2011年1月4日火曜日

蝦夷地,最初の炭鉱 pt.5「入北記」(島義勇)

 
 前回に引き続き,また「入北記」から,ですが,こちらは佐賀藩士・島団右衛門義勇の手になるもの.
 島義勇も,玉蟲左太夫とともに,箱館奉行・堀織部正利煕の調査団に随行していました.そして,おなじ題の「入北記」を残したわけです.

 島は,その後,明治政府側につき,明治維新を生き延び,蝦夷開拓御用係-開拓使判官を勤め,蝦夷地開拓に尽力します.
 ところが,開拓使のゴタゴタに巻き込まれ,解任.
 その後,明治七年,「佐賀の乱」をおこし,さらし首に.
 しかし,北海道では,北海道神宮にまつられている神様でもあります.


 では,「入北記」より,1857(安政四)年八月廿四日の段*.

「廿四日 クスリ川船渡し大河常水有り、三里程海辺ノ広野を歩し、それより小粒山海に沿ひし麓をすくまた二里有餘にしてシヨロロ(シヤリ江越ス新道有り行程四十里卜云)、大河有りて土人小家多し、これより土人小家たへす、二里程海辺を歩しシラヌカ、此に石炭山海岸にあるを堀り方に成り候、土人事になれす大にこわかる由なり、羆多き場所に而当春の子を土人一軒に三頭或ハ二頭をも捕へかいし家多し、それより四里八丁歩し、シヤリヘツの番家に宿す、大河都而五ケ所舟渡し、其外は洪水計の時潰し候所卜みゆる川三四ケ所有り、路傍の山、種々の雑木(良材なり)長す、昆布も有り。」


 島は,石炭にはあまり興味がなかったようですね.
それよりも,そこで働かされているアイヌが坑道作業を怖がっていることに注意をはらっています.これが,アイヌが炭鉱で働かせられていたことの証拠ですね.


*入北記:杉谷昭(1975)「〔幕末維新拾遺〕その3=安政四年蝦夷地調査記録『入北記』の資料的研究(続々)=」より.

 

0 件のコメント: