2020年10月7日水曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のい)

(* 長くなりすぎたので,分割しました)

バリックパパンの戦い・我が叔父の場合


 子どものころ,わが家の二階に父方の祖母のキク婆ちゃんが住んでいた.物心ついた時にはキク婆ちゃんがいたので,いるのが当たり前であった.だが,よく考えると我が父は三男坊.近所で主婦の店を経営していた長男がいたにもかかわらず,婆ちゃんは三男坊の家に同居していたことになる.


キク婆ちゃん


 お婆ちゃんの部屋には,大きな仏壇があり,長押には三枚の写真が掲げてあった.一枚は,わたしが生まれるひと月前に亡くなった爺さんの写真であり,二枚目はなぜかキク婆ちゃん.三枚目には軍服を着た若者の写真があった(キク婆ちゃんは,わたしが中学生のときに長男の家に引っ越し,その時に全財産を持っていったが,その家で亡くなり,写真を含めて一切はどこへ行ったのかわからない).


 若者の名は「守」,キク婆ちゃんの四男坊,わたしの叔父にあたる.叔父は太平洋戦争中にボルネオ島バリクパパンで戦死した.昭和20年6月29日没.二十歳であった.

 最近になっての話である.惚け始めている我が母の脳内の記憶が,なにかの拍子に蘇ったのかもしれない.むかしの話をポツリといった.ある日,叔父の戦友という人がわが家を訪れ,キク婆ちゃんに守叔父さんの戦死について報告にきたという.連合軍の猛攻の下,「お前たちは逃げろ.俺は残る」,それが叔父の最後の言葉だったと,その戦友は涙を流しながら語っていった,と.

 叔父の話はその時初めて聞いた.わが家の墓石の横に「守徳院釈智成信士 同守行二十才」「昭和二十年六月二十九日於南ボルネオバリックパパン戦死」とあり,叔父が戦死したことは理解していたが….この墓はキク婆ちゃんが昭和二十八年五月に建てたものであった.この当時からかなり傷んだので,現在は亡き父が改装し,もう少しこじんまりとしたお墓になっている.


キク婆ちゃんが建てたお墓
(わたしが小学生当時の写真)


 バリクパパンといえば終戦間際の大激戦地.ボルネオ島の石油基地であった.「石油の一滴,血の一滴」といわれた当時,大日本帝国が石油を求めて進出した赤道直下の島の一つである.湊先生が軍属としていったスマトラ島と同じ背景を持つ.終戦直前の湊先生の行動を追うには,その背景としてバリクパパンの戦史を追ってみるのも,無駄ではないであろうと思う.そして,叔父の戦死の前後についてもなにかわかるかもしれない….


 ボルネオ島バリクパパンに関する戦記はいくつかでているようであるが,個人的な記録ばかりで,全体的な流れや概要を明示した戦史戦記は見当たらない.イヤ,単に見つからないだけかもしれないが.

 足立巌・ボルネオ島バリックパパン思い出の会戦記編集部(1995)「バリックの空は赤く燃えて」は446頁にわたる大著であるが,多人数の個人的な思い出を集大成したもので,通しの視点がなく,なかなか消化が困難なので後回しとする.

続く…


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