バリックパパンの戦い・三宅健次氏の場合
まずは三宅健次(1997)「ジャングル無宿」から,バリクパパンの戦いの概略を見てみる.この著も個人的な経験が主であり,主な出来事の時系列を追っているわけではない.タイムラインも前後するので組直しが必要.それをやってみる.
ヨーロッパ戦線
1943(昭和18)年9月8日:イタリア,降伏.
1945(昭和20)年5月7日:ドイツ軍降伏.ヨーロッパ戦線終了.
北太平洋戦線
1944(昭和19)年7月:米軍,サイパン島占領.
同年10月:米軍,フィリピン・レイテ島進行.マッカーサー,「帰還」.
同年11月:B29,日本本土爆撃.
1945(昭和20)年2月:米軍,硫黄島上陸.一月半後,硫黄島玉砕.
同年4月1日:米軍,沖縄本島上陸.6月,沖縄完全制圧.
南洋戦線
バリクパパン防衛要因『戦時回想録』
南ボルネオ会、昭和52年発行より
1945(昭和20)年5月1日:連合軍,ボルネオ東部タラカン島襲撃.
同年6月15日:連合軍,バリクパパン空襲開始.
:連合軍艦隊,三十数隻,バリクパパン沖に集結.
連合軍はバリクパパン・クランダサン地区に上陸を決定.
オーストラリア第七師団本体:21,635名
オーストラリア陸軍支援部隊: 7,698名
オーストラリア空軍: 2,052名
アメリカ.オランダ軍部隊: 2,061名
同年6月15日:日本バリクパパン守備隊,千早作戦発動.
6月15日より,連日の空襲,艦砲射撃開始.7月1日までの20日間で,バリクパパン市街地とマンガルまでの海岸に投入された弾薬は以下の通り.文字通りの雨霰の如くである.
爆弾 :3,000トン
ロケット弾 :7,361発
巡洋艦・駆逐艦の砲弾 :38,052発
小口径砲弾 :114,000発
同年7月1日:午前7時.連合軍,上陸作戦開始.
サマリンダ街道
さて,「千早作戦」とはなんであろうか.この三宅氏は下っ端なので作戦の内容は判らないとしながらも,隊長・山畑主計大尉の言葉として「諸君は,ただちに所定の行動に移る.まず,書類を今日中に焼却する.諸君の武運長久を祈る…」と記録している.
千早作戦の内容は書かれていないが,鎌倉時代に楠木正成が金剛山一帯に築いた城塞群の一つに千早城という城があり,これら城塞軍が攻められた時に100日にわたって籠城戦を繰り広げたという.この故事から,籠城戦のことをさすものと思われる.
実際に,三宅氏は約三週間に亘る重爆撃・砲撃の中,この戦場にとどまっている.日本兵には,一度爆弾の落ちた場所に「二度目はない」というジンクスが伝わっていたそうだが,そのジンクスが破られるほどの猛爆撃であったにもかかわらず.
一方で,食料・医薬品を分散させるために,サマリンダ街道を北上する兵隊もいた.バリクパパン市街地が壊滅状態になって「転進」とよぶ後退が始まるが,あまりにも連合軍の攻撃が凄まじかったため,食料や医薬品の輸送も,傷病兵の輸送もままならず.サマリンダ街道は別名「地獄街道」と呼ばれるまでになった.地獄街道の話は省略したい.
連合軍が上陸を開始する前夜・6月30日の夜,不気味な色をした月食であったという.
(続く)
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三宅健次(1997)ジャングル無宿(1~6).
太平洋学会誌,19巻3/4号,7-25;20巻1/2号,35-56頁;20巻3/4号,25-41頁;21巻1/2号,25-49頁;21巻3/4号,11-17頁;22巻1/2号,11-24頁.
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