2013年9月5日木曜日

地学雑誌にみる蝦夷地質学

 
まずは,グラフをご覧ください.
地学雑誌の創刊,1889(明治22)年.初巻からたくさんの北海道関連の記事が載っています.
でも論文数(記事)は,ときどき突出する巻があるものの,急激にその数は減少し,10年ちょっとで,その数は0となっています.



後発の地質学雑誌の創刊は1893(明治26)年であすから,そちらに論文が移っていったのかとも考えられますが,減少傾向はほぼ一定で,地質学雑誌の創刊が,地学雑誌上の記事数に影響を与えているわけではない様に思えます.
実際,地質学雑誌の創刊号から数巻の目次を見てみましたが,北海道関連の地質論文は見あたりませんでした.
1904(明治37)年あたりから,神保小虎が散発的にトピックスを掲載しているだけですね.

これは,いったいなにを意味しているのでしょう.
ひとつには,それは神保小虎の動向に大きく関係しています.初期論文のほとんどすべては,神保の手になるものだからです.

神保は1887(明治20)年,(東京)帝国大学地質学科を卒業し,北海道庁技師になりました.
わずか二年で北海道の地質を総括し,翌(1890)年には,道庁から「北海道地質略論」を出版します.
しかし,その二年後(1892:明治25)には,ドイツ・ベルリン大学に留学することになり,北海道を離れました.
以後,北海道の地質に関する論文は,石川貞治や横山壮次郎が中心となってゆきます.

しかし,それにしても,急激に論文の数は減っています.
それは,なぜか….
それには,時代が大きく関係していると思われます.

神保小虎の略年譜をまとめると,
1867(慶応三)年,幕臣の家に生まれる.
1887(明治20)年,東京帝国大学地質学科卒業.北海道庁技師として,地質調査.
1892(明治25)年,ドイツ・ベルリン大学留学.
1894(明治27)年,東京大学の鉱物学助教授菊池安が急死.このため,急遽鉱物学に転じ,シベリア経由で帰国.11月には,菊池安の後任として助教授となる.
1895(明治28)年,理学博士.遼東半島,地質調査.
1896(明治29)年,東京帝国大学教授.
1897(明治30)年,南支那,鉱産物調査.
1899(明治32)年,ジャワ島ボルネオ島,石油調査.
1907(明治40)年,東京帝国大学,鉱物学科の独立と共に,主任教授となる.

これを加えるとわかりやすいかな.
1894(明治27)年:日清戦争
1895(明治28)年:下関条約締結(台湾・澎湖諸島・遼東半島,日本に割譲)
同:三国干渉により,遼東半島を返還


では,石川貞治の略年表を
1864(元治元)年12月20日:島根県浜田市に旧浜田藩士・石川文治の四男として生まれる
1888(明治21)年7月:札幌農学校卒業
1892(明治25)年1月:札幌農学校の嘱託教師(地質学)となる
1892(明治25)年2月:札幌農学校の兼任助教授となる
1896(明治39)年6月:札幌農学校の兼任助教授を離任,拓殖務省(台湾統治)に転出する
1898(明治41)年:官を辞し,実業界に転身.以後,炭鉱・金属鉱山・油田の開発に従事する.
1932(昭和07)年3月11日:東京鉄道病院にて死去(69歳).

もう一つ.横山壮次郎の略年表を
1869年8月10日(明治2年7月3日):鹿児島県に生まれる.
1889(明治22)年07月:札幌農学校卒業,北海道庁技師となる.
1892(明治25)年02月:札幌農学校の兼任助教授となる
1895(明治28)年05月:札幌農学校の兼任助教授を離任する
1895(明治28)年06月18日:台湾総督府民政局殖産部勤務
1898(明治31)年06月:台北県技師.
1906(明治39)年:清国政府の招聘により満洲にわたる
1908(明治41)年:帰国.郷里の鹿児島で死去(脳充血)
詳しくは「北海道・地質・古生物」へ


もちろん,石川貞治や横山壮次郎の進路にも,下関条約は大きくかかわっています.
のみならず地質屋の運命は,日本の帝国主義(植民地主義,拡張主義:なんでもいいけど)に左右されることになります.
それは,第二次世界大戦(大東亜戦争or 太平洋戦争)終了まで続くわけです.
地質屋は,植民地主義の先兵だったとはいえないにしても,地下資源収奪の猟犬だったのですね.

内地植民地だった蝦夷地=北海道は幕末から明治初めにかけては,重要な地下資源収奪地として位置付けられていましたが,明治中期以降の侵略によって,開発は後回しとなり,地質屋の多くは外地へと送り込まれていったわけです.
それが,この「地学雑誌上の北海道関連論文数に如実に表れている」と考えることが可能なのでしょう.


我が師,故・湊正雄北大名誉教授は,いわゆる南方の石油資源調査(新歓コンパの時の「ブンガワン・ソロ」は湊先生の十八番でした)から帰国したとき,傍目には半狂乱のようになって,先輩教授から預かったデスモスチルスの骨格などを理学部の庭に埋めたといいます.
湊先生は,そのことについては何一つ記録を残していないようですが,日本はすぐにも戦争に負けるであろうこと,札幌にも爆撃があるであろうこと,占領軍はなにもかも収奪してゆくであろうことを恐怖したものと思われます.
はるか南方の地で,日本および日本軍がやっていることを,占領軍もやるであろうことに恐怖したのでしょう.

敗戦後,湊先生は,地質屋が戦争の先兵となることが無いように,科学者が戦争の先兵となることがないように,ある科学運動の中心人物になってゆきます.
しかし,その運動は開始当初から,ある勢力の目の敵でした.
現在では,その運動は,ほとんど息絶えています.科学者の多くは理想や倫理よりも研究費の方を優先する人が多かったというだけのことです.
 

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