2020年8月30日日曜日

ブンガワン・ソロの謎(安田信行さんの手記より)


 安田さんの手記は八年くらい前,湊先生の論文の収集と整理をしていた時に偶然web上で発見したものです.「交通医学」という安田さん個人のHPでした.その時は別なことをしていたので,あとで熟読しようと思いましたが,念のためpdf.にして保存してありました.

 前項「ブンガワン・ソロの謎」を書き始めて,そういえば…と,思い出し,安田さんのHPを探しましたが見つかりません.八年の歳月は長いですね.たぶんお亡くなりになったかHP運営が面倒になったか….当時,HP作成は一種のブームになっていて,いろんな人がたくさんのHPをつくっていました.こういうような私的な記録もたくさんあったのです.

 ですが,このようなHPは書籍にしたものと違って,生きている時間が短い.本人が飽きたり亡くなったりしてプロバイダに会費を払わなくなれば,その時点で「消えて」しまいますし,個人HP作成のブームが終わった現在としては,プロバイダも儲けが少なくなりますから突然「サービスを終了します」というメッセージを残して廃業したりします.

 わたしは,それがあるから(ほかにも理由はありますが)無料のサービスを利用しています.わたしが死んでも,会費制じゃないわけですから,しばらくは維持されると踏んだからです.ところがこちらも「新しいサービスに移行します」という一方的な通告で「終了」したりします(じつは今それで困っています).まあ,Google社も商売ですから,膨れ上がるデータ量を維持するのは大変だろうということは理解できますが,当時多くのひとが作った多量のデータは…そうやって「消えて」いった模様です.


 それはともかく,幸いにもpdf.にした安田さんの手記が,我がMacのHDDに残っていたのを幸いに,手記を読んでみることにしました.


 ただし,この手記は1989年に書かれたもので,その時点で戦後40年以上経っていますから,記憶が曖昧で思いだすままに,ほとんど脈絡もなく書かれたものです.それでもわずかに湊先生の戦時中を知ることができました.


 安田さんは,昭和18年,予備士官学校を卒業し南方燃料廠に転出しました.翌年,シンガポールを経由してパレンバンに行き,南スマトラ燃料工廠に配属.そこで地質課調査隊湊隊に属することになりました.

 湊隊では隊のサポート役として,機材や備品の管理,作業員の確保などを業務としていたらしいです.このHPでは「7)地質調査隊」という章があるので,湊先生の地質調査の話が少しでも出てくるかと期待したのですが,まったくありませんでした.もちろん,安田さんは地質屋ではないのですから,地質調査そのものに興味があるわけはないのは当然です.また,調査地プラブムリーでは湊先生と一緒の宿舎にいたにもかかわらず,当時の湊先生をイメージするような思い出は一切ありませんでした.あるのは,個人的な生活の記録や現地の人々の生活の様子,珍しい動植物の記憶など,人間の記憶とはそういうものかと思わせるものでした.

 唐突ですが,わたしの伯父はスマトラの隣のボルネオ・バリクパパンで戦死しているので,このあたりの戦記をいくつか読んでいますが,それらはこの世の地獄の様相を示しているのに,収容所暮らしを経験している安田さんの手記では,なんとまあ能天気な…と思わせるほどでした.人間の記憶という不思議な機構のなせる技なのかもしれませんが….



安田さんの手記中に添付された図(Palembang (B))から


 pdf.からそのまま起こしたもの.解像度が非常に悪く見づらいが原図はもっと見づらいです.収容所にいる間に大学ノートに記録したものはインクの色があせて見づらくなっていると書いてありましたが,それををコピーして貼り付けたものだろうと思います.凡例がA~Pまで二セットありますが,下のセットは「’(ダッシュ)」つきなのかもしれません.凡例「A」に「湊サンノ宿舎」とあります.現地調査に行く前の仮の宿舎なのでしょう.中央付近の「A'」ではなく,右端中あたりの「A」がそうであると考えられます.



安田さんの手記中に添付された図(プラブムリー 湊さんと共に暮らした家)から


 プラブムリー地質調査中に使用した宿舎と思われます.


 調査隊は青山隊・熊谷隊・湊隊の三つがあったそうです.安田氏は湊隊に配備される前に,ジャンビーという所を調査していた隊に仮配置され調査隊の概要を見学していたといます.湊隊がプラブムリーに実際に調査にはいった時の支援作業をおこなうための勉強や下調べであったそうです.しかしその後,湊隊で働いているうちに病気になり陸軍病院に入院し,退院した時には別の組織に移動になったとあります.そのため,湊隊の記憶は少ないのかもしれません.

 「プラブムリーの調査隊には、隊長の湊正雄さんと私、そして軍属の剣さんと言う人と台湾出身の李黄さんと言う人がいた。その他に何人かいたような気もするが記憶は確かではない。」とあります.

 安田さんは,敗戦後帰国してから10年後に金沢大学の構内で再会したそうです.湊先生は学会で金沢大学にいたらしい.地質学会の開催地を調べれば,もっと詳しい年月日がわかるでしょう.しかし,その時になにがあったかは書いてありません.なぜ安田さんが金沢大学にいたのかも書いていない.

 また,この手記を書く数年前に,湊先生の落雪事故の新聞記事を見たそうです.


 安田さんの手記やほかいくつかのスマトラ・ボルネオの油田に関する本を読んでいて,思ったこと.ヨーロッパ人のつくった町の立派であること.そこを占領した日本人はもちろん,ヨーロッパの植民地支配者の生活を体験したことになります.当時の日本本土の日本人と比べても,なんと豊かな生活であったか.比べて,現地住民の貧しさ.

 太平洋戦争はたしかに日本の侵略戦争でした.しかし,当時の兵隊の多くは,やはり「八紘一宇」や「アジアを開放する」というスローガンを信じていたのかもしれません.まるで現在の若者が,自衛隊の本来の仕事ではない災害救助が仕事だと信じて入隊し,悲惨な目に遭っているような….

 そして,それを信じている末端の兵士と接触の多かった現地人は,大いにそれに影響を受けたのでしょう.敗戦で撤退する日本兵とは対照的に現地の若者は,本当にアジアを開放する戦いに突入していきました.一部の日本兵は日本に帰らず,その戦いに参加したといいます.その話を調べるのは,今のわたしには手に余ります.

 今しばらくは,湊先生のブンガワン・ソロの謎を追ってみたいと思います.この話題もうしばらく続きます.