バリックパパンの戦い・青山敏男氏の場合
もう一つ,バリクパパン防衛戦の体験記を紹介する.
青山敏男「我が戦記=ボルネオ回想=」
青山氏は軍医として南方戦線に従軍した.徴兵された一般市民とことなり,文章は洗練されていてわかりやすい(逆にいえば,平常ならば長文なんか書かなかったであろう一般市民が,なにがなんでも残しておかなければ…と書きつづった意味もわかろうというものである).戦争中ではあるが,単に遭遇した戦闘や悲惨な経験だけでなく,冷静にさまざまな事件・事象を記録してあるのがありがたい.なんと言おうか,俯瞰的に見ているのだろう.
「忙中閑あり」ならぬ,“戦中和あり”…であろうか.つかの間の平和を切り取った瞬間,ブンガワンソロの歌が聞こえる.
BENGAWAN SOLO
Bengawan Solo Riwayatmu ini
Sedari dulu jadi Perhatian insani
Musim kemarau ta brapa airmu
Dimusim hujan nanti meluap sampai jauh
Mata airmu dari Solo berkurung Gunung Seribu
Air mengalir sampai jauh Ahirnya kelaut
Itu perahu riwayainya dulu Kaum pedagang slalu naik itu perahu
1943(昭和十八)年末:連合軍,ギルバート諸島上陸.
1944(昭和十九)年一月:クェゼリン玉砕.
同年二月:トラック島空襲.同島日本軍孤立.
同年七月:サイパン,テニアン陥落.
1944(昭和十九)年四月:米軍,西部ニューギニアへ進攻.敵戦闘機,来襲増加.
同年九~十月:米軍大空襲,第一〇二燃料廠製油所被害.
同年十月十日:米空軍,戦闘機・爆撃機,約百五十機来襲.潤滑油施設破壊.
バリックパパンに敵飛行艇・敵潜水艦出没増加.スパイ配備の可能性大.同時に夜間爆撃増加.
同年十月:第二十二特別根拠地隊(ボルネオ・バリックパパン)司令官,醍醐中将から鎌田道章中将に交代.第一〇二燃料廠付近の防空隊強化.マニラ陥落および沖縄攻撃の情報がはいる.
1945(昭和二十)年二月:米豪連合軍の南ボルネオ侵攻を予測した第二南遣艦隊司令長官・柴田弥一郎中将,バリックパパンを訪問,陸戦隊員を閲兵.
同年四月:この頃まで第三八一航空隊は襲来する敵機に対し迎撃をおこなっていたが,次第に迎撃用の戦闘機を失い,日本は制空権を失った.敵機は自由に襲来するようになり,敵の上陸作戦は近付いているものと予想された.
この頃には,日本のタンカーの大部分は撃沈されていて,バリックパパンから輸送船が出港することもなくなった(余った油はジャングルの中でただ燃やされたという).
同年四月二十六日:第十方面艦隊から入電.
「敵巡洋艦,駆逐艦,掃海艇,数十隻に護衛せられた強力な輸送船団(兵員満載)が,モロタイ沖を通過してセレベス海峡を北上せり.タワオ,サンダカン,タラカン,バリックパパンは厳戒を要す」
同年五月一日:連合軍,北ボルネオ東海岸タラカン島に上陸作戦開始.ボルネオ防衛戦始まる.
同年六月八日:連合軍,北ボルネオ西北岸ブルネイに上陸作戦開始.
同年六月十日:連合軍,バリックパパンに上陸作戦開始.艦砲射撃と空爆が激化連続する.
同年六月十三日:タラカン島守備隊,連絡途絶す.玉砕との噂飛ぶ.
同年六月十五日:見張り所より入電.
「敵大艦隊・戦艦・巡洋艦,十数隻;駆逐艦,三十数隻,見ゆ.バリックパパンの百度二十マイル」
直ちに「千早二号作戦」が下命.千早二号作戦とは,戦況がどのように厳しくなろうとも,一歩も退かない籠城作戦である.楠木正成が千早城にたてこもった史実に基づくといわれる.
これを遡る五月,第二十二特別根拠地隊司令官・鎌田道章中将を長とする南ボルネオの海軍各部隊は第二警備隊を編成した.現地召集の民間人を含む一万六千余で戦闘態勢をとっていた.
やがて,バリック湾沖合遥かの水平線を埋め尽くして大艦隊が薄墨色の線のように見えた.「連日の砲爆撃で地形がすっかり変わり,山も谷も地の底から掘り返され,宿舎も兵舎も壊滅し,椰子の木もすっかり丸坊主になり,砲撃された反対の方向に倒れていた.」
「敵が上陸一か月以前から投下した爆弾は三千トン,第七艦隊が海岸防御施設に撃ち込んだ弾丸はロケット弾七千三百発,自動火器十一万四千発,三インチから八インチまでの中口径砲弾三万八千発にのぼった.」
六月十五日には,著者の青山軍医はバリックパパンから七キロ地点のサマリンダ街道の野戦病院に移動.しかしそこにも砲弾は雨のように降り注いだ.二十日夜に青山軍医はバリックパパンまで視察に出たが,すべては瓦礫の山であり,多くの不発弾につまずくほどであったという.
六月三十日,この日,連合軍は上陸を試みたが日本軍の反撃に遭い撤退.しかし,その夕刻からは明け方まで執拗な艦砲射撃が続いた.
そして,七月一日.
早朝,三度目の攻防戦が始まった.「約二百五十隻の上陸用舟艇が海上一面に真っ白い水しぶきを上げて海岸に殺到し,クランダサン地区より上陸を開始した…」
七月二日,第一飛行場,艦砲射撃により砲台壊滅.飛行場は連合軍に占拠.バリクパパンの日本軍,壊滅状態.一日中,負傷兵の手術続く.
七月四日,青山氏は,バリックパパン七キロ地点の野戦病院付きだった看護婦六名を引率してスモイ地区野戦病院まで移動する.驚くべきは,この激戦地に六名もの女性看護師(もちろん当時の看護師は女性ばかりで看護婦と呼ばれていた)がいたことである.前年中に従軍看護婦および民間女性事務員は全員日本国内(当時は内地と呼ばれた)に引き上げたなか,バリックパパン残留を決めた彼女らは“鉄の看護婦”と呼ばれていた.傷病兵の治療に数日過ごした後,戦況の悪化により,スモイからサマリンダ方面へ後退を余儀なくされた(帝国陸軍では“転進”と呼ぶ).
「歩ける者は歩け」ということで,歩けそうにない者まで歩かざるを得なくなって(では,あるけない者はどうしたか,青木氏は彼らについては記していない),患者の病状も益々悪くなり,充分な食料がなく,栄養失調で骸骨のようになった患者は,飢えきっていた.毎日毎日,死亡者が続出した.
しばらく引用を控える.
終戦時の調査では,戦闘地域で四百五十八名,サマリンダ街道だけでも戦死,戦傷死,戦病死の戦没者数は千九百六十五名を数えた…という.
七月三十日,青木氏は,スモイ地区の野戦病院に一度戻る.野戦病院とは名ばかり.ただの死を待つ兵士たちのテント小屋であった.七月三十一日,看護婦六名と五十八キロ地点の仮病舎に戻る.そこでも毎日二十名,三十名と死んでいった.
そして,誰いうとなく「死のサマリンダ街道」とか「白骨街道」と呼ぶようになった.
八月一日,五十八キロ地点から七十二キロ地点まで北上を開始する.途中,所々に白骨が転がっている.浅く埋められた遺体がスコールに洗い出され,手足が露出している.これもやがて白骨になるのであろう.八月二日,六名の看護婦は約百キロ上流のムアラカマンの病舎勤務となり,船で二昼夜かかって着任した.八月四日,青木氏はロアジャナンに仮収容所を設営し,ジャングルからたどり着いた患者の一時収容施設とした.傷病兵は応急処置ののち,程度に応じ上流のロアクール,テンガロン,あるいはムアラカマンの各病舎に送る任務となった.
八月十五日,連日連夜飛来していた敵機が完全に停止した.
八月十七日,無条件降伏,全軍即時戦闘中止などの情報を無線で傍受.終戦であった.
なお,この後も,青木氏を含む日本兵等は過酷な捕虜生活を過ごすこととなるが,引用が精神的に疲れたので,省略したい.
最後に一つ.
「ジャワの極楽,ビルマの地獄,死んでも帰れぬボルネオ島」
…青木氏は,昭和二十一年六月六日,名古屋港に上陸.帰国した.
ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のに)
バリックパパンの戦い 終わり
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