湊先生がまとめた「知里真志保さんの略年譜」にちょっとした混乱があることがわかりました.
一九一五年(大正四年)四月,登別小学校を卒業し,四月に旭川北門尋常高等小学校高等科一年に入学,六歳.金成マツの家に住む.
と,いう記述です.
なお末尾注に(なお,「知里真志保さんの略年譜」作成にあたり,『知里真志保著作集』4(平凡社刊)を参照した.)とあります.従って,原著に当たらないと,どこから間違いが始まったのか判りませんが,この年譜は,すでにあちこちに引用され,一人歩きしているようで,別な記述でもみたことがあります.
さて,なにがおかしいかというと,北門尋常高等小学校ができた(上川第三尋常小学校を改称:近文地域が鷹栖村から旭川区に編入されたため)のは1918年であり,1915年に入学するのは不可能であること,また,このころの尋常高等小学校は現在の中学1~2年に当たるために,六歳で入学するのも不可能であること.
などです.
そこで,旭川の「小学校(近文地区)の歴史」を調べてみたのですが,これがなかなかの難物でした.
たとえば,北門尋常高等小学校が前身であるとされる「北海道教育大学附属旭川小学校」のHPには「本校の沿革」という頁があります.
それは,明治34年7月「近文第五尋常小学校」から始まるわけですが,まったく史実に即していません.近文第五尋常小学校といえば,当時は鷹栖村に属していました(学校は現在の大町2-6にあったらしい).その後,紆余曲折があって,旭川師範が設置された頃には,すでに北門尋常高等小学校(そのころは北門町11に移動していたとされる)として,旭川区立で存在していたものです.
その学校が,師範設置後数年たってから「旭川師範学校代用附属小学校」として用いられ,さらに1932(昭和7)年に,北門町9丁目(現在の教育大学附属旭川校・自然科学棟あたり)に新築移転して「旭川師範学校附属小学校」となったものです.したがって,附属小学校のルーツといえば「旭川区立北門尋常高等小学校」が最初で,それ以前は無関係といった方がいいものでしょう.
しようがないので,附属小学校・豊栄尋常小学校・近文小学校・大有小学校の歴史を,旭川市史から拾いなおし,年表をつくって確認しました.所在地や経緯に若干の不明な点が残るものの(市史の記述では確認できない),知里さんの年譜確認には問題ない程度まで漕ぎ着けたとは思っています.
さて,知里真志保さんが生まれたのが1909(明治42)年.この年,伯母の金成マツは旭川市近文(当時は鷹栖村.現在の錦町15丁目.旭川市立北門中学校が建っているあたり)の聖公会伝道所に赴任.姉・幸恵は金成マツの元で上川第五尋常小学校に通学.
年譜では,“1915(大正4)年,四月,登別小学校を卒業”となっていますが,当時,真志保は6歳で卒業は不可能(尋常小学校の入学が6歳).“四月に旭川北門尋常高等小学校高等科一年に入学”となっていますが,これは「旭川北門尋常高等小学校の前身である上川第三尋常小学校」でしょうか.しかし,なぜ姉・幸恵といっしょの「上川第五尋常小学校」ではなかったのでしょう?
じつは,当時「上川第五尋常小学校(1918(大正7)年,豊栄尋常小学校と改称)」は俗に“アイヌの学校”と呼ばれ,「旧土人教育規定」によって運営されていた“学校?”でした.こういうことがあって,このあたりが非常に判りにくくなっているのか,とも思われます.
さて,“1923(大正12)年三月,高等科を卒業し”となっていますが,この高等科とは,いったいどこだったのでしょう.大正12年3月までは,豊栄尋常小学校は存在していますので,豊栄尋常小学校を卒業してから北門尋常高等小学校・高等科に入学し,二年後の1923年3月に高等科を卒業したとすれば,この記述から入学時の記載を間違ってしまったという解釈ができます.
そうすると,
1909.02.24:知里真志保,誕生(0歳)1915.04:真志保,上川第五尋常小学校入学(6歳)
1921.03: 〃 ,豊栄尋常小学校(上川第五尋常小学校,改称)卒業(12歳)
1921.04: 〃 ,旭川北門尋常高等小学校・高等科入学(12歳)
1923.03: 〃 ,旭川北門尋常高等小学校・高等科卒業(14歳)
1 件のコメント:
調査継続中.
この訂正年譜は,間違いであることがわかりました.
詳細は後日.
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