本日(2008.07.26.),マスコミを通じて,八木健三先生の訃報が流れました.
お亡くなりになったのは,18日とのことです.すでに葬儀は内々に行われたとのことで,後日,「お別れの会」なるものが催されるそうです.
私が八木さんに初めてあったのは,北大・教養部から理学部・地鉱教室に仮移行したその日でした.八木さんは,その時の教室主任でした.
教養部のつまらない授業に飽き飽きして,なにか機会があったら退学しようかとなどと考えていたころでした.
教養部の貧相で無気力な教授たちに見飽きていて,大学ってこんなにつまらない所だったのかと思い込んでいたのです.
私は八木さんを見て,一目で気に入ってしまいました.
八木さんは仕立ての良い背広を着ていて,言葉の端々に「知性」があふれているような人でした.
仮移行した私たちは,教室の中を案内していただきました.その時にも,途中であった用務員のおじさん・おばさんたちにも親切・丁寧な声をかけ,偉そうな態度は見せませんでした.その時,酷く貧相なお爺さんにも,なにか声をかけていましたが,その時は気にも止めませんでした(その夜,先に学部移行を済ませていた友人に,その老人が「湊正雄」という大教授であることを指摘されて,驚くのですが…).
事務のお姉さんたちにも,軽いジョークを飛ばし,なにか明るい気持ちにさせてくれる人でした.
八木さんは,北大という所に飽き飽きしていた私に,地鉱教室に学部移行したことが,もしかしたら「当り」だったかもしれないと思わせた人でした.
八木さんが専門とした「火山学」や「鉱物学」からは,少し離れたことを専攻しましたが,地質学を学ぶことによって,楽しい青春時代を送らせていただいた,そのシンボルのような人でした.
あれから,30数年,未だ,地球のことはさっぱりわかりませんが,八木さんは天国にいったのではなく,地球の一部になったのではないかなどと考えています.
ご冥福をお祈りいたします.
2008年7月26日土曜日
2008年7月14日月曜日
アンチセル調書
2008/02/25に、「ライマン展」関連で,アンチセルについての雑文を書きましたが,やはり気になっていて,あちこち調べていました.
といっても,調べられるのはネット上で公開されている資料ぐらいですけどね.
道・教育大関係の図書室には無し.
道立図書館には「気候説」なるものが蔵書されているみたいですが,どうせ貸出禁止なので無視((^^;)(同じものは,北大図書館にも蔵書されています).多分,開拓使に出した報告書の抜粋でしょう.
国立公文書館には該当資料なし(「アンチセル」・「Antisell」でヒットなし).
国立国会図書館にも該当資料なし(「アンチセル」・「Antisell」でヒットなし).
ま,こんなもんです.
ありがたい事に,早稲田大学の大隈重信関係資料に「アンチセル調書」第八と第十一というのが,画像で公開されていました.あとで判るのですが,これは,北大・北方資料室に所蔵されている「教師報文録」の一部を筆写したものです.
「アンチセル調書 第八」は題を「大野平野の事」となっており,「アンチセル調書 第十一」は「北海道を開き生産の道を起す事」になっています.これらは,「教師報文録」では第二集の中の「第五 大野の事」と「第二 北海道を開き生産の道を起す事」にあたります.
「教師報文録」から,目次をつくってみると,アンチセルの報告が約半分を占めており,アンチセルは重要人物だったことがわかります.
どこかで,この「教師報文録」をテキスト化していないかと探してみましたが,案の定見つかりませんでした.そこで,自分でやってみることにしましたが,北大・北方資料室のHPで公開されている同書の画像は,文字の判読がギリギリの解像度で,けっこう時間を取りました.それが,しばらくこのブログを書けなかった理由(ほかにも,EGBridgeが使えなくなったので,やむなく「ことえり」に切り替えましたが,予想をはるかに超える頭の悪さで,変換に時間を食いました(^^;).
我々現代人には,原文の英語版の方が理解しやすいと思うのですが,英語版は見当たりませんでしたね.ホントに日本のお役所は,資料の保存については,鼻から頭にないという感じですね.昔,外国のキューレーターから「日本の博物館は,世界で最低レベル」という評価をされてしまいましたが,「全くその通りだ」と思ってしまう瞬間です.
ここで,解読した文章を公開してもいいのですが,苦労したので,もったいない(ウソ.ウソ((^^;).北方資料室からクレームがくるといけないので公開を控えるだけです).
なかなか,面白いことがわかってきました.
アンチセル氏の地質学的知識は結構なものです.この時代の知識人の地質学的素養には,いつも驚かされるのですが(一般現代人の地質学的知識をはるかに越えています),彼もそう.要するに「博物学者」なんですね.
いろいろな所で,アンチセル氏を「地質学者」であるとしているのですが,そこだけ取れば,そう勘違いされても…「納得」…と,いう所です.
それだけではありません.「地形」・「地質」から「動植物」まで,基礎的知識は言うまでもなく,応用/実用的知識は,「鉱山」・「農場」その他の運営法,「移民推進」の方法から,開拓に関係することなら何でも…と,いう感じ.さすがフロンティアの国=USAからやってきた人です.
才能があることを鼻にかけて,ケプロン将軍に嫌われたという噂がある人ですが,これだけ多才ならしょうがないでしょうという気もします.
さて,前回問題になった,「札幌軟石」と「ホップ」についてですが,確実な証拠はやはり見つかりませんでした.
「札幌軟石」については,前回,「札幌建府不適切論」を展開しているアンチセルが,軟石をみつけて,これで札幌の町を造ろうと言ったという話は「疑問である」としましたが,彼の議論を読んで,その気持ちを強くしました.その話は「いかがわしい」と言ってもいいかもしれません.
また,この「教師報文録」には,全く「札幌軟石」の話は出てきませんでした.もちろん,タイムテーブルをつくって,他の機会に発見している可能性はないか,他の報告書にはないのかなど,確認しなければなりませんが.
なんにしても,この報告書を読む限りは,もしこの期間内に「札幌軟石」を見つけていたら,必ず記載していたことを思わせますので,少なくとも1871.9.11から1874.10.19の間には,見つけてはいない様です.
もう一つ.
「ホップ」について.
少なくとも,この「教師報文録」中には,アンチセルは「ホップ」については,報告していません.付け加えておけば,アンチセルは,巡検した地域の植生について,この「教師報文録」で報告しています.他にも自生している植物や栽培可能な植物についても書いていますが,「ホップについてだけ」はありません.
しかし,この「教師報文録」には「ホップ」についての報告があります.
それは,アンチセルではなく,ケプロン将軍の手によるものでした.しかも,植生のリストで単に存在を報告したとかいうのではなく,「ホップ培養并に製法略説」という一章を設けて,「概説」のほか「ホップ雌雄の辭」・「ホップ摘採法」など詳細に述べています.もし,アンチセルが発見したのなら,そのことが明記されているはずですが,ざっと見た所,それはありません(このあと,解読してみようと考えています.また時間がかかるなあ(^^;).
思うに,なにかの間違いがありそうです.ケプロン将軍が書いたこの章の直前にアンチセル氏の報告があることが原因かもしれません.
それにしても,あちこちで伝えられている「アンチセル,ホップ発見」説は,いったい何が根拠になっているのでしょうか….
といっても,調べられるのはネット上で公開されている資料ぐらいですけどね.
道・教育大関係の図書室には無し.
道立図書館には「気候説」なるものが蔵書されているみたいですが,どうせ貸出禁止なので無視((^^;)(同じものは,北大図書館にも蔵書されています).多分,開拓使に出した報告書の抜粋でしょう.
国立公文書館には該当資料なし(「アンチセル」・「Antisell」でヒットなし).
国立国会図書館にも該当資料なし(「アンチセル」・「Antisell」でヒットなし).
ま,こんなもんです.
ありがたい事に,早稲田大学の大隈重信関係資料に「アンチセル調書」第八と第十一というのが,画像で公開されていました.あとで判るのですが,これは,北大・北方資料室に所蔵されている「教師報文録」の一部を筆写したものです.
「アンチセル調書 第八」は題を「大野平野の事」となっており,「アンチセル調書 第十一」は「北海道を開き生産の道を起す事」になっています.これらは,「教師報文録」では第二集の中の「第五 大野の事」と「第二 北海道を開き生産の道を起す事」にあたります.
「教師報文録」から,目次をつくってみると,アンチセルの報告が約半分を占めており,アンチセルは重要人物だったことがわかります.
どこかで,この「教師報文録」をテキスト化していないかと探してみましたが,案の定見つかりませんでした.そこで,自分でやってみることにしましたが,北大・北方資料室のHPで公開されている同書の画像は,文字の判読がギリギリの解像度で,けっこう時間を取りました.それが,しばらくこのブログを書けなかった理由(ほかにも,EGBridgeが使えなくなったので,やむなく「ことえり」に切り替えましたが,予想をはるかに超える頭の悪さで,変換に時間を食いました(^^;).
我々現代人には,原文の英語版の方が理解しやすいと思うのですが,英語版は見当たりませんでしたね.ホントに日本のお役所は,資料の保存については,鼻から頭にないという感じですね.昔,外国のキューレーターから「日本の博物館は,世界で最低レベル」という評価をされてしまいましたが,「全くその通りだ」と思ってしまう瞬間です.
ここで,解読した文章を公開してもいいのですが,苦労したので,もったいない(ウソ.ウソ((^^;).北方資料室からクレームがくるといけないので公開を控えるだけです).
なかなか,面白いことがわかってきました.
アンチセル氏の地質学的知識は結構なものです.この時代の知識人の地質学的素養には,いつも驚かされるのですが(一般現代人の地質学的知識をはるかに越えています),彼もそう.要するに「博物学者」なんですね.
いろいろな所で,アンチセル氏を「地質学者」であるとしているのですが,そこだけ取れば,そう勘違いされても…「納得」…と,いう所です.
それだけではありません.「地形」・「地質」から「動植物」まで,基礎的知識は言うまでもなく,応用/実用的知識は,「鉱山」・「農場」その他の運営法,「移民推進」の方法から,開拓に関係することなら何でも…と,いう感じ.さすがフロンティアの国=USAからやってきた人です.
才能があることを鼻にかけて,ケプロン将軍に嫌われたという噂がある人ですが,これだけ多才ならしょうがないでしょうという気もします.
さて,前回問題になった,「札幌軟石」と「ホップ」についてですが,確実な証拠はやはり見つかりませんでした.
「札幌軟石」については,前回,「札幌建府不適切論」を展開しているアンチセルが,軟石をみつけて,これで札幌の町を造ろうと言ったという話は「疑問である」としましたが,彼の議論を読んで,その気持ちを強くしました.その話は「いかがわしい」と言ってもいいかもしれません.
また,この「教師報文録」には,全く「札幌軟石」の話は出てきませんでした.もちろん,タイムテーブルをつくって,他の機会に発見している可能性はないか,他の報告書にはないのかなど,確認しなければなりませんが.
なんにしても,この報告書を読む限りは,もしこの期間内に「札幌軟石」を見つけていたら,必ず記載していたことを思わせますので,少なくとも1871.9.11から1874.10.19の間には,見つけてはいない様です.
もう一つ.
「ホップ」について.
少なくとも,この「教師報文録」中には,アンチセルは「ホップ」については,報告していません.付け加えておけば,アンチセルは,巡検した地域の植生について,この「教師報文録」で報告しています.他にも自生している植物や栽培可能な植物についても書いていますが,「ホップについてだけ」はありません.
しかし,この「教師報文録」には「ホップ」についての報告があります.
それは,アンチセルではなく,ケプロン将軍の手によるものでした.しかも,植生のリストで単に存在を報告したとかいうのではなく,「ホップ培養并に製法略説」という一章を設けて,「概説」のほか「ホップ雌雄の辭」・「ホップ摘採法」など詳細に述べています.もし,アンチセルが発見したのなら,そのことが明記されているはずですが,ざっと見た所,それはありません(このあと,解読してみようと考えています.また時間がかかるなあ(^^;).
思うに,なにかの間違いがありそうです.ケプロン将軍が書いたこの章の直前にアンチセル氏の報告があることが原因かもしれません.
それにしても,あちこちで伝えられている「アンチセル,ホップ発見」説は,いったい何が根拠になっているのでしょうか….
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