上川盆地(とくに旭川)の発展のために,行政区分が変わったり,そのため地域名が変わったりもしました.人口の増加が小学校の増加を生み,並行して学制の変更によって名称が変わったりしました.
そのため,なにかを省略すると前後関係がつかめないということが起きるようになります.
いくつか資料を集めて,近文地域の小学校とその歴史について整理してみました.
以下.
旭川市史には,以下のようにあります.
「三十四年七月,三線西一号共有地,今の大町二条六丁目に…近文第五尋常小学校を設けることに指定…」(旭川市史三巻二二九頁)
三十四年は明治のことです(歴史を調べる時に不便だから天皇暦はやめてほしいと思う.せめて西暦併記を).
また,三線西一号共有地とは,この地域はもともと「鷹栖村」に属しており,第七師団設置に関連してあたり一帯が旭川村に管理替えされたとき,鷹栖村と旭川村の「共有地」(協定があったわけではなく曖昧なまま“共有地”とされたのだと思われます)と呼ばれる地域ができました.
(新旭川市史口絵)
三線南一号の北の隅に「小学校」の文字が見えるが,これは市史編纂時の加筆であると考えられる.なお,ここは現在の旭町1条9丁目であると思われる.ここに小学校が建つのは明治36年であり,この地図に載っているのはおかしい.
なお,明治35年地形図(新旭川市史口絵)によれば,「三線西一号共有地」というのは存在しません.「三線南一号共有地」というのは存在します.その理由は定かではありませんが,思うに,一線から南西側の土地は想定外だったからでしょう.この時代以前の地形図には線-号のラインが想定されていないからです.また,この地域は上流側の乾燥した地帯と異なり,湿地だらけで経済価値の低い土地だったからです(のちにそこがアイヌに貸し与えられるという意味がおわかりでしょう:ここらあたりは石狩川が氾濫するたびに水没する地域でした).
第七師団の配置後,急激にこの土地の“価値”が上がり,急遽地名を振らなければならなかったが,正式なものはなく,「西○号」と「南○号」がその時その時に適当に振られたのだと考えられます.だから,「西○号」と「南○号」は同じものと考えるべきでしょう.じつは,「三線南一号共有地」という土地も存在しません.ここは非常に微妙な土地で,半分は「旧土人(アイヌ)開墾予定地」であり,一部は開拓のために和人に払い下げられたもので,その間になんとも判断できない土地(無塗色=無区分)が横たわっています(前出:新旭川市史口絵).それで,「三線南一号」の区画には「共有地」と判断されるところは「ない」わけです.
さらに問題があって,「三線南一号」という区画には,のちになっても「大町二条六丁目」と呼ばれる地域はありません.現在の大町二条六丁目は,昔の「二線一号」にあります.したがって,「大町二条六丁目」という市史の記述は間違いと判断されるべきでしょう(ただし,予定地として上がっていたが,最終的に建てられたのは「三線南一号」だったという可能性は残ります).
「この年十月二十日新築落成」(旭川市史三巻二二九頁)
翌年,
「三十五年四月一日,旭川に町制施行とともに春光,北星地区一帯が旭川町に編入されたので,四月二十九日上川第三尋常小学校と改称」(旭川市史三巻二二九頁)
ここで「春光,北星地区」というのはのちの呼び方であり,適当ではないのですが,ほかに呼び方もありませんので我慢のこと.正確にいって,六号線以南および近文台南の平野部となります.
また,旭川町になったわけですから,本来は「旭川第三尋常小学校」と改称されるべきですが,すでに旭川村から分村していた東旭川村が学校に「旭川」の冠を使っており,混乱必至であったので「上川」を被せたようです.なお,東旭川地域の各校は現在でも「旭川」の冠を使っています(なんかね).
「三十六年九月三線西一号,今の旭町一条九丁目に新校舎落成」(旭川市史三巻二二九頁)
前述と矛盾する市史の記述ですが,困ったものです.
前年(35年)の10月20日に新築落成している校舎が,また落成しています(困ったものです:なお,すでに新旭川市史が発行されています.このあたりの記述が整理されてるかと期待したのですが,記述が減ったぐらいで放置でした.無駄金使ってしまった.(^^;).考えられるのは,“二線一号(大町2-6)”(あるいは別のところに)に「近文第五」が建てられ,旭川町に編入されたときに名称を変え,翌年,三線西(南)一号に新築転居したということですが,裏付けはありません.
「三十九年修業年限二ヶ年の高等科併置」(旭川市史三巻二二九頁)
本文には「三十九年高等科併置」とありますが,後・沿革一覧表(旭川市史三巻二三四頁)には「四〇・四・一:高等科併置上川第三尋常高等小学校と改称」とあります.
当時の小学校は義務教育で修業年限が四年でした.しかし,全国的のプラス二年の高等科を併置するところが増え,それに沿ったものと思われます.この時,義務教育であった小学校は無料,高等科は授業料を払うのが普通だったそうです.その年,小学校令が一部改正され,就業期間が六年間に延長することが決まります.
翌年,
「四一・四・一:上川第三尋常小学校と改称」(旭川市史三巻二三四頁・一覧表)つまり,「高等」の名は自然消滅したわけです.高等小学校は就業期間四年であったところが,二年に短縮.もちろん,高等小学校三年生が一年生に,四年生が二年生ですね.
ところが,1913(大正2)年に,
「大正二・四・一:高等科併置,上川第三尋常高等小学校と改称」
されるわけです.(続く)
(1903;明治36年「旭川市街全図」より一部)
線の記述はあるが,号の記述がない.第三線とかかれた文字の三区画南西に家屋マークがあり,解像度が悪いが,「第三尋常小学校」と読めると思う.しかし,ここは三線一号(現在の旭町2条10丁目あたり)であり,そこに小学校があったという記述は見あたらない.もしかすると,近文第五尋常小学校建設予定地は,この場所であり,市史の記述の間違いはここであった可能性もある.
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