2014年2月5日水曜日

福士成豊の測量

 

福士成豊が開拓使・函館支庁の命により道南部の測量を行っていたらしいことはわかるのですが,それがいつ頃,どのような範囲で行われたのかは曖昧です.
そこで,デイ(1877)の「北海道測量報文」と大蔵省(1885)の「開拓使事業報告」を基本に,いくつかの文献をクロスさせて探ってみました.

正式な報文があるのにわかりづらいのは,デイが英文報告書を提出したのが1876. 3なのに,和文報告書は1877. 12出版であり,相対的年数表示「昨年」あるいは「一昨年」という書き方が「いつ」を示しているのかよく判らないことでです.
一方,大蔵省(1885)の「開拓使事業報告」は報告書そのものではなく,編集文であるため,省略が多い様です.デイが関係した「三角測量事業」という書き方ではなく,途中からデイ抜きの「測量事業」が書き込まれていたりします.そのままでは信頼性が足りないように思われることです.


以下,デイの報告書から「北海道三角測量事業」の海岸線測量について,時間・場所を明記して編集してみました.

1874(明治 7)年6月,沿岸線測量隊は二班を構成.「勇払基線*」から測量を開始した.
一班は東進し襟裳岬方面へ.この年は勇払から歌別河口まで測量終了.
二班は西進し噴火湾方面へ向かう.この年は勇払から旧室蘭駅まで測量終了.

翌1875(明治 8)年は,四班を構成.
松本班・水野班は5月28日に出発した(たぶん函館から).
松本班(加藤補助)は,昨年度終点「幌泉と襟裳岬(昨年,此崎迄測量せり)との間ベツベツ河口**」から測量を開始し,根室で終了した.
水野班(菅沼補助)は,「其昨年測量せる最尾の標杭(噴火湾の北岸紋別***近傍)」から測量を開始し,有珠湾を通り長万部から渡島半島を縦断,日本海岸を岩内-古平-余市-忍路-小樽内(星置川河口)まで測量し,竹村班と合流した.
野澤班と竹村班は5月31日,函館丸に乗船し宗谷へ.
野澤班(木村補助)は,宗谷より東進し,8月28には知床岬まで測量を完了し,10月上旬,根室に達し松本班と合流した.
竹村班は,野澤班の第一杭から測量を開始し,西海岸を小樽内方面へ.10月下旬水野班と合流した.

1874~1875の二年で,道南部を除くすべての海岸線を踏破.測量を終わる.

「右(上)四氏の事業と昨年永井奈佐両氏及ひ一昨年福士氏の施す所とを以て北海道本島の沿海線測量は全く成就せり」(北海道測量報文;デイ,1877)
したがって,1874年の二班は「永井班」と「奈佐班」であり,福士成豊は1873(明治 6)年に道南部海岸線の測量を終えていたと考えられる.


デイが測量長になったのが1874(明治7)年4月で,「北海道測量事業手続書(計画書)」を提出したのが1875(明治8)年3月で,それから本格的な三角測量が始まったわけですから,函館支庁が福士に測量を命じたのがいかに早いか,またそれを一人で(かどうかは不明ですが)こなした福士の能力は記しておくべきことでしょう.実際に,どのようなことが行われたのか,それを知ることはもう不可能なのでしょうか.
福士は記録を残していないのでしょうかねえ….

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*勇払基線:三角測量の基本となる線のこと.当初,石狩浜で設定を試みたが,適切な土地がなく,勇払-鵡川間に設定された.勇払側の基点は道の文化財となっている.鵡川側の基点はいまだ不明.
**ベツベツ川:たぶん「歌別川」のこと.
***紋別:伊達紋別
 

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