関武夫氏は当時三菱鉱業の技術部に在籍していた.
「パレンバンの石油部隊」には前編に「回想」を寄稿し,後編には「回想 その二」を寄稿している.
関氏は,1943(昭和18)年末に徴用され,1944(昭和19)年3月にシンガポールに着き,約三週間後に南方燃料廠から南スマトラ燃料工廠地質課に配属されたという.「北大の湊氏も私と相前後して着任した」とあるから,湊先生のパレンバン着は3月末から4月初めのこととなろうか.
湊先生が札幌を発ったのは1944(昭和19)年2月13日と教室日誌にあるので,現地赴任まで2ヶ月前後かかっている.その間何をしていたのだろうか.
じつは,南方石油部隊関連の著書を読んでいると,その経緯が推測できる.当時軍属は軍馬・軍犬・軍鳩以下とさげすまれ,あらゆることが後回しにされていたらしい.軍人なら南方まで赴任するのに軍用機で二~三日のところ,軍属は船で三ヶ月かかるのが普通だった.船で移動するのに三ヶ月かかったわけではない.船の空きを見つけるのに無駄な時間を過ごしたのだ.湊先生は石油関連会社からの派遣ではなく,文部省派遣の学者だったため少し早かったのかも知れない.
石油が欲しくて戦争を始めたのに,その石油を確保するための学者・技術者の移動は二の次,三の次だったわけだ.戦争に負けるわけである.
関氏は敗戦後も現地に残され敗戦処理を行っている.その関氏もまたブンガワン・ソロを書き残している….戦中戦後を通じて過酷だった生活に潤いを与える現地の歌だったようだ.
Bengawan Solo
Bengawan Solo riwajatmu ini
Sedari dulu djadi perhatian insani,
Musim Kemarau ta'berapa airmu,
Dimusin hudjau air meluap sampai djah,
Mata airmu dari Solo,
terkurung gunung seribu,
Air mengalir sampai djauh,
achirnja kelut Isu perahu riwajatnja dulu,
Kaum pedagan lalo selalu naik itu perehu
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虎岩達雄氏は,本部地質課の虎岩調査隊の隊長である.
その虎岩氏が「パレンバンの石油部隊」(前編)に「ジャンビー地質調査記」と題した一文を掲載している.もちろん,調査隊の隊長であるから,隊の地質調査に関する記述がほとんどで,湊先生の話は出てこない.しかし,興味深い話題があったので紹介する.
「プラジューは旧BPMの製油所で、南方油田の地質学研究の中心であった。油田に関する凡ゆる資料、特に基準化石の完備と物理探査の資、コアー分析装置等は各油田から集中する料試料を分析しかつ総合して、まことに見事な技術を展開していた。内地の地質屋が個人的な野外調査をなし地質図を発行し、あるいは象牙の塔にこもって顕微鏡的研究に終っているのに比べて此処では化学、地球物理、生物学の凡べてを動員し完全に油国技術を発輝して統計的な調査を行ない、直接生産に、あるいは学術上に欠くことのできない基礎を提供していた。」
・BPM(Bataafsche Petroleum Maatschappij NV)=バタビヤ石油会社.ロイヤル・ダッチ・シェルのインドネシアにおける事業統括会社のこと.
ほかの石油技術者も述べているが,占領したプラジュー製油所に残された油田の地質学的資料は,日本のタコ壺的研究の匂いはなく,圧倒的にシステム化されていた.逆にいえば,南方油田の調査資料に触れた学者・技術者は最先端の石油探査技術に触れ,大いに学んだ.そして戦後,その技術を日本に持ち帰ることになる.
「オランダ時代地質調査は地表調査、地震探査、重力探査、試錐探査(外に最近は試験的に土壌分析調査が行なわれていた)等の各種の方法で五~六ケ班の調査隊が常時活動していた。これに要する調査用器材、設営材料等何れも熱地と密林、湿地等に適した特殊のものが整備されていた。写真室、測量室、製図室も科学的設備を誇り、特に資料の整理方法はいわゆるBPMシステムとして我々が最も注目した所であった。例えばカラーチャートにカステルのスタンダード・ぺンシルを用いペンシル・ナンバー何号は火山岩、何号は頁岩と、その号数を規定し青空色が19、茶色が37といった具合にナンバーで色が目に浮ぶ仕組になっていた。地質図、柱状図はそれぞれこの色で統一彩色されていた。地質符号、生産符号、測量符号なども実に合理的に出来ていた。」
ともすれば,精神主義・根性主義に陥りがちな帝国日本とは違い,すべてがシステマチックに組まれていた.
私が北大地鉱教室の学生時代,湊先生の講座には電子顕微鏡室(微古生物学研究室),古地磁気研究室のほか,写真暗室,写真撮影室などが独立して設置してあった.当時はそれが当たり前なのだと思っていたが,のちに大学全体を見渡せば,そうではないようだった.BPMシステムを見てきた湊先生は,そういう研究室を目指していたのだろう.
また,話は少しズレるが,湊先生が集めていた世界各地の地質資料をいつでも見られる展示室もあった.これは現在の北大博物館の基礎になっている.旧理学部の建物が博物館として再出発した時,かなりの長期間,資料といえば理学部地鉱教室の資料しかなかった事実は,ほかの教室とは一線を画していた現れであろう.
カステルとは,ファーバーカステル社のこと.
卒論学生として湊教授室に伺った時,そこには百色以上はあるのではないかと思われるファーバーカステルの色鉛筆のセットがあった.当時はただの自慢話の類いかと思っていたが,その色鉛筆をつかいながら湊先生はおっしゃった.外国の地質調査所では,石灰岩は何番,火山岩は何番というように決められていて地質図もそれに従って塗り分けられている.…まさに,上記BPMシステムのことを先生はおっしゃっていたのだった.
ちなみに当時修士過程にいたH先輩は修士論文として提出する地質図の塗色に,この色鉛筆セットをつかわせてもらい,「塗り心地が日本製ものと違う」としきりに感心していたことを思いだす.
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「パレンバンの石油部隊 後編」(1983)に佐藤信正氏は「随想」と題する文を書いている.佐藤氏は当時,コークス炉建設部隊にいた.
その中に,佐藤氏を含む一行が母国日本に帰るときの話がある.
「帰国時の昭南は、筑紫山頂に翻る日章旗も今は見えず、連日赤い玉、青い玉が夜空に飛んでいた。戦況悪化の現実に直面し、内地帰還も諦めた頃、たまたま我々は華福に恵まれ、艦隊輸送作戦命令実施の第一回目にして最後の艦隊に乗艦することを得た。」
「一同は戦艦伊勢、日向、巡洋艦大淀に分乗し、駆逐艦共五隻の艦隊、十日間の航海で、呉軍港に無事帰送することが出来た。艦内ではじめて、ミッドウエー、レイテ海戦の敗戦を聞き、昭和二十年二月十日到着した。」
「呉軍港には、戦艦大和一艦が停泊中で、帰艦の伊勢、日向の両戦艦を加えた三隻のみが当時の連合艦隊の戦艦群と記憶している。」
先に「北大古生物学の巨人たち」では,「帰国にあたっては、技術者は攻撃されにくい病院船で帰るのが普通だが、湊は早く帰りたいために、駆逐艦に乗り帰国した。」とあった.
さまざまな状況から考えるに,民間から徴用された技術者は帰るあてがなく放置されていたが,たまたま戦地を放棄し日本へと帰る連合艦隊に空きがあったために同乗できたに過ぎないことがわかる.そして湊先生は「駆逐艦に乗り」が正しければ,残る二隻の駆逐艦のどれかに乗っていたことになる.「第一回目にして最後の艦隊」というからには,この艦隊のどれかに乗っていたに間違いない.戦地から逃げる連合艦隊は,じつは日本で一番安全な乗り物だったのだろう.
艦隊は十日間の航海で,1945(昭和20)年2月10日に呉軍港に到着した.そして,2月24日,湊無事帰着の電報が北大に届いた.話は整合する.
その後,日本軍に虐待されていた連合軍捕虜のために,米国が提供した救援物資を南方へ運ぶという理由で「阿波丸」の安全航海が保証された.阿波丸は病院船ということにされた.そして,日本への帰り船には,たまたま空きがあったため,現地に取り残されていた徴用技術者の多くが乗船できることとなった.そして,阿波丸は米軍潜水艦に撃沈された.生残りはたった一人だったという.
阿波丸撃沈には多くの謎があるが,ここでは触れない.詳しくはロジャー・ディングマン(Roger Dingman, 1997)「阿波丸撃沈=太平洋戦争と日米関係=(川村孝治,2000訳)」を読むといい.
ところで,「パレンバンの石油部隊 後編」に塚田了氏が不思議な話を残している.
昭和20年代の或る年,塚田さんが赤坂離宮付近をあるいていると,付近の道筋に不案内だったために警察官に道を尋ねたところ,その人物は戦時中の岡本技術軍曹であることに気付き驚いたという.もっと驚いたことは,岡本技術軍曹は阿波丸に乗船し死んだはずの人物であった.阿波丸から助け出されてのはたった一人の人物=下田勘太郎であったことが公式の記録であるはずなのに.
岡本元軍曹は,「かなりの数の者が阿波丸を沈めた潜水艦に助けられ」たと証言している.果たしてこれは事実なのだろうか.岡本元軍曹は,その当時国鉄大阪管理局の公安官だったというから,記録を調べれば,生残りが複数いたのかどうかは確認できるだろう.
歴史というヤツは,たとえそれが公式の記録であっても,疑ってかかるべきものなのだろうか….
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現在のところ,これまでが湊先生の南方行について知りうるすべてである.ブンガワンソロは,死を覚悟して石油開発のために南方へおもむいた地質学者,石油技術者が現地で聞いた,歌が好きなインドネシアの人たちから与えられた,つかの間の平和だったのかも知れない.
最後に,田中嘉寛氏が「北大古生物学の巨人たち」で,湊先生の言葉として残した言葉を引用しよう.この言葉は当時助教授だった加藤誠氏から,湊先生の言葉として聞いたことでもある.
「あれもやらなければ、この問題も解決させなければ、といつまでもやっていたのでは論文は書けない。一区切りついたところで、問題点は問題点として残して、論文にまとめなさい」
この項終わり.
またなにか,情報がはいった時に追加することとします.
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