2016年3月30日水曜日

アラビア科学

 
以前から気になっていたアラビア科学ですが(実際に興味あるのは,歴史としての「イスラム地質学」ですが),チョットした取っ掛かりが見つかり,しばらくそこに没頭してました.

取っ掛かりとは,
伊東俊太郎(1978, 2007)近代科学の源流.
伊東俊太郎(1993, 2006)十二世紀ルネサンス.
伊東俊太郎・広重徹・村上陽一郎(1996, 2002)改訂新版 思想史の中の科学.

      


いろいろ興味深いことはありますが,まとめると….
「異文化は受け入れた方が発展するのであって,文化を守り始めるとあっという間に腐る.」


具体的にいうと,ギリシャ文化を受け入れ,ヨーロッパ・キリスト教世界で異端とされ,排除された耶蘇教各派を受け入れたアラビアは科学革命を起こす.アラビア世界はもちろん,当時,インドや中国とも交流があり,さらには日本にもそれらは輸入されている.
一方,ヨーロッパ・キリスト教団(カトリック)はどんどん硬直化し,ヨーロッパは中世暗黒時代を迎える.

その後,アラビアで発展した文化を受け入れたヨーロッパはルネサンスをおこし,一方の文化を守り始めたイスラムのためにアラビア世界は頑迷となる.で,現代に繋がるというのがアラビア科学史の顛末.

ということで,学校で「ルネサンス」を習ったときには,なんで「(文芸)復興(or 再生)」なのか,意味がわかりませんでしたが,「もともとギリシャにあった文化」がアラビア世界で発展し,ヨーロッパの一部まで拡大したアラビア世界から,ヨーロッパ世界がその文化を学び(つまり帰ってきた),ヨーロッパで更に発展したから「ルネサンス=再生」な訳ですね.


これらを読んで,入手したのが「アラビア科学」に関する”真面目な”研究の情報.
以前やってたときは,見つからなかったンですがねえ,
矢島祐利(1965)アラビア科学の話.
矢島祐利(1977)アラビア科学史序説.

      


1965は「岩波新書」で,1977は箱入りの立派な装丁です.
ちなみに,第一次オイルショックは1973年のこと.
それまで日本人はオイルをたくさん使いながら,そこから輸入しているアラブ世界のことなんか,これっぽちも考えていなかった.焦って研究者を探した結果が「立派な箱入り本」なのかな?

でも,1965も,1977も,アラビア科学に関する具体的な記述はほとんどなく,発見されてるラテン語本を英訳したもののリストに過ぎません.「アラビア地質学」までは,まったく到達しない.
まあ,「発見されたラテン語訳の本」,それを発見した「西欧の研究者の眼」さらに,それを研究しようとしている「日本人・科学史家の眼」,と,二重三重のフィルターを通しているわけで,”アラビア科学史”の概略すら「いまだに,わからない」のは,仕様がありません.ましてや,”地質学史”なんてね.(^^;;

そして,これ以降,アラビア科学史研究は,まるで見つからないのです.
オイルを断たれて真っ青になった日本人.その時だけは,アラブ世界に目を向けようとしましたが,オイルの安定供給が始まると,またすぐに「のど元過ぎれば…」だったようです.
日本人がアラビア世界を理解しようとしなかったことと(たぶん,同様に世界も),いま,イスラム過激派が世界を震撼させていることと,「関係がある」とはいえないでしょうけど,誤解がさらに悪い関係をまねくことは考えられることです.

さて,21世紀になってから,日本で出た本が一冊あります.それは…
ジャカール,D.(2005)アラビア科学の歴史(遠藤ゆかり,2006訳).
もちろん,日本人のオリジナルではありません.



「知の再発見シリーズ」のひとつとして創元社(大阪)が出版したものです.

 

2016年2月25日木曜日

今やってること.

 
「北海道鉱山畧記」,略した部分があったので,現代語訳・注釈を編集中.
なんか飽きてきたけど,ケリをつけなきゃ.(^^;
 

2015年12月18日金曜日

「北海道鑛山畧記」:(八)統計

(八)統計
次に示す所の鑛産表*1は,明治廿二年五月の調査にして,之を印刷するに舊來の漢字を以て地名を記したれば讀書の必す讀み難き者多きを察し,左(下)に地名の讀み方を示す(總て斯の如き不便なる讀み難き地名書き方は速に改良して「かな」を以て之を記すヿ望む人多し).

○鑛産表中北海道地名ノ讀方
知床  シレトコ      恵山  エサン
一菱内 イチビシナイ    跡佐登 アトサノボリ
羅臼  ラウス       羅碓  ラウス
島登  シュマノボリ    岩雄登 イワオノボリ
幌内  ポロナイ      茅沼  カヤノマ
春烏  ハルトリ      郁春別 イクシユムベツ
茂岩  モイワ       尻岸内 シリキシナイ
椴法華 トドホッケ     遠音別 オン子ベッ
米戸賀 ペトカ       屈斜路 クッチャロ
秩苅別 チカリベッ    虻田  アプタ
聚富  シュプ        望來  モーライ
東沸  卜ープッ      興志内 オキシナイ
木ノ子 キノコ       古宇郡 フルウ郡
国後郡 クナシリ郡     斜里郡 シャリ郡
擇捉郡 エトロフ郡     有珠郡 ウス郡
龜田部 カメダ郡      川上郡 カワカミ郡
厚田郡 アツタ郡      虻田郡 アプタ郡
空知郡 ソラチ郡      岩内郡 イワナイ郡
釧路郡 クシロ郡      茅部郡 カヤベ郡
檜山郡 ヒヤマ郡
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*1:鑛産表:不詳.巻末綴じ込み(もしくは別紙)が紛失したか,”鑛産表”の示す意味が現在と異なるのかも知れない.


北海道鑛山畧記 終

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長かった〜.ようやく一通り.
略したところはありますが.(^^;
 

2015年12月9日水曜日

「北海道鑛山畧記」:(七)砂鐵

 
(七)砂鐵
(ハコダテ 近郷及び「ユーラ」砂鐵)
休明光記に砂鐵に付左(下)の書記あり.

   ハコダテ蝦夷地ニテ取計方品奉伺候書附
 二月十二日            松平信濃守
                  石川左近將監
                  羽太庄右衛門
                  三橋藤右衛門

ハコダテ近郷トイ邊幷蝦夷地ユウラツプ等,鐵砂御座候塲所も有之.一年吹立仕候はヽ,蝦夷地幷「ハコダテ」にて日用に遣ひ候程は,鐵地金出來可仕候哉.其場所にても渡世に相成候義,其上「ハコタテ」町人共の内,右吹立の義品々,寄相願候者も可有御座.日用の品出來候はヽ土地調法にも可相成奉存候に付,取調彌用立候はヽ,吹立試爲仕候様仕度奉存候.先達て申立置候鐵砂の義,願人も御座候間,函舘付錢龜澤と申候處にて,吹立試仕候.煉鐵差越不申候得共,多分出來仕無程差出候義と奉存候.其外蝦夷地の鐵砂多き塲所も御座候に付,追て試候上申上候積に御座候.酉正月廿日,出雲守殿へ信濃守上の二月十二日伺の通取付御直に返上.(朱書)
砂鐵試に吹出候計,蝦夷松只今迄伐出し候高は伐出「ユーラプ」川材木當用は伐出山荒不申様心附.硫黄明礬の義は先無用可仕旨,其外伺の通被仰渡奉承知候.

(シノリ、ユノカフ砂鐵)
蝦夷實記に曰く,「シノリ」海邊に鐵あり.故に「ユノカワ」海邊,鐵砂多し.


●雑
 ●舊記
オコツナイ製鐵塲に就て,教師報文に載する所あり.砂鐵は時として海汀の細砂中に混在し,之か爲め數里間黒色を敷く如くなるものと雖も,此地の海汀に於ては,又更に此の如きの多量なる砂鐵を經看せず.然れとも「ハコダテ」の東方に方りたる半島の南岸,或は噴火港の西岸,又北島の西方「イソヤ」の側傍に於て多量ならずと雖も,間々此鑛物を經看したり.殊に「シオクビ」より「エサシ」の南岸及ひ「カックミ」川より北の方「ユーラ」まて噴火港の海濱に於ては最も多く經看せり.而して此砂鐵は多く,満潮のときと雖も波濤の爲めに奪はれざる地に集在なすが故に間々之を製する爲め製造塲の設築するものなり.而て,此鐵砂の全數は算計なし難しと雖も「ニタナイ」に近つくに従ひ必ず多量を存すべし.如何となれば此地は只海汀のみならず堤[土覇]の上敷,艸の下にも亦存すればなり.

ライマン著「北海道地質總論」に曰く,本島鐵砂の採集に堪る者は大半島の南東端及ひ噴火灣の南西海岸にある砂鐵層のみ.該層は「ユーラプ」より「オコツナイ」及ひ「ヤマコシナイ」を経て「オトシベ」に至る長さ約英十里(四里)廣さ平均二十碼(十間)厚さ恐らく五寸なるへし.而て純鑛平均百分の八十とすれは大釣鑛十二萬噸を得へく云云.
大半島の南東端より出る鐵砂は「チタニユム」を含むヿ少きか如し.故に鎔解し易し.然れとも其産額多からす.重に「コブイ」(エサン附近の地)シリキシナイ(「コブイ」の南約一里)及其半途の地にあり.而して其中央の層最も大にして,其鐵砂に富める部分に於ては七百立方碼の砂中に純鑛五百立方碼.即ち一千噸を合有するなるへし.
堅實せる鐵鑛脉は本島中何れの地にも發見なすと雖も,「コマガタケ」の東側海岸を距る一里にして海面を抜く一千百五十尺,即ち山の表面より深さ七尺半の所に一坑あり.厚さ一尺なる鐵砂の一層ありて他の火山石と累疊定層をなす.上部は軟鬆の浮石なり.但其廣濱は未た之を調査せす.

本島中,澤鐵鑛「リモナイト」を産する地多し.「イシカリ」の北岸川口より上流一里なる「オヤフル」又夫より上流一里の南岸「ウツナイ」及び「バンナグロ(「ウツナイ」より一里上流の南岸にあり)にあり又ヒラギシ村(「サッポロ」の南英三四里)に二ヶ所あり.其内「オヤフル」を最とす.中畧.

開拓使事業報告に曰く,膽振國ヤマコン郡「ユーラ」より「オトシベ」村に亘る海濱に磁石鐵あり.延長凡四里,廣十間,厚五寸.其積七千三百三十三立方坪云云.
開拓使事業報告に曰く,渡島國カヤベ郡シリキシナイ村支村コブイ海濱に磁石鐵あり.厚凡二尺より一寸に至る.積三十三立方坪.礦の總額四百噸.内二百九十噸の鐵を含有す.
開拓使事業報告に曰く,仝郡シリキシナイ村海岸に在り.長凡五十間,廣十二間半.其最厚は一尺三寸許.其積十三立方坪.礦總額百四十噸.純鐵一百噸を含む割合なり.

蝦夷國風俗人情沙汰中巻に曰く,緑礬「ハコダテ」にも澤山あり.又た「モリ」村,「イシザキ」村に銀山あり.
東蝦夷日誌に曰く,「シユツクシナイ」の奥「力子ラフ」川の水,鐵漿の如し.土人の話に水源に岩鐵あり.昔し最上某試掘せし所なりと云ふ.

蝦夷艸紙に曰く,鐵山「ハコダテ」在の「オーモリ」村,「イシザキ」村等にあり.その外,諸處に多し.

 

2015年12月6日日曜日

「北海道鑛山畧記」:(六)砂金

(六)砂金
(トシベッ砂金*1)
開拓使事業報告*2に曰く「トシベッ」金田は「トシベッ」の上流に在り.膽振國ヤマコシ郡に屬す.砂金包含地及河底の面積總計凡そ九百六十七萬四千「メートル」平方.洗金塲適當の地及本河臺面積凡そ五百三十萬零五千「メートル」平方云云.

アンチセル調書*3に又「トシベッ」砂金のヿを記す.

東蝦夷日誌に曰く,「トシベッ」川河水清潔.水底の砂算するに足る.底平磐にて淵多し.水の清きは是れ全く金玉の氣あるが故なり.「グンベッ」川,軍兵衛なる者,砂金を掘し故名く.
又,カニカン岳は此邊の一大岳にて西は「トシベッ」,北は「ヲヒラ」「ヲリカワ」,東は黒松内「ヲシヤマンベ」の源なり.金銀玉石の氣多く,昔神か爰にて金銀を作り玉ひしと云傳ふ.
仝誌に曰く,「ウクルハツタラ」,「ハンケルフ子シユマヲイ」,「ヘンケロクチ」,「カヌチ」(借時鍛冶が住し處也),「クウヨシ」,「レーラクシ」,「チヨコシカマ」,「トハツタラ」(廣くして湖の如しと云ふ義なり),「ヲン子ハツタラ」,「ヘロシナイ」,「シユフヌンゲベルベ」,「ジンゴベ」(甚五平と云ふ者,砂金を掘て大利を得たる所なり),此邊には穴居跡多し.「ユウラツプ」土人は皆此所より移しと云ふ.
仝誌に曰く,「カ子カルハツタラ」金取淵と云ふ義なり.又た,「ハンケサカイマフ」と云ふ所は,昔「イヌマカン」と云ふ者住し由.今祖父の墓所あり.其祖父,平生栗を好み,死に臨て一個の燒栗を握り居,喰得ずして,我を埋むる所に植よと遺言せし故,取計ひしに生て今大樹となりしと.此者此川筋より砂金を掘り出し,頗る英邁の聞ある者なりしよし.
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*1:トシベッ砂金::トシベッ砂金:瀬棚郡利別川上流(現・今金町美利河付近).
*2:開拓使事業報告:開拓使事業報告第二編(明治十八年十一月刊行).
*3:アンチセル調書:不詳.早稲田大学の大隈重信関係資料に「アンチセル調書」なるものの一部が所蔵されているらしい.しかし,これは北大・北方資料室に所蔵されている「教師報文録」の一部を筆写したものである.従って,「アンチセル調書」というのは正式名称ではないようだ.なお,教師報文録には「教師報文録・第二」の「第四 黄金」に「トシベツ」河の砂金について記載がある.


(渡島國シリウチ川*1砂金)
開拓使事業報告に曰く,ムサ金田とは即ち,建久二年,筑前の舟子發見せし所の「シリウチ」地方を云ふ.此地方丘上高原及支流河畔等,黄金に乏き地を除き,概測すれば(中畧)全く洗金すべき地は三百二十三萬三千立方「メートル」にして,砂層厚さは平均二「メートル」なり云云以下畧す(まま)
蝦夷風俗言上書*2に曰く,「マツマエ」城下より九里餘にして「シリウチ」と云ふ温泉あり.此處は松前家先祖六代前,砂金多く出で,凡十數万兩の金を掘採す依之.其節より諸家中へ歳暮の祝儀として,砂金十匁つヽ賜りしよし.今に至りても其先例を以て歳暮の祝儀に,青銅十匁を賜はるは此古格の殘りたる事のよし.
蝦夷紀事*3に曰く,「シリウチ」地方にては砂金を取る事を知りて,金氣の蔓を追て窟中へ入る事を知らず.依て以前より金山を掘るヿなしと雖とも,實見するに掘たる跡なきにも非ず.然れとも之を調ぶれば,砂金を見掛て掘たるにて,金石を目當に*4掘たるにてはなし.夫故,銀山銅山等は猶更見知りたる者とてもなく,唯打捨てあるばかりなり.
蝦夷舊聞*5に曰く,逸史に言ふ,慶長十三年,大久保長安「マツマエ」より「シリウチ」金と云る者出るにより,彼を鑿せんヿを計りしに,島主・慶廣*6辭するに,地僻にして穀物を生せず,食を海運に資するが故に鑛徒を養ふ事能はざるを以てせしか.其事止たりき.又曰く,夷諺俗語に云ふ「マツマエ」の交易相塲,砂金を以て定む.砂金一兩と云るは,七匁貳分にて永*7七百貳拾文に當るなり.
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*1:シリウチ川:知内川.松前郡-上磯郡を流れる知内川.なお,この地域は「知内図幅」と重複するが図幅には砂金あるいは金鉱石については,一切記述がない.「武佐金田」については開拓史が地質測量図を発行している(未見).
*2:蝦夷風俗言上書:不詳.
*3:蝦夷紀事:不詳.坂倉源次郎の著といわれるが,所在,内容とも不詳.
*4:砂金を見掛て掘たるにて,金石を目當に…:この場合の「金石」は「金鉱石」の意味で使われている.従って,砂金がみつかれば砂金洗いのための沖積層発掘はおこなうが,砂金の母岩を求めて調査し,金鉱石を掘るようなことはされていないということ.
*5:蝦夷舊聞:不詳.鈴木善教が1854年ころに著したといわれる.所在,内容とも不明.
*6:島主・慶廣:松前慶広.松前藩初代藩主.なお,このエピソードはしばしば取り上げられるが,この記述ではあくまで「逸史に言ふ」である.
*7:永:通常,「永楽銭」のこと.明(中国)より室町時代に輸入され,慶長十三年に使用禁止令が出された.


(渡島國エサシ砂金*1)
開拓使事業報告に曰く,「エサシ」金田は渡島國ヒヤマ郡エサシ地方數里間の總稱なり.其面積,凡長六里幅一里厚凡二「メートル」.「エサシ」市街中「詰木石*2」金田,面積五十七万八千方「メートル」にして厚凡一「メートル」とす云云.
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*1:渡島國エサシ砂金:桧山郡江差町
*2:詰木石:現・愛宕町,新栄町近傍.


(クドー砂金)
開拓使事業報告に曰く,「クドー」金田は後志國クドー郡クドー村*1を距る南東凡一里「モシベッ」*2「ウスベッ」*3一河流に在り.「モシベッ」河畔地は北南に延び幅一二町.「ウスベッ」河畔地は稍廣く一町乃至四町半.砂層平均厚一「メー卜ル」なり云云. 下畧す.
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*1:後志國クドー郡クドー村:後志国久遠郡久遠村(現:久遠郡せたな町大成区久遠).
*2:「モシベッ」:不詳.現在「モシベッ」の地名は残っていない.
*3:「ウスベッ」:臼別川.図幅によれば臼別川上流には新第三紀の鉱化作用を受けた地帯がある.臼別川地域には金鉱床の記載はないが,尾根の反対側に同様の鉱化作用を受けたポン金ガ沢地域では金鉱が掘られた過去がある.


(マツマエ砂金)
開拓使事業報告に曰く,マツマエ金田*1は渡島國フクヤマ近傍にあり.往昔小區域の金田許多ありしも六七百年前より淘汰し,明治五年雇米國人「モンロー」巡檢の際は竭盡*2して見るへき者なしと云ふ.
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*1:マツマエ金田:大沢のことか.
*2:竭盡:けつじん=尽きること.すべてを使い切ること.


(センゲン嶽砂金)
松前蝦夷記*1に曰く,國中東南の方は山多く,西北の方は平地あり.山は岩多くして高し.高山の絶頂は多く金銀の氣,或は硫黄の氣にて焼け崩れたる土地*2にて,金氣多きヿ他國に比類なしと云ふ.
七十年以前(寛文八年戌申の頃)は,年々砂金を取り,領主にも納め,京大坂へも多く出したり.其砂金塲は松前領内にてはセンゲン獄シリウチ等なり.此センゲン嶽は「マツマエ」より八里ありて山々の峠を越るヿ,十一にして「センゲン」獄の半腹に至る.此絶頂に至りて見るときは眼目の及ぶ所は遮る者なく,南部焼山より津輕の岩城山,西は「ケンニチ」嶽*3「ラコシリ」*4海中に見へ*5,東は「ハコダテ」より北へ續て群嶽連なり,隔日山「ユウフツ」遠く見ゆ. 
「マツマエ」は直下にして船の寄る迄見るなり.是れ「マツマエ」中金銀山の根なりと云へり.又曰く金銀山の事は本業なれば深山幽谷へ,わけ入て人力の及ぶ處は吟味せり.然れとも土地廣く金銀山數多の事にて中々十分一も見極めざりし.
松前志*6に曰く,福山近邊にては欝金嶽を大嶽と云ふ.東部「シリウチ」川の源なり.福山より東北に當れり.其里程九里二十町餘なり.嶽の麓を離れて一段の平地あり.昔時金鑿の徒多く屋舎を建連ね,一大郷の如くなりけるよりして千軒とは名つけたり.然れとも嶽の本名にあらず.金の名は此山金氣盛なるか故に右より名つけ呼るよし.古老の説なり.此嶽夏日も又猶雪ありと云へり.
北海随筆*7に曰く,「センゲン」嶽は「マツマエ」郡中,金鑛の根山にして此邊第一の高峯とす.
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*1:松前蝦夷記:享保二(1717)年,有馬内膳一行の幕府巡見使の記録.東大図書館所蔵.北大北方資料室に写本がある.
*2:高山の絶頂は多く金銀の氣,或は硫黄の氣にて焼け崩れたる土地:千軒岳金山はいまだに謎の金山であるが,この記述からは,砂金ではないことがうかがえる.いわゆる鉱山用語の「焼け」を示しているようだ.
*3:「ケンニチ」嶽:見市岳(遊楽部岳).
*4:「ラコシリ」:「ヲコシリ」の誤記か.もとはi-kus-un siri「イクスン・シリ(向こう側にある島)」だという.「イクスン・シリ」が「ヲコシリ」さらに「オクシリ」に変わったとされるが,なんか不自然.
*5:「西は~海中に見え」:千軒岳からは,奥尻島・遊楽部岳(見市岳)はむしろ北方に見える.これは,当時日本海側を「西蝦夷」,太平洋側を「東蝦夷」と呼んでいたことに関係していると思われる.
*6:松前志:松前藩主・松前邦広の五男・松前広長(1737-1801)の著とされる.
*7:北海随筆:坂倉源次郎,元文四(1739)の作といわれる.


(センゲン山砂金)
三國通覽*1補遺に曰く,蝦夷地「マツマエ」城下より丑寅に當り,浅間と云ふ大山あり.近邊に勝れたる大山なり.古來より金銀多く出つ.松前家の先祖,此地へ移封の節,諸國より入込たる金掘人共残らず追拂しとぞ.右掘り取たる跡高さ數十丈.屏風の如く切立たる所あり.今其所を切通と云ふ*2.此山邊並に東西の山山残らず「ミヨシ」堀の跡,所々に多し(「ミヨシ」とは砂金の事なり).
蝦夷風俗言上書*3に曰く,松前城下より東丑寅に當り「センゲン」山と云ふ大山あり.古來より金銀多しと.
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*1:三國通覽:林子平(1785).
*2:右掘り取たる跡高さ數十丈.屏風の如く切立たる所あり.今其所を切通と云ふ:この記述は鉱脈状の産状を示していると読めるが,どうだろう.
*3:蝦夷風俗言上書:不詳.「蝦夷地風俗書上」(別名;「近事奇観」)なる写本が国立公文書館にあるらしい.松前矩広が記したといわれるが,原本および内容は不詳.


(クンヌイ砂金)*1
開拓住事業報告に曰く,「クンヌイ」金田は謄振國ヤマコシ郡に在り.
明治四年十一月,雇米国人開拓顧間「ケプロン」報告中,幕府雇米国人博士「ブレーク」報告の要を摘して曰く,「クンヌイ」金田は「トシベツ」川の本支流に沿ひ,延て數英里に亘る.二三百年前淘汰の跡あり.其何人の所業たるを知らず.
文久二年,幕府試掘の時は,一日の費用三弗にして,大凡五十弗に値る黄金を得たりと.
東蝦夷日誌に曰く,「セヨヒラ」と云ふ處は,海扇淺蜊の殻出るを以て名く.「シヤマツケハツタラ」「タン子ウツカ」「ルフ子シユマヲイ」「ヤリスケ」此處廣くして網曳場なる故名く.昔しは「クンヌイ」より此處へ馬路ありしと.其頃は金鑛至て盛にして,文化年間,石井善藏・高橋治太夫・高麗鱗平等,此處を切開,砂金六百金を献し,追々人家も建ちしが惜むべし,文政五年より廢山とせしよし.「サンシローフチ」と云ふ所あり.三四郎なる者,砂金を多く得たる處なるを以て名く.
東蝦夷日誌に曰く,「クンヌイ」川に砂金あり.極上々品を出す.
北海随筆に曰く,七十年前以迄は松前より砂金取り五千餘人程つヽ入込みたりと云ふ.金掘屋敷と云ふは「クンヌイ」と云ふ處にあり.一年蝦夷亂のありしより和人とも蝦夷地へ入り込むヿ制禁となりて,夫より砂金取に行く者なし.其砂金の生ずる根原は必ず金氣あるべき故,是を吟味せし處,此の「クンヌイ」の河原に金山あり.其證據相糺し,現に見極たり.此地砂金を取るヿを知て金草の蔓を追て窟中へ入る事を知らす.依て以前より金山を掘ると云ふ事なし.今希に見るに掘し跡なきにも非ず.されとも砂金を見かけて掘りたる者と思はる.
蝦夷舊聞に曰く*2,寛文の初に當りて蝦夷東部「シイチヤリ」に「シヤムシヤイン」又名「シヤクセン」と云ふ者あり.丈高く骨太く力人を兼たりければ,蝦夷人共大に恐れて屬従する者數万人に及べり.其居「シイチヤリ」川を前にして柵を築きて住せり.奴僕貳百人餘ありと云ふ.此「シイチヤリ」の山より金黄多く出でしかば,松前の人も常に往還し,諸國より採鑛の夫も多く集りしが云云.
續蝦夷草紙*3に曰く,蝦夷地「ヤムクシナ井」と云ふ處,大河ありて「ユウラフ」と云ふ又「クンヌ井」と云ふ處あり.此處より砂金を出す.
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*1:(クンヌイ砂金):本文中にあるように,「訓縫金田」は訓縫側ではなく,峠を越えた利別川側にある.
*2:蝦夷舊聞に曰く:本文にあるとおり,これは「訓縫金田」の記述ではなく,シベチャリ金田についての記述である.
*3:續蝦夷草紙:続蝦夷草紙.近藤重蔵の著(文化元;1804)とされる写本.


(ハポロ川砂金)*1
蝦夷行程記*2に曰く,「ハポロ」(天鹽)と云ふ處,砂金あり.
三國通覧*3に曰く,西蝦夷國「ハポロ」と云ふ處に大なる砂原あり.その長さ五十里計なる間處々より砂金出づ.
観國録*4に曰く,「ハポロ」川を泝るヿ三日程にして「ハポロ」山下に出つ.金鑛あり.今之を廢す.然れとも,砂金此邊に流れ來ると云ふ.今見るヿなし.此川幅二十間餘なり.
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*1:(ハポロ川砂金):羽幌図幅には「海岸段丘堆積層・河岸段丘堆積層および冲積層の砂礫中に,砂金および砂白金が存在することが古くから知られていて,椀掛けによって容易にこれを検出することができる.」とある.また,海岸沿い北方約8kmには「三浦金山」があったと記録されている.
*2:蝦夷行程記:阿部将翁著,松浦武四郎校正.安政三(1856)年刊.
*3:三國通覧:三国通覧図説.林子平(1738-1793).
*4:観國録:観国録.石川和助(関藤籐蔭)が老中・阿部正弘の命をうけ,蝦夷地,北蝦夷地の調査をおこなった記録.全7巻.安政三~四年(1856-1857),調査及び著述.


(十勝砂金)*1
北海随筆に曰く,「アツケシ」の手前「クスリ」カ嶽の麓に金山あり.「コガ子」山と云ふ.此邊「トカチ」と云ふ處は砂金あつて以前も取りし事あれば金山あるべきヿなり.
續蝦夷草紙に曰く,「トカチ」と云ふ處,東蝦夷地第一の大河あり.此邊も皆砂金を掘りし跡あり.三代将軍の御代々「マツマエ」より砂金百兩を献上せしかば,「マツマエ」蝦夷地中の金山を残らず拝領の義,仰せ付られんと.
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*1:(十勝砂金):「「クスリ」カ嶽」も「「コガ子」山」も不詳.したがって「十勝砂金」は不詳.


(ペルフ子砂金)
東蝦夷日誌に曰く,十勝國ペルフ子*1近傍,セキ川*2近傍,往昔金を掘りし跡あり.
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*1:十勝國ペルフ子:十勝国歴舟川.
*2:セキ川:不詳.


(ヲタベッ砂金)
東蝦夷地道中日記*1に載す「コロブニ」と云ふ所より平山を越ゆ.此平山,柏木多く半里許にして「ヲタベツ」と云ふ澤*2あり.水流る此邊,砂金を掘たる跡あり.是を蝦夷人「セキ」と云ふ.即金山を掘るヿの言傳へならんか.
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*1:東蝦夷地道中日記:不詳.類似の書名はいくつかあるようだが,同名の書は見いだせない.
*2:ヲタベツ」と云ふ澤:不詳.


(フトロ川砂金)
蝦夷行程記*1に曰く,「フトロ」*2(後志國)川砂金多しと.
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*1:蝦夷行程記:前出.
*2:「フトロ」:後志国太櫓郡(現・久遠郡せたな町)


舊記
ライマン著「北海道地質總論」に曰く,黄金の痕跡は(鐵砂の如しと雖とも其量甚た少し)諸所に在りて,其區域實に莫大なり.然れとも其採集に堪すへき者は「トシベッ」「ムサ」の兩金田のみに云云.
北海随筆に曰く,國中金氣多きヿ,餘國比類なし.七十年以前迄は年々砂金を取るヿ夥敷云云.
松前東西管闚*1に曰く,「トカチ」「ウシベツ」「シリウチ」「クンヌイ」「ユウハリ」,此五ケ處より追々寛永十八年の頃迄は山穿出し出金有之.夫より打絶無是候所,元祿十三年より七八ヶ年の内,西蝦夷地「ハポロ」へ二三千人つヽ金掘参り候處,度々破船云云.
北海道誌に曰く,建久二年,筑前の舟子,蝦夷「シリウチ」に漂着し,水を索めて山に入り,一小金塊を獲,甲斐の領主・荒木大学に呈す.大学,之を鎌倉将軍・頼家に献ず.頼家,其賞として米千石を大学に賜ふ.大学,亦祿百五拾石を發見者に與へ,名を荒木外記と稱せしむ.是に於て頼家,大学に命じ外記を嚮導とし,蝦夷に趣き,金鑛を開採せしむ.大学,役夫及陶金者八百人,修験者一人,兵卒合て千餘人と共に,仝年六月,甲斐を発し,七月ヤゴシ(今渡島國カミイソ郡)に抵り,疊を「ケナシ」嶽に築き,砂金を洗陶す.「シリウチ」に始り,「ムサ」川及其支流に及ぼし,採集する凡十三年間,多く黄金を得たり云云.
東蝦夷道中日記に曰く,「アイブシマ」*2と云ふ處,河跡の如き掘あり.往古砂金を掘りたる跡なりと.
續蝦夷草紙に曰く,「ニイカフ」「シブチヤリ」など言ふ處,皆砂金を掘りしと.
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*1:松前東西管闚:不詳.表題からは,松前藩による蝦夷地の諸統計・情報誌と思われるが所在不明.
*2:「アイブシマ」:アイボシマ川(広尾郡大樹町を流れる).
 

2015年11月13日金曜日

「北海道鑛山畧記」:(五)金銀銅鉛の「雑」

●雑
●舊記
東蝦夷日誌*1に曰く,「ビクニ」岳「フルウ」岳「サ子ナイ」岳「シャコタン」岳等に金鑛ありと云ふ.
同誌に曰く,「アベヤキ」「ヌツチナイ」「コンガニ」*2,昔黄金を掘りしか故か澤の奥に金坑の跡あり.
同誌に曰く,「ヒハウシ」「ヲホウシナイ」「クロマトマナイ」*3,此處文化年度金丁を入れて,金を掘りし道あり.其近傍多く鑛石を拾たり.
同誌に曰く,「チヤラセナイ」*4,此處三十間餘,瀧に成り落つ.是より「ポンチヤラセナイ」「シヨロカンベツ」「ヘテウコヒ」を経て「ニシユイ」*4に至る.此「ニシユイ」とは臼の事にて,昔金坑盛の時,山丁か用ひし臼ありと.又た神作の臼とも云へり.
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*1:東蝦夷日誌:「ビクニ(美国)岳,フルウ(古宇)岳,サ子ナイ岳(珊内岳),シャコタン岳(積丹岳)」といえば,東蝦夷ではなく,西蝦夷である.誤記か?
*2:「アベヤキ」「ヌツチナイ」「コンガニ」:不詳.
*3:「ヒハウシ」「ヲホウシナイ」「クロマトマナイ」:不詳.
*4:「チヤラセナイ」,「ポンチヤラセナイ」「シヨロカンベツ」「ヘテウコヒ」を経て「ニシユイ」:「シヨロカンベツ」は元浦川上流の支流に河川名として残る.いずれも元浦川の支流名と思われるが,現行地名としては残っていない.


東蝦夷日誌に曰く,「シビチャリ」*5に金坑盛の時,往來せし道ありと云ふ.
仝誌に曰く,「イツケナイ」「子トナイ」「アフカシヤンヘ」*6諾川の上に「アフカシヤンベ」岳あり.往古の金坑跡多し.
仝誌に曰く「ウエンシリウトルクシナイ」「ニナラハクシ」*7此處,寛文年度,金丁多く入りしと云ふ跡あり.
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*5:「シビチャリ」:シベチャリ川.現・日高郡新ひだか町を流れる静内川.
*6:「イツケナイ」「子トナイ」「アフカシヤンヘ」:不詳.静内川には「ネトナイ滝」というものがあるようだが,不詳.
*7:「ウエンシリウトルクシナイ」「ニナラハクシ」:不詳.


蝦夷見聞誌*1に曰く,蝦夷國金銀銅出る處多し.即ち「クンヌイ」*2「チクンヌイ」*3「ウンベツ」*4「スウバリ」*5「シコツ」*6等なり.
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*1:蝦夷見聞誌:(えぞけんもんし)林子平および秦檍丸に同名の著があるとされるが不詳.
*2:「クンヌイ」:訓縫(現・山越郡長万部町字国縫).ただし,この場合は訓縫川のこと.
*3:「チクンヌイ」:不詳.モクンヌイの誤記か?>山越郡長万部町を流れる茂訓縫川のこと.
*4:「ウンベツ」:不詳.様似郡を流れる「海辺川」かもしくは「門別川」か.
*5:「スウバリ」:不詳.石狩川水系夕張川のことか.
*6:「シコツ」:Sikot-pet;現・千歳川か.千歳川最上流(美笛峠付近)には千歳鉱山があった.


松前東西管闚*1に曰く,元文三*2,午年二月,松平左近將監*3,御書付を以て被仰付候へは,金銀稼方の儀,引受取計可相勤侯由,後藤庄三郎*4へ被仰付候間,庄三郎差圖を受け板倉源八郎*5山稼方取計の積.後藤庄三郎被仰付候間,山稼等可申付旨被仰出.同年,後藤庄三郎,名代の者・佐原木藤兵衛・福島數右衛門上下四拾六人にて下着.處々見分致候得共,出來不申相止め申候.佐原木藤兵衛,當時にて病死致候.
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*1:松前東西管闚:不詳.表題からは,松前藩による蝦夷地の諸統計・情報誌と思われるが所在不明.
*2:元文三(年)二月:1738年3月.
*3:松平左近將監:当時の老中首座・松平乗邑のこと.
*4:後藤庄三郎:御金改役に与えられた名称.六代・庄三郎光富か?
*5:板倉源八郎:坂倉源次郎(「蝦夷地質学外伝」其の伍「北海随筆」参照)


蝦夷舊聞*1に曰く,赤夷風説考*2に云ふ「センゲン」山*3,松前府より丑寅に在り.往時鑛の跡,斷岩屏風の如くに聳へ,高さ數十丈なる處あり.今是を切通しと云ふ.
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*1:蝦夷舊聞:蝦夷旧聞,鈴木善教(不詳)が安政元年に著した蝦夷地に関する記載(未見).
*2:赤夷風説考:赤蝦夷風説考:工藤平助著.
*3:「センゲン」山:大千軒岳;渡島半島南部,松前町と上ノ国町の境にある(「蝦夷地質学外伝」其の参「蝦夷国まぼろし」参照)


蝦夷草紙*1に曰く,古來より銀山の沙汰話し「カワクミ」山*2「ユ一ラプ」山*3等に在り.
蝦夷草紙に曰く,銅山は東蝦夷地「シベツ」*4の奥山にあり.「ハコダテ」在の山に在り.
蝦夷草紙に曰く,「メツノイヲヽストロフ」*5といふ島に黄銅あり.此金日本にて未見.生れなから金色なる銅にて,眞鍮の柔かなる様なりと赤人渉海して委細物語れり.
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*1:蝦夷草紙:最上徳内(1789;寛政元)著.
*2:「カワクミ」山:「カツクミ(川汲)鉱山」.
*3:「ユ一ラプ」山:遊楽部鉱山(鉛川鉱山,八雲鉱山).
*4「シベツ」:標津郡標津町.
*5「メツノイヲヽストロフ」:別紙には「メツノイヲ,ストロフ」とあり.どちらにしても地名としては不詳.


蝦夷舊聞*1に曰く,赤蝦夷風説考に言ふ「アカガミ」の地より先き「キヨベ」*2の地,銅を産す.
東の方箱舘に「エサン」の銅山*3あり.東蝦夷「サル」の地,往古鑛の夫数千人群集し家數千軒ありしと.(窃々夜話*4に云,「サル」塲所へ「ナコ」より東の方,十四里半「シコ」と言ふ地銅山なりと.又同塲所イケウシリ川上二十里「チロ」金山.昔金銅出しと)
「エリモヒ」と云地,往時鑛の夫諸國より群集せしに「シヤムシヤイン」亂の時,賊徒百人を此地にて斬首ありてより後,是を百入濱*5と呼へり.此處金甚多しと云ふ.(窃々夜話に「ホロイツミ」塲所「カムイ井ト」一に「エリモ」岬と云ふありて,其地續きに百人濱の名見へたり).
西蝦夷「ヌツキ」,昔鑛の夫多く聚りし地にて,今其遺趾あり.
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*1:蝦夷舊聞:蝦夷旧聞,鈴木善教(不詳)が安政元年に著した蝦夷地に関する記載(未見).
*2:「キヨベ」:松前郡松前町清部.小鴨津川流域にいくつかの鉱山がある.
*3:「エサン」の銅山:恵山鉱山は硫黄鉱山として知られており,恵山の銅山というだけでは,たくさんありすぎて特定できない.
*4:窃々夜話:不詳.「東夷窃々夜話」のことか?(未見). 
*5:百入濱:えりも町苫別付近に「百人浜」の地名が残る.地名の由来は複数の説があり,またこの付近に金・砂金鉱床の記述は見あたらない.


蝦夷草紙*1に言,箱舘、屬村、大森、石崎其他諸處に銅山多し*2.又東蝦夷「シベツ」*3の奥に銅山あり.「ウラカハ」に鑛の跡あり(窃々夜話*4言,浦川塲所ホロヘツ川二里上「シユマン」*5と云ふ地,金の古蹟あり).
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*1:蝦夷草紙:最上徳内(1789;寛政元)著.
*2:所蔵する「蝦夷草紙」にこの様な記述のあるものはない.
*3:東蝦夷「シベツ」:標津郡標津町.標津町金山付近には根室鉱山,東亜鉱山,武佐鉱山などがあった.
*4:窃々夜話:不詳.「東夷窃々夜話」のことか?(未見). 
*5:「シユマン」:日高幌別川支流にシマン川があり,この付近と考えられる.金山としては,この付近の様似町海辺川付近の金鉱が古く松前藩によって探鉱された記録がある.


東蝦窃々夜話*1云ふ「シツナイ」塲所「シビチヤリ」川源「アフカシアンベ」山,昔銀銅を出せしと云ふ(蝦夷亂記事に此地,昔金多し.邦賊首シヤムシイン*2此に住居せしヿを言へり).
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*1:東蝦窃々夜話:不詳.国会図書館には所蔵されているようである.
*2:シヤムシイン:印字のまま.


野作雑記*1に言ふ,「ウナヘツ」*2の土人,近傍の地,銀を生するヿを云へり.
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*1:野作雑記:不詳.「東北韃靼諸国図誌野作雑記訳説」のことか.この写本は,いくつか現存するらしく,オランダの地理学者ウィツェンの著書“Noord en Oost Tartaryen”(1677年再版)中より、「エゾ」に関する部分を編訳し注を付したものらしい.馬場貞由という人物が1809年に訳したとされるが,詳細は不明.
*2:「ウナヘツ」:斜里町に「海別岳」がある.硫黄鉱山・褐鉄鉱鉱山は存在したが,銀鉱床は記録がない.


窃々夜話*1に言ふ,「ウシヤフ」*2と言ふ處より五里程上チロ*3合と言處の山,昔金掘出しよし申傳ふと.
窃々夜話に「チフカルべツ」より海岸を行キ「トシヨロ」ニ至ル此處銀山ナリト言傳フト言ヘリ
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*1:窃々夜話:不詳.「東夷窃々夜話」のことか?(未見). 
*2:「ウシヤフ」:右左府(日高村の旧名)か?.
*3:チロ:現・日高町市街地の沙流川上流では千呂露(チロロ)川と合流する.この付近にはクロム鉱山はあったが,金鉱の記録はない.


蝦夷地見聞録*1に曰く,鉛山の義は所々に見當りたれば,山稼すれば出銀もあるべきなり.去り乍ら是とても嶮岨なる澤々の事にて,稼塲何れも嶮岨に稼く事故,山々を吟味し,彌々出鉛ありと見極たらば,山稼するに差支なかるべし.又曰く西蝦夷地の内,鉛石見當りたる塲所はアカガミ村*2,豐部内*3,「ユウラツプ」*4,「サカツキ」*5,見市村の奥「ヲボユ(ママ)」*6等なり.
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*1:蝦夷地見聞録:不詳.
*2:アカガミ村:松前郡松前町赤神.
*3:豐部内:桧山郡江差町(1900年豊部内町は他町と合併し江差町となる).現在も「豊部内川」の名が残る.
*4:「ユウラツプ」:二海郡八雲町にある地名.遊楽部川,遊楽部岳(見市岳)の名も現存する.
*5:「サカツキ」:古宇郡泊村盃村.
*6:見市村の奥「ヲボユ」:「ヲボコ」の誤記か?.二海郡八雲町熊石見日町を見市川が流れる.ヲボコは「雄鉾岳」であろう.


東蝦夷日誌に曰く「チヤラセナイ」「チケウエ」「ホンチケウエ」*1邊の山總て鉛氣又石英の氣あり.土人取り來り,鑛を焼き鉛を取り鎭石を作れり.
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*1:「チヤラセナイ」「チケウエ」「ホンチケウエ」:不詳.いずれも複数の候補がある.


2015年11月3日火曜日

大鳥圭介

 
しばらく江戸時代から遠ざかってたら,こんな本が出ていた.
ざっと読む.彼も「蝦夷地質学」関係者.
幕末は,ドキドキするなあ.