長期間にわたって,児玉ほか(1954)の解析を進めていたのですが,あまりの障害の多さに一旦あきらめて,ペンディングとします.必要があれば戻ることとしましょう.
それで,今回は「小野忠亮(1960)仙台の切支丹」から,デ・アンジェリスとデ・カルバリオの仙台での足跡を追ってみます.
小野忠亮(1960執筆時の情報)1905年弘前市生まれ.カトリック神学校卒.当時カトリック司祭.主著「宮城県とカトリック」.
「仙台藩にキリシタン伝道のいとぐちを開いたのは、慶長十六年(1611)の冬、ローマへの南欧遣使の問題で仙台へきたソテロ(Luis Sotelo)だが、藩内にゆっくり腰を据えて伝道に従事したのは、元和元年(1615)の春仙台へきたアンゼリス(Girolamo de Angelis)だといわれていた。」
この一文で,小野は先行する研究である児玉ほか(1954)を読んでいないことがわかる.児玉らは旧研究とアンジェリスの報告書から,アンジェリスが蝦夷地に来たのは1618(元和三)年と結論(修正)しているからである.
表:児玉ほか(1954)におけるアンジェリスの渡蝦年の検討
小野はこのあと,ソテロに先行して二人の日本人キリシタンが仙台を訪れ,キリシタンを伝道しているという只野淳・小野伸の説を紹介しているが,疑問に思っているようである.ソテロは南欧遣使を企てる伊達政宗に呼ばれたもので,この遣使問題に没頭していて,藩内での普及伝道は大きな成果を挙げなかったようである.そして1613年10月28日(慶長十八年九月十五日),支倉一行とローマ遣使の旅についていってしまった.
「ソテロが去ってから数年後の元和元年(一六一五)の春、ソテロとおなじイスパニア国人で、イエズス会の司祭アンゼリスが、仙台へきて、藩内にとどまり、ここを根拠地として、藩内だけではなく、ひろく東北各地をとび歩いて、伝道に従事し、さらに蝦夷(北海道)へも足をのばし、蝦夷伝道の端を開いた。」
「蝦夷(北海道)」について.蝦夷とは日本側の呼称で,当時は「アイヌ民族」の事,人の事である.北海道の旧名としてならば「蝦夷(の住む)地」を使うべきである.
したがって「蝦夷伝道」は「蝦夷地(における)伝道」でなければならない.なぜなら,蝦夷地にはすでにキリシタンである「シャモ(和人)」が多数おり,その後の記録を読んでも蝦夷(アイヌ)に伝道をしたとは思われない.
小野(1960)は,このあとデ・アンジェリスの行動について略述しているが,同報告の末尾にあるデ・アンジェリスについての「人物略伝」にも,同じ事を含めて繰り返している.こちらは生年から殉死までをまとめてあるので,そちらの方に移動する.
アンゼリス(Girolamo de Angelis)
「イタリア国人、シチリア島に生れる。十八歳のときイエズス会に入会、ポルトガルで司祭の位をうけ、インドのマカオにきて伝道に従事したのち、慶長七年(一六〇二)日本にきた。」
日本に来るまでの略歴である.初出はパジェス(1869)である.
「一ヵ年を日本語の学習に費した後、伏見に修道院をつくって院長になった。それから間もなく江戸に出で、そこに修道院を設立する仕事をはじめた。しかし、土地の買収を終えたその日に、家康の宣教師追放令が出たので、江戸を去って駿河に退き、京都へ行き、他の宣教師たちと長崎で落ち合い、そこにかくれていた。元和元年(一六一五)の春、津軽へ流されたキリシタンを慰問するため仙台へき、仙台から水沢を経、奥羽山脈を越えて、出羽(秋田)の仙北(横手市附近)へ出、さらに出羽と津軽の境である矢立峠をこえて、高岡(弘前市)につき、流人を慰問した。」
「津軽へ流されたキリシタン」:1614(慶長十九)年,禁教令によって津軽の高岡(弘前市)へ流された京坂地方の信者たちのこと.当時の津軽は天候不順であり,もともとハイソな「京坂地方の信者」は農作業に慣れてもいなかったため,食べるものにも事欠く事態であった(残念な事に,記述はパジェス,1869の丸写しである).一方で,大量の物資の搬入は,同じ飢饉に苦しむ津軽の農民たちの感情を刺激したであろう.
津軽のキリシタンを慰問するために,仙台から水沢(現:奥州市)を経て,胆沢川沿いに遡り奥羽山脈を越えて,横手盆地(山北(仙北)三郡)にでて,(ここからしばらく行程不明になるが)矢立峠を越えて,弘前に行った,としている.この行程記録は初出である.あまり選択肢はないとはいえ,根拠も示さず書くのはどうだろうか.
「仙台藩に、キリシタン伝道の、いとぐちを開いたソテロの後をうけて、伝道に従事して多数の信者をつくっただけでなく、蒲生・上杉・最上・南部・津軽・佐竹など全奥州の諸藩、さらに越後・佐渡、日本の外といわれた蝦夷(北海道)までも行って、伝道した。元和七年(一六二二)アンゼリスは,二回目の蝦夷訪問を終ったとき、上長から江戸へ転任を命ぜられ、江戸へゆき、そこにとどまって、江戸市中だけでなく、伊豆や甲斐へも出かけて伝道した。」
著者本人が,「ソテロは南欧遣使を企てる伊達政宗に呼ばれたもので,この遣使問題に没頭していて,藩内での普及伝道は大きな成果を挙げなかったようである」と書いているのに,違和感がある.
デ・アンジェリスが訪れた場所が列記しているだけで詳細が無いのは残念である.
なお,「蝦夷」は人の事(ここではアイヌ)で「蝦夷地まで」と書くべきである.
「元和九年(一六二三)の迫害で、十二月四日、ガルベス、原主水ら五十人の信徒と共に江戸で火刑をうけ、五十三歳で殉教した。」
処刑の日はパジェス(1869)と同じであり,「十二月四日」が西暦か和暦かわからないのも同じである.
元(本文)へ戻る.
1615(元和元)年の春,デ・アンジェリスが仙台にやってきた.津軽のキリシタンを慰問したあと,仙台に居着いた.
つづいて1617(元和三)年,ポルトガル人でイエズス会司祭のデ・カルバリオ(Diego de Carvalho)が仙台に応援にやってきて,伝道に従事した.
以下文末の略伝に進む.
カルパリオ(Carvalho, Diego de.日本名長崎五郎衛門、一五七七~一六二四)
「ポルトガル国人、仙台で殉教したイエズス会宣教師、文禄三年(一五九四)イエズス会に入り、大学卒業後司祭の位をうけ、支那にわたり、マカオにとどまること数年、慶長十四年(一六〇九)日本へきた。満二年間天草にあって日本語を学んだ後、畿内地方へ行って、伝道に従事したが、慶長十九年(一六一四)の追放令で安南へ去り、元和二年(一六一六)にふたたび来朝、大村に伝道した。同三年奥州にうつり、はじめはアンゼリスと共に働いたが、六年、別れて津軽へ行って高岡の信者を慰問した。その後も数回にわたって津軽のキリシタンを訪問、東北各地へ伝道しただけでなく、蝦夷へも渡って伝道した。九年イエズス会の副管区長に任ぜられた頃から、主として仙台地方にあって、その地方の教化に従事した。」
文禄三年(一五九四):日本でイエズス会に入ったわけではないのに,「文禄三年」をつける事にどのような意味があるのであろうか.
元和二年(一六一六)にふたたび来朝:さらりと書いてあるが,明らかに国禁を犯しての密入国である.このような犯罪のくり返しが幕府を怒らせ,刑が厳しくなったのであろう.
蝦夷へも渡って伝道:蝦夷地へも.蝦夷と蝦夷地を区別しない書き方をすると,アイヌに対して伝道したと誤解を招く.
なお,パジェス(1869)は,デ・カルバリオは津軽へ行くために詮議の厳しい関所を避け,一旦蝦夷地に入る道を選んだように書いてある.この書き方はパジェス(1869)を否定していると取っていいのだろうか.なにか,新事実があるなら,そう書いてくれないと読者は理解できない.
「当時彼をたすけたキリシタンの有力者は、伊達政宗の重臣後藤寿庵であつたので、その領地見分方面は、カルバリオのしばしば訪れたところであり、彼が逮捕されたその年(元和九年)に見分で祝われたクリスマスも、彼の主宰でおこなわれた。」
デ・カルバリオは元和九年のクリスマスは見分(現:岩手県奥州市水沢福原)に居た.なお,後藤寿庵は見分村(1,200石)を給されていた.寿庵は原野だった見分村を開拓,大規模な用水路を作った.この水路は「寿庵堤」と呼ばれ,現在も遺跡として残っているらしい.
「元和九年(一六二三)の暮に逮捕され、寛永元年旧の正月四日(一六二四年二月二十三日)仙台の広瀬川で、水責めにあって殉教した。なお後藤寿庵の「寿庵堰」の建設は、カルバリオの助言によるものと伝えられている。」
寛永元年一月四日は1624年2月22日であり,1624年2月23日は元和十年一月五日である.実際には,元和十年二月三十日が改元であるから,どちらも元和十年の出来事である.その上で同一著者内で一日のズレがある.この著者は,西暦(グレゴリオ暦)と和暦の関係を粗略に扱い,混乱の元を作っている.
なお,パジェス(1869)は刑の執行は元和十年の2月18日(陽暦)としているので(こちらも西暦と和暦を混用してるので混乱が激しい),元和九年十二月三十日である.パジェスは「カルバリオらの処刑は新年の儀式が済んだ後」と明瞭に書いてあるため,こちらでも一日のズレがある.いったいどれが正しいのだろうか.
パジェスにしても小野にしても,死刑の様子には詳しいのに,その日付に到っては杜撰である.デ・アンジェリスとデ・カルバリオの旅は不明な事ばかりで…まだ続きます.
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