訳あって,江戸末期から明治初期にかけての地形図測量事情を調べています.
あまり興味が無いけど,ライマンの地質調査の背景がわかればと….
この話題のキーマンは「福士成豊」のようです.
でも,残念なことに情報がほとんど無い.理由は,たぶん,彼が町民の出だからだと思います.明治政府や開拓使に取り入ってボロもうけもしなかったし,政治にも関わらなかった.勇ましいこともしなかったから,いわゆる“歴史家”からも注目されていない.まとまった記録(伝記など)はないので,同時代のいろいろな記録から絞り込んでいくしかないわけですね.
おぼろげながら,彼の業績が見えてきました.
開拓使が御雇外国人や荒井郁之助などを活用して,やっとの思いで北海道の(現代的な意味での)地形図作り(三角測量による)を始めますが,じつは成豊がすでに道南部で始めていた.彼は,箱館在住のブラキストンから,測量術も学んでいたのです.
成豊の能力・業績は,たぶん初期には認められていなかった.町民だから.
でも,御雇外国人が認めた彼の能力は,結局,開拓使・明治政府(この場合は道庁か?)も認めざるを得なかった.で,逆に費用のかかる御雇外国人は切り捨てられて(これがたぶん,「北海道三角測量事業」が事業半ばで中断された理由),成豊があとを引き継ぐことになるわけですね.
また,その頃には,御雇外国人の指導下,測量術を身につけた若者が多数出てくることになる.
一方,無節操な開拓使のやり方に腹を立てた荒井郁之助は,もともと黒田らとそりが合わなかったこともあって,辞任してしまう.
そんな事件があったのだろうと推測します.
残念だけれど,こういったことを裏付ける資料のありかは私にはわからない.あったとしても.たぶん見せてもらうことができない.
このへんが限界.
0 件のコメント:
コメントを投稿