2020年6月26日金曜日

谷元旦の著作(「赤山紀行」探索記)



 例によって,資料探索ネットサーフィン中.谷元旦の研究者である山下真由美(鳥取県立博物館)さんの論文を発見.非常に興味深く読みました.

山下(2012)「蝦夷地への派遣―島田(谷)元旦が果たした役割とその成果ー」より

 山下さんによれば,谷元旦(島田元旦)の著作は以下の通り.
①『蝦夷蓋開日記』(えぞふたあけにっき:俗に『元旦日記』)
②『蝦夷釈名』【写本】
③『東蝦夷紀行(蝦夷奇勝画稿)』(以下、『画稿』。個人蔵)三巻【自筆】
④『蝦夷山水図巻』(四巻、北海道立近代美術館蔵)【自筆】
⑤『蝦夷地真景図巻』(二巻、個人蔵)【自筆】
⑥『谷文晁奥羽游歴写生模本』(二巻、東北大学附属図書館蔵)【写本】
⑦『蝦夷器具図式』(一冊、個人蔵)【自筆】
⑧『蝦夷器具図巻』(一巻、北海道立近代美術館蔵)【自筆】
⑨『蝦夷風俗図式』(一冊、個人蔵)【自筆】
⑩『蝦夷国風図式』【写本】
⑪『毛夷武餘嶌図』(一幅、個人蔵)【自筆】(【図32】)
⑫『蝦夷草木写真』(一冊)【写本】

 ここで,【自筆】,【写本】と区別があるのは,「自筆」であれば,書名としてそのまま通用できますが,「写本」の場合は写した人の気分で「別名」になっている場合が多々あるためですね.

 さて,困った事に「赤山紀行」がどこにもありません.
 以上終了…というわけにもいかないので,詳しくみてみることに.

 ここで③以降は「画」中心のいわゆる“お宝”で,わたしの立場では一見するのも不可能ですね.といって“お宝”ですから,たとえ画集として公刊されても,まあ手は出ないでしょう.蝦夷地の地質に参考になる画があるのかないのか,今後の成り行き次第.

 テキストとして,わたしにも見ることができそうなのは①と②のみ.②は和語とアイヌ語を併記した“和夷辞典”のようなものだといいますから,たぶん(実際に見てみるまでは判りませんが)候補から外してもいいでしょう.

 問題になりそうなのは①です.
 ①は「寛政十一年三月二十一日に江戸を発し,七月二日に厚岸に到着後,九月二七日に江戸に帰着するまでの道中を毎日記した紀行文」とありますから,ものすごく可能性が高い「もの」です.実際に,これの解説には「文末には「東都 谷元旦記」と記されるが自筆本は未だ見つかっていない。『蝦夷蓋開記』、『蝦夷記』、『蝦夷日記』、『蝦夷紀行』、『蝦夷地紀行』、『蝦夷秘録』等多くの別名があり、管見の限りで二十冊近くの写本が確認でき、おそらくもっと多くの写本が全国に所蔵されていることと思われる。」とされています.問題になっているこの「蝦夷蓋開日記」は「函館市立中央図書館本を定本とした翻刻」を収録した『近世紀行文集成 第一巻 蝦夷篇』(板坂耀子編、葦書房、2002年)によるもので,原著になんと題してあったかは,じつは不明なのです.写本に「赤山紀行」とあった可能性もありますし,元旦自筆の書に「赤山紀行」とあった可能性もあることになります.

 さて困りましたねえ.どうしましょう….
 とも,云ってられないので,再度「赤山紀行」が引用された経緯から整理することにしますか….


①上野(1918):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).記述「寛政十一年(西一七九九)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くクスリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと云ふ」

②作者不詳(1931):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).後注に「昭和六年七月刊行の『北海道炭砿港湾案内』の冒頭に引用されているが、筆者不詳。」とある(⑤児玉,2000参照).

③山口(1934):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).記述「北海道に於ては1797年に釧路で發見*1され「赤山紀行」に次の如く記されてゐる。「寛政11年オタノシキ川より左に原を見て行けば原愈廣くクスリ川迄は皆原なり。此の附近石炭あり。又柱戀(「桂恋」の誤記)の附近なるシヨンテキ海岸には磯の中にも石炭夥しく,總べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり。」」
*1 この文章では,「北海道の石炭は1797年に発見された」と読めるが,上野(1918)と読み比べれば,赤山紀行を書いた著者がその附近を通ったのが「寛政十一年(西暦1799)」であり,それは発見年ではない.

④山口(1935):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).記述以下
北海道に關しては赤山紀行に次の如き記事が見えてゐる
寛政十一年(邦紀二四五九,西紀一七九九)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くクスリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと言ふ

⑤児玉(2000):谷元旦(1799)「蝦夷紀行」および不詳(1799)「赤山紀行」:児玉(2000, p. 60-61)に
「旅行の禁が解けてすぐこの年、東蝦夷を旅した人々は幾つかの紀行文を残しているが、その中に石炭の記事がある。幕府の小石川薬園を管理していた渋江長伯に従って、この地方を旅した谷元旦(画家谷文晁の弟)の『蝦夷紀行』六月二十四日の条。
「此の浜邊平にしてしめりよし。歩行も易し。石炭など、この邊より出づる。尤も上品なり。光黒くして滑澤あり。」
 その前二十日から二十三日まで白糠に滞在して二十四日出発。大楽毛川を越え釧路への道中だから、この石炭産地は白糠石炭岬(シリエト)のものと分かる。
 また、同年の「赤山紀行」(昭和六年七月刊行の「北海道炭砿港湾案内」の冒頭に引用されているが,筆者不明)。
 「オタノシキ川より左に原を見て行けば、原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり。この附近石炭あり。桂戀の附近なるションテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総てトカチ嶺よりクスリ嶺までのうち、山谷海邊とも石炭なり。今度、シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども石炭豪も盡くることなしという。」

⑥大場・児玉(2011):児玉(2000)より「図-1 我が国主要石炭鉱業の時代別成立」を引用.図の説明(表-1 我が国石炭鉱業の推移)に「34.寛政11年(1799),谷元旦の釧路紀行。赤山紀行。釧路の石炭を紹介。」と記述.なお,児玉(2000)の図には釧路地域において,「27.天明元年(1781),松前広長『松崎志(松前志の間違いか?)』,釧路より出づ。石炭紹介。」とあり,谷元旦より前の記録になっている.


 タイムラインから見れば,書名「赤山紀行」としているものは,記述内容が同じであるところを見ると,各論文はみな①を引用している可能性が高いように思えます.
 また,「赤山紀行」は谷元旦の「蝦夷蓋開記」の別名写本の可能性が浮かび上がってくるかと予想したのですが,児玉(2000)は別物として扱っています.児玉が両者の実物を読んでいるのだとすれば,「赤山紀行」は谷元旦の著作の別名という仮説は崩れます.

 この後は,「蝦夷蓋開記」をなんとか探し出して,全部読んでみるしかないですねえ….



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