2009年5月1日金曜日
砂鉄“研究”史(4)の1
地質学分野の「砂鉄研究」(1)
さて,大変なお題をつけてしまいましたが,多分これはうまくいかないだろうと思います.日本全国の砂鉄研究なんて,私には網羅できません.それで,北海道での砂鉄研究を軸に,研究動向を左右する全国的な話題を付け加えて,砂鉄研究を一覧してみたいと思います.
●古記録から
北海道で砂鉄が歴史に記録された最初のものは,「志濃利(志濃里・志海苔)の砂鉄」です.記録された時代は足利時代の康正二(1456)年のこと.これについては,すでに蝦夷地質学外伝で概略述べていますので参照ください.なお,産業考古学分野では,こんな古い時代の北海道には,鉄の「精錬遺跡」はなくて,すべて「鍛冶遺跡」と見なされているようです.したがって,砂鉄が利用された証拠はないということになります.
あまり納得できないので,2009.02.12.付け「北海道の製鉄遺跡」で少し議論してみましたが,結論があるわけではありません.文献的には,休明光記に享和元(1801)年に箱館付近の石崎村や八雲付近遊楽部で砂鉄を使用した精錬をおこなったという記録があります.
●先駆者たち
産業考古学者も同意する最古の北海道の鉄精錬遺跡というのは,武田斐三郎の熔鉱炉(安政年間;1854~1859)です.ここではあきらかに「砂鉄」が使用されていました.斐三郎の熔鉱炉については,蝦夷地質学で紹介しましたが,これも,まだまだわからないことがたくさんあります.
1862(文久二)年,箱館奉行が招聘したBlake, W. P.とPumpelly, R.は古武井付近の砂鉄を観察すると同時に,砂鉄の洋式熔鉱炉による精錬は困難であることを警告しています.
●ライマン登場
科学的な記述とともに砂鉄のことが示されたのは,やはりB. S. ライマンに始まります.來曼(1873)「北海道地質測量報文」(和文)に「沙銕」の項目があり,噴火湾に産する砂鉄について記録しています.山越内・古武井の二カ所.いずれも磁鉄鉱と思われるが,磁石を持参していないので,肉眼による観察だけ,と.
山越内の近くには,鍛冶炉の廃墟があったことを記述しています.記載の bloomery forgeは現在は「錬鉄炉」と訳しますが,記載からは,どうも,砂鉄精錬で「たたら製鉄」かと思われます.これには水車による鞴がついていたそうです.
古武井村でも大量の砂鉄があることを記載.また,15年ほど前には,ここで採取した砂鉄を,今は廃墟になっている熔鉱炉(blast furnace)に送ったとあります.こちらは斐三郎の熔鉱炉のことでしょう.
また,尻岸内村にも砂鉄鉱床があり,これらは17年前「メノカオイ」(女那川?)上流二マイルにあった「竃炉」において三カ年にわたり鉄を精錬したとあります.これは「仮熔鉱炉」とされたものにあたるらしいです.この炉の形態は直方体(2.1m × 1.2m × 1.5m)で,ほぼ間違いなく古式の「たたら炉」であったようです.
さらに,來曼(1877)「北海道地質総論」(和文)では山越内付近の砂鉄はチタン分が多いことを指摘し,精錬は困難であろうことを指摘しています.しかし,同時に海外では熔融剤の混入により製鉄をなしていることも示していますね.また,古武井・尻岸内の砂鉄はチタン分が少なく製鉄に適しているが,量が少ないとしています.
●概査の時代
ライマンの来日によって,灯された近代地質学の火はゆっくりと周囲を照らし始めます.
1886(明治19)年,北海道庁設置.
北海道庁は,第一次地質鉱物調査事業を計画.1888(明治21)年から1891(明治24)年にかけて踏査がおこなわれ,北海道全体の概査が始まります.これらは未開地だった北海道の各地を歩いて概査し,鉱産物を記録するというものでした.
これらは神保小虎(1889)「北海道地質略説」,神保小虎(1890)「北海道地質略論」,神保小虎(1892)「北海道地質報文(上・下)」,西山正吾ほか(1891)「北海道鉱床調査報文」となって出版されました.一方で,多羅尾忠郎(1890編)「北海道鉱山略記」は古文書から鉱産記録を抜き出し,道内の鉱産記録を収集しました.
1892(明治25)年から1895(明治28)年にかけては,北海道庁第二次地質鉱物調査事業がおこなわれ,こんどは石川貞治・横山壮次郎(1894)「北海道庁地質調査 鉱物調査報文」,石川貞治(1896)「北海道庁地質調査 鉱物調査第二報文」として出版.
多羅尾(1890編)と同様のことは,石川貞治(1897)「北海道鉱産及鉱業に関する舊記」や上野景明(1918)「明治以前に於ける北海道鉱業の発達」がおこなっています.
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