2009年5月1日金曜日

砂鉄“研究”史(4)の2

 
地質学分野の「砂鉄研究」(2)

●鉄の時代・その始まり
 1894年,日本軍,朝鮮出兵.同年,日清戦争始まる.
 1895年,日清講和条約締結.同年,台湾総督府設置.
 1901年,八幡製鉄所操業開始.
 1904年,日露戦争始まる.
 1905年,日本海海戦.
 1906年,南満洲鉄道会社設立.
 1909年,室蘭製鉄所完成.
 1910年,韓国併合.同年,朝鮮総督府設置.

 皇軍の大陸侵攻が始まるのと並行して石狩炭田ほかの炭田の開発が進みます.北海道各地の鉱山が発見されてゆきますが,大規模な地質調査は,ほぼ棚上げ状態となります.
 なぜ?
 地質屋の数が限られているのに,あちらの方には開発しなければならない資源がたくさんあるからですよ.

 日清戦争の結果,日本は中国の鉄鉱石を確保.その鉄鉱石を原料とした八幡製鉄所が,1901年に操業開始.しかし,西欧からの製鉄技術の導入・技術移転がうまくいかず,しばしば操業を停止するなど,経営が黒字に転じたのは1910年頃になってからといわれています.
 1909(明治42)年に完成した室蘭製鉄所(当時は北海道炭礦汽船の輪西製鉄場)では,八雲・古武井産の砂鉄を塊状鉄鉱と混合した原料による精錬を開始しています.このような混合原料による製鉄は日本最初のものといわれています.
 しかし,この砂鉄を利用した製鉄は,砂粒が高炉中での通風を妨げ,また含有するチタン分がスラグ中に高融点の物質を生じ,溶融物の流動性を低下させ,鉄の分離を困難にするという,実用上の障害が現実問題としておこってきました.実際に,大正年間から昭和初期にかけては,ほとんど利用されていなかったようです.

 明治末期から大正期にかけての日本は,鉱業発展期にあたると考えられています.
 これを受けて,地質調査所(日本)は,1910(明治43)年から1924(大正13)年まで,鉱物調査事業を実施しました.主として北海道の油田・炭田その他の鉱産地の調査が目的です.
 この事業は,北海道が,それまで地質調査所がおこなっていた1/20万地質図幅の調査範囲外だったためだといわれています.しかし,年表にあるとおり,大陸に広がってゆく日本の支配地域における地下資源を調査する必要があり,その調査要員を育成する場だったともいわれています.
 この結果は「鉱物調査報告」(1~37号,明治44~昭和5年)としてまとめられています.その中には,大日方順三(1912)「渡島国亀田郡尻岸内村 同茅部郡及胆振国山越郡 砂鉄調査報文」(113-118頁,鉱物調査報告,第12号),納富重雄(1919)「北見国斜里郡斜里村砂鉄調査報文」(43-47頁,鉱物調査報告,第28号)などの砂鉄に関する調査の報告もあります.
 前者は噴火湾南部の砂鉄の鉱量・品質について述べ,いわゆる浜砂鉄は採掘が容易なので,船や鉄道で運搬するのがよいと書かれています.後者は,斜里村のウナベツ河口付近の砂鉄に付いて述べ,堆積鉱床の層厚の変化が大きく,総鉱量はあまり期待できないとしています.


●鉄の時代・火薬の匂いと共に
 1914年,ドイツに宣戦布告,第一次世界大戦に参戦.
 1918年,政府,シベリア出兵を宣言.
 1928年,張作霖爆殺事件.
 1931年,満洲事変起きる.同年,関東軍チチハル占領.
 1932年,関東軍,ハルビン占領.同年,第一次上海事件.同年,満州国建国.五一五事件.
 1933年,関東軍,熱河省侵攻.同年,日本,国際連盟より脱退.同年,関東軍,河北へ侵入.
 1934年,溥儀,満州国皇帝となる.
 1936年,二二六事件.同年,日独防共協定成立.
 1937年,盧溝橋事件.日中戦争始まる.同年,日独伊防共協定成立.
 1938年,国家総動員法発令.同年,日本軍,広東・武漢三鎮を占領.
 1939年,日本軍,海南島占領.同年,ノモンハン事件.同年,第二次世界大戦始まる.
 1940年,日本軍,北部仏印に進駐.同年,日独伊三国同盟締結.大政翼賛会発足.
 1941年,関東軍,特殊演習.真珠湾奇襲,太平洋戦争始まる.
 1942年,日独伊軍事協定調印.同年,シンガポール占領.ミッドウェー海戦.
 1943年,日本軍,ガダルカナルを撤退.同年,イタリア,無条件降伏.
 1944年,サイパン島の日本軍全滅.テニヤン・グアム島の日本軍全滅.レイテ沖海戦.B29の東京空襲始まる.
 1945年,東京大空襲.硫黄島の日本軍全滅.米軍,沖縄本島に上陸.ドイツ無条件降伏.広島・長崎に原爆投下.終戦.

 俵国一が「古来の砂鉄精錬法ーたたら吹製鉄法」を出版してから二年後,ようやく岩石学者によって鉄鉱物;磁鉄鉱-赤鉄鉱の岩石中での動向が語られます.
 渡邊萬次郎(1935)「磁鉄鉱及び赤鉄鉱の成因的関係に関する諸問題(1), (2)」(岩石礦物礦床學,13巻)は,岩石中の鉄の動向についての諸問題を概説しています.
「マグマ中の鉄は主としてFeOとして晶出し,鉄苦土珪酸塩類中の主成分をなすが,一部はCr2O3, TiO2などと結合して,クロム鉄鉱(FeO・Cr2O3),チタン鉄鉱(FeO・TiO2)などとして晶出する.一部は,赤鉄鉱(Fe2O3)になり,あるいは磁鉄鉱(FeO・Fe2O3)となる.」
「クロム鉄鉱(FeO・Cr2O3)などは主として塩基性岩に産し,2FeO・SiO2,FeO・SiO2などの諸分子も塩基性岩におけるほど増加する.これに反して,赤鉄鉱(Fe2O3)はほとんど酸性岩中に限られ,磁鉄鉱(FeO・Fe2O3)はそれらの中間に位置する.言い換えれば,酸性岩におけるほど,Fe2O3:FeOの比は大きい.」
 渡辺萬次郎は1944年にも「砂鉄鉱床に関する二三の観察」(岩石鉱物鉱床学会誌,31巻)を公表しています.その一部を抜粋.
「岩石の分解漂流によつて生じた砂礫の中に,特に多量の鐵礦物が集中したのが砂鐵 (iron placer) である。こゝに鐵礦物と言つても,その大部分は磁鐵礦で,赤鐵礦や褐鐵礦は,多量に伴なふことがあるが,これを主とすることはない。この外チタン鐵礦は,極めて屡々微細な顯微鏡的薄葉をなして,砂鐵の中の磁鐵礦中を格子状に貫ぬき,稀には却つてその方を主とすることもある。クローム鐵礦また屡々伴はれるが,それに富めば,砂クローム礦として區別せられ,紫蘇輝石等の珪酸鐵を主とするものは,砂鐵としては取扱はれぬ。」
 共に一般論に近いものですが,以前に紹介した「たたら研究者(冶金学者・技術者)」がしていた「真砂・赤目」などの議論とは,だいぶ異なることがわかると思います.

 砂鉄鉱業の不振から,明治末期から大正期の「鉱物調査報告」以来,長期間にわたって砂鉄鉱床の調査は行われませんでした.しかし,中国での軍事衝突以来,日本では鉄資源が不足し,また砂鉄が脚光を浴びることになります.
 その背景には,1930(昭和5)年頃,三菱製鉄の向山幹夫技師がチタンを含む砂鉄を原料とする電気製鉄を実用化したことがあります.

 製鉄業界に民間企業が参入し,徐々に鋼材生産高が増加し,鋼材輸出高が輸入高を追い越したのは1934(昭和9)年頃とか.しかし,民間企業の論理は輸入した安い銑鉄やくず鉄を鋼材として輸出することにありました.鉄鉱石から鉄を精錬する高炉は,ほとんど企業としては成立していませんでした.
 それでも,国内の砂鉄は鉄の原料として期待が高まってゆきました.

 1936年には,長谷川熊彦著「砂鉄=本邦砂鉄鉱及び其利用=」(日本工学全書)が出版されます.これは,論文ではなく,教科書です.私はまだこの本は見たことがありませんが,教科書が出版されるほど,この時代には「砂鉄」が重要視されていたということですね.長谷川熊彦も官営・八幡製鉄所で砂鉄の電気製鉄に関する研究を長い間続けていたということです.


 1930年,北海道帝国大学に理学部開学.
 地質学鉱物学教室,第一講座・第二講座開設.第一期生入学.この日,北海道に地質学の基礎を研究する機関が生まれました.翌1931年,地質学鉱物学教室・第三講座増設(第三講座はのちに鉱床学講座と呼ばれます).上床国夫教授,原田準平助教授.
 1933年,吉村豊文が助教授として赴任.

 1938年,吉村豊文は「胆振穂別鉱山の鉄鉱床」(岩石礦物礦床學)を公表.
 穂別鉱山の鉄鉱床とは穂別村中穂別のシュッタの沢付近に露出するイルメナイト砂岩のことで,白亜系蝦夷層群上部と函淵層群の漸移層に存在する黒色堅硬な鉱石です.当時は坑道が掘られ,鉱石として採掘されていました.むかわ町立穂別博物館に行くと実物が見られますし,現地ではまだ転石の採集が可能です.
 函淵層群は白堊紀当時の海が浅海化してゆく岩相を示していて,この鉱層は蝦夷層群から函淵層群に漸移する時に(構造運動とは異なる)著しい浅海化があったことを示すものとされています.要するに白堊紀の(浜)砂鉄ですね.
 この地域は,北大地鉱教室・第一期生の大立目謙一郎のフィールドでした.大立目は卒業後,北海道炭礦汽船に入社.石炭層の調査の傍ら,引き続きこの付近の調査を続けていました.大立目が明らかにしてゆくこの付近の地質構造の複雑さは,やがて日高山脈の成因論に結びついてゆきます.この地域での蝦夷層群と函淵層群の境界には古生物学的ギャップや構造的ギャップがなく岩相は漸移的に変わってゆきますが,この著しい浅海化を示すイルメナイト砂岩層に境界をおいたのは,大立目の見解でした.

 1943年,吉村泰明によって「北海道噴火湾沿岸の砂鉄の賦存状態に就いて」(地学雑誌)が公表されます.吉村泰明はこの中で,これまで行われてきた砂鉄の研究は「主として砂鉄の精錬に関する研究であって,砂鉄の鉱床に関する研究は殆んど行われて居らず,只僅かに数カ所で鉱量調査が行われたに過ぎない」ことを指摘しています.また,砂鉄研究は軍事と経済のバランスによって,今(当時)脚光を浴びていることも指摘しています.
 砂鉄鉱床の研究が遅れているために,鉱量の計算も粗雑で,そのため採掘も原始的で経済的でないため,砂鉄鉱床の研究を急がなければならないとしています.

 しかし,吉村豊文(1938),吉村泰明(1943)などの調査は局地的なもので,北海道全体の砂鉄鉱床がどうなっているのかというような広域的な調査は,終戦間近になってからのことになります.
 1944(昭和19)年,戦時緊急開発調査としておこなわれた舟橋三男による鷲別から噴火湾沿岸を経て亀田半島に至る調査が行われます.これはのちに舟橋三男(1950)「西南部北海道砂鉄鉱床概観」(北海道地下資源資料)として公表されます.舟橋は1941年に北大地鉱教室を卒業.この時は理学部助手でした.

 終戦時の1945(昭和20)年には,北海道工業試験場が苫小牧から噴火湾沿岸,亀田半島を周って湯ノ川に至る調査(斎藤正雄ほか,1946:噴火湾を中心とせる海浜砂鉄鉱床調査報告;北工試時報)が行われていました.
 

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