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2021年1月26日火曜日

ブンガワンソロの謎(湊先生の場合:そのは)


 関武夫氏は当時三菱鉱業の技術部に在籍していた.

 「パレンバンの石油部隊」には前編に「回想」を寄稿し,後編には「回想 その二」を寄稿している.

 関氏は,1943(昭和18)年末に徴用され,1944(昭和19)年3月にシンガポールに着き,約三週間後に南方燃料廠から南スマトラ燃料工廠地質課に配属されたという.「北大の湊氏も私と相前後して着任した」とあるから,湊先生のパレンバン着は3月末から4月初めのこととなろうか.

 湊先生が札幌を発ったのは1944(昭和19)年2月13日と教室日誌にあるので,現地赴任まで2ヶ月前後かかっている.その間何をしていたのだろうか.


 じつは,南方石油部隊関連の著書を読んでいると,その経緯が推測できる.当時軍属は軍馬・軍犬・軍鳩以下とさげすまれ,あらゆることが後回しにされていたらしい.軍人なら南方まで赴任するのに軍用機で二~三日のところ,軍属は船で三ヶ月かかるのが普通だった.船で移動するのに三ヶ月かかったわけではない.船の空きを見つけるのに無駄な時間を過ごしたのだ.湊先生は石油関連会社からの派遣ではなく,文部省派遣の学者だったため少し早かったのかも知れない.

 石油が欲しくて戦争を始めたのに,その石油を確保するための学者・技術者の移動は二の次,三の次だったわけだ.戦争に負けるわけである.

 関氏は敗戦後も現地に残され敗戦処理を行っている.その関氏もまたブンガワン・ソロを書き残している….戦中戦後を通じて過酷だった生活に潤いを与える現地の歌だったようだ.


Bengawan Solo

Bengawan Solo riwajatmu ini

Sedari dulu djadi perhatian insani,

Musim Kemarau ta'berapa airmu,

Dimusin hudjau air meluap sampai djah,

Mata airmu dari Solo,

terkurung gunung seribu,

Air mengalir sampai djauh,

achirnja kelut Isu perahu riwajatnja dulu,

Kaum pedagan lalo selalu naik itu perehu




+++


 虎岩達雄氏は,本部地質課の虎岩調査隊の隊長である.

 その虎岩氏が「パレンバンの石油部隊」(前編)に「ジャンビー地質調査記」と題した一文を掲載している.もちろん,調査隊の隊長であるから,隊の地質調査に関する記述がほとんどで,湊先生の話は出てこない.しかし,興味深い話題があったので紹介する.


「プラジューは旧BPMの製油所で、南方油田の地質学研究の中心であった。油田に関する凡ゆる資料、特に基準化石の完備と物理探査の資、コアー分析装置等は各油田から集中する料試料を分析しかつ総合して、まことに見事な技術を展開していた。内地の地質屋が個人的な野外調査をなし地質図を発行し、あるいは象牙の塔にこもって顕微鏡的研究に終っているのに比べて此処では化学、地球物理、生物学の凡べてを動員し完全に油国技術を発輝して統計的な調査を行ない、直接生産に、あるいは学術上に欠くことのできない基礎を提供していた。」


BPMBataafsche Petroleum Maatschappij NV)=バタビヤ石油会社.ロイヤル・ダッチ・シェルのインドネシアにおける事業統括会社のこと.


 ほかの石油技術者も述べているが,占領したプラジュー製油所に残された油田の地質学的資料は,日本のタコ壺的研究の匂いはなく,圧倒的にシステム化されていた.逆にいえば,南方油田の調査資料に触れた学者・技術者は最先端の石油探査技術に触れ,大いに学んだ.そして戦後,その技術を日本に持ち帰ることになる.



「オランダ時代地質調査は地表調査、地震探査、重力探査、試錐探査(外に最近は試験的に土壌分析調査が行なわれていた)等の各種の方法で五~六ケ班の調査隊が常時活動していた。これに要する調査用器材、設営材料等何れも熱地と密林、湿地等に適した特殊のものが整備されていた。写真室、測量室、製図室も科学的設備を誇り、特に資料の整理方法はいわゆるBPMシステムとして我々が最も注目した所であった。例えばカラーチャートにカステルのスタンダード・ぺンシルを用いペンシル・ナンバー何号は火山岩、何号は頁岩と、その号数を規定し青空色が19、茶色が37といった具合にナンバーで色が目に浮ぶ仕組になっていた。地質図、柱状図はそれぞれこの色で統一彩色されていた。地質符号、生産符号、測量符号なども実に合理的に出来ていた。」


 ともすれば,精神主義・根性主義に陥りがちな帝国日本とは違い,すべてがシステマチックに組まれていた.

 私が北大地鉱教室の学生時代,湊先生の講座には電子顕微鏡室(微古生物学研究室),古地磁気研究室のほか,写真暗室,写真撮影室などが独立して設置してあった.当時はそれが当たり前なのだと思っていたが,のちに大学全体を見渡せば,そうではないようだった.BPMシステムを見てきた湊先生は,そういう研究室を目指していたのだろう.

 また,話は少しズレるが,湊先生が集めていた世界各地の地質資料をいつでも見られる展示室もあった.これは現在の北大博物館の基礎になっている.旧理学部の建物が博物館として再出発した時,かなりの長期間,資料といえば理学部地鉱教室の資料しかなかった事実は,ほかの教室とは一線を画していた現れであろう.


 カステルとは,ファーバーカステル社のこと.

 卒論学生として湊教授室に伺った時,そこには百色以上はあるのではないかと思われるファーバーカステルの色鉛筆のセットがあった.当時はただの自慢話の類いかと思っていたが,その色鉛筆をつかいながら湊先生はおっしゃった.外国の地質調査所では,石灰岩は何番,火山岩は何番というように決められていて地質図もそれに従って塗り分けられている.…まさに,上記BPMシステムのことを先生はおっしゃっていたのだった.

 ちなみに当時修士過程にいたH先輩は修士論文として提出する地質図の塗色に,この色鉛筆セットをつかわせてもらい,「塗り心地が日本製ものと違う」としきりに感心していたことを思いだす.



+++


 「パレンバンの石油部隊 後編」(1983)に佐藤信正氏は「随想」と題する文を書いている.佐藤氏は当時,コークス炉建設部隊にいた.

 その中に,佐藤氏を含む一行が母国日本に帰るときの話がある.


「帰国時の昭南は、筑紫山頂に翻る日章旗も今は見えず、連日赤い玉、青い玉が夜空に飛んでいた。戦況悪化の現実に直面し、内地帰還も諦めた頃、たまたま我々は華福に恵まれ、艦隊輸送作戦命令実施の第一回目にして最後の艦隊に乗艦することを得た。」

「一同は戦艦伊勢、日向、巡洋艦大淀に分乗し、駆逐艦共五隻の艦隊、十日間の航海で、呉軍港に無事帰送することが出来た。艦内ではじめて、ミッドウエー、レイテ海戦の敗戦を聞き、昭和二十年二月十日到着した。」

「呉軍港には、戦艦大和一艦が停泊中で、帰艦の伊勢、日向の両戦艦を加えた三隻のみが当時の連合艦隊の戦艦群と記憶している。」


 先に「北大古生物学の巨人たち」では,「帰国にあたっては、技術者は攻撃されにくい病院船で帰るのが普通だが、湊は早く帰りたいために、駆逐艦に乗り帰国した。」とあった.

 さまざまな状況から考えるに,民間から徴用された技術者は帰るあてがなく放置されていたが,たまたま戦地を放棄し日本へと帰る連合艦隊に空きがあったために同乗できたに過ぎないことがわかる.そして湊先生は「駆逐艦に乗り」が正しければ,残る二隻の駆逐艦のどれかに乗っていたことになる.「第一回目にして最後の艦隊」というからには,この艦隊のどれかに乗っていたに間違いない.戦地から逃げる連合艦隊は,じつは日本で一番安全な乗り物だったのだろう.

 艦隊は十日間の航海で,1945(昭和20)年2月10日に呉軍港に到着した.そして,2月24日,湊無事帰着の電報が北大に届いた.話は整合する.


 その後,日本軍に虐待されていた連合軍捕虜のために,米国が提供した救援物資を南方へ運ぶという理由で「阿波丸」の安全航海が保証された.阿波丸は病院船ということにされた.そして,日本への帰り船には,たまたま空きがあったため,現地に取り残されていた徴用技術者の多くが乗船できることとなった.そして,阿波丸は米軍潜水艦に撃沈された.生残りはたった一人だったという.

 阿波丸撃沈には多くの謎があるが,ここでは触れない.詳しくはロジャー・ディングマン(Roger Dingman, 1997)「阿波丸撃沈=太平洋戦争と日米関係=(川村孝治,2000訳)」を読むといい.



 ところで,「パレンバンの石油部隊 後編」に塚田了氏が不思議な話を残している.

 昭和20年代の或る年,塚田さんが赤坂離宮付近をあるいていると,付近の道筋に不案内だったために警察官に道を尋ねたところ,その人物は戦時中の岡本技術軍曹であることに気付き驚いたという.もっと驚いたことは,岡本技術軍曹は阿波丸に乗船し死んだはずの人物であった.阿波丸から助け出されてのはたった一人の人物=下田勘太郎であったことが公式の記録であるはずなのに.

 岡本元軍曹は,「かなりの数の者が阿波丸を沈めた潜水艦に助けられ」たと証言している.果たしてこれは事実なのだろうか.岡本元軍曹は,その当時国鉄大阪管理局の公安官だったというから,記録を調べれば,生残りが複数いたのかどうかは確認できるだろう.

 歴史というヤツは,たとえそれが公式の記録であっても,疑ってかかるべきものなのだろうか….


+++


 現在のところ,これまでが湊先生の南方行について知りうるすべてである.ブンガワンソロは,死を覚悟して石油開発のために南方へおもむいた地質学者,石油技術者が現地で聞いた,歌が好きなインドネシアの人たちから与えられた,つかの間の平和だったのかも知れない.


 最後に,田中嘉寛氏が「北大古生物学の巨人たち」で,湊先生の言葉として残した言葉を引用しよう.この言葉は当時助教授だった加藤誠氏から,湊先生の言葉として聞いたことでもある.


「あれもやらなければ、この問題も解決させなければ、といつまでもやっていたのでは論文は書けない。一区切りついたところで、問題点は問題点として残して、論文にまとめなさい」


 この項終わり.

 またなにか,情報がはいった時に追加することとします.


ブンガワンソロの謎(湊先生の場合:そのろ)


 「パレンバンの石油部隊」という本がパレンバンの石油部隊刊行会から出版されている.1973年版は前編とは記されていないが,1982年版には「後編」と記されているため1973年版は前編もしくは本編に当たる.

 ひそかに,湊先生が投稿しているのではないかと期待していたが,どちらにもなかった.しかし,湊先生の名前が出てくる投稿がいくつか見いだされた.いずれも正式な記録ではなく,戦後数十年経ってから生き残った人々の記憶をたどって記されたものであるから,間違いが忍び込んでいる可能性はある.今わたしが書いているのも正式な記録ではないので,明らかな間違い以外は気にしないこととしよう.



 牧山鶴彦氏は,当時地質課長と呼ばれ日本石油から出向していたらしい.以下に示す「地質調査隊」を統括する立場であったらしい.明瞭な部隊構造図や名簿が見当たらないので,「…らしい」で失礼する.

 牧山氏は「地質調査隊の業績」なる長文を残している.



「南スマトラ燃料工廠地質調査隊派遣位置図」


 地質調査隊は,地質課自体で遂行したものが五班,文部省から特派された学者たちを主班として委託したものが三班,計八班であった.


  南スマトラ燃料工廠地質調査隊

   ■地質課

     ┣宇佐美隊(構造試錐)

     ┣林隊  (重力竝に地震探鉱)

     ┣虎岩隊 (構造試錐精査)

     ┣金子隊 (地震探鉱:屈折法)

     ┗岡本隊 (構造試錐)


   ■文部省派遣

     ┣青山隊 (地震探鉱)

     ┣湊隊  (構造試錐)

     ┗熊谷隊 (重力偏差探鉱)


 湊先生が「構造試錐」調査隊の隊長を務めていた.油田調査だけでも違和感があったのに,構造試錐とは…!

 湊隊の,より詳しい調査内容が示されているので引用しよう.


 湊調査隊 構造試錐

一、編成 隊長 北海道帝国大学助教授   湊 正雄

     隊員 陸軍少尉(庶務)     安田信行

     陸軍徴員(利根ボーリング)試錐 柴山周吉

     〃     〃         小川 豊

     〃一鉱より派遣(庶務)     矢田了爾

     〃    〃 (〃 )     乗本林太

     〃    〃 (連絡係)    李黄添信

     〃    〃 (〃  )    剱󠄁剱 清作

     陸軍主計軍曹(経理)      小桧山肇

     医官(一鉱より派遣)      井上直孝

    現地人傭役者

     測量手 チョクワディカリオ、クマイディアバナン

     試錐係 モハメット、ジャディ、ナスング、スワルサー、サレー

     製図手 カステム、シレガル、ライラニー、バッハリー

     事務手 タンプボロン

     地質助手 ムクチー、シトンプール、アブリヒル

    現地人労務者約二五〇名


 なお本調査には以上の他に杉本良平、成田正(ボーリング)岡本慶文少尉 橋田秋彦(庶務)熊谷吉郎(測量)の応援を得た。


二、調査地 西プラブムリー地区パレンバンの両方約一〇〇粁の地点、面積(東西三粁 南北六粁)

三、調査期間 昭和十九年六月十日~十二月十日

四、調査概要 本構造試錐ではクレリュウス式試錐機六台による試錐坑五〇坑、スパイラル試錐機二台による試錐孔七八七孔、計八三七孔の試錐を行ない、コアの総延長は七、九八〇米に及んでいる。

 この作業を総括して調査地内に二つのカルミネーションの存在を確認している。戦後この地区でインドネシアによる試掘が成功し深度一六〇〇米内外テリサ層群のOT層中から出油稼行されている由である。本調査報告の詳細は昭和三十五年六月石油資源開発KK探鉱部によって複製されている


 隊員庶務の安田信行さんは,この「ブンガワンソロの謎」の最初に引用した「随筆 いんどねしあ」の著者である.ところどころよくわからない「名詞」が出てくるが,この本全体が一時期同じ釜の飯を食べた人たちが記録しているものであるから,内輪ではよくわかった「名詞」なのだと思う.

 湊隊が調査をおこなったのは,1944(昭和19年)6月10日から12月10日まで.湊先生の「教室日記」内の空白の一部が埋まった.

 「カルミネーション」は,たぶん業界用語だと思われるが,地質構造上の高まりのことであろう.もちろんそこには周囲からの石油の集積があるので,石油探査では重要なポイントとなる.

 「テリサ層群」とはテリサ頁岩層とも呼ばれる,南スマトラに分布する第三系のことで,当地の油母岩となっているようだ.


 何はともあれ,湊隊はボーリングコアのデータを読み解き,当地の地質構造を判断して有望な地域を見いだしたらしい.しかし,戦時中に採掘した様子はなく,また多くの記録によれば既存の油田から採掘したオイルも日本に運ぶことが出来ずに山中にてむなしく燃やしたとあるので,調査結果は活かされなかったらしい.しかし,戦後の平和時にインドネシアによる試掘が成功し新しい油田が開発されたそうだ.


+++


 熊谷直一氏は文部省派遣の地質学者で,熊谷隊の隊長であった.派遣当時は京都帝国大学の助教授であり,湊先生と同じような立場であった.熊谷氏の著述は,当然ながら熊谷隊の調査についてである.しかし,熊谷氏の京都発から帰着まで,詳しく行程が述べられており,もし湊先生がこの「パレンバンの石油部隊」に投稿していれば,同様な行程が描かれていたはずなので,惜しい気がする.もちろん,湊先生とは隊が違うので,湊先生の行動は記されていない.

 しかし,示された図にパレンバン市内カンバン・イカン付近の略図が載っており,その「4」と示された宿舎には「佐藤道隆氏,同氏内地帰還後は湊正雄氏,浅野清氏」とあり,湊先生の足跡が浮かぶ.現在のパレンバンのどこに当たるのかは不明だが,今後も注意して追ってゆきたい.



「第2図 パレンバン市内カンバン・イカン附近略図」


(つづく)


ブンガワンソロの謎(湊先生の場合:そのい)


 三年前の2017年,北大博物館で「北大古生物学の巨人たち」という特別展があったらしい.ひょんなことからその図録を入手した.巨人たちとは,長尾 巧,大石三郎,早坂一郎,湊 正雄,加藤 誠の五人である.おのおのに,一頁半ばかりの短い人物紹介がある.

 湊先生については,田中嘉寛氏(当時,沼田町化石館学芸員)が執筆.執筆者はほぼ確実に,湊先生とは面識がないだろうけど(したがって,先生の「ブンガワンソロ」も聞いたことがないだろうと思う),先生の南方調査行についても短い解説がある.

 なお,情報元は湊先生追悼文集世話人会(1987編)「湊先生を憶う」のようだ.困ったことに,この本が蔵書の山に埋もれて出てこない.あるはずなんだが….





 紹介文のため,系統的な記述ではないので,それらの部分を引用して検討したい.

「1943年、インドネシアでの石油調査を任され、渡航前に28歳で助教授に昇進。戦中は中国大陸、東南アジアの地質調査を行った。」


 教室日誌を調べて見ると…1943(昭和18)年12月17日に湊先生への「南方壮行会」が開かれている.したがって,湊先生の南方行は,この直前には提示されていたものであろう.同12月23日付で第二講座助教授を発令.この時に,同時に大石三郎氏にも第二講座教授が発令されている.一年先輩であり,湊先生の盟友ともいわれる舟橋三男氏が第三講座助教授になったのが二年後の昭和20年であるから,南方行が助教授への道を切り開いたのであろうか.

 翌1944(昭和19)年2月7日から半澤正四郎教授(東北帝大)の特別講義「南方油田と有孔虫」が始まっているが,この後の湊先生の南方行に関係して…なのだろうか.

 同2月13日,「南方行待機中の湊に電報あり.取り急ぎ上京」とあり,以後の湊先生の行動は当然記録されていない.そして,翌1945(昭和20)年2月24日,「湊,南方より東京帰着の報あり」とあり,3月3日に「湊,一年振りに登校」となっている.

 なお,湊先生が南方行中に,1944(昭和19)年5月1日,「石川,有珠火山調査より帰学.有珠の地変,未終息」とある.そして,7月2日,「有珠山大爆発.石川・舟橋・百武,調査へ」となっていることを蛇足する.


 上記,田中(2017)の記述をより正確なものとするには,「中国大陸の地質調査」がおこなわれたのであれば教室日誌に記録されているはずなので,これは間違いであろう.また,上記ではインドネシアのほかに東南アジアの地質調査も行ったように読めるので,修正すべきであろう.


「戦中、もっとも重要だと考えられたデスモスチルス気屯標本は、空襲から守るため湊らによって理学部の庭に埋められ、被害に遭うことなく現在にいたるまで北大総合博物館で保存され続けている。」


 上記,教室日記の記録からは,これは湊先生が帰札した1945(昭和20)年3月3日から敗戦(1945(昭和20)年8月15日)までの間,より可能性が高いのは空襲警報が激しくなったとされる6月26日,もしくはB-29が初めて本道に侵入したとされる7月16日から敗戦までの間であろうか.

 気になるのは,ニッポノサウルスの標本もあったはずなのだが,放置されていたのだろうか,一緒に埋められたのであろうか….


「また別のフィールドでは同行者に「露頭の前に立ったら腰を下ろして一服し、全体を見渡してからゆっくり探すとよい」というアドバイスを与えている。」


 このアドバイスは,わたしが学生の時,湊先生から直接にではなく,先生から指導を受けたであろう渡辺順さん(当時第三講座の助手)から聞いた.同行者とは渡辺順さんだったのだろうか.実際,フィールドではわたしはこの教えを守っていた.おかげでタバコの本数が増えたけど…(今はタバコは吸っておりません),難しい露頭の前でも,焦ることはなかった.


「石油開発を命ぜられインドネシアに向かった際、湊は石炭の研究をしていたが、石油については自ら勉強して取り組み、石油が採れるめどをつけたという。帰国にあたっては、技術者は攻撃されにくい病院船で帰るのが普通だが、湊は早く帰りたいために、駆逐艦に乗り帰国した。後に、乗るはずだった病院船が撃沈されたことがわかった。「強運があった」と加藤は語る。」


 湊先生は,南部北上山地の「石炭系」の研究は有名であるが,石炭そのものの研究をしていたという話しは聞いたことがない.なにかの間違いであろう.

 大先輩である地鉱教室第一期生の大立目謙一郎氏は,北大卒業後,北海道炭砿汽船に勤務し,石狩炭田の地質について研究していた.そして,北大に戻った大立目氏が病に倒れた時に,湊先生がその研究をまとめたという経緯もあるので,湊先生が石狩炭田の地質に詳しかったであろうことは疑う余地もない.この大立目氏が発見した「サヌシュベ根無し地塊」は,のちに「日高造山運動論」の展開にも繋がっていくものだった.

 インドネシア(パレンバン)に於ける石油開発については,もっと調べる必要があり,あとで探索することにする.

 「技術者は攻撃されにくい病院船で帰るのが普通」とあるが,当時はそのような事情ではなかった.応召された地質屋(=軍属)は軍の命令に従うだけで,早々に帰国する目処などなく,敗戦後も捕虜として現地で苦労した方がたくさん居るくらいである.軍属は軍馬・軍犬・軍鳩より下とされ,日本帝国は彼らを戦地に放棄した.この病院船は日本に捕虜となった連合軍兵士が虐待を受けていることに,連合軍側が医薬品や食料を届けるという名目でなら「攻撃しない」と約束し,たまたまその頃航海が出来た特殊な例だった.そして不幸な事件が起きるが,それはまたあとで探索しようと思う.

 湊先生は「駆逐艦に乗り帰国した」.この事情もあとで探索することとしよう.

(つづく)


2020年10月24日土曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のに)


バリックパパンの戦い・青山敏男氏の場合


 もう一つ,バリクパパン防衛戦の体験記を紹介する.


青山敏男「我が戦記=ボルネオ回想=」


 青山氏は軍医として南方戦線に従軍した.徴兵された一般市民とことなり,文章は洗練されていてわかりやすい(逆にいえば,平常ならば長文なんか書かなかったであろう一般市民が,なにがなんでも残しておかなければ…と書きつづった意味もわかろうというものである).戦争中ではあるが,単に遭遇した戦闘や悲惨な経験だけでなく,冷静にさまざまな事件・事象を記録してあるのがありがたい.なんと言おうか,俯瞰的に見ているのだろう.

 「忙中閑あり」ならぬ,“戦中和あり”…であろうか.つかの間の平和を切り取った瞬間,ブンガワンソロの歌が聞こえる.


BENGAWAN SOLO


Bengawan Solo Riwayatmu ini

Sedari dulu jadi Perhatian insani

 

Musim kemarau ta brapa airmu

Dimusim hujan nanti meluap sampai jauh


Mata airmu dari Solo berkurung Gunung Seribu

Air mengalir sampai jauh Ahirnya kelaut


Itu perahu riwayainya dulu Kaum pedagang slalu naik itu perahu




1943(昭和十八)年末:連合軍,ギルバート諸島上陸.

1944(昭和十九)年一月:クェゼリン玉砕.

   同年二月:トラック島空襲.同島日本軍孤立.

   同年七月:サイパン,テニアン陥落.


1944(昭和十九)年四月:米軍,西部ニューギニアへ進攻.敵戦闘機,来襲増加.

   同年九~十月:米軍大空襲,第一〇二燃料廠製油所被害.

   同年十月十日:米空軍,戦闘機・爆撃機,約百五十機来襲.潤滑油施設破壊.

 バリックパパンに敵飛行艇・敵潜水艦出没増加.スパイ配備の可能性大.同時に夜間爆撃増加.

   同年十月:第二十二特別根拠地隊(ボルネオ・バリックパパン)司令官,醍醐中将から鎌田道章中将に交代.第一〇二燃料廠付近の防空隊強化.マニラ陥落および沖縄攻撃の情報がはいる.


1945(昭和二十)年二月:米豪連合軍の南ボルネオ侵攻を予測した第二南遣艦隊司令長官・柴田弥一郎中将,バリックパパンを訪問,陸戦隊員を閲兵.

   同年四月:この頃まで第三八一航空隊は襲来する敵機に対し迎撃をおこなっていたが,次第に迎撃用の戦闘機を失い,日本は制空権を失った.敵機は自由に襲来するようになり,敵の上陸作戦は近付いているものと予想された.

 この頃には,日本のタンカーの大部分は撃沈されていて,バリックパパンから輸送船が出港することもなくなった(余った油はジャングルの中でただ燃やされたという).

   同年四月二十六日:第十方面艦隊から入電.

「敵巡洋艦,駆逐艦,掃海艇,数十隻に護衛せられた強力な輸送船団(兵員満載)が,モロタイ沖を通過してセレベス海峡を北上せり.タワオ,サンダカン,タラカン,バリックパパンは厳戒を要す」

   同年五月一日:連合軍,北ボルネオ東海岸タラカン島に上陸作戦開始.ボルネオ防衛戦始まる.

   同年六月八日:連合軍,北ボルネオ西北岸ブルネイに上陸作戦開始.

   同年六月十日:連合軍,バリックパパンに上陸作戦開始.艦砲射撃と空爆が激化連続する.

   同年六月十三日:タラカン島守備隊,連絡途絶す.玉砕との噂飛ぶ.

   同年六月十五日:見張り所より入電.

「敵大艦隊・戦艦・巡洋艦,十数隻;駆逐艦,三十数隻,見ゆ.バリックパパンの百度二十マイル」

 直ちに「千早二号作戦」が下命.千早二号作戦とは,戦況がどのように厳しくなろうとも,一歩も退かない籠城作戦である.楠木正成が千早城にたてこもった史実に基づくといわれる.

 これを遡る五月,第二十二特別根拠地隊司令官・鎌田道章中将を長とする南ボルネオの海軍各部隊は第二警備隊を編成した.現地召集の民間人を含む一万六千余で戦闘態勢をとっていた.

 やがて,バリック湾沖合遥かの水平線を埋め尽くして大艦隊が薄墨色の線のように見えた.「連日の砲爆撃で地形がすっかり変わり,山も谷も地の底から掘り返され,宿舎も兵舎も壊滅し,椰子の木もすっかり丸坊主になり,砲撃された反対の方向に倒れていた.」

 「敵が上陸一か月以前から投下した爆弾は三千トン,第七艦隊が海岸防御施設に撃ち込んだ弾丸はロケット弾七千三百発,自動火器十一万四千発,三インチから八インチまでの中口径砲弾三万八千発にのぼった.」

 六月十五日には,著者の青山軍医はバリックパパンから七キロ地点のサマリンダ街道の野戦病院に移動.しかしそこにも砲弾は雨のように降り注いだ.二十日夜に青山軍医はバリックパパンまで視察に出たが,すべては瓦礫の山であり,多くの不発弾につまずくほどであったという.

 六月三十日,この日,連合軍は上陸を試みたが日本軍の反撃に遭い撤退.しかし,その夕刻からは明け方まで執拗な艦砲射撃が続いた.


 そして,七月一日.

 早朝,三度目の攻防戦が始まった.「約二百五十隻の上陸用舟艇が海上一面に真っ白い水しぶきを上げて海岸に殺到し,クランダサン地区より上陸を開始した…」

 七月二日,第一飛行場,艦砲射撃により砲台壊滅.飛行場は連合軍に占拠.バリクパパンの日本軍,壊滅状態.一日中,負傷兵の手術続く.

 七月四日,青山氏は,バリックパパン七キロ地点の野戦病院付きだった看護婦六名を引率してスモイ地区野戦病院まで移動する.驚くべきは,この激戦地に六名もの女性看護師(もちろん当時の看護師は女性ばかりで看護婦と呼ばれていた)がいたことである.前年中に従軍看護婦および民間女性事務員は全員日本国内(当時は内地と呼ばれた)に引き上げたなか,バリックパパン残留を決めた彼女らは“鉄の看護婦”と呼ばれていた.傷病兵の治療に数日過ごした後,戦況の悪化により,スモイからサマリンダ方面へ後退を余儀なくされた(帝国陸軍では“転進”と呼ぶ).

 「歩ける者は歩け」ということで,歩けそうにない者まで歩かざるを得なくなって(では,あるけない者はどうしたか,青木氏は彼らについては記していない),患者の病状も益々悪くなり,充分な食料がなく,栄養失調で骸骨のようになった患者は,飢えきっていた.毎日毎日,死亡者が続出した.

 しばらく引用を控える.


 終戦時の調査では,戦闘地域で四百五十八名,サマリンダ街道だけでも戦死,戦傷死,戦病死の戦没者数は千九百六十五名を数えた…という.


 七月三十日,青木氏は,スモイ地区の野戦病院に一度戻る.野戦病院とは名ばかり.ただの死を待つ兵士たちのテント小屋であった.七月三十一日,看護婦六名と五十八キロ地点の仮病舎に戻る.そこでも毎日二十名,三十名と死んでいった.


 そして,誰いうとなく「死のサマリンダ街道」とか「白骨街道」と呼ぶようになった.


 八月一日,五十八キロ地点から七十二キロ地点まで北上を開始する.途中,所々に白骨が転がっている.浅く埋められた遺体がスコールに洗い出され,手足が露出している.これもやがて白骨になるのであろう.八月二日,六名の看護婦は約百キロ上流のムアラカマンの病舎勤務となり,船で二昼夜かかって着任した.八月四日,青木氏はロアジャナンに仮収容所を設営し,ジャングルからたどり着いた患者の一時収容施設とした.傷病兵は応急処置ののち,程度に応じ上流のロアクール,テンガロン,あるいはムアラカマンの各病舎に送る任務となった.

 八月十五日,連日連夜飛来していた敵機が完全に停止した.

 八月十七日,無条件降伏,全軍即時戦闘中止などの情報を無線で傍受.終戦であった.


 なお,この後も,青木氏を含む日本兵等は過酷な捕虜生活を過ごすこととなるが,引用が精神的に疲れたので,省略したい.

 最後に一つ.

 「ジャワの極楽,ビルマの地獄,死んでも帰れぬボルネオ島」

…青木氏は,昭和二十一年六月六日,名古屋港に上陸.帰国した.


ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のに)

バリックパパンの戦い 終わり


2020年10月8日木曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のは)


バリックパパンの戦い・中村利光氏の場合


 続いて,中村利光氏による「大東亜戦争従軍記=下級兵士が命がけで見たボルネオ島=」を紹介しよう.



中村利光氏「大東亜戦争従軍記」


 この本は,ボルネオ島周辺を行軍した一兵士の手記を,ご子息の喜一氏がアマゾンからネット出版したものである.バリクパパン戦の頃,中村利光氏はボルネオ島を縦断しているが,バリクパパン戦とはニアミスではあったが参戦していない.しかし,利光氏の残したノートに挟まれていた太田垣正純氏のバリクパパン戦記を喜一氏が転載している.

 「大東亜戦争従軍記」はネット出版であり,ご子息個人編集の限界があり,ワープロ誤変換と思われる誤字が頻出し,意味のわからない単語も散見される.誤字でないならば,脚注が欲しいところである.また,現代日本人には馴染みのない地名が頻出するので,ボルネオ島周辺の地形図が欲しいし,行軍であるから日付の入ったルートマップも欲しい.編集者が介在しないネット出版の限界であろうか.それでも,正史に疑義を唱える現場の記録が残されているのはありがたいことである.

 ノートに挟まれていたという太田垣正純氏の手記は,昭和30年代の「雑誌に寄稿」されたものと記述がある.

 要約すると…


 昭和20年も6月に入ると,連合軍の南ボルネオ地域への空襲は,日を追って熾烈となってきた.はじめは数編隊にすぎなかったが中頃には2~300機の大編隊となり,やがて海上には機動部隊も目につくようになっていった.

 日本軍もバリクパパンの港に,水際作戦を立て,約五千名の兵を配置していた.しかし,それまでには,以前配置されていた海軍三八九航空隊は連合艦隊に転属し,バリクパパンの飛行場からは撤退し,航空兵力は存在していなかった.対空火器も十二糎以下の対空砲,二十五粍機銃が配置されていただけで,圧倒的な連合軍の攻撃には打つ手がなかった.

 そして,七月一日未明.

 連合軍数百機の大編隊による猛爆撃が一時間ほど続き,わずかな静寂のあと,さらに激しい艦砲射撃と空爆が続いた.やがて静かになると…ヤシの木はもちろん,日本軍の対空陣地,飛行場,その他施設は跡形もなく粉砕され,山容すら一変していた.

 連合軍艦隊からは,多数の上陸用舟艇が波をかき分けて接近する.日本軍からは小銃による散発的な抵抗があったが,それは集中的な艦砲射撃を呼び覚ます結果となり,やがてそのわずかな抵抗も止んだ.

 日本軍は為すところもなく,海岸より撤退してジャングルへと移動せざるを得なかった.日本軍はサマリンダ街道の「転戦」と称したが,これは約一ヶ月半に渡る飢えと病との戦い,のちにいう「地獄街道」の旅の始まりであった.

 地獄街道での転戦中,日本兵は敗戦の報を聞いた.しかし,地獄はこれで終わりではなかった.敗戦後も,食料も薬品もない現地収容所生活が続き,さらに多くの日本人の命が奪われた.やってきた連合軍兵士からは,わずかにもっていた腕時計などの金品を奪われ,いい加減な軍法会議のために,多くの元兵士が連れ去られた.残された元兵士が母国の地を踏むのには,さらに一年ほどの時が必要だった.

(続く)


2020年10月7日水曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のろ)

バリックパパンの戦い・三宅健次氏の場合


 まずは三宅健次(1997)「ジャングル無宿」から,バリクパパンの戦いの概略を見てみる.この著も個人的な経験が主であり,主な出来事の時系列を追っているわけではない.タイムラインも前後するので組直しが必要.それをやってみる.


ヨーロッパ戦線

1943(昭和18)年9月8日:イタリア,降伏.

1945(昭和20)年5月7日:ドイツ軍降伏.ヨーロッパ戦線終了.


北太平洋戦線

1944(昭和19)年7月:米軍,サイパン島占領.

      同年10月:米軍,フィリピン・レイテ島進行.マッカーサー,「帰還」.

      同年11月:B29,日本本土爆撃.

1945(昭和20)年2月:米軍,硫黄島上陸.一月半後,硫黄島玉砕.

      同年4月1日:米軍,沖縄本島上陸.6月,沖縄完全制圧.


南洋戦線

バリクパパン防衛要因『戦時回想録』

南ボルネオ会、昭和52年発行より


1945(昭和20)年5月1日:連合軍,ボルネオ東部タラカン島襲撃.

      同年6月15日:連合軍,バリクパパン空襲開始.

            :連合軍艦隊,三十数隻,バリクパパン沖に集結.

 連合軍はバリクパパン・クランダサン地区に上陸を決定.

  オーストラリア第七師団本体:21,635名

  オーストラリア陸軍支援部隊: 7,698名

  オーストラリア空軍:     2,052名

  アメリカ.オランダ軍部隊:  2,061名


      同年6月15日:日本バリクパパン守備隊,千早作戦発動.

 6月15日より,連日の空襲,艦砲射撃開始.7月1日までの20日間で,バリクパパン市街地とマンガルまでの海岸に投入された弾薬は以下の通り.文字通りの雨霰の如くである.

  爆弾         :3,000トン

  ロケット弾      :7,361発

  巡洋艦・駆逐艦の砲弾 :38,052発

  小口径砲弾      :114,000発


      同年7月1日:午前7時.連合軍,上陸作戦開始.



サマリンダ街道


 さて,「千早作戦」とはなんであろうか.この三宅氏は下っ端なので作戦の内容は判らないとしながらも,隊長・山畑主計大尉の言葉として「諸君は,ただちに所定の行動に移る.まず,書類を今日中に焼却する.諸君の武運長久を祈る…」と記録している.

 千早作戦の内容は書かれていないが,鎌倉時代に楠木正成が金剛山一帯に築いた城塞群の一つに千早城という城があり,これら城塞軍が攻められた時に100日にわたって籠城戦を繰り広げたという.この故事から,籠城戦のことをさすものと思われる.

 実際に,三宅氏は約三週間に亘る重爆撃・砲撃の中,この戦場にとどまっている.日本兵には,一度爆弾の落ちた場所に「二度目はない」というジンクスが伝わっていたそうだが,そのジンクスが破られるほどの猛爆撃であったにもかかわらず.

 一方で,食料・医薬品を分散させるために,サマリンダ街道を北上する兵隊もいた.バリクパパン市街地が壊滅状態になって「転進」とよぶ後退が始まるが,あまりにも連合軍の攻撃が凄まじかったため,食料や医薬品の輸送も,傷病兵の輸送もままならず.サマリンダ街道は別名「地獄街道」と呼ばれるまでになった.地獄街道の話は省略したい.

 連合軍が上陸を開始する前夜・6月30日の夜,不気味な色をした月食であったという.

(続く)

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三宅健次(1997)ジャングル無宿(1~6).

太平洋学会誌,19巻3/4号,7-25;20巻1/2号,35-56頁;20巻3/4号,25-41頁;21巻1/2号,25-49頁;21巻3/4号,11-17頁;22巻1/2号,11-24頁.


ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のい)

(* 長くなりすぎたので,分割しました)

バリックパパンの戦い・我が叔父の場合


 子どものころ,わが家の二階に父方の祖母のキク婆ちゃんが住んでいた.物心ついた時にはキク婆ちゃんがいたので,いるのが当たり前であった.だが,よく考えると我が父は三男坊.近所で主婦の店を経営していた長男がいたにもかかわらず,婆ちゃんは三男坊の家に同居していたことになる.


キク婆ちゃん


 お婆ちゃんの部屋には,大きな仏壇があり,長押には三枚の写真が掲げてあった.一枚は,わたしが生まれるひと月前に亡くなった爺さんの写真であり,二枚目はなぜかキク婆ちゃん.三枚目には軍服を着た若者の写真があった(キク婆ちゃんは,わたしが中学生のときに長男の家に引っ越し,その時に全財産を持っていったが,その家で亡くなり,写真を含めて一切はどこへ行ったのかわからない).


 若者の名は「守」,キク婆ちゃんの四男坊,わたしの叔父にあたる.叔父は太平洋戦争中にボルネオ島バリクパパンで戦死した.昭和20年6月29日没.二十歳であった.

 最近になっての話である.惚け始めている我が母の脳内の記憶が,なにかの拍子に蘇ったのかもしれない.むかしの話をポツリといった.ある日,叔父の戦友という人がわが家を訪れ,キク婆ちゃんに守叔父さんの戦死について報告にきたという.連合軍の猛攻の下,「お前たちは逃げろ.俺は残る」,それが叔父の最後の言葉だったと,その戦友は涙を流しながら語っていった,と.

 叔父の話はその時初めて聞いた.わが家の墓石の横に「守徳院釈智成信士 同守行二十才」「昭和二十年六月二十九日於南ボルネオバリックパパン戦死」とあり,叔父が戦死したことは理解していたが….この墓はキク婆ちゃんが昭和二十八年五月に建てたものであった.この当時からかなり傷んだので,現在は亡き父が改装し,もう少しこじんまりとしたお墓になっている.


キク婆ちゃんが建てたお墓
(わたしが小学生当時の写真)


 バリクパパンといえば終戦間際の大激戦地.ボルネオ島の石油基地であった.「石油の一滴,血の一滴」といわれた当時,大日本帝国が石油を求めて進出した赤道直下の島の一つである.湊先生が軍属としていったスマトラ島と同じ背景を持つ.終戦直前の湊先生の行動を追うには,その背景としてバリクパパンの戦史を追ってみるのも,無駄ではないであろうと思う.そして,叔父の戦死の前後についてもなにかわかるかもしれない….


 ボルネオ島バリクパパンに関する戦記はいくつかでているようであるが,個人的な記録ばかりで,全体的な流れや概要を明示した戦史戦記は見当たらない.イヤ,単に見つからないだけかもしれないが.

 足立巌・ボルネオ島バリックパパン思い出の会戦記編集部(1995)「バリックの空は赤く燃えて」は446頁にわたる大著であるが,多人数の個人的な思い出を集大成したもので,通しの視点がなく,なかなか消化が困難なので後回しとする.

続く…


2020年9月12日土曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:1)



 湊先生の南方油田調査の背景を知りたくて,関連していそうな文献を漁ってみました. 
 時代が時代なので,ほとんど全てが絶版で古本探し.内容が内容なので,客観描写だろうと思われる本を探すのもけっこう骨が折れます.小説は除外しなけりゃならんし.

 さて,一冊目は高橋健夫「油断の幻影=一技術将校の見た日米開戦の内幕=」から.

高橋健夫(1985)

 筆者は副題の通り戦前戦中をかけての技術将校.軍用燃料関連の実務を一手に引き受けていたようです.したがって,だれよりも石油と戦争の関連を語れる重要人物.
 著者が記録しておきたかったことの一つは,帝国陸海軍の愚かさと因習だろう.当時の軍首脳部は軍事行動に於ける石油の重要性が理解できていなかった.また,理解できても,具体的にどうするかということを考える能力がなかった.
 また,石油がなくては軍事行動ができないので石油関係者を軍属にしたのに,軍属は軍馬,軍用犬,軍鳩以下の扱いでした.南洋油田占領後,その修理運営に行くはずだった軍属たちは,軍人なら飛行機で三日でいける現地に,船で何ヶ月もかかっています.負けるわけだ.その当時の日本の「秩序という名の差別構造」が透けて見える話です.筆者は敗戦後,進駐軍から事情聴取を受けていますが,その相手は民間石油会社の社員であり,同時にこの仕事のために将校待遇で雇用され,正式の将校と同じ扱いを受けていたことに感銘を受けたといいます.
 戦前戦中に関する石油事情はこの本一冊で充分だろうと思われます.

 二冊目は,石井正紀「石油人たちの太平洋戦争=戦争は石油に始まり石油に終わった=」.

石井正紀(1991

 筆者は理工学部建築家出身の建築技術者らしい.しかし,戦記関連の著述が複数あり,本業の傍ら関連の著述を続けていたらしいです.大量の戦記関連の書籍を読んでおり,末尾にたくさんの文献資料のリストがあるのがありがたい.もちろん前記,高橋(1985)は重要文献ですね.
 昭和12年生まれなので,実体験に基づいたものではないですが,構成や文章は非常に読みやすいものです.
 出版社が「光人社」.月刊「丸」や数々の戦記物を出版している会社です.

 最後は,岩瀬 昇「日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか」.

岩瀬 昇(2016

 筆者は商社マン.東京大学を卒業して三井物産に入社し,石油を中心としたエネルギー関連業務に携わってきた人物.現在から第三者の目で,日露戦争から軍用エネルギーについて概観しています.
 筆者は1948年生まれ.完全に戦後育ちです.

 三冊の著者は,世代および立場の違いがありますので,読むなら,それを頭において進めるのがいいでしょう.

 さて,湊先生を初めたくさんの地質屋,また石油技術者を南方に送り込んだ社会情勢はなんとなく理解できました.次は,現地における戦闘の実態について調べてみたいと考えています.


2020年8月30日日曜日

ブンガワン・ソロの謎(安田信行さんの手記より)


 安田さんの手記は八年くらい前,湊先生の論文の収集と整理をしていた時に偶然web上で発見したものです.「交通医学」という安田さん個人のHPでした.その時は別なことをしていたので,あとで熟読しようと思いましたが,念のためpdf.にして保存してありました.

 前項「ブンガワン・ソロの謎」を書き始めて,そういえば…と,思い出し,安田さんのHPを探しましたが見つかりません.八年の歳月は長いですね.たぶんお亡くなりになったかHP運営が面倒になったか….当時,HP作成は一種のブームになっていて,いろんな人がたくさんのHPをつくっていました.こういうような私的な記録もたくさんあったのです.

 ですが,このようなHPは書籍にしたものと違って,生きている時間が短い.本人が飽きたり亡くなったりしてプロバイダに会費を払わなくなれば,その時点で「消えて」しまいますし,個人HP作成のブームが終わった現在としては,プロバイダも儲けが少なくなりますから突然「サービスを終了します」というメッセージを残して廃業したりします.

 わたしは,それがあるから(ほかにも理由はありますが)無料のサービスを利用しています.わたしが死んでも,会費制じゃないわけですから,しばらくは維持されると踏んだからです.ところがこちらも「新しいサービスに移行します」という一方的な通告で「終了」したりします(じつは今それで困っています).まあ,Google社も商売ですから,膨れ上がるデータ量を維持するのは大変だろうということは理解できますが,当時多くのひとが作った多量のデータは…そうやって「消えて」いった模様です.


 それはともかく,幸いにもpdf.にした安田さんの手記が,我がMacのHDDに残っていたのを幸いに,手記を読んでみることにしました.


 ただし,この手記は1989年に書かれたもので,その時点で戦後40年以上経っていますから,記憶が曖昧で思いだすままに,ほとんど脈絡もなく書かれたものです.それでもわずかに湊先生の戦時中を知ることができました.


 安田さんは,昭和18年,予備士官学校を卒業し南方燃料廠に転出しました.翌年,シンガポールを経由してパレンバンに行き,南スマトラ燃料工廠に配属.そこで地質課調査隊湊隊に属することになりました.

 湊隊では隊のサポート役として,機材や備品の管理,作業員の確保などを業務としていたらしいです.このHPでは「7)地質調査隊」という章があるので,湊先生の地質調査の話が少しでも出てくるかと期待したのですが,まったくありませんでした.もちろん,安田さんは地質屋ではないのですから,地質調査そのものに興味があるわけはないのは当然です.また,調査地プラブムリーでは湊先生と一緒の宿舎にいたにもかかわらず,当時の湊先生をイメージするような思い出は一切ありませんでした.あるのは,個人的な生活の記録や現地の人々の生活の様子,珍しい動植物の記憶など,人間の記憶とはそういうものかと思わせるものでした.

 唐突ですが,わたしの伯父はスマトラの隣のボルネオ・バリクパパンで戦死しているので,このあたりの戦記をいくつか読んでいますが,それらはこの世の地獄の様相を示しているのに,収容所暮らしを経験している安田さんの手記では,なんとまあ能天気な…と思わせるほどでした.人間の記憶という不思議な機構のなせる技なのかもしれませんが….



安田さんの手記中に添付された図(Palembang (B))から


 pdf.からそのまま起こしたもの.解像度が非常に悪く見づらいが原図はもっと見づらいです.収容所にいる間に大学ノートに記録したものはインクの色があせて見づらくなっていると書いてありましたが,それををコピーして貼り付けたものだろうと思います.凡例がA~Pまで二セットありますが,下のセットは「’(ダッシュ)」つきなのかもしれません.凡例「A」に「湊サンノ宿舎」とあります.現地調査に行く前の仮の宿舎なのでしょう.中央付近の「A'」ではなく,右端中あたりの「A」がそうであると考えられます.



安田さんの手記中に添付された図(プラブムリー 湊さんと共に暮らした家)から


 プラブムリー地質調査中に使用した宿舎と思われます.


 調査隊は青山隊・熊谷隊・湊隊の三つがあったそうです.安田氏は湊隊に配備される前に,ジャンビーという所を調査していた隊に仮配置され調査隊の概要を見学していたといます.湊隊がプラブムリーに実際に調査にはいった時の支援作業をおこなうための勉強や下調べであったそうです.しかしその後,湊隊で働いているうちに病気になり陸軍病院に入院し,退院した時には別の組織に移動になったとあります.そのため,湊隊の記憶は少ないのかもしれません.

 「プラブムリーの調査隊には、隊長の湊正雄さんと私、そして軍属の剣さんと言う人と台湾出身の李黄さんと言う人がいた。その他に何人かいたような気もするが記憶は確かではない。」とあります.

 安田さんは,敗戦後帰国してから10年後に金沢大学の構内で再会したそうです.湊先生は学会で金沢大学にいたらしい.地質学会の開催地を調べれば,もっと詳しい年月日がわかるでしょう.しかし,その時になにがあったかは書いてありません.なぜ安田さんが金沢大学にいたのかも書いていない.

 また,この手記を書く数年前に,湊先生の落雪事故の新聞記事を見たそうです.


 安田さんの手記やほかいくつかのスマトラ・ボルネオの油田に関する本を読んでいて,思ったこと.ヨーロッパ人のつくった町の立派であること.そこを占領した日本人はもちろん,ヨーロッパの植民地支配者の生活を体験したことになります.当時の日本本土の日本人と比べても,なんと豊かな生活であったか.比べて,現地住民の貧しさ.

 太平洋戦争はたしかに日本の侵略戦争でした.しかし,当時の兵隊の多くは,やはり「八紘一宇」や「アジアを開放する」というスローガンを信じていたのかもしれません.まるで現在の若者が,自衛隊の本来の仕事ではない災害救助が仕事だと信じて入隊し,悲惨な目に遭っているような….

 そして,それを信じている末端の兵士と接触の多かった現地人は,大いにそれに影響を受けたのでしょう.敗戦で撤退する日本兵とは対照的に現地の若者は,本当にアジアを開放する戦いに突入していきました.一部の日本兵は日本に帰らず,その戦いに参加したといいます.その話を調べるのは,今のわたしには手に余ります.

 今しばらくは,湊先生のブンガワン・ソロの謎を追ってみたいと思います.この話題もうしばらく続きます.



2020年6月27日土曜日

ブンガワン・ソロの謎



 我が師・湊正雄先生は,教室の新歓コンパに参加する時は,いつも途中から「ブンガワン・ソロ」を原語で唄うのが常でした.学生の中には「ニャー,ニャー」としか聞こえないという不届き者もいましたが….

 先生がなぜ「ブンガワン・ソロ」を唄うのか.
 聞くところによると,南方石油の開発に徴用され,帰国時は悲劇的な阿波丸にではなく,危険といわれた軍艦で急ぎ帰国したため,逆に死を免れたそうです.帰国してからはすぐに,当時北海道帝国大学の(いや,日本の)財産とも言うべきデスモスチルスやニッポノサウルスの標本を理学部ローンに埋めたといいます.もちろん,近々起きるであろう米軍の大空襲に備えてのことです.いったいなにがあったのか.湊先生はこの間の記録を一切残していませんので,直接知ることはできません.
 それで,この謎の外堀を埋めるつもりで,この件に関係していそうな資料を集めてはいますが,外堀すら埋まるのはまだまだ遠い話です.

 そこで,気になった一冊.

岩瀬昇(2016)日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか.

 表題では,満洲大油田の話かと思われてしまいますが,そうではありません.また,帯に「昭和15年春,満洲南部 もし,日本が石油を掘り当てていたらーーー」とありますが,そんな小さな話でもありません.これぞ本当の歴史書かと思わせる内容です.

 というのは,われわれが習ってきた歴史というのは,当時の王(政権)や誰と誰が戦って誰が勝ったという,というような中身のない記録ばかりですが,こういう歴史には子どものころから興味が持てなかった.それがなぜか判ったのは最近の話で,それはあまりにも薄っぺらすぎるからです.
 たとえば,「いくさ(戦争)」にしても,A将軍のA軍何万とB将軍のB軍何万が戦ってAが勝った.それでナニナニ政権ができた…は,おかしな記録です.両軍の武器は刀にしろ槍にしろ,これは「金属」です.金属がなければ武器はできない.金属はどうしたのか?.武器がなければ「いくさ」はできないのに,まったく無視されている.「A軍何万」といっても,彼らをどうやって運んだのか.「食い物」はどうしたのか.これも無視.近代戦ならば,軍艦にしろ戦車にしろ,戦闘機にしろ,動かすのは「石油」.これも無視.そういう歴史の疑問に回答をくれるのがこの本.こういう歴史書がどんどん出てくることを望みますね.

 さて,まず驚くのが,戦前の軍人は「水がガソリンになる」という詐欺に簡単に騙されるレベルだったこと.これは無名の軍人ではなく,歴史書であれ戦史であれ,必ず出てくる重要人物(!)がです.軍人を政治に関与させてはいけないという歴史の教訓.
 そして,やがて石油の重要さが認識され始めると,戦争遂行のための石油を確保するために戦争に突入してゆくという,冷静に考えればまったくばかげた状態が「太平洋戦争の実態」.そのために日本人全員が巻き込まれ,ほぼアジア全域の人々を巻き込んだわけです.

 当時,日本国が通常使うような量の石油は北樺太に充分にありました.当時,そこは日本領であったから,技術が伴えば,ほかの土地(他国)にいく必要はありませんでした.もちろん,ロシアが邪魔したことで開発できなかったこともありますが.この北樺太(現在はロシア領サハリンとされている)から,現在日本は大量の原油と天然ガスを輸入しているはずです.
 傀儡国家とはいえ満洲国が成立した時に「満洲大油田」を発見できていれば,南方に向かう必要はなかったのでした.しかし,ここでも未熟な石油開発技術と軍部の無理解にあい開発はできませんでした.もちろん,未熟な石油開発技術自体も日本という国が学問に無理解だったせいですが….
 そして,南方石油開発という名目でたくさんの民間技術者を送り込み,撤退時に起きたのが「阿波丸の悲劇」でした.戦時に,はるか南方から石油を運ぼうという信じられない愚挙,みずからの首を絞めるような行為で,瞬く間に国力を使い果たし….というわけです.海外から石油を運ぶなどということは「平和でなければできない」ことです.日本は「平和憲法を守」らなければ,将来はないわけです.歴史に学ばない人はそれが判らない….

 そして湊先生も,その愚挙に巻き込まれたひとりであったわけです.

 しかし,この本でも湊先生の「ブンガワン・ソロの謎」についてのヒントはありませんでした.とはいえ,大量の参考文献が示されており,ほとんどはわたしの立場では見ることはできませんが,中にはいくつか入手可能なものもあるようです.
 探索は,まだまだ続きます.