バリックパパンの戦い・中村利光氏の場合
続いて,中村利光氏による「大東亜戦争従軍記=下級兵士が命がけで見たボルネオ島=」を紹介しよう.
中村利光氏「大東亜戦争従軍記」
この本は,ボルネオ島周辺を行軍した一兵士の手記を,ご子息の喜一氏がアマゾンからネット出版したものである.バリクパパン戦の頃,中村利光氏はボルネオ島を縦断しているが,バリクパパン戦とはニアミスではあったが参戦していない.しかし,利光氏の残したノートに挟まれていた太田垣正純氏のバリクパパン戦記を喜一氏が転載している.
「大東亜戦争従軍記」はネット出版であり,ご子息個人編集の限界があり,ワープロ誤変換と思われる誤字が頻出し,意味のわからない単語も散見される.誤字でないならば,脚注が欲しいところである.また,現代日本人には馴染みのない地名が頻出するので,ボルネオ島周辺の地形図が欲しいし,行軍であるから日付の入ったルートマップも欲しい.編集者が介在しないネット出版の限界であろうか.それでも,正史に疑義を唱える現場の記録が残されているのはありがたいことである.
ノートに挟まれていたという太田垣正純氏の手記は,昭和30年代の「雑誌に寄稿」されたものと記述がある.
要約すると…
昭和20年も6月に入ると,連合軍の南ボルネオ地域への空襲は,日を追って熾烈となってきた.はじめは数編隊にすぎなかったが中頃には2~300機の大編隊となり,やがて海上には機動部隊も目につくようになっていった.
日本軍もバリクパパンの港に,水際作戦を立て,約五千名の兵を配置していた.しかし,それまでには,以前配置されていた海軍三八九航空隊は連合艦隊に転属し,バリクパパンの飛行場からは撤退し,航空兵力は存在していなかった.対空火器も十二糎以下の対空砲,二十五粍機銃が配置されていただけで,圧倒的な連合軍の攻撃には打つ手がなかった.
そして,七月一日未明.
連合軍数百機の大編隊による猛爆撃が一時間ほど続き,わずかな静寂のあと,さらに激しい艦砲射撃と空爆が続いた.やがて静かになると…ヤシの木はもちろん,日本軍の対空陣地,飛行場,その他施設は跡形もなく粉砕され,山容すら一変していた.
連合軍艦隊からは,多数の上陸用舟艇が波をかき分けて接近する.日本軍からは小銃による散発的な抵抗があったが,それは集中的な艦砲射撃を呼び覚ます結果となり,やがてそのわずかな抵抗も止んだ.
日本軍は為すところもなく,海岸より撤退してジャングルへと移動せざるを得なかった.日本軍はサマリンダ街道の「転戦」と称したが,これは約一ヶ月半に渡る飢えと病との戦い,のちにいう「地獄街道」の旅の始まりであった.
地獄街道での転戦中,日本兵は敗戦の報を聞いた.しかし,地獄はこれで終わりではなかった.敗戦後も,食料も薬品もない現地収容所生活が続き,さらに多くの日本人の命が奪われた.やってきた連合軍兵士からは,わずかにもっていた腕時計などの金品を奪われ,いい加減な軍法会議のために,多くの元兵士が連れ去られた.残された元兵士が母国の地を踏むのには,さらに一年ほどの時が必要だった.
(続く)
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