2021年4月21日水曜日

パドレたちの北紀行Ⅴ(小野忠亮,1960より)



 長期間にわたって,児玉ほか(1954)の解析を進めていたのですが,あまりの障害の多さに一旦あきらめて,ペンディングとします.必要があれば戻ることとしましょう.

 それで,今回は「小野忠亮(1960)仙台の切支丹」から,デ・アンジェリスとデ・カルバリオの仙台での足跡を追ってみます.


 小野忠亮(1960執筆時の情報)1905年弘前市生まれ.カトリック神学校卒.当時カトリック司祭.主著「宮城県とカトリック」.



仙台藩にキリシタン伝道のいとぐちを開いたのは、慶長十六年(1611)の冬、ローマへの南欧遣使の問題で仙台へきたソテロ(Luis Sotelo)だが、藩内にゆっくり腰を据えて伝道に従事したのは、元和元年(1615)の春仙台へきたアンゼリス(Girolamo de Angelis)だといわれていた。

 この一文で,小野は先行する研究である児玉ほか(1954)を読んでいないことがわかる.児玉らは旧研究とアンジェリスの報告書から,アンジェリスが蝦夷地に来たのは1618(元和三)年と結論(修正)しているからである.



表:児玉ほか(1954)におけるアンジェリスの渡蝦年の検討


 小野はこのあと,ソテロに先行して二人の日本人キリシタンが仙台を訪れ,キリシタンを伝道しているという只野淳・小野伸の説を紹介しているが,疑問に思っているようである.ソテロは南欧遣使を企てる伊達政宗に呼ばれたもので,この遣使問題に没頭していて,藩内での普及伝道は大きな成果を挙げなかったようである.そして1613年10月28日(慶長十八年九月十五日),支倉一行とローマ遣使の旅についていってしまった.


ソテロが去ってから数年後の元和元年(一六一五)の春、ソテロとおなじイスパニア国人で、イエズス会の司祭アンゼリスが、仙台へきて、藩内にとどまり、ここを根拠地として、藩内だけではなく、ひろく東北各地をとび歩いて、伝道に従事し、さらに蝦夷(北海道)へも足をのばし、蝦夷伝道の端を開いた。

 「蝦夷(北海道)」について.蝦夷とは日本側の呼称で,当時は「アイヌ民族」の事,人の事である.北海道の旧名としてならば「蝦夷(の住む)地」を使うべきである.

 したがって「蝦夷伝道」は「蝦夷地(における)伝道」でなければならない.なぜなら,蝦夷地にはすでにキリシタンである「シャモ(和人)」が多数おり,その後の記録を読んでも蝦夷(アイヌ)に伝道をしたとは思われない.

 小野(1960)は,このあとデ・アンジェリスの行動について略述しているが,同報告の末尾にあるデ・アンジェリスについての「人物略伝」にも,同じ事を含めて繰り返している.こちらは生年から殉死までをまとめてあるので,そちらの方に移動する.


アンゼリス(Girolamo de Angelis)

イタリア国人、シチリア島に生れる。十八歳のときイエズス会に入会、ポルトガルで司祭の位をうけ、インドのマカオにきて伝道に従事したのち、慶長七年(一六〇二)日本にきた。

 日本に来るまでの略歴である.初出はパジェス(1869)である.


一ヵ年を日本語の学習に費した後、伏見に修道院をつくって院長になった。それから間もなく江戸に出で、そこに修道院を設立する仕事をはじめた。しかし、土地の買収を終えたその日に、家康の宣教師追放令が出たので、江戸を去って駿河に退き、京都へ行き、他の宣教師たちと長崎で落ち合い、そこにかくれていた。元和元年(一六一五)の春、津軽へ流されたキリシタンを慰問するため仙台へき、仙台から水沢を経、奥羽山脈を越えて、出羽(秋田)の仙北(横手市附近)へ出、さらに出羽と津軽の境である矢立峠をこえて、高岡(弘前市)につき、流人を慰問した。

 「津軽へ流されたキリシタン」:1614(慶長十九)年,禁教令によって津軽の高岡(弘前市)へ流された京坂地方の信者たちのこと.当時の津軽は天候不順であり,もともとハイソな「京坂地方の信者」は農作業に慣れてもいなかったため,食べるものにも事欠く事態であった(残念な事に,記述はパジェス,1869の丸写しである).一方で,大量の物資の搬入は,同じ飢饉に苦しむ津軽の農民たちの感情を刺激したであろう.

 津軽のキリシタンを慰問するために,仙台から水沢(現:奥州市)を経て,胆沢川沿いに遡り奥羽山脈を越えて,横手盆地(山北(仙北)三郡)にでて,(ここからしばらく行程不明になるが)矢立峠を越えて,弘前に行った,としている.この行程記録は初出である.あまり選択肢はないとはいえ,根拠も示さず書くのはどうだろうか.


仙台藩に、キリシタン伝道の、いとぐちを開いたソテロの後をうけて、伝道に従事して多数の信者をつくっただけでなく、蒲生・上杉・最上・南部・津軽・佐竹など全奥州の諸藩、さらに越後・佐渡、日本の外といわれた蝦夷(北海道)までも行って、伝道した。元和七年(一六二二)アンゼリスは,二回目の蝦夷訪問を終ったとき、上長から江戸へ転任を命ぜられ、江戸へゆき、そこにとどまって、江戸市中だけでなく、伊豆や甲斐へも出かけて伝道した。

 著者本人が,「ソテロは南欧遣使を企てる伊達政宗に呼ばれたもので,この遣使問題に没頭していて,藩内での普及伝道は大きな成果を挙げなかったようである」と書いているのに,違和感がある.

 デ・アンジェリスが訪れた場所が列記しているだけで詳細が無いのは残念である.

 なお,「蝦夷」は人の事(ここではアイヌ)で「蝦夷地まで」と書くべきである.


元和九年(一六二三)の迫害で、十二月四日、ガルベス、原主水ら五十人の信徒と共に江戸で火刑をうけ、五十三歳で殉教した。

 処刑の日はパジェス(1869)と同じであり,「十二月四日」が西暦か和暦かわからないのも同じである.


 元(本文)へ戻る.

 1615(元和元)年の春,デ・アンジェリスが仙台にやってきた.津軽のキリシタンを慰問したあと,仙台に居着いた.



表:児玉ほか(1954)におけるカルバリオの渡蝦年の検討


 つづいて1617(元和三)年,ポルトガル人でイエズス会司祭のデ・カルバリオ(Diego de Carvalho)が仙台に応援にやってきて,伝道に従事した.



 以下文末の略伝に進む.


カルパリオ(Carvalho, Diego de.日本名長崎五郎衛門、一五七七~一六二四)

ポルトガル国人、仙台で殉教したイエズス会宣教師、文禄三年(一五九四)イエズス会に入り、大学卒業後司祭の位をうけ、支那にわたり、マカオにとどまること数年、慶長十四年(一六〇九)日本へきた。満二年間天草にあって日本語を学んだ後、畿内地方へ行って、伝道に従事したが、慶長十九年(一六一四)の追放令で安南へ去り、元和二年(一六一六)にふたたび来朝、大村に伝道した。同三年奥州にうつり、はじめはアンゼリスと共に働いたが、六年、別れて津軽へ行って高岡の信者を慰問した。その後も数回にわたって津軽のキリシタンを訪問、東北各地へ伝道しただけでなく、蝦夷へも渡って伝道した。九年イエズス会の副管区長に任ぜられた頃から、主として仙台地方にあって、その地方の教化に従事した。

 文禄三年(一五九四):日本でイエズス会に入ったわけではないのに,「文禄三年」をつける事にどのような意味があるのであろうか.

 元和二年(一六一六)にふたたび来朝:さらりと書いてあるが,明らかに国禁を犯しての密入国である.このような犯罪のくり返しが幕府を怒らせ,刑が厳しくなったのであろう.

 蝦夷へも渡って伝道:蝦夷地へも.蝦夷と蝦夷地を区別しない書き方をすると,アイヌに対して伝道したと誤解を招く.

 なお,パジェス(1869)は,デ・カルバリオは津軽へ行くために詮議の厳しい関所を避け,一旦蝦夷地に入る道を選んだように書いてある.この書き方はパジェス(1869)を否定していると取っていいのだろうか.なにか,新事実があるなら,そう書いてくれないと読者は理解できない.


当時彼をたすけたキリシタンの有力者は、伊達政宗の重臣後藤寿庵であつたので、その領地見分方面は、カルバリオのしばしば訪れたところであり、彼が逮捕されたその年(元和九年)に見分で祝われたクリスマスも、彼の主宰でおこなわれた。

 デ・カルバリオは元和九年のクリスマスは見分(現:岩手県奥州市水沢福原)に居た.なお,後藤寿庵は見分村(1,200石)を給されていた.寿庵は原野だった見分村を開拓,大規模な用水路を作った.この水路は「寿庵堤」と呼ばれ,現在も遺跡として残っているらしい.


元和九年(一六二三)の暮に逮捕され、寛永元年旧の正月四日(一六二四年二月二十三日)仙台の広瀬川で、水責めにあって殉教した。なお後藤寿庵の「寿庵堰」の建設は、カルバリオの助言によるものと伝えられている。

 寛永元年一月四日は1624年2月22日であり,1624年2月23日は元和十年一月五日である.実際には,元和十年二月三十日が改元であるから,どちらも元和十年の出来事である.その上で同一著者内で一日のズレがある.この著者は,西暦(グレゴリオ暦)と和暦の関係を粗略に扱い,混乱の元を作っている.

 なお,パジェス(1869)は刑の執行は元和十年の2月18日(陽暦)としているので(こちらも西暦と和暦を混用してるので混乱が激しい),元和九年十二月三十日である.パジェスは「カルバリオらの処刑は新年の儀式が済んだ後」と明瞭に書いてあるため,こちらでも一日のズレがある.いったいどれが正しいのだろうか.


 パジェスにしても小野にしても,死刑の様子には詳しいのに,その日付に到っては杜撰である.デ・アンジェリスとデ・カルバリオの旅は不明な事ばかりで…まだ続きます.


2021年4月18日日曜日

ブログ更新停滞中

 ブログ更新が止まっていますが,原因はPCの調子が悪いことと,今やってる文献が難解なこと.古い論文,文系論文ではよくある事なんですが…そのた,もろもろ.

まだ生きてますから,大丈夫ですよ.

 

2021年4月1日木曜日

パドレたちの北紀行Ⅲ(フーベル,1939より)


ゲルハルト・フーベル(Gerhard Huber: 1896-????):ドイツ,フランクフルト生まれ.カトリック神父.1927年来日,おもに北海道にて布教活動.キリシタン史についての研究,著書がある.


(最初から,寄り道す)

姉崎教授は「鑛山に於ける切支丹の布教」という研究に於て,基督教の宣教師が鑛山の發見或は成立と切っても切れない関係にある事を指摘された。卽ち彼等はその知識と指導とにより、日本の採鑛の草分となつたのである。あの足尾銅山から陸前、出羽、津軽の金山銀山に至るまで、これら宣教師達の力を借りぬ所とてはなく、また信者達も數多ゐた事が實證されてゐる。」(p.7)


 「鑛山に於ける切支丹の布教」:については問い合わせた人がいるらしく,国立国会図書館のレファレンス事例で,『姉崎正治著作集』全10巻の目次に存在しないことが確認されている.著作目録において「著書」・「論文」・「主要著書目次」の部分を確認したが「鉱山に於ける切支丹の布教」は見いだされなかったと回答している.

 まあ,むかしの論文や書籍では引用文献が明示されていないというのは普通のことだし,とくに文系のものでは,あいまいな引用であったり,示してある引用文献をたどっても文献そのものが見つからない,あるいは見つかってもどこにも書いてない,というのはよくあることです.


 しかし,姉崎(1930a)「切支丹伝道の興廃」に「鑛山」を含む項目がある,との指摘があり,探して見た.前回示したように,姉崎(1930a)の第20章「傳道と慈善救済」中の「獄中及鑛山の伝道と潜伏」にそれらしき記述があるが,信者たちが数多くいたことは記述されているものの,地域・人数など具体性を欠き「実証された」といえるほどとは思えない.また,宣教師達の力」が鉱山技術のことであるならば,こちらも具体的な記述はなく「実証され」てはいないと思える.ただし,鉱山名や地域は記述されているので,ほかの研究者の別な研究から,伝道師たちが鉱山技術の「なに」を伝えたのか,今後調べる手がかりにはなるだろうとおもう.

(寄り道終わり)



 さて,デ・アンジェリスは,

1567年:シシリー島のカストロ・ジョワンニに生まれる(現代表記に改めるなら;シチリア島のカストロジョヴァンニ[Castrogiovanni]:現在の都市名はエンナ[Enna]).シチリア島のほぼ中央.本名不明.

1585年:18歳で耶蘇会に入る.

1602(慶長七)年:日本に渡来.以後20年間布教に従事する.

 伏見で布教→駿府で修道院を建てる(詳細不詳).

1614(慶長十八)年:江戸滞在中に幕府から「禁教令」が出る.追放令により長崎から国外退去を命ぜられるも失踪.長崎及近隣に潜伏し布教活動を続ける.上長から北日本に派遣される.

(フーベルは,1614年に「禁教令」が出たとしているが,歴史的には禁教令が出たのは1612421日(慶長十七年三月二十一日)である.それは江戸・京都・駿府を始めとする幕府直轄地についての布告であった.1614128日(慶長十八年十二月十九日)には,それが全国を対象として広げられたのであった)


1616(元和二)年:六月,東北で耐乏生活を送る追放キリシタンのために救恤品を積んだ船で津軽に到着.

 津軽に滞在中,松前で金銀の一大鉱山が発見された.多数の坑夫が蝦夷地へ乗り込み,中には江戸,長崎から来たキリシタンが含まれていた.蝦夷地では切支丹に対する迫害がなかったからである.デ・アンジェリスは増大するキリシタンのことを聞き,蝦夷地への潜入を企てた.これをデ・アンジェリスの第一回蝦夷渡航と呼ぶ.(以下不詳)


1617(元和三)年:デ・アンジェリスは,奥州及び出羽に行き布教する.

1618(元和四)年:デ・アンジェリスは,津軽に戻る.津軽在中に蝦夷地へ渡航.これをデ・アンジェリスの第二回蝦夷渡航と呼ぶ.


1621(元和七)年:デ・アンジェリスは,仙台に在.同九月:第三回蝦夷地渡航.


(また,寄り道)

私はかやうに多數の日本人をこの地に吸収した原因が、金山の發見であった事を述べた。その金は土の中から掘出されるのではない、この町の傍を流れる川が、砂に混へてこの貴金屬を多量に運ぶのであった。松前侯(大名)はそれから莫大な利益を擧げ、日本の商人達もそれに劣らず儲け、金を探す許可を得る為、侯に多額の權利金を拂った。それから各自に採金の區域を定めて貰ふ。その操作は次の如く行ふのである。先づ採金者は濠を穿ち堤を拵へて川の一部の水を涸らし、次いでその河床の砂中から金を選出す。そしてもう金が見當たらなくなると、また川水を舊通りそこへ流すのである。その翌年も前と同じ位金が採れたと云はれてゐる。


 以上の記述から,1)金山とはいえ山金ではなく,現世堆積物中の砂金であることがわかる.2)砂金採取方法は,旧来からのものであり,当時の外国人が指導したものであるとは考えられない.3)通常,一度砂金を採掘した場所は取り尽くされているはずであるが,川水を元通りに流すと翌年には同等くらいの金が採れるということは,近くの露頭からほぼ常時砂金が供給されていることになる(考えにくい事ではあるが).

(寄り道終わり)


1622年:デ・アンジェリス,第四回蝦夷渡航

 松前訪問の後,一度東北の信者を回り,その後江戸へ.

1623(元和九)年:四月までには逮捕.十二月四日,キリシタン50名,フランシスコ会イルマンと共に火刑



 デ・カルバリオは…

1577年:ポルトガルのコインブラで誕生.

 17歳で耶蘇会に入り,三年後マカオに派遣された.そこの神学校で哲学および神学を学び,司祭になった.

1609(慶長十四)年:日本へ渡来.

 二年間は天草にある耶蘇会の神学校で日本語と国情を学んだ.

1614(慶長十九)年:京都・大阪で働くも,江戸幕府が「禁教令」を全国に広げる.

 海外追放後は安南の日本人街で働き,同地に迫害勃発後はマカオへ移動した.

1616(元和二)年:船員に変装して日本へ密航した.

 日本潜入後は,大村(長崎県大村市)で活動をこころみるも不可能.

1617(元和三)年:仙台に移り,デ・アンジェリスの下で働く.

 1616年,デ・アンジェリスは津軽の流人キリシタンを慰問する指図を受け,仙台に派遣されていた(シャルルヴォア,1754:CHARLEVOIX, P., Histoire du Japon. Nouvelle éd. 6 vols. Paris, 1754. これはP. de Charlevoix, 1736, Histoire et description générale du Japon. Paris, 1736. の改訂版といわれ,元本は誤りが多いとの指摘がある).


 同年,津軽から松前に渡る

 デ・カルバリオは蝦夷地から帰ると南部地方(青森県の東半分,岩手県の北部および中部,秋田県北東部の一角)および出羽国(山形県と秋田県)を通り院内(秋田県雄勝郡院内町)まで来た.フーベル(1939)は「一大金山」と書いているが,院内は通常「院内銀山」と呼ばれている.


この院内は師の主な活動地となり、彼は度々そこへ歸つた。師は鑛業に知識あり、鑛山の實際的効果的な作業に關し、勞働者達を指導した事が知れてゐる。」(p. 35)

 フーベルはこう明言しているが,「鉱業の知識」や「実際的効果的な作業」については示されていない.印象操作であろうか.


1620(元和六)年:仙台滞在中.デ・カルバリオはデ・アンジェリスに津軽行きを命じられた.

ディエゴ師は出羽國の鑛山地帯を通らねばならなかつたから、序に約五千人もそこに働いてゐるといふ信者逹を訪問した。「それから師は日本最高のオラシ山脈を横断して久保田(秋田)といふ町のある平野に降り、そこで久保田の大名に甚だしい彈壓を蒙つてゐる相當多人數の切支丹に逢ひ、彼等の望んでゐた慰藉を與へた。」(Charlevoix, 1624)」

出羽國の鑛山地帯:南は新潟,北は北海道まで延びるグリーンタフ地帯の黒鉱鉱床に関連した鉱山地帯

約五千人もそこに働いてゐるといふ信者逹:人数に注目

日本最高のオラシ山脈:奥羽山脈?


 デ・カルバリオは久保田から津軽へ向かったが,通行手形が入手できなかったので,国境の関所で引き返し,久保田で蝦夷行きの船を待ち,松前へ向かった.船主はキリシタン商人であった.

 松前では,同船した坑夫(鉱夫が正確であろう)の手形を借りて下船した.松前港は栄えていた.「当時蝦夷には外に港がなく松前以外の所から窃かに上陸する事は厳禁されてゐたのである」.

1620年8月5日(元和六年七月七日):デ・カルバリオは「雪の聖母の祝日」に,松前でミサをおこなった.これは蝦夷地最初のミサであつた.デ・カルバリオは松前に一週間滞在し,信者達の告白を聴いた

   8月12日:デ・カルバリオは松前を出発し,一日行程の金山に向かった.「山麓には坑夫達の小舎が軒を列ね一大村落を成してゐる」.

   8月15日:デ・カルバリオは「聖母被昇天の祝日」のミサをおこなった.


ディエゴ師は此處にも一週間滯在し、坑夫達を「教會」に集めて、教の手引をしたり探鑛上の指導をしたりした。師は鑛業にも相當の知識と経験とを有してゐたのである。


ディエゴ師がその麓に「教會」を建てた金鑛のある山は、ジロラモ・デ・アンジェリス師の報告でも明かな通り、千軒岳である。數年後その場所で百六名の切支丹が聖教の爲に血を流した。千軒岳の邊に、嘗て一大金鑛があつたといふ噂は、今日に於ても知られてゐる。福山(舊の松前)から東方約十六粁を隔てゝ福島といふ岬の海際に一の巌窟があるが、昔は日本内地から金の盗採者が來て此處から上陸し、小舟をその窟に隠して山を攀ぢ登り、窃かに金を掘取つて、その鑛石を小舟に乗せ南へ持歸つたものであるといふ。この巌窟は今なほ「舟隠し岩」と稱ばれて居り、また金の盜採者等が山頂に出た間道の痕も今日なほ之を見る事が出来るさうである。以上は總べて當時名高かつた金鑛が、千軒岳に在つたといふ事を裏書するに足るであらう。


 デ・カルバリオは松前に戻り,津軽へ向かった.蝦夷地から津軽へ向かうのは容易であった.津軽の港から高岡(現在の弘前)までは二日を要する.高岡周辺には流人キリシタンばかりの村が三・四個所あった.


それからディエゴ師は津輕から南部に向かつたが、折よく番所の役人が信者であつたので難なくそこを通ることが出來た。

 ここでは「番所」ではなく「関所」であろう.久保田(秋田)から津軽にはいるのは不可能だったのに、津軽から南部へはいるのは信者がいて運が良かったというのは….神のみぞ知る世界である.


 デ・カルバリオは,南部に二・三日滞留してから久保田に移動し,院内銀山にいった.その後,松前をでてから三ヶ月の巡回で仙台へ帰った.


1623(元和九)年:デ・カルバリオはデ・アンジェリスから「津輕の流人及び蝦夷の韃靼人を三度訪れる命令を受けた。」(当時にしても,蝦夷地には「韃靼人」はいないだろうと思う).

 デ・カルバリオは,「千軒岳の金山まで赴いた」(Pages, ?).その後,仙台へと帰り,次は後藤寿庵のいた福原(水沢市福原→奥州市水沢福原)に移住した.しかし,寿庵が領地没収の上,追放されると「下嵐江の鑛山」に行き,そこでマチアス伊兵衛の家を隠れ家とした.

 領主・伊達政宗はそれまでキリシタンを放置していたが,度重なる将軍家からの命により,デ・カルバリオは下嵐江の信者たちと共に逮捕され,仙台まで護送された.2月22日(和暦,洋暦不明),仙台で水攻めの刑に処せられた.享年46歳(Crasset, 1715).

(これまでの行動中は,何度となく「神のご加護」で命を永らえた(と何度も出てくる)デ・カルバリオであったが,日本のお役所にとらえられた途端,美しく死ねるというのは奇妙な気がする)


 島原の乱鎮定後,キリシタンに対する弾圧は厳重を極め…と,フーベルはその影響が千軒岳金山に及んだとしている.しかし,「島原の乱」自体はキリシタンを中心とした“宗教戦争”とは認めがたいとされ,百姓一揆でもなく,現在でも議論百出である.以下,フーベルの説を追っていこう.


1639(寛永十六)年の夏:

さて公廣はさういふ切支丹の居る事を知つて大いに驚き早速数名の役人に三百名の兵卒をつけて、疑はしい者を残らず處分させる爲に遺した。この事が坑夫仲間に知れ渡ると、切支丹百六名は急ぎ禮拜堂に集り、他の人々は山中に逃げ込んだ。教方(傳教士)或は頭役の一人が禮拜堂を開き、一の十字架を運び出すと、一同はその前に跪いて祈つた。

 公広は,千軒岳金山にキリシタンがいることを,まったく知らないという前提であるが,それは奇妙である.金山は松前藩の重要な収入源であり,先代は「蝦夷は日本にあらず」といって,パードレが蝦夷地にやって来るのを咎めなかった人物である.「知らなかった」というよりは,「知らなかった振りをした」というのが真実に近いであろう.

 また,なぜ「坑夫仲間に知れ渡」ったのか,不自然である.さらに,キリシタン106人が逃げずに,それ以外が逃げたというのもまた不自然である.


その日の晩までに、兵卒等は禮拜堂の周圍にゐる切支丹百六名の首を悉く刎ね終つた。そして人々の見せしめに、六日の間獄門にかけた。

 逃げなかったキリシタン106人の首を刎ね,その首を六日間の獄門に曝したという.松前から丸一日行程の山中で,それ以外の人はみな逃げた山中で獄門に曝してどのような効果があるのだろうか.これもまったく不自然である.


恰もその年附近の駒ケ岳が爆發噴火し、その轟音は遠方にまでも聞え、降灰甚だしく二日間は天日も爲に暗むばかり、且海嘯の襲來があつて百艘の小舟が流失し、七百の人命が奪ひ去られた。また千軒岳の金山も地震に由つて崩壊し、採󠄁鑛に適せずなつたらしく、後には全く忘れられてしまひ、唯折々窃かに金を探す者が内地から來るに過ぎなくなった。(笹谷常咲,1936)

 駒ヶ岳の山体崩壊による津波で大災害が起きた.唐突であり,なぜここに示されるのか不明.「千軒岳の金山も地震に由つて崩壊し」たのが駒ヶ岳の噴火によるものなのだろうか.ありえない巨大地震となってしまうが,そうであるにしても,渡島半島南部を壊滅されるような地震が起きれば,金山の再興はより必要であろうとおもわれる.なにげに不自然である.


 話があいまいすぎて(代名詞があいまい,話が繰り返す.あるいは前後したり,省略すなど),途中で何度も投げ出しそうになりました.矛盾があってもご容赦.なお,このフーベル(1939)は,現在ではたくさんの間違いが指摘されています.いずれ示されるだろうと予測して,次回へ.