;北工試時報)が行われていました.
 

砂鉄“研究”史(4)の1

 
地質学分野の「砂鉄研究」(1)

 さて,大変なお題をつけてしまいましたが,多分これはうまくいかないだろうと思います.日本全国の砂鉄研究なんて,私には網羅できません.それで,北海道での砂鉄研究を軸に,研究動向を左右する全国的な話題を付け加えて,砂鉄研究を一覧してみたいと思います.


●古記録から
 北海道で砂鉄が歴史に記録された最初のものは,「志濃利(志濃里・志海苔)の砂鉄」です.記録された時代は足利時代の康正二(1456)年のこと.これについては,すでに蝦夷地質学外伝で概略述べていますので参照ください.なお,産業考古学分野では,こんな古い時代の北海道には,鉄の「精錬遺跡」はなくて,すべて「鍛冶遺跡」と見なされているようです.したがって,砂鉄が利用された証拠はないということになります.
 あまり納得できないので,2009.02.12.付け「北海道の製鉄遺跡」で少し議論してみましたが,結論があるわけではありません.文献的には,休明光記に享和元(1801)年に箱館付近の石崎村や八雲付近遊楽部で砂鉄を使用した精錬をおこなったという記録があります.


●先駆者たち
 産業考古学者も同意する最古の北海道の鉄精錬遺跡というのは,武田斐三郎の熔鉱炉(安政年間;1854~1859)です.ここではあきらかに「砂鉄」が使用されていました.斐三郎の熔鉱炉については,蝦夷地質学で紹介しましたが,これも,まだまだわからないことがたくさんあります.
 1862(文久二)年,箱館奉行が招聘したBlake, W. P.とPumpelly, R.は古武井付近の砂鉄を観察すると同時に,砂鉄の洋式熔鉱炉による精錬は困難であることを警告しています.


●ライマン登場
 科学的な記述とともに砂鉄のことが示されたのは,やはりB. S. ライマンに始まります.來曼(1873)「北海道地質測量報文」(和文)に「沙銕」の項目があり,噴火湾に産する砂鉄について記録しています.山越内・古武井の二カ所.いずれも磁鉄鉱と思われるが,磁石を持参していないので,肉眼による観察だけ,と.
 山越内の近くには,鍛冶炉の廃墟があったことを記述しています.記載の bloomery forgeは現在は「錬鉄炉」と訳しますが,記載からは,どうも,砂鉄精錬で「たたら製鉄」かと思われます.これには水車による鞴がついていたそうです.
 古武井村でも大量の砂鉄があることを記載.また,15年ほど前には,ここで採取した砂鉄を,今は廃墟になっている熔鉱炉(blast furnace)に送ったとあります.こちらは斐三郎の熔鉱炉のことでしょう.
 また,尻岸内村にも砂鉄鉱床があり,これらは17年前「メノカオイ」(女那川?)上流二マイルにあった「竃炉」において三カ年にわたり鉄を精錬したとあります.これは「仮熔鉱炉」とされたものにあたるらしいです.この炉の形態は直方体(2.1m × 1.2m × 1.5m)で,ほぼ間違いなく古式の「たたら炉」であったようです.
 さらに,來曼(1877)「北海道地質総論」(和文)では山越内付近の砂鉄はチタン分が多いことを指摘し,精錬は困難であろうことを指摘しています.しかし,同時に海外では熔融剤の混入により製鉄をなしていることも示していますね.また,古武井・尻岸内の砂鉄はチタン分が少なく製鉄に適しているが,量が少ないとしています.


●概査の時代
 ライマンの来日によって,灯された近代地質学の火はゆっくりと周囲を照らし始めます.
 1886(明治19)年,北海道庁設置.
 北海道庁は,第一次地質鉱物調査事業を計画.1888(明治21)年から1891(明治24)年にかけて踏査がおこなわれ,北海道全体の概査が始まります.これらは未開地だった北海道の各地を歩いて概査し,鉱産物を記録するというものでした.
 これらは神保小虎(1889)「北海道地質略説」,神保小虎(1890)「北海道地質略論」,神保小虎(1892)「北海道地質報文(上・下)」,西山正吾ほか(1891)「北海道鉱床調査報文」となって出版されました.一方で,多羅尾忠郎(1890編)「北海道鉱山略記」は古文書から鉱産記録を抜き出し,道内の鉱産記録を収集しました.
 1892(明治25)年から1895(明治28)年にかけては,北海道庁第二次地質鉱物調査事業がおこなわれ,こんどは石川貞治・横山壮次郎(1894)「北海道庁地質調査 鉱物調査報文」,石川貞治(1896)「北海道庁地質調査 鉱物調査第二報文」として出版.
 多羅尾(1890編)と同様のことは,石川貞治(1897)「北海道鉱産及鉱業に関する舊記」や上野景明(1918)「明治以前に於ける北海道鉱業の発達」がおこなっています.