遠藤隆次(1965)原人発掘一古生物学者の満州25年.
10数年前,北京原人について調べていたときに見つけた本.ある地質屋の自叙伝.
遠藤隆次は東北地方に生まれ,東北帝国大学理学部地質学古生物学教室を卒業.南満洲鉄道株式会社に入社.満鉄社立撫順中学校,満洲教育専門学校,教育研究所教授を歴任,現地で地質・古生物調査を進め,満洲国国立中央博物館の設立に尽力した.
地質屋の自叙伝というのは非常に珍しい.
正史には出てこない満洲の事実というのも浮かび上がってくる.遠藤がかかわったのはジャライノール原人であるが,関連して北京原人についても一部出てくる.時代に応じての日本人,フランス人,中国人の力関係もさらけ出されている.遠藤が日本に帰ったときには,ほとんどすべての研究資料が中国に没収されたが,目立ったのは裴文中の手の平返し.まあ,当事の中国では仕方ないのかとも思った.いまもそうかな?
調査中に見つけた不思議なことを一つ.
1939(昭和14)年に赤堀英三が「北満ジャライノール遺跡出土の新資料」という論文を書いている.赤堀はこの論文中でジャライノールの古人骨(頭骨)について報告している.
この古人骨は昭和9年初秋,赤堀が「ジャライノール遺跡見學に赴ける際に炭鑛技師長顧振權氏より示されたもの」であり,「その翌年炭鑛は北満鐵路總局の管理するところとなり頭蓋は満洲國立奉天博物館に移管されるに至つた」としている.
大出尚子(2014)「「満洲国」博物館事業の研究」によれば,“満洲國立奉天博物館”という名称ではなく「東三省博物館(1926-1932)」もしくは(改称して)「奉天故宮博物館(1932-1936)」というものらしく,昭和10年ならば,「奉天故宮博物館」が正しいのであろう.
赤堀は,この論文で古人骨について,写真付きで記載している.遠藤は,ある人物からジャライノール産の古人骨(頭骨)を手に入れたが,それは昭和16年も末のことと記している.すでに論文になっているもう一つのジャライノール人の頭骨について,何一つ触れていないことである.組織自体は違うとはいえ同じ国立博物館に収蔵されている資料について知らなかったのであろうか.不思議である.これは論文ではなく,単なる自叙伝であるから「必要ない」と思ったのか.出版されて二年も経っても,満洲にいた遠藤には届いていなかったのかもしれないが…
さて,湊先生もこのくらいの自叙伝を残してくれていたらなあ…とつくづく思った一冊であった.
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さて当時から集めていた北京原人についての文献(書籍)を下記に.
1930年代
アンダーソン,J. G. (1933)黄土地帯(松崎壽和,1987訳).
ワイデンライヒ, F.(1939, 49)人の進化―北京猿人の役割―(赤堀英三,1956訳).
1970年代
松崎寿和(1973)北京原人―世紀の発見と失踪の謎―.
ジェイナス(1975)消えた北京原人(宇田道夫,1976訳).
賈蘭坡(1977)北京原人(日本語版).
タシジアン, C.(1977)北京原人失踪(松本清張,1979訳).
1980年代
松崎寿和(1980)ドキュメント どこへ消えたか北京原人.
賈蘭坡・黄慰文(1984)北京原人匆匆来去―発掘者が語る“発見と失踪” .
1990年代
二宮淳一郎(1991)北京原人―その発見と失踪―.
中薗英助(1995, 2005)鳥居龍蔵伝=アジアを走破した人類学者=.
2000年代
中薗英助(2002)北京原人追跡.
春成秀爾(2005)北京原人骨の行方.
個々については,後日略述します(つづく)