2021年4月1日木曜日

パドレたちの北紀行Ⅲ(フーベル,1939より)


ゲルハルト・フーベル(Gerhard Huber: 1896-????):ドイツ,フランクフルト生まれ.カトリック神父.1927年来日,おもに北海道にて布教活動.キリシタン史についての研究,著書がある.


(最初から,寄り道す)

姉崎教授は「鑛山に於ける切支丹の布教」という研究に於て,基督教の宣教師が鑛山の發見或は成立と切っても切れない関係にある事を指摘された。卽ち彼等はその知識と指導とにより、日本の採鑛の草分となつたのである。あの足尾銅山から陸前、出羽、津軽の金山銀山に至るまで、これら宣教師達の力を借りぬ所とてはなく、また信者達も數多ゐた事が實證されてゐる。」(p.7)


 「鑛山に於ける切支丹の布教」:については問い合わせた人がいるらしく,国立国会図書館のレファレンス事例で,『姉崎正治著作集』全10巻の目次に存在しないことが確認されている.著作目録において「著書」・「論文」・「主要著書目次」の部分を確認したが「鉱山に於ける切支丹の布教」は見いだされなかったと回答している.

 まあ,むかしの論文や書籍では引用文献が明示されていないというのは普通のことだし,とくに文系のものでは,あいまいな引用であったり,示してある引用文献をたどっても文献そのものが見つからない,あるいは見つかってもどこにも書いてない,というのはよくあることです.


 しかし,姉崎(1930a)「切支丹伝道の興廃」に「鑛山」を含む項目がある,との指摘があり,探して見た.前回示したように,姉崎(1930a)の第20章「傳道と慈善救済」中の「獄中及鑛山の伝道と潜伏」にそれらしき記述があるが,信者たちが数多くいたことは記述されているものの,地域・人数など具体性を欠き「実証された」といえるほどとは思えない.また,宣教師達の力」が鉱山技術のことであるならば,こちらも具体的な記述はなく「実証され」てはいないと思える.ただし,鉱山名や地域は記述されているので,ほかの研究者の別な研究から,伝道師たちが鉱山技術の「なに」を伝えたのか,今後調べる手がかりにはなるだろうとおもう.

(寄り道終わり)



 さて,デ・アンジェリスは,

1567年:シシリー島のカストロ・ジョワンニに生まれる(現代表記に改めるなら;シチリア島のカストロジョヴァンニ[Castrogiovanni]:現在の都市名はエンナ[Enna]).シチリア島のほぼ中央.本名不明.

1585年:18歳で耶蘇会に入る.

1602(慶長七)年:日本に渡来.以後20年間布教に従事する.

 伏見で布教→駿府で修道院を建てる(詳細不詳).

1614(慶長十八)年:江戸滞在中に幕府から「禁教令」が出る.追放令により長崎から国外退去を命ぜられるも失踪.長崎及近隣に潜伏し布教活動を続ける.上長から北日本に派遣される.

(フーベルは,1614年に「禁教令」が出たとしているが,歴史的には禁教令が出たのは1612421日(慶長十七年三月二十一日)である.それは江戸・京都・駿府を始めとする幕府直轄地についての布告であった.1614128日(慶長十八年十二月十九日)には,それが全国を対象として広げられたのであった)


1616(元和二)年:六月,東北で耐乏生活を送る追放キリシタンのために救恤品を積んだ船で津軽に到着.

 津軽に滞在中,松前で金銀の一大鉱山が発見された.多数の坑夫が蝦夷地へ乗り込み,中には江戸,長崎から来たキリシタンが含まれていた.蝦夷地では切支丹に対する迫害がなかったからである.デ・アンジェリスは増大するキリシタンのことを聞き,蝦夷地への潜入を企てた.これをデ・アンジェリスの第一回蝦夷渡航と呼ぶ.(以下不詳)


1617(元和三)年:デ・アンジェリスは,奥州及び出羽に行き布教する.

1618(元和四)年:デ・アンジェリスは,津軽に戻る.津軽在中に蝦夷地へ渡航.これをデ・アンジェリスの第二回蝦夷渡航と呼ぶ.


1621(元和七)年:デ・アンジェリスは,仙台に在.同九月:第三回蝦夷地渡航.


(また,寄り道)

私はかやうに多數の日本人をこの地に吸収した原因が、金山の發見であった事を述べた。その金は土の中から掘出されるのではない、この町の傍を流れる川が、砂に混へてこの貴金屬を多量に運ぶのであった。松前侯(大名)はそれから莫大な利益を擧げ、日本の商人達もそれに劣らず儲け、金を探す許可を得る為、侯に多額の權利金を拂った。それから各自に採金の區域を定めて貰ふ。その操作は次の如く行ふのである。先づ採金者は濠を穿ち堤を拵へて川の一部の水を涸らし、次いでその河床の砂中から金を選出す。そしてもう金が見當たらなくなると、また川水を舊通りそこへ流すのである。その翌年も前と同じ位金が採れたと云はれてゐる。


 以上の記述から,1)金山とはいえ山金ではなく,現世堆積物中の砂金であることがわかる.2)砂金採取方法は,旧来からのものであり,当時の外国人が指導したものであるとは考えられない.3)通常,一度砂金を採掘した場所は取り尽くされているはずであるが,川水を元通りに流すと翌年には同等くらいの金が採れるということは,近くの露頭からほぼ常時砂金が供給されていることになる(考えにくい事ではあるが).

(寄り道終わり)


1622年:デ・アンジェリス,第四回蝦夷渡航

 松前訪問の後,一度東北の信者を回り,その後江戸へ.

1623(元和九)年:四月までには逮捕.十二月四日,キリシタン50名,フランシスコ会イルマンと共に火刑



 デ・カルバリオは…

1577年:ポルトガルのコインブラで誕生.

 17歳で耶蘇会に入り,三年後マカオに派遣された.そこの神学校で哲学および神学を学び,司祭になった.

1609(慶長十四)年:日本へ渡来.

 二年間は天草にある耶蘇会の神学校で日本語と国情を学んだ.

1614(慶長十九)年:京都・大阪で働くも,江戸幕府が「禁教令」を全国に広げる.

 海外追放後は安南の日本人街で働き,同地に迫害勃発後はマカオへ移動した.

1616(元和二)年:船員に変装して日本へ密航した.

 日本潜入後は,大村(長崎県大村市)で活動をこころみるも不可能.

1617(元和三)年:仙台に移り,デ・アンジェリスの下で働く.

 1616年,デ・アンジェリスは津軽の流人キリシタンを慰問する指図を受け,仙台に派遣されていた(シャルルヴォア,1754:CHARLEVOIX, P., Histoire du Japon. Nouvelle éd. 6 vols. Paris, 1754. これはP. de Charlevoix, 1736, Histoire et description générale du Japon. Paris, 1736. の改訂版といわれ,元本は誤りが多いとの指摘がある).


 同年,津軽から松前に渡る

 デ・カルバリオは蝦夷地から帰ると南部地方(青森県の東半分,岩手県の北部および中部,秋田県北東部の一角)および出羽国(山形県と秋田県)を通り院内(秋田県雄勝郡院内町)まで来た.フーベル(1939)は「一大金山」と書いているが,院内は通常「院内銀山」と呼ばれている.


この院内は師の主な活動地となり、彼は度々そこへ歸つた。師は鑛業に知識あり、鑛山の實際的効果的な作業に關し、勞働者達を指導した事が知れてゐる。」(p. 35)

 フーベルはこう明言しているが,「鉱業の知識」や「実際的効果的な作業」については示されていない.印象操作であろうか.


1620(元和六)年:仙台滞在中.デ・カルバリオはデ・アンジェリスに津軽行きを命じられた.

ディエゴ師は出羽國の鑛山地帯を通らねばならなかつたから、序に約五千人もそこに働いてゐるといふ信者逹を訪問した。「それから師は日本最高のオラシ山脈を横断して久保田(秋田)といふ町のある平野に降り、そこで久保田の大名に甚だしい彈壓を蒙つてゐる相當多人數の切支丹に逢ひ、彼等の望んでゐた慰藉を與へた。」(Charlevoix, 1624)」

出羽國の鑛山地帯:南は新潟,北は北海道まで延びるグリーンタフ地帯の黒鉱鉱床に関連した鉱山地帯

約五千人もそこに働いてゐるといふ信者逹:人数に注目

日本最高のオラシ山脈:奥羽山脈?


 デ・カルバリオは久保田から津軽へ向かったが,通行手形が入手できなかったので,国境の関所で引き返し,久保田で蝦夷行きの船を待ち,松前へ向かった.船主はキリシタン商人であった.

 松前では,同船した坑夫(鉱夫が正確であろう)の手形を借りて下船した.松前港は栄えていた.「当時蝦夷には外に港がなく松前以外の所から窃かに上陸する事は厳禁されてゐたのである」.

1620年8月5日(元和六年七月七日):デ・カルバリオは「雪の聖母の祝日」に,松前でミサをおこなった.これは蝦夷地最初のミサであつた.デ・カルバリオは松前に一週間滞在し,信者達の告白を聴いた

   8月12日:デ・カルバリオは松前を出発し,一日行程の金山に向かった.「山麓には坑夫達の小舎が軒を列ね一大村落を成してゐる」.

   8月15日:デ・カルバリオは「聖母被昇天の祝日」のミサをおこなった.


ディエゴ師は此處にも一週間滯在し、坑夫達を「教會」に集めて、教の手引をしたり探鑛上の指導をしたりした。師は鑛業にも相當の知識と経験とを有してゐたのである。


ディエゴ師がその麓に「教會」を建てた金鑛のある山は、ジロラモ・デ・アンジェリス師の報告でも明かな通り、千軒岳である。數年後その場所で百六名の切支丹が聖教の爲に血を流した。千軒岳の邊に、嘗て一大金鑛があつたといふ噂は、今日に於ても知られてゐる。福山(舊の松前)から東方約十六粁を隔てゝ福島といふ岬の海際に一の巌窟があるが、昔は日本内地から金の盗採者が來て此處から上陸し、小舟をその窟に隠して山を攀ぢ登り、窃かに金を掘取つて、その鑛石を小舟に乗せ南へ持歸つたものであるといふ。この巌窟は今なほ「舟隠し岩」と稱ばれて居り、また金の盜採者等が山頂に出た間道の痕も今日なほ之を見る事が出来るさうである。以上は總べて當時名高かつた金鑛が、千軒岳に在つたといふ事を裏書するに足るであらう。


 デ・カルバリオは松前に戻り,津軽へ向かった.蝦夷地から津軽へ向かうのは容易であった.津軽の港から高岡(現在の弘前)までは二日を要する.高岡周辺には流人キリシタンばかりの村が三・四個所あった.


それからディエゴ師は津輕から南部に向かつたが、折よく番所の役人が信者であつたので難なくそこを通ることが出來た。

 ここでは「番所」ではなく「関所」であろう.久保田(秋田)から津軽にはいるのは不可能だったのに、津軽から南部へはいるのは信者がいて運が良かったというのは….神のみぞ知る世界である.


 デ・カルバリオは,南部に二・三日滞留してから久保田に移動し,院内銀山にいった.その後,松前をでてから三ヶ月の巡回で仙台へ帰った.


1623(元和九)年:デ・カルバリオはデ・アンジェリスから「津輕の流人及び蝦夷の韃靼人を三度訪れる命令を受けた。」(当時にしても,蝦夷地には「韃靼人」はいないだろうと思う).

 デ・カルバリオは,「千軒岳の金山まで赴いた」(Pages, ?).その後,仙台へと帰り,次は後藤寿庵のいた福原(水沢市福原→奥州市水沢福原)に移住した.しかし,寿庵が領地没収の上,追放されると「下嵐江の鑛山」に行き,そこでマチアス伊兵衛の家を隠れ家とした.

 領主・伊達政宗はそれまでキリシタンを放置していたが,度重なる将軍家からの命により,デ・カルバリオは下嵐江の信者たちと共に逮捕され,仙台まで護送された.2月22日(和暦,洋暦不明),仙台で水攻めの刑に処せられた.享年46歳(Crasset, 1715).

(これまでの行動中は,何度となく「神のご加護」で命を永らえた(と何度も出てくる)デ・カルバリオであったが,日本のお役所にとらえられた途端,美しく死ねるというのは奇妙な気がする)


 島原の乱鎮定後,キリシタンに対する弾圧は厳重を極め…と,フーベルはその影響が千軒岳金山に及んだとしている.しかし,「島原の乱」自体はキリシタンを中心とした“宗教戦争”とは認めがたいとされ,百姓一揆でもなく,現在でも議論百出である.以下,フーベルの説を追っていこう.


1639(寛永十六)年の夏:

さて公廣はさういふ切支丹の居る事を知つて大いに驚き早速数名の役人に三百名の兵卒をつけて、疑はしい者を残らず處分させる爲に遺した。この事が坑夫仲間に知れ渡ると、切支丹百六名は急ぎ禮拜堂に集り、他の人々は山中に逃げ込んだ。教方(傳教士)或は頭役の一人が禮拜堂を開き、一の十字架を運び出すと、一同はその前に跪いて祈つた。

 公広は,千軒岳金山にキリシタンがいることを,まったく知らないという前提であるが,それは奇妙である.金山は松前藩の重要な収入源であり,先代は「蝦夷は日本にあらず」といって,パードレが蝦夷地にやって来るのを咎めなかった人物である.「知らなかった」というよりは,「知らなかった振りをした」というのが真実に近いであろう.

 また,なぜ「坑夫仲間に知れ渡」ったのか,不自然である.さらに,キリシタン106人が逃げずに,それ以外が逃げたというのもまた不自然である.


その日の晩までに、兵卒等は禮拜堂の周圍にゐる切支丹百六名の首を悉く刎ね終つた。そして人々の見せしめに、六日の間獄門にかけた。

 逃げなかったキリシタン106人の首を刎ね,その首を六日間の獄門に曝したという.松前から丸一日行程の山中で,それ以外の人はみな逃げた山中で獄門に曝してどのような効果があるのだろうか.これもまったく不自然である.


恰もその年附近の駒ケ岳が爆發噴火し、その轟音は遠方にまでも聞え、降灰甚だしく二日間は天日も爲に暗むばかり、且海嘯の襲來があつて百艘の小舟が流失し、七百の人命が奪ひ去られた。また千軒岳の金山も地震に由つて崩壊し、採󠄁鑛に適せずなつたらしく、後には全く忘れられてしまひ、唯折々窃かに金を探す者が内地から來るに過ぎなくなった。(笹谷常咲,1936)

 駒ヶ岳の山体崩壊による津波で大災害が起きた.唐突であり,なぜここに示されるのか不明.「千軒岳の金山も地震に由つて崩壊し」たのが駒ヶ岳の噴火によるものなのだろうか.ありえない巨大地震となってしまうが,そうであるにしても,渡島半島南部を壊滅されるような地震が起きれば,金山の再興はより必要であろうとおもわれる.なにげに不自然である.


 話があいまいすぎて(代名詞があいまい,話が繰り返す.あるいは前後したり,省略すなど),途中で何度も投げ出しそうになりました.矛盾があってもご容赦.なお,このフーベル(1939)は,現在ではたくさんの間違いが指摘されています.いずれ示されるだろうと予測して,次回へ.



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