2008年10月16日木曜日

開拓使仮学校の地質学

 明治の始め,北海道開拓の人材を育てるために,開拓使所管の学校開設が計画されました.札幌に開設する予定で,当初は東京・芝の増上寺を仮の施設としたため,これを「開拓使仮学校」とよんでいます.

 明治五年四月十五日(1872年05月21日)に開校.

 仮学校では「普通学」と「専門学」の二つを設置する予定でしたが,それはのちのこととして,当初は「普通学第一」および「普通学第二」がおかれました.名前は「普通学」ですが,要するに今日の「教養課程」,もしくは旧時代の「予科」に当たるものと考えるとよいでしょう.

 「普通学第一」では「英学(英語)・漢学・手習・画学(製図学)・日本地理・究理(物理)・歴史」など基礎科目を教え,進級して「普通学第二」になると,「舎密学(化学)・器械学(機械学)・測量術・本草学(博物学)・鉱山学・農学」を学ぶことになる予定でした.

 「普通学」を修了したものは,「専門学」に進級することになります.
 「専門学」は第一から第四に分かれ,「専門学第一」では「舎密学・器械学・画学」を,「専門学第二」では「鉱山学・地質学・画学」を,「専門学第三」では「建築学・測量学・画学」を,「専門学第四」では「舎密学・本草学・禽獣学・農学・画学」を教授する予定でした.それらは,順に「工業科」・「鉱山科」・「土木工学科」・「農学科」に当たるものと思われますが,詳細は不明です.いずれにしても,これらが実現することはなかったからです.

 初年度は,すべての学生は「普通科第一」に入れられ,「英仏学(英語・仏語)・算学(算数)・幾何学・高等数学・画学(製図学)・和読書・漢作文・和漢習字・和漢歴史」が教えられました.「英仏学」は正確に言うと,外国語で「英語」コースと「仏語」コースが設置されたもので,ほかの授業については同じだったようです.しかも,「仏語」コースは間もなく廃止されました.

 授業は始まったものの,学校組織としては計画不足・付焼き刃の評を免れず,そして募集した生徒のレベルは低かったのです.開校当初から順調にいったとはいえず,翌年3月14日には,仮学校は閉校,学生はすべて退学という事態に陥ります.なお,明治五年十二月二日(この日まで旧暦)の次の日は明治6年1月1日(新暦:グレゴリオ暦)に切り替えられているために,実質10ヶ月程度の教育期間でした.

 仮学校が再開されたのは,1873(明治6)年4月21日のこと.授業は翌日から行われました.
 再開後のカリキュラムは「今のところ見あたらない」(北大百年史・通説)とされています.しかし,授業そのものは,以前とそれほど変わらなかっただろうと思われます.器械学教師・ランドルフは生徒の学力の低さに不満を抱き,開拓使との間に軋轢を生じ,間もなく解雇されました.開拓使側でも公募生徒の質の低さに懲りたのか,「公募はおこなわれなくなったようである」と,あります.

 再開された仮学校では,専門科の開設準備を進める一方で,札幌移設の準備が進められました.
 1875(明治8)年7月,仮学校は「札幌学校」と改称し,8月には教職員生徒一同が札幌へ移動しました.札幌学校の開業式は9月7日.35名が晴れて札幌学校の生徒となりました.

 なお,札幌にはすでに「(旧)札幌学校」が存在していましたが,同校で英語を学んでいた生徒十数名が「(新)札幌学校」に転学し,「(旧)札幌学校」は「雨竜学校」と改称した上で授業内容は小学校程度に改められました.
 また,「女学校」および「アイヌ学校」が「仮学校」に併設されていましたが,本稿の目的ではないので,説明を省きます.どちらにしても,当初の目的は果たせず,ひとりの卒業生も出さずに閉校しています.

 通してみると,「開拓使仮学校」の時代には,専門科はまだ存在せず,「地質学(鉱山学も含めて)」の授業は行われていず,また,関連が深い「博物学(当時はまだ本草学の名が使われていました)」もおこなわれていなかった,というのが事実です.

 ところが,この仮学校の中から,二つの実技にたけたグループが旅立ちます.
 一つは,「電信生徒」と呼ばれており,もう一つは「ライマンの弟子」になる「地質測量生徒」です.

 「地質測量生徒」については,現在調査中ですので,別稿で.

 

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