2011年1月3日月曜日

蝦夷地,最初の炭鉱 pt.4「入北記」(玉蟲左太夫)


 1857(安政四)年,箱館奉行・堀織部正の調査団に同行した仙台藩士・玉蟲左太夫の「入北記」より.その巻六・八月二十四日の記.

「(前略)御手附栗原善八ナル者見込ノ石炭掘場アリ。一見セシニ当時折角盛ンニ掘居タリ。穴ハ二ツアレドモ一ハ細炭且悪炭ニ〆用ニ立タズ、一ハ極上石炭ノ由.僕試ノタメ一片ヲ持シ来タリ。尤此辺処々ニ石炭アル由.是ヲ掘リ開キナバ多分ノ有用ナルベシ、実ニ悦ブベキヿナリ。夫ヨリ三四丁ニ〆シラヌカニ至リ午飯ヲ喫ス。(後略)」

 玉蟲の記録では,白糠石炭窟にある二つの坑道のうち,一つは「細炭且悪炭」のため,役に立たないが,もう一方は「極上石炭」であるとしています.
 疑問なのは,もしそうであるならば,「細炭且悪炭」のほうは閉鎖し,良好なほうのみ出荷すればよかったはずなのに,担当者=栗原善八は品質管理をする能力がなかったということなのでしょうかね.つまるところ,炭質云々よりは,茅ノ澗のほうが箱館に近いという地理的条件が,白糠炭山を廃山にした大きな理由なのでしょう.
 (コストの低い運搬方法さえあれば)この付近には,あちこちに石炭があるので,(良好な)石炭を掘り出せば,役に立つであろうとしています.
 玉蟲は次世代の釧路炭鉱の存在を見通していたということでしょうか.そして,玉蟲には石炭の品質を見る目があったということでしょうか.


 戊辰戦争のあと,玉蟲左太夫は,蝦夷地で捲土重来を期す榎本武揚との合流をのぞんでいました.しかし,榎本軍との合流を果たせず,捕縛されて獄へ.榎本が蝦夷地で苦戦している最中の1869(明治二)年四月,切腹死しました.
 悲しいことに,玉蟲左太夫も成石修輔とおなじ道をたどったことになります.
 才能もあり,青雲の志をいだいた,たくさんの人びとが「明治維新(?)」の犠牲になりました.


 蛇足しておくと,榎本は堀織部正の蝦夷地調査行に同行していたという説があり,もしそうであれば,玉蟲が榎本とともに行動しようとしたというのは,いかにもありそうなことではあります.
 

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