2009年4月19日日曜日
砂鉄“研究”史(3)
1958年頃から,「たたら研究会」が結成され,「たたら研究」が発行されます.会誌「たたら研究」は公開されていませんし,論題を見る限り地質学関係者が砂鉄の問題を整理した論文もないようなので,これらについて特に言及するつもりはありません(というか,資料を集める気がないので).
一方で,2009.03.27付け記事で示したような,部外者の私にでもたたらについて科学的検討がされていると納得できるような論文が公開されています.
「たたら研究」そのものは,これらの論文群を読むといいでしょう.それ以前の「たたら研究」は,マユにツバをつけて読む必要があります.実際,私も膨大な時間と古書購入によるお金を消費しました.ま,それなりに楽しめましたが,読んでいる最中に「イラッ」と来たことが何度かあります((^^;).
ろくな説明もなしに,「真砂」・「赤目」・「角閃花崗岩」などの用語が出てきたら,購入せずに本を閉じることをお勧めします((^^;).
注:「角閃花崗岩」:以前,地質屋はこんな言葉は使わないというような前提でお話ししたことがあるかと思います.古い論文を調べていたら,岩石学者が「角閃花崗岩」と使っている例を見つけてしまいました.ただし,同時期の岩石学者は「角閃石花崗岩」も使っていますので,ちょっとよくわかりません.もしかしたら,当時「閃緑岩」という言葉がなくて,「角閃花崗岩」を使っていたのかもしれません.どっちにしても,現在,砂鉄の源岩を「角閃花崗岩だ」と昔のママに引用したら,「?」と思われることにはかわりありません.
日本で最初に,砂鉄精錬が国家の急務であるとされたのは,幕末でした.
大砲をつくるためです.
それ以来,何度か「砂鉄精錬」のための「砂鉄研究」がブームになりました.いずれも,ご想像のとおり,戦争に関係があります.国家間の関係が悪化し,輸入が途絶えると,国内に膨大にあった砂鉄を利用するための砂鉄精錬の実用化が求められたわけです.戦争に負けて,復興のために鉄が必要なときにお金がなかった時も.
鉄の暴風が吹き荒れた60数年前の沖縄のビーチロックには“示準化石”としてコカコーラの瓶が埋まっているそうですが,一緒に砂鉄の鉱床もできているでしょうか.
いえ.遺跡に鉄製品が見つからないのは,錆びて無くなってしまうからではなく,鉄は何度でも鍛えなおされ,剣や銃は鍬や鎌に変わってゆくからだそうです.
沖縄に吹き荒れた「鉄の暴風」の残骸は,きっと鍋や釜に変わったのでしょう.
やがて平和になり,国家間の関係が正常に戻り,経済が復興すると難易度の高い砂鉄精錬の実用化をするよりも,海外の安いかつ精錬の易しい鉄鉱石を輸入した方がよいと判断されます.安い鉄鉱石がどんどん輸入されてきますから,砂鉄研究など誰一人振り向かなくなります.
経済大国になった日本には,国内の金属資源など調べる必要もないわけです.買えばいいわけですから.そんなわけで,二十世紀の終わりとともに長い歴史を誇る日本地質調査所が廃止されました.ほぼ同時期に地質学も滅びました.
世界平和万歳!
科学は絶対の真理を見つけるためにあるのではなく,社会の要請にしたがって必要な発見をするわけです.
閑話休題
次は,地質学の方面から理解する砂鉄の話しをしましょう.
砂鉄研究は上記のように意味がなくなります.しかし,あれ程忌み嫌われた砂鉄の中の「チタン成分」が,今度は特殊な素材としての希少価値が上がり,チタン鉄鉱としての砂鉄の研究が始まります.
そして,これも….
やっと,のどの奥に刺さった刺が処理できたような気がします.
やっと,斐三郎の熔鉱炉の検討に戻れます.もう「砂鉄精錬」には興味がありません.
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿