2015年12月18日金曜日

「北海道鑛山畧記」:(八)統計

(八)統計
次に示す所の鑛産表*1は,明治廿二年五月の調査にして,之を印刷するに舊來の漢字を以て地名を記したれば讀書の必す讀み難き者多きを察し,左(下)に地名の讀み方を示す(總て斯の如き不便なる讀み難き地名書き方は速に改良して「かな」を以て之を記すヿ望む人多し).

○鑛産表中北海道地名ノ讀方
知床  シレトコ      恵山  エサン
一菱内 イチビシナイ    跡佐登 アトサノボリ
羅臼  ラウス       羅碓  ラウス
島登  シュマノボリ    岩雄登 イワオノボリ
幌内  ポロナイ      茅沼  カヤノマ
春烏  ハルトリ      郁春別 イクシユムベツ
茂岩  モイワ       尻岸内 シリキシナイ
椴法華 トドホッケ     遠音別 オン子ベッ
米戸賀 ペトカ       屈斜路 クッチャロ
秩苅別 チカリベッ    虻田  アプタ
聚富  シュプ        望來  モーライ
東沸  卜ープッ      興志内 オキシナイ
木ノ子 キノコ       古宇郡 フルウ郡
国後郡 クナシリ郡     斜里郡 シャリ郡
擇捉郡 エトロフ郡     有珠郡 ウス郡
龜田部 カメダ郡      川上郡 カワカミ郡
厚田郡 アツタ郡      虻田郡 アプタ郡
空知郡 ソラチ郡      岩内郡 イワナイ郡
釧路郡 クシロ郡      茅部郡 カヤベ郡
檜山郡 ヒヤマ郡
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*1:鑛産表:不詳.巻末綴じ込み(もしくは別紙)が紛失したか,”鑛産表”の示す意味が現在と異なるのかも知れない.


北海道鑛山畧記 終

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長かった〜.ようやく一通り.
略したところはありますが.(^^;
 

2015年12月9日水曜日

「北海道鑛山畧記」:(七)砂鐵

 
(七)砂鐵
(ハコダテ 近郷及び「ユーラ」砂鐵)
休明光記に砂鐵に付左(下)の書記あり.

   ハコダテ蝦夷地ニテ取計方品奉伺候書附
 二月十二日            松平信濃守
                  石川左近將監
                  羽太庄右衛門
                  三橋藤右衛門

ハコダテ近郷トイ邊幷蝦夷地ユウラツプ等,鐵砂御座候塲所も有之.一年吹立仕候はヽ,蝦夷地幷「ハコダテ」にて日用に遣ひ候程は,鐵地金出來可仕候哉.其場所にても渡世に相成候義,其上「ハコタテ」町人共の内,右吹立の義品々,寄相願候者も可有御座.日用の品出來候はヽ土地調法にも可相成奉存候に付,取調彌用立候はヽ,吹立試爲仕候様仕度奉存候.先達て申立置候鐵砂の義,願人も御座候間,函舘付錢龜澤と申候處にて,吹立試仕候.煉鐵差越不申候得共,多分出來仕無程差出候義と奉存候.其外蝦夷地の鐵砂多き塲所も御座候に付,追て試候上申上候積に御座候.酉正月廿日,出雲守殿へ信濃守上の二月十二日伺の通取付御直に返上.(朱書)
砂鐵試に吹出候計,蝦夷松只今迄伐出し候高は伐出「ユーラプ」川材木當用は伐出山荒不申様心附.硫黄明礬の義は先無用可仕旨,其外伺の通被仰渡奉承知候.

(シノリ、ユノカフ砂鐵)
蝦夷實記に曰く,「シノリ」海邊に鐵あり.故に「ユノカワ」海邊,鐵砂多し.


●雑
 ●舊記
オコツナイ製鐵塲に就て,教師報文に載する所あり.砂鐵は時として海汀の細砂中に混在し,之か爲め數里間黒色を敷く如くなるものと雖も,此地の海汀に於ては,又更に此の如きの多量なる砂鐵を經看せず.然れとも「ハコダテ」の東方に方りたる半島の南岸,或は噴火港の西岸,又北島の西方「イソヤ」の側傍に於て多量ならずと雖も,間々此鑛物を經看したり.殊に「シオクビ」より「エサシ」の南岸及ひ「カックミ」川より北の方「ユーラ」まて噴火港の海濱に於ては最も多く經看せり.而して此砂鐵は多く,満潮のときと雖も波濤の爲めに奪はれざる地に集在なすが故に間々之を製する爲め製造塲の設築するものなり.而て,此鐵砂の全數は算計なし難しと雖も「ニタナイ」に近つくに従ひ必ず多量を存すべし.如何となれば此地は只海汀のみならず堤[土覇]の上敷,艸の下にも亦存すればなり.

ライマン著「北海道地質總論」に曰く,本島鐵砂の採集に堪る者は大半島の南東端及ひ噴火灣の南西海岸にある砂鐵層のみ.該層は「ユーラプ」より「オコツナイ」及ひ「ヤマコシナイ」を経て「オトシベ」に至る長さ約英十里(四里)廣さ平均二十碼(十間)厚さ恐らく五寸なるへし.而て純鑛平均百分の八十とすれは大釣鑛十二萬噸を得へく云云.
大半島の南東端より出る鐵砂は「チタニユム」を含むヿ少きか如し.故に鎔解し易し.然れとも其産額多からす.重に「コブイ」(エサン附近の地)シリキシナイ(「コブイ」の南約一里)及其半途の地にあり.而して其中央の層最も大にして,其鐵砂に富める部分に於ては七百立方碼の砂中に純鑛五百立方碼.即ち一千噸を合有するなるへし.
堅實せる鐵鑛脉は本島中何れの地にも發見なすと雖も,「コマガタケ」の東側海岸を距る一里にして海面を抜く一千百五十尺,即ち山の表面より深さ七尺半の所に一坑あり.厚さ一尺なる鐵砂の一層ありて他の火山石と累疊定層をなす.上部は軟鬆の浮石なり.但其廣濱は未た之を調査せす.

本島中,澤鐵鑛「リモナイト」を産する地多し.「イシカリ」の北岸川口より上流一里なる「オヤフル」又夫より上流一里の南岸「ウツナイ」及び「バンナグロ(「ウツナイ」より一里上流の南岸にあり)にあり又ヒラギシ村(「サッポロ」の南英三四里)に二ヶ所あり.其内「オヤフル」を最とす.中畧.

開拓使事業報告に曰く,膽振國ヤマコン郡「ユーラ」より「オトシベ」村に亘る海濱に磁石鐵あり.延長凡四里,廣十間,厚五寸.其積七千三百三十三立方坪云云.
開拓使事業報告に曰く,渡島國カヤベ郡シリキシナイ村支村コブイ海濱に磁石鐵あり.厚凡二尺より一寸に至る.積三十三立方坪.礦の總額四百噸.内二百九十噸の鐵を含有す.
開拓使事業報告に曰く,仝郡シリキシナイ村海岸に在り.長凡五十間,廣十二間半.其最厚は一尺三寸許.其積十三立方坪.礦總額百四十噸.純鐵一百噸を含む割合なり.

蝦夷國風俗人情沙汰中巻に曰く,緑礬「ハコダテ」にも澤山あり.又た「モリ」村,「イシザキ」村に銀山あり.
東蝦夷日誌に曰く,「シユツクシナイ」の奥「力子ラフ」川の水,鐵漿の如し.土人の話に水源に岩鐵あり.昔し最上某試掘せし所なりと云ふ.

蝦夷艸紙に曰く,鐵山「ハコダテ」在の「オーモリ」村,「イシザキ」村等にあり.その外,諸處に多し.

 

2015年12月6日日曜日

「北海道鑛山畧記」:(六)砂金

(六)砂金
(トシベッ砂金*1)
開拓使事業報告*2に曰く「トシベッ」金田は「トシベッ」の上流に在り.膽振國ヤマコシ郡に屬す.砂金包含地及河底の面積總計凡そ九百六十七萬四千「メートル」平方.洗金塲適當の地及本河臺面積凡そ五百三十萬零五千「メートル」平方云云.

アンチセル調書*3に又「トシベッ」砂金のヿを記す.

東蝦夷日誌に曰く,「トシベッ」川河水清潔.水底の砂算するに足る.底平磐にて淵多し.水の清きは是れ全く金玉の氣あるが故なり.「グンベッ」川,軍兵衛なる者,砂金を掘し故名く.
又,カニカン岳は此邊の一大岳にて西は「トシベッ」,北は「ヲヒラ」「ヲリカワ」,東は黒松内「ヲシヤマンベ」の源なり.金銀玉石の氣多く,昔神か爰にて金銀を作り玉ひしと云傳ふ.
仝誌に曰く,「ウクルハツタラ」,「ハンケルフ子シユマヲイ」,「ヘンケロクチ」,「カヌチ」(借時鍛冶が住し處也),「クウヨシ」,「レーラクシ」,「チヨコシカマ」,「トハツタラ」(廣くして湖の如しと云ふ義なり),「ヲン子ハツタラ」,「ヘロシナイ」,「シユフヌンゲベルベ」,「ジンゴベ」(甚五平と云ふ者,砂金を掘て大利を得たる所なり),此邊には穴居跡多し.「ユウラツプ」土人は皆此所より移しと云ふ.
仝誌に曰く,「カ子カルハツタラ」金取淵と云ふ義なり.又た,「ハンケサカイマフ」と云ふ所は,昔「イヌマカン」と云ふ者住し由.今祖父の墓所あり.其祖父,平生栗を好み,死に臨て一個の燒栗を握り居,喰得ずして,我を埋むる所に植よと遺言せし故,取計ひしに生て今大樹となりしと.此者此川筋より砂金を掘り出し,頗る英邁の聞ある者なりしよし.
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*1:トシベッ砂金::トシベッ砂金:瀬棚郡利別川上流(現・今金町美利河付近).
*2:開拓使事業報告:開拓使事業報告第二編(明治十八年十一月刊行).
*3:アンチセル調書:不詳.早稲田大学の大隈重信関係資料に「アンチセル調書」なるものの一部が所蔵されているらしい.しかし,これは北大・北方資料室に所蔵されている「教師報文録」の一部を筆写したものである.従って,「アンチセル調書」というのは正式名称ではないようだ.なお,教師報文録には「教師報文録・第二」の「第四 黄金」に「トシベツ」河の砂金について記載がある.


(渡島國シリウチ川*1砂金)
開拓使事業報告に曰く,ムサ金田とは即ち,建久二年,筑前の舟子發見せし所の「シリウチ」地方を云ふ.此地方丘上高原及支流河畔等,黄金に乏き地を除き,概測すれば(中畧)全く洗金すべき地は三百二十三萬三千立方「メートル」にして,砂層厚さは平均二「メートル」なり云云以下畧す(まま)
蝦夷風俗言上書*2に曰く,「マツマエ」城下より九里餘にして「シリウチ」と云ふ温泉あり.此處は松前家先祖六代前,砂金多く出で,凡十數万兩の金を掘採す依之.其節より諸家中へ歳暮の祝儀として,砂金十匁つヽ賜りしよし.今に至りても其先例を以て歳暮の祝儀に,青銅十匁を賜はるは此古格の殘りたる事のよし.
蝦夷紀事*3に曰く,「シリウチ」地方にては砂金を取る事を知りて,金氣の蔓を追て窟中へ入る事を知らず.依て以前より金山を掘るヿなしと雖とも,實見するに掘たる跡なきにも非ず.然れとも之を調ぶれば,砂金を見掛て掘たるにて,金石を目當に*4掘たるにてはなし.夫故,銀山銅山等は猶更見知りたる者とてもなく,唯打捨てあるばかりなり.
蝦夷舊聞*5に曰く,逸史に言ふ,慶長十三年,大久保長安「マツマエ」より「シリウチ」金と云る者出るにより,彼を鑿せんヿを計りしに,島主・慶廣*6辭するに,地僻にして穀物を生せず,食を海運に資するが故に鑛徒を養ふ事能はざるを以てせしか.其事止たりき.又曰く,夷諺俗語に云ふ「マツマエ」の交易相塲,砂金を以て定む.砂金一兩と云るは,七匁貳分にて永*7七百貳拾文に當るなり.
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*1:シリウチ川:知内川.松前郡-上磯郡を流れる知内川.なお,この地域は「知内図幅」と重複するが図幅には砂金あるいは金鉱石については,一切記述がない.「武佐金田」については開拓史が地質測量図を発行している(未見).
*2:蝦夷風俗言上書:不詳.
*3:蝦夷紀事:不詳.坂倉源次郎の著といわれるが,所在,内容とも不詳.
*4:砂金を見掛て掘たるにて,金石を目當に…:この場合の「金石」は「金鉱石」の意味で使われている.従って,砂金がみつかれば砂金洗いのための沖積層発掘はおこなうが,砂金の母岩を求めて調査し,金鉱石を掘るようなことはされていないということ.
*5:蝦夷舊聞:不詳.鈴木善教が1854年ころに著したといわれる.所在,内容とも不明.
*6:島主・慶廣:松前慶広.松前藩初代藩主.なお,このエピソードはしばしば取り上げられるが,この記述ではあくまで「逸史に言ふ」である.
*7:永:通常,「永楽銭」のこと.明(中国)より室町時代に輸入され,慶長十三年に使用禁止令が出された.


(渡島國エサシ砂金*1)
開拓使事業報告に曰く,「エサシ」金田は渡島國ヒヤマ郡エサシ地方數里間の總稱なり.其面積,凡長六里幅一里厚凡二「メートル」.「エサシ」市街中「詰木石*2」金田,面積五十七万八千方「メートル」にして厚凡一「メートル」とす云云.
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*1:渡島國エサシ砂金:桧山郡江差町
*2:詰木石:現・愛宕町,新栄町近傍.


(クドー砂金)
開拓使事業報告に曰く,「クドー」金田は後志國クドー郡クドー村*1を距る南東凡一里「モシベッ」*2「ウスベッ」*3一河流に在り.「モシベッ」河畔地は北南に延び幅一二町.「ウスベッ」河畔地は稍廣く一町乃至四町半.砂層平均厚一「メー卜ル」なり云云. 下畧す.
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*1:後志國クドー郡クドー村:後志国久遠郡久遠村(現:久遠郡せたな町大成区久遠).
*2:「モシベッ」:不詳.現在「モシベッ」の地名は残っていない.
*3:「ウスベッ」:臼別川.図幅によれば臼別川上流には新第三紀の鉱化作用を受けた地帯がある.臼別川地域には金鉱床の記載はないが,尾根の反対側に同様の鉱化作用を受けたポン金ガ沢地域では金鉱が掘られた過去がある.


(マツマエ砂金)
開拓使事業報告に曰く,マツマエ金田*1は渡島國フクヤマ近傍にあり.往昔小區域の金田許多ありしも六七百年前より淘汰し,明治五年雇米國人「モンロー」巡檢の際は竭盡*2して見るへき者なしと云ふ.
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*1:マツマエ金田:大沢のことか.
*2:竭盡:けつじん=尽きること.すべてを使い切ること.


(センゲン嶽砂金)
松前蝦夷記*1に曰く,國中東南の方は山多く,西北の方は平地あり.山は岩多くして高し.高山の絶頂は多く金銀の氣,或は硫黄の氣にて焼け崩れたる土地*2にて,金氣多きヿ他國に比類なしと云ふ.
七十年以前(寛文八年戌申の頃)は,年々砂金を取り,領主にも納め,京大坂へも多く出したり.其砂金塲は松前領内にてはセンゲン獄シリウチ等なり.此センゲン嶽は「マツマエ」より八里ありて山々の峠を越るヿ,十一にして「センゲン」獄の半腹に至る.此絶頂に至りて見るときは眼目の及ぶ所は遮る者なく,南部焼山より津輕の岩城山,西は「ケンニチ」嶽*3「ラコシリ」*4海中に見へ*5,東は「ハコダテ」より北へ續て群嶽連なり,隔日山「ユウフツ」遠く見ゆ. 
「マツマエ」は直下にして船の寄る迄見るなり.是れ「マツマエ」中金銀山の根なりと云へり.又曰く金銀山の事は本業なれば深山幽谷へ,わけ入て人力の及ぶ處は吟味せり.然れとも土地廣く金銀山數多の事にて中々十分一も見極めざりし.
松前志*6に曰く,福山近邊にては欝金嶽を大嶽と云ふ.東部「シリウチ」川の源なり.福山より東北に當れり.其里程九里二十町餘なり.嶽の麓を離れて一段の平地あり.昔時金鑿の徒多く屋舎を建連ね,一大郷の如くなりけるよりして千軒とは名つけたり.然れとも嶽の本名にあらず.金の名は此山金氣盛なるか故に右より名つけ呼るよし.古老の説なり.此嶽夏日も又猶雪ありと云へり.
北海随筆*7に曰く,「センゲン」嶽は「マツマエ」郡中,金鑛の根山にして此邊第一の高峯とす.
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*1:松前蝦夷記:享保二(1717)年,有馬内膳一行の幕府巡見使の記録.東大図書館所蔵.北大北方資料室に写本がある.
*2:高山の絶頂は多く金銀の氣,或は硫黄の氣にて焼け崩れたる土地:千軒岳金山はいまだに謎の金山であるが,この記述からは,砂金ではないことがうかがえる.いわゆる鉱山用語の「焼け」を示しているようだ.
*3:「ケンニチ」嶽:見市岳(遊楽部岳).
*4:「ラコシリ」:「ヲコシリ」の誤記か.もとはi-kus-un siri「イクスン・シリ(向こう側にある島)」だという.「イクスン・シリ」が「ヲコシリ」さらに「オクシリ」に変わったとされるが,なんか不自然.
*5:「西は~海中に見え」:千軒岳からは,奥尻島・遊楽部岳(見市岳)はむしろ北方に見える.これは,当時日本海側を「西蝦夷」,太平洋側を「東蝦夷」と呼んでいたことに関係していると思われる.
*6:松前志:松前藩主・松前邦広の五男・松前広長(1737-1801)の著とされる.
*7:北海随筆:坂倉源次郎,元文四(1739)の作といわれる.


(センゲン山砂金)
三國通覽*1補遺に曰く,蝦夷地「マツマエ」城下より丑寅に當り,浅間と云ふ大山あり.近邊に勝れたる大山なり.古來より金銀多く出つ.松前家の先祖,此地へ移封の節,諸國より入込たる金掘人共残らず追拂しとぞ.右掘り取たる跡高さ數十丈.屏風の如く切立たる所あり.今其所を切通と云ふ*2.此山邊並に東西の山山残らず「ミヨシ」堀の跡,所々に多し(「ミヨシ」とは砂金の事なり).
蝦夷風俗言上書*3に曰く,松前城下より東丑寅に當り「センゲン」山と云ふ大山あり.古來より金銀多しと.
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*1:三國通覽:林子平(1785).
*2:右掘り取たる跡高さ數十丈.屏風の如く切立たる所あり.今其所を切通と云ふ:この記述は鉱脈状の産状を示していると読めるが,どうだろう.
*3:蝦夷風俗言上書:不詳.「蝦夷地風俗書上」(別名;「近事奇観」)なる写本が国立公文書館にあるらしい.松前矩広が記したといわれるが,原本および内容は不詳.


(クンヌイ砂金)*1
開拓住事業報告に曰く,「クンヌイ」金田は謄振國ヤマコシ郡に在り.
明治四年十一月,雇米国人開拓顧間「ケプロン」報告中,幕府雇米国人博士「ブレーク」報告の要を摘して曰く,「クンヌイ」金田は「トシベツ」川の本支流に沿ひ,延て數英里に亘る.二三百年前淘汰の跡あり.其何人の所業たるを知らず.
文久二年,幕府試掘の時は,一日の費用三弗にして,大凡五十弗に値る黄金を得たりと.
東蝦夷日誌に曰く,「セヨヒラ」と云ふ處は,海扇淺蜊の殻出るを以て名く.「シヤマツケハツタラ」「タン子ウツカ」「ルフ子シユマヲイ」「ヤリスケ」此處廣くして網曳場なる故名く.昔しは「クンヌイ」より此處へ馬路ありしと.其頃は金鑛至て盛にして,文化年間,石井善藏・高橋治太夫・高麗鱗平等,此處を切開,砂金六百金を献し,追々人家も建ちしが惜むべし,文政五年より廢山とせしよし.「サンシローフチ」と云ふ所あり.三四郎なる者,砂金を多く得たる處なるを以て名く.
東蝦夷日誌に曰く,「クンヌイ」川に砂金あり.極上々品を出す.
北海随筆に曰く,七十年前以迄は松前より砂金取り五千餘人程つヽ入込みたりと云ふ.金掘屋敷と云ふは「クンヌイ」と云ふ處にあり.一年蝦夷亂のありしより和人とも蝦夷地へ入り込むヿ制禁となりて,夫より砂金取に行く者なし.其砂金の生ずる根原は必ず金氣あるべき故,是を吟味せし處,此の「クンヌイ」の河原に金山あり.其證據相糺し,現に見極たり.此地砂金を取るヿを知て金草の蔓を追て窟中へ入る事を知らす.依て以前より金山を掘ると云ふ事なし.今希に見るに掘し跡なきにも非ず.されとも砂金を見かけて掘りたる者と思はる.
蝦夷舊聞に曰く*2,寛文の初に當りて蝦夷東部「シイチヤリ」に「シヤムシヤイン」又名「シヤクセン」と云ふ者あり.丈高く骨太く力人を兼たりければ,蝦夷人共大に恐れて屬従する者數万人に及べり.其居「シイチヤリ」川を前にして柵を築きて住せり.奴僕貳百人餘ありと云ふ.此「シイチヤリ」の山より金黄多く出でしかば,松前の人も常に往還し,諸國より採鑛の夫も多く集りしが云云.
續蝦夷草紙*3に曰く,蝦夷地「ヤムクシナ井」と云ふ處,大河ありて「ユウラフ」と云ふ又「クンヌ井」と云ふ處あり.此處より砂金を出す.
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*1:(クンヌイ砂金):本文中にあるように,「訓縫金田」は訓縫側ではなく,峠を越えた利別川側にある.
*2:蝦夷舊聞に曰く:本文にあるとおり,これは「訓縫金田」の記述ではなく,シベチャリ金田についての記述である.
*3:續蝦夷草紙:続蝦夷草紙.近藤重蔵の著(文化元;1804)とされる写本.


(ハポロ川砂金)*1
蝦夷行程記*2に曰く,「ハポロ」(天鹽)と云ふ處,砂金あり.
三國通覧*3に曰く,西蝦夷國「ハポロ」と云ふ處に大なる砂原あり.その長さ五十里計なる間處々より砂金出づ.
観國録*4に曰く,「ハポロ」川を泝るヿ三日程にして「ハポロ」山下に出つ.金鑛あり.今之を廢す.然れとも,砂金此邊に流れ來ると云ふ.今見るヿなし.此川幅二十間餘なり.
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*1:(ハポロ川砂金):羽幌図幅には「海岸段丘堆積層・河岸段丘堆積層および冲積層の砂礫中に,砂金および砂白金が存在することが古くから知られていて,椀掛けによって容易にこれを検出することができる.」とある.また,海岸沿い北方約8kmには「三浦金山」があったと記録されている.
*2:蝦夷行程記:阿部将翁著,松浦武四郎校正.安政三(1856)年刊.
*3:三國通覧:三国通覧図説.林子平(1738-1793).
*4:観國録:観国録.石川和助(関藤籐蔭)が老中・阿部正弘の命をうけ,蝦夷地,北蝦夷地の調査をおこなった記録.全7巻.安政三~四年(1856-1857),調査及び著述.


(十勝砂金)*1
北海随筆に曰く,「アツケシ」の手前「クスリ」カ嶽の麓に金山あり.「コガ子」山と云ふ.此邊「トカチ」と云ふ處は砂金あつて以前も取りし事あれば金山あるべきヿなり.
續蝦夷草紙に曰く,「トカチ」と云ふ處,東蝦夷地第一の大河あり.此邊も皆砂金を掘りし跡あり.三代将軍の御代々「マツマエ」より砂金百兩を献上せしかば,「マツマエ」蝦夷地中の金山を残らず拝領の義,仰せ付られんと.
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*1:(十勝砂金):「「クスリ」カ嶽」も「「コガ子」山」も不詳.したがって「十勝砂金」は不詳.


(ペルフ子砂金)
東蝦夷日誌に曰く,十勝國ペルフ子*1近傍,セキ川*2近傍,往昔金を掘りし跡あり.
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*1:十勝國ペルフ子:十勝国歴舟川.
*2:セキ川:不詳.


(ヲタベッ砂金)
東蝦夷地道中日記*1に載す「コロブニ」と云ふ所より平山を越ゆ.此平山,柏木多く半里許にして「ヲタベツ」と云ふ澤*2あり.水流る此邊,砂金を掘たる跡あり.是を蝦夷人「セキ」と云ふ.即金山を掘るヿの言傳へならんか.
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*1:東蝦夷地道中日記:不詳.類似の書名はいくつかあるようだが,同名の書は見いだせない.
*2:ヲタベツ」と云ふ澤:不詳.


(フトロ川砂金)
蝦夷行程記*1に曰く,「フトロ」*2(後志國)川砂金多しと.
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*1:蝦夷行程記:前出.
*2:「フトロ」:後志国太櫓郡(現・久遠郡せたな町)


舊記
ライマン著「北海道地質總論」に曰く,黄金の痕跡は(鐵砂の如しと雖とも其量甚た少し)諸所に在りて,其區域實に莫大なり.然れとも其採集に堪すへき者は「トシベッ」「ムサ」の兩金田のみに云云.
北海随筆に曰く,國中金氣多きヿ,餘國比類なし.七十年以前迄は年々砂金を取るヿ夥敷云云.
松前東西管闚*1に曰く,「トカチ」「ウシベツ」「シリウチ」「クンヌイ」「ユウハリ」,此五ケ處より追々寛永十八年の頃迄は山穿出し出金有之.夫より打絶無是候所,元祿十三年より七八ヶ年の内,西蝦夷地「ハポロ」へ二三千人つヽ金掘参り候處,度々破船云云.
北海道誌に曰く,建久二年,筑前の舟子,蝦夷「シリウチ」に漂着し,水を索めて山に入り,一小金塊を獲,甲斐の領主・荒木大学に呈す.大学,之を鎌倉将軍・頼家に献ず.頼家,其賞として米千石を大学に賜ふ.大学,亦祿百五拾石を發見者に與へ,名を荒木外記と稱せしむ.是に於て頼家,大学に命じ外記を嚮導とし,蝦夷に趣き,金鑛を開採せしむ.大学,役夫及陶金者八百人,修験者一人,兵卒合て千餘人と共に,仝年六月,甲斐を発し,七月ヤゴシ(今渡島國カミイソ郡)に抵り,疊を「ケナシ」嶽に築き,砂金を洗陶す.「シリウチ」に始り,「ムサ」川及其支流に及ぼし,採集する凡十三年間,多く黄金を得たり云云.
東蝦夷道中日記に曰く,「アイブシマ」*2と云ふ處,河跡の如き掘あり.往古砂金を掘りたる跡なりと.
續蝦夷草紙に曰く,「ニイカフ」「シブチヤリ」など言ふ處,皆砂金を掘りしと.
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*1:松前東西管闚:不詳.表題からは,松前藩による蝦夷地の諸統計・情報誌と思われるが所在不明.
*2:「アイブシマ」:アイボシマ川(広尾郡大樹町を流れる).
 

2015年11月13日金曜日

「北海道鑛山畧記」:(五)金銀銅鉛の「雑」

●雑
●舊記
東蝦夷日誌*1に曰く,「ビクニ」岳「フルウ」岳「サ子ナイ」岳「シャコタン」岳等に金鑛ありと云ふ.
同誌に曰く,「アベヤキ」「ヌツチナイ」「コンガニ」*2,昔黄金を掘りしか故か澤の奥に金坑の跡あり.
同誌に曰く,「ヒハウシ」「ヲホウシナイ」「クロマトマナイ」*3,此處文化年度金丁を入れて,金を掘りし道あり.其近傍多く鑛石を拾たり.
同誌に曰く,「チヤラセナイ」*4,此處三十間餘,瀧に成り落つ.是より「ポンチヤラセナイ」「シヨロカンベツ」「ヘテウコヒ」を経て「ニシユイ」*4に至る.此「ニシユイ」とは臼の事にて,昔金坑盛の時,山丁か用ひし臼ありと.又た神作の臼とも云へり.
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*1:東蝦夷日誌:「ビクニ(美国)岳,フルウ(古宇)岳,サ子ナイ岳(珊内岳),シャコタン岳(積丹岳)」といえば,東蝦夷ではなく,西蝦夷である.誤記か?
*2:「アベヤキ」「ヌツチナイ」「コンガニ」:不詳.
*3:「ヒハウシ」「ヲホウシナイ」「クロマトマナイ」:不詳.
*4:「チヤラセナイ」,「ポンチヤラセナイ」「シヨロカンベツ」「ヘテウコヒ」を経て「ニシユイ」:「シヨロカンベツ」は元浦川上流の支流に河川名として残る.いずれも元浦川の支流名と思われるが,現行地名としては残っていない.


東蝦夷日誌に曰く,「シビチャリ」*5に金坑盛の時,往來せし道ありと云ふ.
仝誌に曰く,「イツケナイ」「子トナイ」「アフカシヤンヘ」*6諾川の上に「アフカシヤンベ」岳あり.往古の金坑跡多し.
仝誌に曰く「ウエンシリウトルクシナイ」「ニナラハクシ」*7此處,寛文年度,金丁多く入りしと云ふ跡あり.
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*5:「シビチャリ」:シベチャリ川.現・日高郡新ひだか町を流れる静内川.
*6:「イツケナイ」「子トナイ」「アフカシヤンヘ」:不詳.静内川には「ネトナイ滝」というものがあるようだが,不詳.
*7:「ウエンシリウトルクシナイ」「ニナラハクシ」:不詳.


蝦夷見聞誌*1に曰く,蝦夷國金銀銅出る處多し.即ち「クンヌイ」*2「チクンヌイ」*3「ウンベツ」*4「スウバリ」*5「シコツ」*6等なり.
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*1:蝦夷見聞誌:(えぞけんもんし)林子平および秦檍丸に同名の著があるとされるが不詳.
*2:「クンヌイ」:訓縫(現・山越郡長万部町字国縫).ただし,この場合は訓縫川のこと.
*3:「チクンヌイ」:不詳.モクンヌイの誤記か?>山越郡長万部町を流れる茂訓縫川のこと.
*4:「ウンベツ」:不詳.様似郡を流れる「海辺川」かもしくは「門別川」か.
*5:「スウバリ」:不詳.石狩川水系夕張川のことか.
*6:「シコツ」:Sikot-pet;現・千歳川か.千歳川最上流(美笛峠付近)には千歳鉱山があった.


松前東西管闚*1に曰く,元文三*2,午年二月,松平左近將監*3,御書付を以て被仰付候へは,金銀稼方の儀,引受取計可相勤侯由,後藤庄三郎*4へ被仰付候間,庄三郎差圖を受け板倉源八郎*5山稼方取計の積.後藤庄三郎被仰付候間,山稼等可申付旨被仰出.同年,後藤庄三郎,名代の者・佐原木藤兵衛・福島數右衛門上下四拾六人にて下着.處々見分致候得共,出來不申相止め申候.佐原木藤兵衛,當時にて病死致候.
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*1:松前東西管闚:不詳.表題からは,松前藩による蝦夷地の諸統計・情報誌と思われるが所在不明.
*2:元文三(年)二月:1738年3月.
*3:松平左近將監:当時の老中首座・松平乗邑のこと.
*4:後藤庄三郎:御金改役に与えられた名称.六代・庄三郎光富か?
*5:板倉源八郎:坂倉源次郎(「蝦夷地質学外伝」其の伍「北海随筆」参照)


蝦夷舊聞*1に曰く,赤夷風説考*2に云ふ「センゲン」山*3,松前府より丑寅に在り.往時鑛の跡,斷岩屏風の如くに聳へ,高さ數十丈なる處あり.今是を切通しと云ふ.
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*1:蝦夷舊聞:蝦夷旧聞,鈴木善教(不詳)が安政元年に著した蝦夷地に関する記載(未見).
*2:赤夷風説考:赤蝦夷風説考:工藤平助著.
*3:「センゲン」山:大千軒岳;渡島半島南部,松前町と上ノ国町の境にある(「蝦夷地質学外伝」其の参「蝦夷国まぼろし」参照)


蝦夷草紙*1に曰く,古來より銀山の沙汰話し「カワクミ」山*2「ユ一ラプ」山*3等に在り.
蝦夷草紙に曰く,銅山は東蝦夷地「シベツ」*4の奥山にあり.「ハコダテ」在の山に在り.
蝦夷草紙に曰く,「メツノイヲヽストロフ」*5といふ島に黄銅あり.此金日本にて未見.生れなから金色なる銅にて,眞鍮の柔かなる様なりと赤人渉海して委細物語れり.
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*1:蝦夷草紙:最上徳内(1789;寛政元)著.
*2:「カワクミ」山:「カツクミ(川汲)鉱山」.
*3:「ユ一ラプ」山:遊楽部鉱山(鉛川鉱山,八雲鉱山).
*4「シベツ」:標津郡標津町.
*5「メツノイヲヽストロフ」:別紙には「メツノイヲ,ストロフ」とあり.どちらにしても地名としては不詳.


蝦夷舊聞*1に曰く,赤蝦夷風説考に言ふ「アカガミ」の地より先き「キヨベ」*2の地,銅を産す.
東の方箱舘に「エサン」の銅山*3あり.東蝦夷「サル」の地,往古鑛の夫数千人群集し家數千軒ありしと.(窃々夜話*4に云,「サル」塲所へ「ナコ」より東の方,十四里半「シコ」と言ふ地銅山なりと.又同塲所イケウシリ川上二十里「チロ」金山.昔金銅出しと)
「エリモヒ」と云地,往時鑛の夫諸國より群集せしに「シヤムシヤイン」亂の時,賊徒百人を此地にて斬首ありてより後,是を百入濱*5と呼へり.此處金甚多しと云ふ.(窃々夜話に「ホロイツミ」塲所「カムイ井ト」一に「エリモ」岬と云ふありて,其地續きに百人濱の名見へたり).
西蝦夷「ヌツキ」,昔鑛の夫多く聚りし地にて,今其遺趾あり.
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*1:蝦夷舊聞:蝦夷旧聞,鈴木善教(不詳)が安政元年に著した蝦夷地に関する記載(未見).
*2:「キヨベ」:松前郡松前町清部.小鴨津川流域にいくつかの鉱山がある.
*3:「エサン」の銅山:恵山鉱山は硫黄鉱山として知られており,恵山の銅山というだけでは,たくさんありすぎて特定できない.
*4:窃々夜話:不詳.「東夷窃々夜話」のことか?(未見). 
*5:百入濱:えりも町苫別付近に「百人浜」の地名が残る.地名の由来は複数の説があり,またこの付近に金・砂金鉱床の記述は見あたらない.


蝦夷草紙*1に言,箱舘、屬村、大森、石崎其他諸處に銅山多し*2.又東蝦夷「シベツ」*3の奥に銅山あり.「ウラカハ」に鑛の跡あり(窃々夜話*4言,浦川塲所ホロヘツ川二里上「シユマン」*5と云ふ地,金の古蹟あり).
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*1:蝦夷草紙:最上徳内(1789;寛政元)著.
*2:所蔵する「蝦夷草紙」にこの様な記述のあるものはない.
*3:東蝦夷「シベツ」:標津郡標津町.標津町金山付近には根室鉱山,東亜鉱山,武佐鉱山などがあった.
*4:窃々夜話:不詳.「東夷窃々夜話」のことか?(未見). 
*5:「シユマン」:日高幌別川支流にシマン川があり,この付近と考えられる.金山としては,この付近の様似町海辺川付近の金鉱が古く松前藩によって探鉱された記録がある.


東蝦窃々夜話*1云ふ「シツナイ」塲所「シビチヤリ」川源「アフカシアンベ」山,昔銀銅を出せしと云ふ(蝦夷亂記事に此地,昔金多し.邦賊首シヤムシイン*2此に住居せしヿを言へり).
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*1:東蝦窃々夜話:不詳.国会図書館には所蔵されているようである.
*2:シヤムシイン:印字のまま.


野作雑記*1に言ふ,「ウナヘツ」*2の土人,近傍の地,銀を生するヿを云へり.
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*1:野作雑記:不詳.「東北韃靼諸国図誌野作雑記訳説」のことか.この写本は,いくつか現存するらしく,オランダの地理学者ウィツェンの著書“Noord en Oost Tartaryen”(1677年再版)中より、「エゾ」に関する部分を編訳し注を付したものらしい.馬場貞由という人物が1809年に訳したとされるが,詳細は不明.
*2:「ウナヘツ」:斜里町に「海別岳」がある.硫黄鉱山・褐鉄鉱鉱山は存在したが,銀鉱床は記録がない.


窃々夜話*1に言ふ,「ウシヤフ」*2と言ふ處より五里程上チロ*3合と言處の山,昔金掘出しよし申傳ふと.
窃々夜話に「チフカルべツ」より海岸を行キ「トシヨロ」ニ至ル此處銀山ナリト言傳フト言ヘリ
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*1:窃々夜話:不詳.「東夷窃々夜話」のことか?(未見). 
*2:「ウシヤフ」:右左府(日高村の旧名)か?.
*3:チロ:現・日高町市街地の沙流川上流では千呂露(チロロ)川と合流する.この付近にはクロム鉱山はあったが,金鉱の記録はない.


蝦夷地見聞録*1に曰く,鉛山の義は所々に見當りたれば,山稼すれば出銀もあるべきなり.去り乍ら是とても嶮岨なる澤々の事にて,稼塲何れも嶮岨に稼く事故,山々を吟味し,彌々出鉛ありと見極たらば,山稼するに差支なかるべし.又曰く西蝦夷地の内,鉛石見當りたる塲所はアカガミ村*2,豐部内*3,「ユウラツプ」*4,「サカツキ」*5,見市村の奥「ヲボユ(ママ)」*6等なり.
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*1:蝦夷地見聞録:不詳.
*2:アカガミ村:松前郡松前町赤神.
*3:豐部内:桧山郡江差町(1900年豊部内町は他町と合併し江差町となる).現在も「豊部内川」の名が残る.
*4:「ユウラツプ」:二海郡八雲町にある地名.遊楽部川,遊楽部岳(見市岳)の名も現存する.
*5:「サカツキ」:古宇郡泊村盃村.
*6:見市村の奥「ヲボユ」:「ヲボコ」の誤記か?.二海郡八雲町熊石見日町を見市川が流れる.ヲボコは「雄鉾岳」であろう.


東蝦夷日誌に曰く「チヤラセナイ」「チケウエ」「ホンチケウエ」*1邊の山總て鉛氣又石英の氣あり.土人取り來り,鑛を焼き鉛を取り鎭石を作れり.
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*1:「チヤラセナイ」「チケウエ」「ホンチケウエ」:不詳.いずれも複数の候補がある.


2015年11月3日火曜日

大鳥圭介

 
しばらく江戸時代から遠ざかってたら,こんな本が出ていた.
ざっと読む.彼も「蝦夷地質学」関係者.
幕末は,ドキドキするなあ.


 
 

2015年10月31日土曜日

Erasmus H. M. Gower のこと

 
昨日,文化圏としての縄文時代について書かれた本はないかと,市内の大型書店に行ってきました.期待した本(研究)は見つからなかったのでガックリ.でも,近くの本棚を散策していたら思わず声を上げてしまいました.(^^;;

「蝦夷地質学」で「謎の外人」として紹介したガワー(Erasmus H. M. Gower)に関する本を見つけてしまったのです.
現在読書中.
著者・山本有造氏は経済学者なので,地質学史的なことは,あまり期待できませんが,これが,いちばんよくまとまった記録ではないでしょうかね.



 

2015年10月29日木曜日

「北海道鑛山畧記」:(五)金銀銅鉛の「舊記」

 
●舊記
ユーラ銀鉛鑛*1幷に「イチノワタリ」銀鉛鑛*2の事「アンチセル」の調書*3にあり)
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*1:ユーラ銀鉛鑛:遊楽部銀鉛鉱(八雲鉱山).
*2:「イチノワタリ」銀鉛鑛:一ノ渡(市ノ渡).
*3:「アンチセル調書」:「教師報文録」の「第二」中の「第三 銀及鉛」に記述がある.


(ヨイチ川上流銅鑛)
開拓使事業報告に曰く,明治十年九月後志國ヨイチ郡ヨイチ川上流の山崩壊により,鑛物を發見す.其見本二種を農學校化學師「ペンハロー」に分析せしむ云云.
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*:この記述では,特定不能.


(大澤金鑛、渡島國)
蝦夷實記*1に曰く,古く夷地諸山より黄金を出せり.元祖開國以來溪雲公*2第七世の代,元和三年始て大澤より黄金を出せり.
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*1:蝦夷實記:不詳.松前廣長の著といわれる.所在不詳.
*2:溪雲公:二代目松前藩主・松前公広.元和三年に家督を引き継ぐ.「蝦夷地質学外伝」参照.


(フクシヤタウシ金鑛)
納沙布日誌*1に曰く,大島の「フクシヤタウシ」に至れば*2,往昔金坑の掘跡あり云云.
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*1:納沙布日誌:松浦武四郎の著.
*2:「フクシヤタウシ」に至れば:「フクシヤタウシ」は「茖葱取多」と書く.アイヌネギの多いところと解説している.場所は現在の「厚岸町幌万別ピリカオタ」のあたりか.地質的には「根室層群チンベ礫岩層(床潭図幅)」なので,金鉱床は考えにくい.


(タブケワタラ金鑛)
蝦夷艸紙附錄*1に曰く,「ウルツプ」島に「タブケワタラ」と云ふ島あり.此處に黄金の山色あり云云.
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*1:蝦夷艸紙附錄:蝦夷草紙(最上徳内著).吉田常吉編では,「下巻(巻之三)・ウルツプ嶋の事」にあたる.「ウルツプ」島は日本名「得撫島」.


(ウラカワ金鑛)
蝦夷艸紙に曰く,「ウラカワ」と云ふ所に金山諸々あり.是は掘たらば出べきと思はる.
其外「エリモ」邊「ラツコ」島等にあり.又,深山に有るべきか.未開の大國なれば,明細に探索に及ひ難し.時を得て逹すべし.
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* 吉田版「蝦夷草紙」に,この記述は見あたらない.須藤版「蝦夷草紙」には「ウラカハと言所の金山跡あり,是は堀たらば出べきと思われるなり」とある.この違いは写本元の違いと思われるが,詳細不明.


(クスリ岳金鑛)
北海随筆*1に曰く,「アツケシ」の手前「クスリ」ヶ嶽*2の麓に金山あり.「コカ子」山と云ふ云云.
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*1:北海随筆:坂倉源次郎の著といわれる(蝦夷地質学外伝参照)
*2:「クスリ」ヶ嶽:「薬ヶ嶽」(不詳);釧路沖から見える山岳と思われるが不詳.


(コガ子山金鑛)
蝦夷行程記*1に曰く,「ハママシケ」*2の奥こがね山*3と言へる金坑あり.
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*1:蝦夷行程記:阿部将翁著.松浦武四郎校正.安政三年(1856)刊.
*2:「ハママシケ」:浜益(現:石狩市浜益区)
*3:こがね山:黄金山;浜益図幅によれば,黄金山北方を流れる群別川流域には「黄金鉱山」と呼ばれた試掘鉱山があったとされる.


(シュマン金鑛)
窃々夜話*1に「ホロヘツ」川源は十勝岳の續にて,川下より貳里程上,「シュマン」*2と云ふ處,金掘の古跡など有るよし書載せたり.
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*1:窃々夜話:「東夷窃々夜話」のことか?(未見)
*2:「シュマン」:不詳.この記述では特定困難かと思われるが,現・日高幌別川の約10km(約2里半)上流には「シマン川」があり,記述と整合的である.なお,西舎図幅には,この地点の金鉱の記述はないが,南の尾根ひとつ越えた様似郡様似町海辺川上流・箱の沢に含金石英脈からなる鉱床が松前藩によって探鉱されたとある.のちの「ウンベ金山」・「日高金山」・「日昇金山」である.


(力子カルウシ金坑)
東蝦夷日誌に曰く「カ子カルウシ」*1と云ふ處,昔し金坑を開きし處なり.是れも寛文の亂*2に廢坑せし由.
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*1:「カ子カルウシ」:「蝦夷地質学外伝・其の九・東蝦夷日誌・五編」参照.
*2:寛文の亂:「寛文の乱」;「蝦夷地質学外伝・其の四 シャクシャイン蜂起す」参照.


(カ子カルウシナイ金坑)(カ子カルウシと同しからん)
東蝦夷日誌に曰く「シトナ」川の澤に「カ子カルウシナイ」と云ふ所あり.「寛文年間まで金を掘し跡多し.又,此山盛なる比は金丁共多く移住し,畑を開きし由,今に其跡多し.土人の話に,其頃は此處まて諸色の運送に車を用ひし由,今に車道の名残れり.其古坑より常に砂金流出たり.可惜の甚しき事なり.」
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上記参照


(ホロナイ川金鑛)*1
東蝦夷日誌に曰く,「ホロナイ」川(日高国),源は小名多し.「ウタシマイ」幷「マサコロク」に至る.昔し政二郎と云ふ金丁,多くの山子を置し跡あり.
「イチウシオ子」「ヲホナス」共に右の方,鮭多き由にて,秋は和人共來り,梁を架るなり.
橋あり「シヽヤモリウカ」と云ふ.往古金山盛の時架たると.其名于今残れり.
此邊より川筋敷條に分れ島となる.屈曲婉轉す.「ハラトウ」「トメナ」共に往昔山丁多く住みし跡あり.兩岸小字多く「ヲマクシナイ」「チフクシナイ」等,其源は「フンベ」岳より來る.樹木多し「サツヒウカ」「ケハウ」,其源「ムコヘツシルトル」岳より來る.水性透明なるヿ實に不思議なり.是れ恐らくは金氣ある故か.山中金坑多し.
「キムンチヤン」「ヘケシリ」上に「ヘケレシリ」山あり.此山金銀の氣立つ故,昔し神か號せしと.
寛文年間迄佐州より金丁多く入込たりと.「シヤクシヤイン」の亂より廢せしと云ふ.「トブシ」「ヲフイチヤシ」,山上に城跡あり.是,寛文亂燒打に成りし跡なり.
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*1:(ホロナイ川金鑛):吉田版「東蝦夷日誌」には以下のようにある.
(五六町)ポロナイ(西岸)相應の川なり。源小名多く、ウヌシコイに到る。(幷て)マサブロク (西小川、人家有)、昔し政三郎と云金丁、大勢の山子を置し跡と。(過て)イチウシホネ(幷て)ヲホナス(小川)、共に右の方(人家十一軒)鮭多き由にて、秋は和人共來り梁を架る也。
橋有、シヽヤモリウカといふ。往古和人ども金山盛の時架しと、其名残れり。此邊より川筋數條に分れ、島と成、屈曲婉轉す。ハラトウ(右)、トメナ(右、人家十三軒)、共に往昔山丁多く住し跡あり。
 兩岸小字多く、ヲマクシナイ、チフクシナイ等、其源はフンベ岳より來る。樹木多し。
過て(右)ヤシクヌキ(小川)、ヲロヲマフ(右川)、此處一里餘の廣野、シヤマニ〔様似〕川筋より此處へ出る。(向に)ベケレメナ(左川)名義、明屈曲川の義。人家三軒。余は小使イトハクテ家にて宿す。畑よろし。
 此メナ兩岸字多く、サツヒウカ(右)、ケハウ(左)、其源ムコベツシルトル岳より來る。水性透明なること、實に不思議なり。是恐くは金氣有故か。山中金坑多し。
過てキムンチヤシ(左川)、山城の義なり。ベケシリ(左川)上にベケレシリという山有、譯て明き山の義なり。此山金銀の氣立故、昔し神が號しと。寛文年間迄は佐州〔佐渡〕より金丁多く入込たりと。奢久者允亂より廢せしと。トブシ(左)、ヲフイチヤシ(左)、山上に城跡と云ものあり。是寛文亂燒打に成し跡也と。
:様似から海辺川沿いに日高幌別川へ抜けたところあたりの記述と思われる.現在でも「トメナ川」・「オロマップ(ヲロヲマフか?)」などの地名が残る.


(サンナイ金銀鑛)*1
東蝦夷日誌に曰く「サ子ナイ」,本名「サンナイ」にて下る義なり.兩山峻しく水急なり.「サ子ナイ」幷に「ウクシナイ」兩山間より「シヤコタン」川筋へ越ゆるヿを得.此川筋金銀鑛ありと云ふ.
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*1:(サンナイ金銀鑛):不詳


(キヨベ銅鑛)(渡島國)
加模西葛社加風説考*1に曰く,「マツマエ」*2西方「アカガミ」*3の西に「キヨベ」*4と云ふ處に銅山ありと.
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*1:加模西葛社加風説考=加摸西葛杜加国風説考;赤蝦夷風説考の写本にしばしばつけられている書名.
*2:「マツマエ」:北海道松前郡松前町.
*3:「アカガミ」:北海道松前郡松前町赤神.
*4:「キヨベ」:北海道松前郡松前町清部.


(アカガミ銀鉛鑛)
蝦夷風俗言上書*1に曰く,松前城下より三里程にして「アカガミ」と云ふ處に鉛山り.
蝦夷巡覽筆記*2に曰く,「アカガミ」村端に川あり.幅二三間.當所澤を行ヿ一里位,兩丘切立木立原を行き鉛山あり.
加摸西葛社加風説考*3に曰く,「マツマエ」西の方,松前城下より三里程有之.「アカガミ」と云ふ處に鉛山あり.
蝦夷舊聞*4に曰く,赤夷風説考に曰ふ,「マツマエ」より西の方三里「アカガミ」の地に鉛山ありと.
北征日記*5に曰く,寛永八年,西部「アカガミ」より銀を出せり.
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*1:蝦夷風俗言上書:不詳.
*2:蝦夷巡覽筆記:1797(寛政九)年,松前藩士高橋壮四郎(寛光),下国才歳,南條郡平,牧田唐九郎の四名が,藩命により蝦夷地を調査して編纂した松前蝦夷地の地理書.「松前東西地理」の別名あり.(北海道大学「北方関係資料総合目録」より)
*3:加摸西葛社加風説考=加摸西葛杜加国風説考;赤蝦夷風説考の写本にしばしばつけられている書名.
*4:蝦夷舊聞:蝦夷旧聞,鈴木善教(不詳)が安政元年に著した蝦夷地に関する記載(未見).
*5:北征日記:不詳.「北征日記」と呼ばれる著書がいくつかあるようであるが,どれも非公開のため,確認できず.


(ヲボコ岳鉛鑛)
蝦夷國風俗人情沙汰*1に曰く,鉛山は「ケンニチ」村*2の奥「ヲボコ」岳*3最上なりと云ふ.先年渡島「エサシ」村*4の者掘りたる時に一ヶ年に三百箇程出來たり.
蝦夷舊聞*5に曰く,西蝦夷「ミイテ」(ケンニチ村ならん)の奥「ヲボロ」岳(ヲボコ岳ならん)に最上品の鉛を出せり.其地保山多ければ産鑛の地あるべけれとも,探索に及ばざれば知る事を得ず.
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*1:蝦夷國風俗人情沙汰=蝦夷國風俗人情之沙汰:最上徳内の著.
*2:「ケンニチ」村:「見日村(北海道二海郡八雲町熊石見日町)」を指すかと思われるが,「見日村」という表現は見あたらない.
*3:「ヲボコ」岳:雄鉾岳.
*4:「エサシ」村:北海道檜山郡江差町.
*5:蝦夷舊聞:蝦夷旧聞,鈴木善教(不詳)が安政元年に著した蝦夷地に関する記載(未見).


(ヤマコシ鉛鑛)*1
東蝦夷日誌に曰く,「ハンケルヘシベ」(膽振国),今は鉛川と云へり.安永年間,鉛を掘しに山崩して死人多し.故に廢坑となりし由.然るに又た,吉岡某等開坑を思ひ立ち盛に掘出せしと云ふ.
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*1:(ヤマコシ鉛鑛):記述からはのちの「八雲鉱山」かと思われる.

 

2015年9月14日月曜日

「北海道鑛山畧記」:(五)金銀銅鉛の「フルピラ銀銅鑛」

●フルピラ銀鑛(のちの稲倉石鉱山)

(地名)
後志國フルピラ郡イナクライシ字フタマタ*1
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*1:後志國フルピラ郡イナクライシ字フタマタ:後志国古平郡稲倉石字二股(現:後志支庁古平郡古平町稲倉石)


(鑛山實況)
後志國フルピラ郡フルピラ市街の正南フルピラ河*1本流を遡るヿ凡三里.左岸より注水する支流「イナクライシ」の澤*2,字フタマタ(海面を抜くヿ凡六百尺)の所にあり.
該山は明治十八年七月十日フルピラ市街の樵夫・猪股五平・大竹嘉蔵・和田淸作(不詳)の發見する者にして,同年十月二十日,發見者三名にて試掘を出願し,十九年二月,試掘許可を得て,三月二日より着手し,當時大俣坑と稱する鑛脉に,横坑僅に十五尺,竪坑十三尺の試掘をなし,資金に乏しくして試掘を中止す.
後幾何もなく試掘期限滿ち,廢山となりしを以て,北海道鑛山會社員・植杉貢二(不詳)より發見人と示談の上,廿一年十二月,再び試掘の許可を得,二十二年,解雪の期を待ち着手し,富饒なる銀坑を發見す.
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*1:フルピラ河:古平川.
*2:イナクライシ」の澤:稲倉石川.


 

2015年9月9日水曜日

「北海道鑛山畧記」:(五)金銀銅鉛の「ユーナイ銀銅鑛」

ユーナイ銅銀鑛

(鑛山地名)
後志國ヨイチ郡オキ村ユーナイ字ユノサワ*1
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*1:後志國ヨイチ郡オキ村ユーナイ字ユノサワ:後志国余市郡沖村湯内字湯の沢(現:後志国余市郡余市町豊浜町);同鉱山は住友金属鉱山が経営する「余市鉱山」と場所的にはほぼ一致するが,沿革(古平および幌武意図幅)は一致しない.調査を要する.
**Webページ「余市町でおこったこんな話・その74:余市鉱山のにぎわい」によれば,「ユーナイ銅銀鑛」は「余市鉱山湯内鉱区」の前身である.


(鑛山實況)
明治十六年六月「ユーナイ」の人・中村留吉,仝村「ユノサワ」の小川に至り漁撈の際,山谷の間にて光ある石を發見し,金類ならんと之を携へ歸り,仝年中其道に達する人に依頼し,取調しに銀銅鑛ならんとの評あり.依りて仝村住・竹内孫兵衛・小黒喜三治*1,小樽の人・大竹作右衛門*2と共に試掘を出願し,同二十一年一月許可を受け試掘をなせり.後望を嘱すべきを以て,同二十二年四月に至り借區,開坑す.
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*1:竹内孫兵衛・小黒喜三治:不詳.
*2:大竹作右衛門:不詳.旧・会津藩士らしい.足跡は小樽のみならず,小平蘂川での石炭調査,岩内町での牧場経営などもあるらしい(調査中).
 

 

2015年9月5日土曜日

「北海道鑛山畧記」:(五)金銀銅鉛の「モイワ銀銅鑛」

モイワ銀銅鑛

(地名)
後志國フルウ郡オキシナイ村字ムサワ*1、盬越澤*2、サカヅキ村*3、サカヅキ川*4,アカエ川*5、カブト山*6
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*1:後志國フルウ郡オキシナイ村字ムサワ:不詳(茂岩川のことか?).
*2:盬越澤:塩越川.
*3:サカヅキ村:現・泊村興志内村.
*4:サカヅキ川:泊村盃村.
*5:アカエ川:不詳.
*6:カブト山:泊村兜山.


(試掘の實況)
明治二十一年四月試掘出願.
仝五月,許可を受く.試掘人は益田孝*1なり.
仝月より着手せり.
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*1:益田孝:益田孝(1848.11.12.-1938.12.28).三井財閥中心人物の一人.


(掘採方法)
鑛石を掘採するとき,一坑ロを付するに竪五尺余横三尺余とし,之を掘進するに,一晝夜を二十四時間三交退となし(仕業時間一交代を八時間とす),坑夫坑業中は大工鎚・鶴嘴・タカ子*1の道具を以て磐石を碎き,或は穴ロを穿ち火藥を用井るヿあり.右(上)方法にて既に坑口十二ヶ所を起せり.其内最も鑛石を採取したるは一番二番三番坑なりとす.
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*1:タカ子:鏨(タガネ)


(職工坑夫賃金は左(下)表の如し)
自明治廿年五月至仝廿一年四月 職工坑夫賃金表



(坑夫工程)
壼ヶ所の坑ロを假定し,譬へは縦五尺余横三尺余の坑ロを開掘するに,石質堅柔により一定せずと雖とも,概畧三寸乃至六七寸切延すを一工とす.


(人員表)


右(上)事務所員中二名,廿年九月,當鑛山を辞し,其他諸工夫は種々雇入れの方法を設け置たれとも時々出入あるを以て滿壹ヶ年の平均を示す.


(諸職人食料給與方法)
諸職人に對する需用品は該鑛山事務所に於て買入れ置き,請求の時々貸渡ものとす.而〆之に貸附くるに通帳を製し銘々に壹通を渡し置き,月末に至りて仕業金高を勘定するの際諸物貨(ママ)代價を精算せしむ.


●舊記
開拓使事業報告に曰く,明治十三年五月後志國フルウ郡オキシナイ村*1海岸に於て銅鉛鑛を發見す.其鑛脉,厚さ尺餘にして熔鑛運輸の便あり(鑛物分析表を記せり).
東蝦夷日誌に曰く*2「サカツキ」の名義は金銀鑛あるの義なり.此所,金銀及び鉛鑛あり.故に名く.又「モイワ」にも鉛氣あり.
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*1:後志國フルウ郡オキシナイ村:後志国古宇郡興志内村(現:古宇郡泊村(大字)興志内)
*2:東蝦夷日誌に曰く…:「蝦夷地質学」参照.
 

 


2015年9月2日水曜日

「北海道鑛山畧記」:(五)金銀銅鉛の「モイワ銅鑛」

(五)金銀銅鉛
モイワ銅鑛
(地名)
後志國フルウ郡オキシナイ村字モイワ*1
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*1:後志國フルウ郡オキシナイ村字モイワ:古宇郡興志内村(現:古宇郡泊村興志内(大字)茂岩(字))


(鑛山實況)
イワナイ港より北に面し,凡四里餘にして,海岸路傍に在りて開採運輸の便,極めて善しとす.
然れとも古來開採に従事するものなく,只該鑛脉の路傍に顯出するを以て,漁夫或は旅客等,他に轉話し,偶々該塊を採去するものあるも,其何たるを試驗せしものなく,開採の業を營むものなし.然るに明治五年頃一商,該鑛一塊を「ハコダテ」に齋し,當時同港に滞在せる「ケプロン」に就て,其鑛物の何たるを質問せり.
之を分析するに,硫化銅・硫化鉛・硫化亜鉛,鐵を含めるを知しりと雖とも,硫化鉛多量にして銅を含有するヿ,極めて少なしと云へり.其後數月ならずして「ケプロン」は「イワナイ」郡カヤノマ石炭山,檢査の爲め出張し,滞留中,再ひ該鑛を試驗せしに,銅鉛銀の三金を得たるを以て,稍々良質なるを探知せられたり.然れとも遂に着手するものなく,明治十年,舊開拓使に於て米國博覽曾出品に供せんか爲め,該鑛の掘採幷に製銅を「カヤノマ」炭山物産局出張所へ命令せられたり.
所長・伊地知季雅の指揮により銅山坑夫・木村熊五郎なるものを派出せしめ,粗鑛凡二百貫を探り「カヤノマ」炭山へ運送し,同山に於て製煉するに百分の八を得たりと雖とも,曩に「ケプロン」の試驗に係れる調書を閲するに,一割四分六厘に當るを以て,今之と比するに六分六厘の減少を來たす.蓋し経験に乏しきに原由せしならん.因て再び精密に注意し製煉するに一割七分強の製銅を得たり.

其後,明治十二年,米國鑛山師「ゴージョー」*1,「カヤノマ」炭山巡回の際「モイワ」銅山の實況を視察し,一の鑛脈を發見せられたり.其時「サッポロ」に於ても,屢分析ありしが,概して良品なりとの評あり.然れとも民間にては未た鑛業に注目するものなく,實に北海道は海産一事を以て足れりとするの慣習甚たしく,偶ま該山に志ある者あるも,却て故障を入るヽの弊害なしとせず.

明治十四年,舊開拓使に於て硫礦質の善良なるヿを廣示せんか爲め,開拓使三等属・仁田登*2を該地に派遣し若干金を投し,字「〓越澤」*3に於て試掘に着手す.然るに都合に據り數月を俟たずして事業中止となり,未た良質の鑛石を見る能はず.
其頃より「カヤノマ」炭山に寄留せる中野力之助*4なる者あり.同人は院内銀山の坑夫となり,鑛業を以て得意とす.「カヤノマ」川上流「キンフセン」山に登り鑛脈を捜索せしに,數個を發見せり.又明治十七年,「モイワ」鑛山に至り,独り鑛脈を探るヿ數日間,敢て倦むヿなし.然れとも無資にして事業を興起する力なし.「イワナイ」の商・木部熊平*5,其志を賞し,若干金を投して其業を助く.然るに僅一年ならずして,債主・木部熊平,病に罹りて死す.依て廢業す.
其後,東京の人・徳田與三郎*6,「モイワ」鑛山の頗る良鑛なるを聞き,試掘せんとす.都合ありて加登甚左門・〓*3田六郎*7,両名の名儀にて明治廿年四月,試掘を出願.同月許可を受け,翌月より着手す.
同年七月,北海道廳技師・大島六郎*8該山を巡回し,着手の方法を示したり.
同二十一年四月,三井物産會社長・益田孝,之を譲り受け,同人に於て二十七万〇七拾八坪の借區を出願し,五月許可せらる.
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*1:米國鑛山師「ゴージョー」:E. Ganjot(不詳:調査中).
*2:開拓使三等属・仁田登:不詳.札幌市博物場の場長を務めたという記録がある.
*3:「〓越澤」:「塩」の異字.日本語フォントには無い.
*4:中野力之助:不詳(調査中).
*5:木部熊平:不詳(調査中).
*6:徳田與三郎:三菱美唄炭坑の前身に徳田炭鉱なるものがあり,徳田與三郎が興したらしい.同一人物か否かは不明.
*7:加登甚左門・〓*3田六郎:両者とも不詳.
*8:大島六郎:北海道庁技師.退職後,北炭役員を務める.



(開抗の實況)
玉掘坑(試掘の節以下同し)を玉株抗と改稱す.
此の坑,「モイワ」に在りて兩磐とも稍定り一丈の中石を狭み,二線脉あり.白硅石*1硫化銅*2を含めり.現今追切*3中にして,之を掘進するときは良鑛を得へき見込なり.
「壱番坑」を改めて「幸坑」と稱す.此の坑は字ユトマリ海岸にて鑛脉中より温泉三ケ所*4湧出す.鑛石は青軟石に混したる硫化銅鑛にして良鑛なり.脉巾三寸乃至一尺余に至ると雖とも,前試掘人にて探取したる處は追切普請中にて採収せず.
「シヤフト」と稱する處を改めて「吟盛坑」と稱す.此の坑は「ユトマリ」海岸の底部に良好なる鑛脉あるの見込にて,海岸水際の地に竪坑を掘下し,地下百尺内外の點より更に横坑道を穿ち探鑛する目的なり.鑛質は幸坑と異なるヿなし.
「二番坑」を改めて「萬歳坑」と稱す.青軟石に混在する硫化銅鑛にして,些少鉛鑛を含めり.兩磐稍々定り脉巾二尺余にして五寸乃至一尺余の硫化銅を含有す.
「三番坑」を「盛坑」と改む.該坑は「オキシナイ」海岸の水際にありて,銅(ママ)巾一尺余青軟石に銅鑛を露出す.底部に良鑛あるの見込なるを以て竪坑を掘下し,六十尺にして横坑道を穿ちたるに良鑛を得たり.該坑は海水侵入.水揚器械を据付け掘進す.
「興成坑」は廿一年六月,開坑す.之は稍々「盛坑」と同脉にして青軟石に硫化銅鑛を含有せり.
「一貫坑」は廿一年六月開坑.之は「オキシナイ」海岸に在り.該坑ロより二十間離れたる海岸水際に五寸乃至一尺余の硫化銅鑛脉露出せり.之を掘進するときは山腹根合にて其鑛脉と相曾するの見込なり.
「立入坑」を「榮盛坑」と改む.此の坑ロは西より東に通する鑛脉を探討するか爲め南北へ通し,後坑道とするの見込なり.
「七番坑」を「清正坑」と改む.舊坑ロより十五尺,地下の磐より.二十一年八月開坑.兩磐とも定り八尺の中石を狭(ママ)て二線の脉あり.掘進するときは相會するならん.
「輝晴坑」は本年九月開坑.「オキシナイ」雨降澤にありて青石と白硅石と混在し,硫化銅を含む.之れ頗す望を屬する箇所にして,掘進するときは良鑛を得るならん.
「新勢坑」は二十一年七月開抗.「オキシナイ」鹽越澤西より東に連續する鑛脉を探討し,後抗道に供する目的なり.
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*1:白硅石:白珪石;石英を主成分とする岩石(鉱山用語).岩石学的にはさまざまなものを含む.
*2:硫化銅:銅と硫黄からなる化合物.天然には輝銅鉱もしくは銅藍であるが,この場合は黄鉄鉱か黄銅鉱か?.
*3:追切:鉱山用語.すでにある坑道を目的の大きさまで切り広げること.
*4:温泉三ケ所:現在の杯温泉か?


(掘採の實況)
總て一坑ロを付するに,縦五尺餘・横三尺餘とし,之を掘進するに,一晝夜二十四時間を三交退[交代]となし(一交退を八時間とす),坑夫名々[銘々]就業時間中,大工鎚・鶴嘴・タカ子[タガネ]等の道具を以て磐石を砕き,或は穴ロを穿ち,又火藥を用ひ一撃大孔を穿つヿあり.


(坑夫の工程)
縦五尺横三尺の坑ロを開掘するに石質の堅軟により一定せずと雖も通常三寸乃至六七寸を一工とす.


(職工坑夫の賃金)



(役員其他人員)
役   員   十一人
開坑夫人員  七十九人
留坑夫人員    五人
雑役夫人員  八十九人
 合 計  百八十四人

備考:諸工夫雇入出入多きに依り,本表は四ヶ月(五月より八月まで)平均を揚く.


(諸工夫生計の實況)
諸職人の需用品は事務所に於て概略豫算を以て買入れ置き,他商人より安價にして貸付け,又之を貸付るには銘々に通帳を渡置き,月末に至つて仕業金高より諸物品貸付代價を引去り精算するものとす.


(留木矢板寸法代價)
留木は長六尺.末口五寸余,代償一本に付金九錢,長さ六尺より一丈まてを長延する毎に金二錢つヽを増價す.矢板は長さ四尺巾三寸厚さ一寸五分(一枚に付き金壱錢二厘)

 

「北海道鑛山畧記」:(四)石油

 
(四)石油(略)
 

2015年7月12日日曜日

「北海道鑛山畧記」:(三)石炭の「雑」

●雑
 ●舊記
ライマン著北海道地質總論*1

石狩平原中,少なくも厚さ三尺有餘の良質炭層拾箇あり.速に開取すへきものとす云々.

石炭の性質は一千八百七十四年,我地質測量の爲めに「マンロー」氏之を分析試験し,報文一冊既に刊行す.請ふ,就て炭質の良否を判決すへし(以下,各煤田の概説あれとも省く).

我煤田實測に據て作れる地質及地理的圖,數葉あり.此圖に據れは,其測量區域内,開取に堪る各炭層の其平準に於る廣狭を測度するを得へし.

開拓使事業報告に曰く,明治八年十二月,膽振國アプタ郡ベムベ村*2,海岸を距る三里許の所,凡方一里内に斷續露出の木炭*3を發見す.依て之を紙幣寮雇米人「アンチセル」に鑑定せしむ.其報左(下)の如し.
木炭は褐色上質にして,焼燼すれは紅褐色灰三割二分(三分の一に近し)を存す.鑛坑より掘出したるものは多量の濕氣を含み燃方宜からす.故に數日を經て之を用ひは少しは有用物となるへし.

北海道地質總論に曰く,繊緯ある木炭の重立たる層は「イソヤ」と「 クマドマリ」の間なる「ケムシドマリ」*4(一時開抗せり)と「ハコダテ」港を隔てたる「卜ミカワ」*5とにあり.
「ケムシドマリ」の層は,僅に一尺五寸の厚さなれは開取するも益なく,殊に純粹のものにあらす.
「トミカワ」の層は,尚夫より薄く,凡一尺なるへきを以て,全く開取するに足らす.
「トカチ」川口より上少距離の所にも,僅少にして開取に足らさる者あり.
其他「ワシノキ」近傍「トリサキ」*6の石層中に僅少なる木炭の痕跡あり.其片塊は(恐らく碎片となりて沈積層中に濕せし者ならん.
「シリベッ」の下流、フルビラ及ムロラン近傍に於て之を發見せしと雖とも,今日迄檢査せる所の層は皆薄小に〆,後來開取するの厚層を發見すへき望を起さしむる者に非す.

北海道地質總論に曰く,既に發見せし泥炭の最厚層はコブイ*7近傍の「オツキ」*8川口なる鐵砂場接近し,其厚さ八尺有餘なり.
其他イクシエムベツ、ホロムイ及ひ「トヨヒラ」の下流なる沈積層の河岸及ひ河床,三尺以上の者あり.蓋し如此厚さあるも其質不純粹なるか故に現今之を開取するに足らすとす.
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*1:ライマン著「北海道地質總論」:ライマンがまとめた北海道の地質の概略.開拓使刊.英語版と日本語版がある.そのうちに,現代語訳して,英語版と比較してみたい.
*2:膽振國アプタ郡ベムベ村:弁辺村(現在の豊浦町).
*3:木炭:不詳.豊浦の内陸部には「美和層」(豊浦図幅,留寿都図幅および狩太図幅)があり,亜炭を含むことが知られている.この亜炭のことかもしれない.
*4:「イソヤ」と「 クマドマリ」の間なる「ケムシドマリ」:不詳.「イソヤ」は磯谷川河口(中流に,かつて熊泊硫黄山と呼ばれる鉱山があった),「クマドマリ」は熊泊(かつて函館市臼尻のとなりにあった村;現在地名は失われている)と思われる(現在でも熊泊山という地名が残っているため,現在の常路川一帯が「クマドマリ」であったのだろう).したがって,「ケムシドマリ」とは黒羽尻川河口のあたりか.
*5:「卜ミカワ」:北斗市富川.
*6:「ワシノキ」近傍「トリサキ」:茅部郡森町鷲ノ木および同鳥崎町.
*7:コブイ:古武井.
*8:「オツキ」:不詳.

  

2015年7月1日水曜日

「北海道鑛山畧記」:(三)石炭の「舊記」

 
●舊記
(ソラチ石炭)
東蝦夷日誌に曰く,「ソラチブト」より登り「ヲホングツフ」*1「シユフヲマナイ」*1等を越へ,「ナエー」*1を過きて「バンケホロナイ」*1に至る.此の間石□*2露出多し.
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*1:いずれもアイヌ語地名は失われている.但し,赤平市街地へ南から流れる「ハクシュオモナイ川」があり,これが「シユフヲマナイ」と関連しているかと思われる.
*2:□:空白.「炭」の字が欠けていると思われる.


(シビチャリ川*1石炭)
開拓使事業報告に曰く,明治六年八月,石橋大主典*2等復命略左の如し.
日高國「シツナイ」郡シビチャリ川上に石炭二脉あり.一は西北の□*3.層厚六尺,幅三尺二寸.一は正北より正南に亘る□*3.層厚五尺,幅五尺二寸.其分析左(下)の如し.

(表140)

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*1:シビチャリ川:シベチャリ川(静内川)
*2:石橋俊勝:不詳.北大図書には石橋俊勝の肖像写真がある.また,十勝川から佐幌岳を通って空知川までの測量図が残されており,「三角術測量北海道之図」(1875(明治8)年発行)の当該部分のデータは石橋ほか三名の測量と思われる.これらから,石橋らは測量作業が中心であり,鉱山踏査はサブであったことが推測される.(「北海道鑛山畧記」:(一)鉱業略沿革より)参照.
*3:□:「金」偏に「比」とある.不詳.「𨫤」の略字として扱われていたのかもしれない.


(クヲナイ褐炭)
開拓使事業報告に曰く,天鹽國テシオ郡テシオ川上字クヲナイ*1に褐色石炭の脉あり.層厚一尺乃至二尺云云.
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*1:天鹽國テシオ郡テシオ川上字クヲナイ:天塩川川上には「褐炭がある」ことは知られているが,この記述では場所が特定できない.


(シラヌカ石炭)
開拓使事業報告に曰く*1
『シラヌカ』舊石炭坑は,上古の石炭を含む岩石と變し,坑の前邊灰色シェールの近代に成る岩層の一端あり.坑上灰色砂石は,此岩層に連續する如きなれとも,坑近傍の岩石は,其質甚堅硬にして数多の黒斑あり.
往年開採の跡を見るに,岡麓に一の坑質あり.坑口,土石崩落匍匐して入るに,凡八碼許にして,土石充塞し進むへからす.又,其側面は板張にて岩層を見す.層厚さ半尺より四五尺と云ふ.坑外堆積中良質と見ゆる拳大の岩塊あれとも,概子破砕して多く「スレート」を混す.炭質良なるか如しと雖も開採に堪へさるへし.

東蝦夷日誌に曰く
『シラヌカ』石炭を掘出す.其稼方九洲邊の掘方と異なるヿなし.
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*1:開拓使事業報告に曰く:「開拓使事業報告」に見あたらず.


(オソツナイ石炭)
開拓使事業報告に曰く「オソツナイ*1」舊煤坑は「クシロ」を距る凡一里半海岸にあり.
明治四年九月,工部省にて開坑し,翌年五月に至て廢す.抗内土崩れて入り難し.坑外に在る炭塊を見るに堅良なるか如し.其中,骨狀のものあり聞く.此の炭層は二脈にして脈厚さ一尺.下脈二尺.黒色「スレート」の一尺許なるもの其間に挟めり.
又,上脈の上に黒色「スレート」一尺あり.其上に灰色軟舍兒*2ありと.「スレート」の層の依て計算すれは,炭層五尺なるか如しと雖とも,露出する所,唯三尺のみ.此抗「アッケシ」地方第一の石炭にして,坑は炭層と共に北西へ二十度の傾斜に下るか故に,二三碼を距る峭石の露面に依て自然に瀦水*3を排除すへし.此海岸に沿て露出炭坑の外,尚ほ一二の炭層あり.其中開採すへき石炭は,總て厚さ四尺三寸五分あり.夫より東北に三碼の所に同様の岩石あり.但其傾斜反對す.其岩層の露面上より下を量る左(下)の如し.

(表142)

合五尺六寸にして石炭三尺三寸あり.前の「オソッナイ」を合し,平均石炭三尺八寸五分を得へき割合なり.上層石炭は光澤ありて堅く,甚良質の如し.然れとも其平均の厚と變異と及ひ近傍良港なく運輸の便を缺くを以て觀れは,唯開採し得へしと謂ふのみ.
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*1:オソツナイ:「獺津内」.現・釧路市益浦あたりの旧地名.
*2:舍兒:不詳.
*3:瀦水:たまり水.