2011年1月19日水曜日
蝦夷地,最初の炭鉱 pt.11 補遺「白糠炭山」pt. 1.
さて,茅沼炭山に移ろうとしたら,重要な資料を見つけてしまいました.
それは,片出敬次(1963)「タキイシ」物語=本道最初の炭山=.新しい道史,第1巻,第1号,26‐30頁.
この(論文ではないな)記事は,北海道最初の炭山といわれる「白糠炭山」について詳述したものですが,多分に「読み物」的で,明確な引用がないので記事の根拠を確認できず,困るのですが,重要なことが記述されているので,無視するわけにも行きません.
運がよければ,元記事をそのうちに…,ということで,メモ,メモ.
さて,
「白糠開坑に着手した箱館奉行は、翌安政四年閏五月に手附栗原善八を掛りに任命し、江戸から益次、末吉、音松、清五郎四名の採炭人と、募集した人夫を白糠に送つて愈々本格的に採掘に当らせ、また地元のアイヌをも使役した。」
とあります.
どこに元記事があるのか書いてないので,問題ですが,(たぶん,この記事を引用したのであろう)これまで見たすべての記事には書いていなかった「歴史に無視された四人の職人」の名前が出ています.
【採炭係・手付】─【採炭人】
栗原善八 ├ 益次
├ 末吉
├ 音松
└ 清五郎
「手付」という役職が箱館奉行所の中でどういう位置づけなのかも不明ですが,とりあえず,こういう専門職グループが成立します.「益次と末吉は一日銀七匁、音松と清五郎は一日銀五匁」と後述されていますので,前者の方が熟練工ということでしょうか.銀七匁は26.25g,同五匁は18.75gですから,現在の相場で,約75円/gですから,日当1,400~2,000円程度(と,いわれても高いのか安いのかわかりませんね(^^;).
たとえば,文政年間(1820年頃)の若い大工の日当が銀5匁4分という記録があります.これでは.だいたい同じくらいということになってしまいますが,未開の地で命をかけて働いて,江戸の若い大工の日当と同じ程度では,やりきれませんね.比較例が悪いのかもしれません.
「採炭人」四名は江戸からきたと書かれていますが,「東徼私筆」には“栗原が江戸から”きて“四名の職人は筑前柳川から”とされています(但し,「柳川」は筑後だと思います).
その技術として,落盤を防ぐための「留木」をもちい,「不危燈」を使用しているという記述が続きます.「不危燈」は「安全燈」であるという前提で書かれていますが,具体的にどういうものだったのかという記述や解析はありません.
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