2011年1月19日水曜日

蝦夷地,最初の炭鉱 pt.11 補遺「白糠炭山」pt. 2.

 
「「タキイシ」物語」には続けて,こうあります.

  夫人足御料書
           伝 次 郎
其方儀大黒町茂兵衛外壱人より入湯に罷越揚り場に脱有之衣類金子等盗取始末不届に付入墨鼓申付候
 但入墨鼓候上蝦夷地クスリ領シラヌカ場所に石炭掘人夫として差遣す

         坂田無宿 半四郎
其方儀無宿之儀を押隠し地蔵町新次郎身元請相頼み茶屋町茂兵衛方手伝中座敷に有之帯壱筋盗取地蔵町和平方月雇中同人倅喜一郎所持之莨入盗取其後右茂兵衛宅へ夜中立入金銭衣類等盗取始末不届に付入墨鼓中付候
 但入墨鼓の上シラヌカ場所石炭掘為人足取遣す


 白糠炭山では「採炭人」のほかアイヌが使役(「使役」ってなんでしょうね.強制労働?)されていたという記述がありますが,松浦竹四郎があったという,強制労働の無宿人についての送り状みたいなものですかね.
 こういった,無宿人の他,家族・親戚から見放された放蕩人も奉行の判断で強制労働に就かされていたようです.その数二十数名とありますが,もちろんこれらは引用が示されていません.

 最後に,産炭データから.

 では白様ではどのくらい掘つたか、どうも不明である。ただ安政四年六月から翌年四月までの採炭高は五九九八石八斗であつたというが、私にはビンと来ない。では石炭の価格はどの位であつたか、自糠町史の記すところによると、「十六貫目俵百俵で約六頓に当るから、この当時の石炭代は一頓一両八分位にしかつかない」と、これに対し百俵掘取の人夫賃が二両一分余を要し、運賃が八両であつたから、さしたる利益もなかつたろうと思われる。賃金はというに栗原善八が一カ年三十両、益次と末吉は一日銀七匁、音松と清五郎は一日銀五匁だつたと、これも私にはビンと来ないことである。

 数字はあがっていますが,その数字が意味するところのことを,歴史の専門家が「ピンとこない」といってます.わたしのような素人には,まったくわかりませんですね.
 ま,どうやら,産業としては成り立たなかったと考えた方がよいようで.

 もうひとつ.「自糠町史の記すところ」という記述がありますので,ネタはやはり「白糠町史」なのでしょうかね.
 

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