2009年3月4日水曜日

斐三郎の失敗?

 

 前の記事で,武田斐三郎の熔鉱炉について,その評価に疑問があるので資料を集めていると書きましたが,意外と簡単なところで,光明が見えてきました.
 斐三郎の熔鉱炉は,(成功したという)記録がほとんどないので,失敗したと考えられてきましたが,そう考える理由というものは,今ひとつ納得できないものでした.ひどいのは「技術が未熟だったから,失敗した」という完全なトートロジーで終わらせているものもありますが,かなり綿密に検討している場合でも,今ひとつ論理がつかめない,今ひとつ裏付けに欠けるんでは…と,思われるものばかりでした.
 それで,もう少し詳しく…と,思っても,前の記事で書いたように,情報の壁は厚いものでした.ようやく,検討できる状態に達したわけです.

 あっという間に解決しました.
 まだ,熔鉱炉計画のタイムテーブルができてませんので,完全にそうだとは言い切れませんが,多分間違いないでしょう.

 個々の研究者の論点についての細かい検討は別にするとして,だいたい誰もが「これが原因である」とすることは,砂鉄を高炉の原料に用いると1)(砂鉄が砂状であることが原因で)それが高温ガスの通路をふさぎ高炉の熔解メカニズムが十分に働かなくなること,2)(砂鉄に通常含まれる)チタン成分が高温でしか熔融しない鉱滓を生み出し操業不能となることです.

 とくに高木幸雄(1967)*では,「必ず次のような障害が起きるものである」と,福田連(1930)**を引用して,裏付けを示しています.福田は実験岩石学者なので,「そうか,無理なのか」と思い込んでしまいそうです.しかし,幸いなことに,この引用文献は雑誌「岩石鉱物鉱床学」であり,これらは同学会のDBで公開されていますので,誰でも見ることができます.

*高木幸雄(1967)古武井熔鉱炉に関する研究=幕末期蝦夷地開拓と外国技術=.人文論究,第27号.
**福田 連(1930a-c)含チタン可熔性礦滓の研究,特に灰長石,透輝石,[クサビ]石三成分系に就て(1〜3).岩石鉱物鉱床学,3〜4巻.

 実際に引用文献を読んでみると「びっくり」なのですが,福田氏の論文は,砂鉄を高炉の原料に用いると,上記のような困難が生じるが,工夫によって「鎔銑ができる」という論文なのです.実際に福田氏は福田氏以前の鎔銑成功例を何件も示していますし,その実験岩石学的裏付けが,この論文そのものなのです.
 「びっくり」でしょ.

 高木氏の論文はけっこう困った引用があって,たとえば,「道南地方は元来砂鉄が豊富で,古くから砂鉄の精錬が行なわれていた」として,「新撰北海道史」採録の「休明光記」を引用しています.実際にそれを見てみると,「志苔の砂鉄 貞享の頃,近江の商人西川庄右衛門が出願し,十二年営業した.正徳年中同じく近江の商甲屋平七が再び出願し許可されたが,収支償はず,幾くもなくして廃止した.」となっています(貞享元年は1684年.正徳元年は1711年です).
 ところが,天野哲也氏が,たたら研究会(1991編)「日本古代の鉄生産」で,「製鉄ということに限定しますと,古代に相当する時期,あるいは中世に,北海道では鉄の生産は行なわれていなかったと思います」と述べています.そして「僅かに近世末になって製鉄が行なわれた形跡が認められている」と付け加えています.

 この近世末の製鉄とは「古武井の熔鉱炉」のことですが,それも「試みられていたらしい」という程度です.つまり,文献的な証拠はあっても,発掘考古学的な証拠は見つかっていないということです.このことについては,何回か紹介してきましたが,要するに,精錬の証拠はなく,残されているものは(古武井は別としても)すべて鍛冶に関する遺物だというのです.蛇足しておくと,どこかで製品として完成された「鉄」をもってきて,熱して鍛え,なにかの鉄製品にしていた跡ならあるということです.

 「なかった」ことを示すのは大変ですが,「あった」ことを示すのもけっこう大変のようですね.
 また,引用文献というやつは,気をつけないと,「そんなことは書いていない」どころか,「全く真逆のことが書いてある」場合があるので,実際に確認してみるのがいいようです.

 さて,話を戻しましょう.
 1)の「砂鉄」が「砂鉄」であるための存在理由に近い「砂状の形態」は事前に処理をすることによって塊状の形にし,2)の不熔性鉱滓の生成は,熔剤の成分を調整することによって実動可能になるといいます.
 ここで,「熔剤」というのは「熔融剤」ともいわれ,熔鉱炉において鉄鉱原料やあるいは燃料としてのコークス中の不純物と化合させて,結果として1)熔融点が低い,2)流動性が高い,3)鉄との比重差が大きい「鉱滓」をつくる物質をいいます.コークスではなくて,木炭を使う場合は,その分の熔剤は不要になるわけです.

 斐三郎の時代は,「熔剤」といえば「石灰石」というのが常識だったそうですが,海外では明治にはいってすぐに「高チタン鉱石」の熔鉱に玄武岩や古煉瓦を使った例があり,何の問題も起こさなかったという記録があります.
 英国人が気づいたことを,斐三郎は気づかないとする法はありません.実験が続けられれば,気づいた可能性があるのは否定できません.
 蛇足しておけば,熔鉱炉のメカニズムがわからず,「熔剤」とはなんであるかを理解するのにしばらくかかりました.ひどい解説書になると「製鉄の原料は,鉄鉱石と石灰石と石炭(コークス)である」と書いてあります.石炭は燃料だから原料ではないのは明らかですが,石灰石の役割はなかなか明示されることはないようです.

 もうひとつ.
 「砂鉄には必ずチタン鉄鉱が含まれている」などと,平気で書いてあります.これは,どうも怪しい.藤原哲夫(1962)は「北海道の砂チタンおよび含チタン砂鉄鉱石」を調査し,これらをTiO2/T.Fe比によって,「砂チタン」,「高含チタン砂鉄」,「低含チタン砂鉄」,「砂鉄」にわけています.
 「磁鉄鉱中に,ほとんどチタン分を含まないもの」を「砂鉄」と呼んでいます.これは道内でも非常に特殊なもので,「中頓別」付近でしか見られません.では,志海苔・古武井をふくむ道南部の“砂鉄”はどうなのでしょう.
 「道南部」の“砂鉄”は「磁鉄鉱を主要構成鉱物とし,その中に固溶体あるいは離溶共生体として,少量のチタン鉄鉱・ウルボスピネル・含チタン赤鉄鉱を含むもの」で「低含チタン砂鉄」として分けられています.TiO2/T.Fe比で0.10〜0.24.オホーツク海沿岸部の“砂鉄”が重量%で40〜50%近くのチタン鉄鉱を含むのに対し,道南部のものはもともと10%以下しか含まれていないのです.

 また,福田(1930)には,十分ではないにしろ,比重選鉱や磁力選鉱を用いてチタン鉄鉱分を下げることは可能だと書いてあります(もちろん,ものによっては,とくに磁力選鉱は効果がないと書いてありますが).他の方法との併用により,結果として,鉱滓中のチタン成分を低下させ,出銑の障害を低下させることは充分可能であり,道南部の「(低含チタン)砂鉄を原料とした高炉製鉄はもともと不可能である」とは言えないはずだと思われます.

 

 
 ある事情で,昨晩はず〜〜っとイーグルスのホテル・カリフォルニアを聴いてました.
 ま,なんでも良かったんですけどね.

 やめようか.いや気を取り直して,頑張らなくっちゃ.

 

2009年3月3日火曜日

資料探索・武田斐三郎の熔鉱炉

 

 武田斐三郎の熔鉱炉がなぜ失敗したのかが,まだ気になっていて,いくつか情報を集めていました.これに関する記述の大部分は,いわゆる科学論文ではないので,収集はなかなか困難なのです.

 たとえば,白山友正氏の「武田斐三郎伝」は「北海道経済史研究所」から出版されていますが,「北海道経済史研究所」なるものは現存しません.古書店の店主が初めて見たという,その「武田斐三郎伝」を入手して初めてわかったのですが,「北海道経済史研究所」というのは白山氏が北海道学芸大学(現・北海道教育大学;多分函館校)に在職中に設立した機関ですが,その業務は不明.唯一,「北海道経済史研究所・研究叢書」を出版していたことがわかっていますが,「武田斐三郎伝」はその叢書の第46編にあたります.それ以前のすべての叢書の著者も,白山友正しでした.
 つまるところ,「北海道経済史研究所」というのは,白山氏の著作を出版することが業務であったようです.形式上はともかく,自主出版に近い形だと考えられるのです.

 実は,入手したこの「武田斐三郎伝」の中には,切った原稿用紙に書いた「手紙」が挟まれていました.それには,相手が完成させた著書を一冊頂きたいということが書かれていました.一般に流通することが目的ではなく,このように,同じような研究者同士の名刺代わりのものだったのだろうことが推測できるわけです.
 つまるところ,できあがった印刷物の数は,数百がいいところで,地方都市図書館程度では所蔵しているところは無いと思われます.道立,函館,北大などでは所蔵していますが,当然のように禁帯出(もしくは貸出禁止).
 あれば見に行けばいいではないかと思われるかもしれませんが,実際に出かけていったとしても,一日二日で読み終えられるようなものではないですね.
 ならば,複写という手があるではないかと思われるかしれませんが,著作権をたてに半分までしか複写できないという妙なルールがあります(本当にそういうルールがあるのかどうかは知りませんが,現場ではそういわれます).「残りは,翌日どうぞ」というわけです(つまり,司書様たちは前日のことは覚えていないということです).まことに不思議なルールです.

 お目にかかるのは,けっこう大変なのですよ.

 この手の資料に関しては,現行の図書館は博物館の資料保存庫と変わりがありません.保存が目的であって,情報提供は目的外ということ.それでも,不思議なことに,関係者の閲覧および使用はフリーパスのようで,そこの図書館の司書が自分の著書に引用(写真や複写など)してたりするんですが….

 話がずれてしまいました.元に戻します.
 そんなわけで,形式上は「北海道経済史研究所」の出版物となっていますが,明らかに白山氏個人の自主出版物であると思われます.つまり,白山友正(1971)ではなく,白山友正(1971MS)に限りなく近いということですね.
 文系の人の文章は,一般的に理系の人間には読み難いということはありますが,それ以上に,この(MS)には編集者の手が入っていないので,いろいろ困ったことが起きます.一番困るのは,引用が不完全で,原著にあたるのがほとんど不可能であること.引用文献が明示してあるものでも,同人誌的な雑誌や手記,あるいはお宝的古書が多くてほとんどが入手,確認不可能になってしまいます.
 もうひとつは,やはり引用の仕方が不完全なので,著者個人の考えなのか,引用した人の考え(あるいは引用文献にそう書いてあるのか)なのか,あるいは一般的にそういわれていることなのか,の判断に苦しむことがあります.誰が先にそういったのかは,非常に重要なことなのですが,そこが曖昧になっているのですね.そこで,確認しようとすると第一の壁に当たってできないということがしばしばあるのです.これは,白山氏個人のことをいっているのではなく,一般的な現象のように思えます.


 斐三郎の熔鉱炉について記述している,白山氏とほぼ同世代の人がいます.
 それはペンネームを「阿部たつを」,本名を「阿部龍夫」という函館で医者をしていた人でした.
 彼の武田斐三郎もしくは斐三郎がつくった熔鉱炉に関する著作は,わかる範囲では以下のようなものがあります.

・阿部たつを「武田斐三郎と溶鉱炉」『函館郷土手帖』 1957
・阿部たつを「武田斐三郎は反射炉を作ったか」『道南郷土夜話』 1958
・阿部たつを「古武井溶鉱炉について」『北海道地方史研究』 1966
・阿部たつを「古武井溶鉱炉について(再論)」『北海道地方史研究』 1966
・阿部たつを「尻岸内溶鉱炉について」『道南の歴史』 1966
・阿部たつを「古武井溶鉱炉に関する研究を読む」『道南の歴史』 1967 

 しかし,これらは,現実に入手しようとすると大変な困難が伴います.
 どれもが,同人誌あるいは自費出版のたぐいで,現在では入手方法は,ほとんどないのです.
 前にも書きましたが,「大野土佐日記」のことを調べていて,阿部氏のその関連の著作が「函館郷土随筆」(北海道出版企画センター)に載録されているということがわかりました.しかし,この本は出版元である北海道出版企画センターでは,すでに絶版になっていて,入手不可能でした.たまたまある古書店にあることがわかり,入手できましたが,そのとき全く偶然に,武田斐三郎に関する上二作が「武田斐三郎と溶鉱爐」として載録されていることがわかったのでした.


 斐三郎の熔鉱炉に関する著述をしている人がもう一人います.
 高木幸雄という人で,たぶん北海道教育大学関連の人だと思いますが,こちらは「北海道學藝大學函館人文學會」が「人文論究」という名で出している雑誌ですので,一応論文誌の体裁をとっていて,近所の教育大学の図書室で入手可能でした.
 中身からみると,多分,査読者もレフリーもいない,投稿,即印刷という形式ではないかと思われます.
 妙な感じがするのですが,この高木氏の論文の著作が(1967).阿部たつを氏の一連の自費出版が,1957〜1967年.白山氏の「武田斐三郎伝」の出版が1971.ほぼ同時代に,侃々諤々の議論があったようなんですが,皆それぞれ別々の印刷物でやっています.
 不思議です.

 その後,1975年になって製鉄技術者である大橋周治が「幕末明治製鉄史」を発行しました.私が入手できたのは,これの改訂版である大橋周治(1991編著)「幕末明治製鉄論」なので,1975年時には斐三郎の熔鉱炉についてどういう風に書かれていたのかは,正確にはわからないのですが,一応役者がそろったようなので,斐三郎の熔鉱炉研究史について取りかかることができそうです.
 見直しですね.

 情報の壁は…,厚いですね.

 

2009年2月14日土曜日

「空知の鉄道と開拓」

 

 2/7付け「空知地方史研究協議会」で紹介した「空知の鉄道と開拓」を古書店から入手することができました.肝心の「石狩炭田炭鉱変遷図」の方は,全く目処がつきませんけどね.

 「…鉄道と開拓」の方は大変な情報量ですので,まだ読み切っていませんが,少なくともわたしの「没ネタ」が盗作だといわれることはなさそうです((^^;).
 視点が違うはずなので,同じものができる可能性は少ないと思ってはいたんですけどね.

 「没ネタ」作成時には,時間がなくてすべての「市史・町史」を読み通すということはできなかったんですが,空知地方史研究協議会の「空知の鉄道と開拓」は分担してそれをやったようで,参考になることが多そうです.

 また,この「発刊にあたって」にも書かれていますが,「執筆者によりその取り上げ方に差があって必ずしも統一された歴史書とはなり得なかった」と言うことで,鉄道の位置や歴史に(おっと思う程)精密な記録もあれば,この人明らかに文科系だなと思うような記述もありバラエティ豊かです.
 たとえば,「地形図」を引用しておきながら,その地形図の出典がないとか,任意の方角に切り出しておいて,縮尺も方位もついてないなんてのは,私の経験してきた世界ではあり得ないのですが,けっこう多いのは,これが当たり前の世界もあるということなんでしょう.
 また,オリジナルの鉄道路線復元図のようなものも時々でてきますが,拡大縮小すれば現在の地形図にそのまま重ねられそうな精密なものもあれば,ただのイメージで書いたものもあるようです.

 それらを全部ひっくるめても,おもしろい情報がたくさんなので,なんとか「石狩炭田炭鉱変遷図」が入手できれば,「没ネタ」をもう少し改良することができそうなんですが….

 

2009年2月13日金曜日

原・地質学=ひとりあるき=

 

 山師の知識(=日本における原・地質学の実態)は興味あるところでしたが,なかなか姿が見えてきませんでした.
 このほど,別のことを探索中にひとつの重要な事項が見えてきたので,それを紹介したいと思います.

 まずは,佐渡市教育委員会「金と銀の島,佐渡」HPの「佐渡の金銀山」>「地質」>「近世の地質鉱床の知識」から(ダイレクトリンクができないので,面倒ですが上記のようににたどってください).

 そこには,「ひとりあるき」が引用されています.

「ひとりあるき※」(佐渡高等学校舟崎文庫所蔵文書) 
※佐渡金銀山史話(著者 麓 三郎、出版三菱金属鉱業株式会社)によれば、「いつの時代か明でない『飛渡里安留記(ひとりあるき)』 と云うピールのハンドブックに相当する技術操典が誰かの手によって著述されるに到った。」

 この頁の書き方からは,直接の引用ではなく,麓三郎著「佐渡金銀山史話」からの引用のようです(麓著は近くの図書館には蔵書がなく,まだ見ていませんので詳しいことはわかりません).
 そこには,「金銀山様方」として,以下の一文が引用されています(ここでは,一部引用か全文引用かの判断はできません).ま,ともかくも,以下の一文が目につきます.

「一 惣して金銀山有之所之様子ハ高く嶮岨にして立合束西江引渡り、用水有之所ヲ能山所と云、谷川流れの末なとニ鏈石有之候、鏈とは金銀銅とも有之石ヲ云、斯のことき水上には必金銀山有之候、平山二立合有之所は谷浅く候故、立合浅きものにて深く穿下り候得は、程なく水敷にて成候て、水切貫候処無之ゆへ、能山所とは難申候」

 示された文章は漢字-ひらがな-カタカナの使用法がグチャグチャなので,「正確な引用である」という前提の議論はできないと思います.が,これは明らかに「鉱床発見の方法」の記述です.
 なんでこれにこれまで気づかなかったのかと,自分の目を疑いました.
 実は,「ひとりあるき」は「独歩行」として三枝博音の編纂による「日本科学古典全書」中の「採鉱冶金」に載録されており,すでに無関係のものと判断していたものでした.もちろんそれには,採鉱としての鉱山技術や製品の冶金技術については書かれています.しかし,「鉱床発見の方法」については記録されていなかったのです.

 あわてて,当該の全書を引っ張りだして確認してみると,「『独歩行(抄)』解説」に書いてありました.ちなみに,「(抄)」の一文字は「目次」にはなく,ここになって出てきます.
 つまるところ,本来「独歩行」と題されているこの綴りは五綴りあり,載録されたのはそのうちの二綴りだけでした.つまり,上記「金銀山様方」はなかったわけです.したがって,三枝博音編の「独歩行」と上記「ひとりあるき」とが同じものであるかどうかの確認は現在できません.なぜなら,三枝博音の解説には「狩野亨吉博士の発見」による「東北帝国大学の所蔵」となっており,上記「金銀山様方」はHPの記述によれば「佐渡高等学校舟崎文庫所蔵文書」になっていて,書籍としては同じ可能性があるものの(あるいはどちらかあるいは両方が「写」),おなじ「もの」ではないからです.

 また,三枝編では載録された二綴りは「大吹所基本」と「大吹所・銅山勝場」であり,載録されなかった三綴りの題は「吹分所・小判所」,「金銀山出方御入用差引」と「穿鑿掛・砂金山」になっています.つまり,「金銀山様方」が入っていると考えられるものは見当たらないのです.なかったのでしょうかねえ.

 三枝が「東北帝大蔵書」に「金銀山様方」が入っているような文書があるにもかかわらず,これを載録しなかったとすれば,これには地質屋が関わっていなかったのだろうという悲しい事実が浮かび上がります.なぜなら,地質屋は我が国の地質学史に興味を持っていなかったか,こういった古典の選定に関わらせてもらえなかったのだということになるからです.

 こういった疑問はともかくとして,どこかに「金銀山様方」の全文はないのでしょうか.

 さて,探せばあるもので,高島清(1965)「金と銀」(地質ニュース)に一部引用されていました.ただし,引用方法が不完全なので,いろいろな「問題あり」です.
 引用文献ではなく,参考文献として「麓三郎著 佐渡金銀山史話」が載っているので,オオモトは「麓三郎」なんだろうということはわかります.

 さて,佐渡市教育委員会のHP上の引用と高島(1965)の引用を比較してみると,似てはいるのですが,どちらにも過不足があります.したがって,内容そのものの検討は「麓三郎著」を入手しないとあまり意味がないようです.もちろん,「麓三郎著」もすでに引用ですので,本来「ひとりあるき」or「独歩行」or「飛渡里安留記」のどれか,あるいはすべてを入手して検討しなければならないのですが….

 気が遠くなる瞬間ですね(^^;.情報の壁です(^^;
 そのうちなんとかしましょう.


 さて,話は変わりますが,佐渡市教育委員会のHPおよび高島(1965)の引用で気になるフレーズがあります.それは,「飛渡里安留記」が「ピールのハンドブックに相当する」という部分です.
 どちらも,こんなに明瞭に引用しておきながら何の解説も加えていません.

 「ピールのハンドブック」
 「ピールのハンドブック」
 「ピールのハンドブック」…

 ググるとクリーンヒットがありました.それは,「地質課の話(一)」にあります.ダイレクトリンクは失礼だという「常識」があるそうなんで,「あけのべ自然学校」のHPから「地質課の話」に跳んでください.
 そこには,「アメリカのビュート鉱山の地質部長である、セールスという人が採鉱の唯一の参考書ともいわれるピールのハンドブック中に書いています」という一文があります.つまり,「ピールのハンドブック」とは(「ピール」とはなんであるかはわかりませんが),「セールス(ビュート鉱山,米合衆国)地質部長の著作物である」らしいことがわかります.残念ながら,それ以上のことはわかりません.
 Butte MineはUSAにあるようですが,それが該当の鉱山であるかどうかはわかりません.また,Butte MineがHandbookを出版しているという事実も見いだせませんでした.
 それはさておき,「あけのべ自然学校」の「地質課の話」には,興味深いことが書いてあります.

 それは「地質課の三つの任務」についてです.
 正直なところ,「地質学の存在理由はなにか」というところで,いつも悩んでいて,「存在理由がないから,滅亡した」と思っていたのですが,具体的に経済的なまた科学的な存在理由がこの「地質課の三つの任務」として示されていたからです.

 第一は,「採鉱経費の引下げに助力する」こと.
 第二は,「鉱山の寿命を長くさせる」こと.
 第三は,「将来のために現在の資料を完全に保存する」こと.

 第一は,その任務は“新鉱床の発見にある”のではなく,現在運用されている鉱山の運用経費を引き下げるということの方が重要だということです.新鉱床なんか簡単に発見できるわけではないですが,現在運用されている鉱脈の性質をはっきりさせておけば,無駄な経費は省けることになります.
 地質屋の任務は「新理論の発見」にあるのではなく,もっと「リアル」な所にあると読み替えてもいいでしょう.
 我が師・湊正雄教授が「受け盤か,流れ盤か」を把握するだけで,工事費は大幅に節約できるという話を授業中にしていたのを思い出しました.

 第二は,やはり,鉱脈の性質をしっかり把握しておけば,鉱山の寿命を延ばすことができるということです.
 たとえば,金の含有量は鉱脈の部分によって変わってくるわけですが,金の含有量が多いからといってその部分をそのまま掘出してしまえば,そこで終わってしまいます.しかし,金の含有量の多い鉱石を低含有量の鉱石と混ぜて,採算が合うレベルで出荷していれば,含有量が採算レベル以下の鉱脈でも掘り続けることができるわけです.そして,また金の含有量の多い鉱脈にたどり着くまで,鉱山を運営することができるわけです.
 地質学は「科学的な理論」ではなく,リアルに「経済」に結びついていると読み替えてもいいでしょう.

 第三に,休山した鉱山を復興させるときの資料を残すということですが,そうでなくても,「過去に何があったのか」ということは,なかなかわかりにくいことです.北海道にもたくさんの鉱山・炭坑がありましたが,そこに何があったのかという再現はなかなか困難なことです.大会社の「社史」は残っていますが,「鉱山史」はなかなか残っていません.
 どう読み替える?
 過去の北海道での石炭地質学は「地向斜造山運動」論と並行して成長してきました.地向斜造山運動論は,現在では錬金術にも等しいものとされていますが,それでも石炭を生み出してきたわけです.
 つまるところ,地質学は高尚・高等な理論にその価値があるのではなく,一本の鉱脈が,一枚の石炭層がどのように連続してゆくのか,それを記載すること,その一番基本的なところにその「価値」があるということのようです.

 「事実をありのままに記載すること」この単純なことに「価値」があるということなんでしょう.

 

2009年2月12日木曜日

北海道の製鉄遺跡

 

「蝦夷地質学外伝」の其の弐「コシャマイン蜂起す」で,舞台になった志濃里の鍛冶村では「砂鉄を使って製鉄を行なっていた」という前提で解説してしまいました.
 もしかしたら,その筋の人の失笑を買ったかもしれません.

 あまり守備範囲を広げてはいけないとおもいながら,ついつい面白いものであちこちを探索してしまいます.もちろん,興味の中心は原・地質学=鉱床発見の方法が主なんですが….

 さて,たたら研究会編の「日本古代の鉄生産」という本があります.
     

 その中で,天野哲也さんが北海道の精錬鍛冶遺構について「僅かに近世末になって製鉄が行なわれた形跡が認められる」と述べています.この「近世末の製鉄」とは武田斐三郎の製鉄実験のことです(私は「蝦夷地質学」で紹介したような,技術者たちがたくさんいた「江戸時代末期は近代の始まり」ととらえていますので,「近世末」といういい方は気に入らないですが…;ここでも歴史屋さんに失笑されそうです…(^^;).
 北海道で発見されている鉄遺品は,すべて鍛冶製品であり,つまりは北海道には製鉄遺跡はないということです.蛇足しておくと,「鍛冶製品」とはすでに「鉄」としてあるものを加熱・打製したもので,砂鉄ないしは鉄鉱石から還元し「鉄」としたものはないということです.

 したがって,「砂鉄があったこと」と「鍛冶村があったこと」は何の関係もないというのが,専門家の判断ということになります.
 我ながら,知らないということは恐ろしい((^^;)


 ホントにそうなのか,探索してみました.
 たとえば「弥生時代には製鉄が行なわれていたのか,否か」という議論があるそうです.現在では「弥生時代後期」とみなされる製鉄遺跡がいくつか発見されているようですが,製鉄遺跡の数からいけば,弥生時代に普遍的に製鉄が行なわれていたと考えるのは困難なようです.
 ところが,弥生時代に急速に石器が駆逐されていることからは,石器に代わるなにかの道具の存在が必要になります.鉄器自体は酸化しやすく,モノとして残っていない可能性の方が高いんですが,この背景として製鉄遺跡がたくさん発見されているわけではないのが難点.
 一方で,鉄鉱石を原料とするような小規模な製鉄や朝鮮半島から入ってきた技術を元に砂鉄を原料としたやはり小規模な製鉄があったと考える人たちもいるそうです.
 小規模なら,遺跡として発見されないのも不思議ではない(現代の科学教育でテーブルの上に乗るようなタタラ炉で製鉄実験を行なっているグループもあります)し,砂鉄を原料とした不完全な製品を鍛造して鉄器をつくれば,そこには製鉄滓ではなく,鍛造滓ばかりが発見されることも説明できそうです.

 そうすると,室町時代ぐらいの辺境=志濃里を含む蝦夷地を舞台に考えると,本州ではすでに砂鉄を使用したタタラ製鉄の技術は成立しているわけで,その技術を蝦夷地にわたってきた鉄製品関係者が知らないと考えるものおかしい.
 また,蝦夷地のような辺境で,精錬(=砂鉄・鉄鉱石から鉄隗を生み出すこと)と鍛冶(=すでにある鉄隗から様々な鉄製品を生み出すこと)が分業していて,精錬をできない鍛冶技術者しかいなかったと考えるのは,逆におかしいのではないかと思えてくるわけです.
 つまり,精錬と鍛冶は分業しておらず,鍛冶をおこなう技術者は,小規模な製鉄ぐらいできたと考えた方がいいのではないかと思われるわけです.

 以上,我田引水的推論でした((^^;).
 
 

2009年2月9日月曜日

訃報=松本達郎九州大学名誉教授=

 

 さきほど,地質学会のメルマガで松本達郎・九州大学名誉教授の訃報が流れました.
 私は,現役時代の松本教授のことはよく知らないのですが,我が師・湊正雄北大名誉教授と,ほぼ同時代に活躍された方です.

 穂別町立博物館に島流し状態になった時に,初めてお会いしました(もちろん,それまでにも,地質学会などでその雄姿をお見かけしたことはありましたが,会話など恐れ多くて…).
 夏になると,ほぼ毎年,フラリとお弟子さんたちをつれて現れて,穂別の宿を拠点にフィールドに出かけられたり,そうでない時は博物館の研究室で,熱心に,館所蔵のアンモナイトの記載を行なっておられました.
 すでに,相当難聴になられていて,あまり会話は成立しませんでしたが,先生はその方がいいようで,無心にアンモナイトの計測や写真撮影などを行なっておられました.
 たまに,過去の記載論文が必要になると「誰々の何年の論文はないですか」とボソッとおっしゃられて,その論文を探してくると,また一心不乱にアンモナイトに向かっておられました.

 なにか,凄く荘厳な感じがしました.

 「私の仕事は落ち穂拾いです」
 すでにたくさんの仕事を成し遂げているのにもかかわらず,未記載のアンモナイトをひとつひとつ拾い上げて記載する姿は学者の鑑だと思いました.
 小さなひとつの事実を記載してゆくこと.それが科学者のするべきこと.決して高尚な理論を構築することが,科学者の仕事ではありません.どんな不遇なところにいても,科学はできる,そんなことを教えてくださった方でした.

 ご冥福をお祈りいたします.