2021年3月22日月曜日

パドレたちの北紀行Ⅱ(姉崎正治,1930より)

 

姉崎正治(1873.07.25-1949.07.21):文筆家・評論家・宗教学者(インド宗教・神道・仏教・キリスト教・新宗教).ペンネームは姉崎嘲風.別名姉嵜正治.(Wikipediaより)


 姉崎(1930)には「切支丹伝道の興廃」と「切支丹迫害史中の人物事蹟」の二冊の著作がある.そのうち,姉崎(1930b)「切支丹迫害史中の人物事蹟」にはデ・アンジェリスの蝦夷行についてわずかに記述がある.まとめると以下のようになる.内容はパジェスの記述を書き写したものである.しかし,この程度の記述では,私の知りたい行動記録にはならない.


1568年,シシリア島生まれ.

    18歳でゼスス会に入会.

    イルマン→パアテル;西インド→英国→ポルトガル→東インド→マカオ

1602(慶長七)年,日本へ

    長崎→伏見→駿府(伝道所)

1614(慶長十九)年,大追放,長崎に逃亡,

1615年,大阪へ.

1616年?,奥州へ.

    佐渡→越後→江戸…その間,蝦夷へも(このころ,松前で砂金採取が始まる)

1923(元和九)年,江戸で逮捕.十月十三日(12月4日)火あぶり刑.六十五歳.



 姉崎(1930a)「切支丹伝道の興廃」には,日本全体におけるキリシタン伝道の興廃が順序立てて示されているが,デ・アンジェリスやデ・カルワーリョに付いての記述,および蝦夷行についての記述はわずかであり,系統的でもない.しかし,彼らが,日本の鉱山開発にかかわったという記述があるので検討する.


鑛山は、一種奇妙な関係からキリシタン傳道と聯絡する。それは徳川氏の覇権増進が根本でで、家康は外國貿易の利盆と鑛山採掘の二つに財源の重要部を置き、此の二つながら外國人教師のカを借りて利益を増進せうとした事は時々述べた。而して伊豆の銀山足尾の銅山が慶長年間に段々開發して來た。南蠻鐵の輸入者たるイスパニヤ人は此の事に通じてゐると見込をつけたものか、バテレンに鑛山採鑛の相談をし、伊豆の銀山には一人イルマンが行つて檢分してゐる。佐渡の方は明確ではないが、大久保相模守の一件には、多少キリシタンとのの聯絡があるらしく、假令さなくとも、元和の初から教師が屢々佐渡に出かけ、後には可なり多くの殉教者があった。足尾も起源不明ではあるが、下野や上野に信徒が少なからずあり、後年足尾には多数の召捕があっただけは明白である。そこで始は採鑛傳授の意味、或はかく稱してキリシタンが聯絡をつけた鑛山は、迫害の進むと共に信徒の隠れ場になった。而して初期にも後期にも、教師はその方に傳道した。それは新な信徒を作る爲であると共に、隠れ忍んでゐる信者を慰問する爲であった。


 家康が外国貿易と鉱山開発の二点において「外國人教師」(この場合の「教師」は伝道者の意味)を利用したことを「時々述べた」としているが,まるで具体的なことは示してはいない.思うに,姉崎は鉱山技術に関しては知識が無いので示せなかったのであろうか.この頃のキリスト教伝道者と鉱山開発は関係ありそうだということを指摘したのは事実であるが,具体的なことは別な方面から探索することとして,姉崎からこれを追及するのはやめておこう.

 鉱山名がいくつかでているが,これに伝道者たちがどのようにかかわったのか,これもないので,これも別な方面からアプローチすることを心掛けておこう.また,「大久保相模守の一件」とは大久保長安の失脚のことと思わせるが,まるで具体性を欠くこの示し方は卑怯である.これもペンディング事項とする.

 ただし,そういう仮定が事実であったとすれば,技術指導と称して鉱山に潜入した(なぜ鉱山に潜入したのかは不明であるが)信者を見舞うことは可能であったろう.これも,裏付けを別な方面から探すことを心掛けておこう.


今、一例として仙北地方特に院内の鑛山を見るに、寛永元年(1624)その地方の迫害で殉教した勞働者の名が残り、鑛夫の常として生國を名の如くしてゐたので、その故郷が分かる。その事は後に記すが、その中には信仰の爲に逃れて來た者もあろうし、鉱山内で信者になった者もあらう。兎に角鑛山がキリシタンの隠れ場の一つになった事は明かで、それが後まで殘つてゐる。


 残念ながら,その資料は示されていない.


院内と山を隔てゝ奥州南部地方にも、此の聯絡が著しい。右仙北の迫害に先つこと半年、教師カルバリヨ(Diogo de Carvalho)が信徒六十人と共に捕へられたのは、仙臺領の山中、下嵐江(オロシエ)の鑛山村であつた。此と北上川を隔てた地方は、その昔藤原三代平泉の榮花に財源を供給した金鑛地方であるが、南部藩の領内で、佐比内の金山大籠の銅山小友の金山保呂羽の鐵山等は、皆後まで信者の居た處で、地方の傳説では、彼等が能く「湯加減」(多分鎔鑛の)を知ってゐたから、技術に従事したといふ。寛永十三年(1635)、幕府から、南部藩に對して、領内にキリシタンのあることを詰問したに對して、藩は申譯になる様な又ならない様な申譯をしてゐる。卽ち比佐内の山(ママ)に京都の丹波與十郎といふ技術者を使用したが、それが連れて来た一千人がキリシタンであったのだといふにある。一千人が多すぎるにしても、上方や西國の信徒が、避難者として東北に來て、鉱山に入った者のある證據になる。その他松前の砂金も東北傳道と關係あり、教師で各鑛山で巡囘した者もあり、寛永十九年(1642)に、幕府が特に令を出して、奥羽の山中にキリシタンが多いから、嚴に捜索せよと命じてゐるのも此の爲である。出羽の延澤に後年多数の召捕があつたのも同様で、何れも信徒避難者の隠れ家が、段々山中と地の下とに入ったしるしである。


 この部分も同じで,伝道師たちが伝えたという鉱山技術の存在が示されていないので,どのような関係があったのかがわからない.金銀鉱山,鉄山はそれぞれに技術が異なるので,すべてにわたって知識を持っていたのだろうかと疑問をいだく.実際にはもっていなくとも「持っている」という触れ込みで大名等をだましていれば,鉱山に入れたかも知れない.しかし,そういうことをしていれば,大名等に疑問をいだかせることになるだろうという気はする.

 姉崎の両著は,いずれにしても具体性を欠くので,探索行はつづくことになる.


蛇足1:佐比内の金山:岩手県紫波郡紫波町佐比内.金山とキリシタンの伝説があるが,地質は不詳.


蛇足2:下嵐江(おろせ);奥州市胆沢川上流の奥州湖湖底にあった地名.胆沢川と前川の合流点付近.地質図幅「焼石岳」では,旧下嵐江付近は「下嵐江層」であり鉱化は認められないが,上流約3kmの通称「千軒原」では,前川層の黒色板状頁岩と青灰色砂質(やや凝灰質)シルト岩の互層からなり,「渋民鉱床」と呼ばれる裂罅充填鉱床が発達する.裂罅充填鉱物は石英・黄鉄鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱を主とするもので,脈幅約50cmである.周辺の黒色頁岩や砂質シルト岩は,著しく珪化作用を蒙り黄鉄鉱によって鉱染されている.およそ100余年前に,ここで鉛の製錬が行なわれたといい伝えられている.

 両地層は,中期中新世のいわゆる“グリーン・タフ”層準である.


渋民鉱山(焼石岳図幅)


蛇足3:大籠の銅山;不詳.岩手県一関市藤沢町大籠字右名沢28-7には「大籠キリシタン殉教公園」がある.この大籠はたたら製鉄の烔屋があったことで有名で,この烔屋経営の指導として呼んだ兄弟がキリシタンであり,のちに大籠が大勢のキリシタンの住み処ととなった.関係があるかないかは不明.


蛇足4:小友の金山;岩手県遠野市小友町.現在の「小友鉱山」は黒煙鉱床であるが,小友村大洞や小友村大葛にある鉱山は金鉱山であり,「古くから稼行されたものらしい(人首図幅)」とある.


大洞鉱山と大葛鉱山(人首図幅)


蛇足5:保呂羽の鐵山:不詳.


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