2015年5月20日水曜日

「北海道鑛山畧記」:(三)石炭の「カヤノマ石炭」(地名,発見の原由並びに坑業の景況)

●カヤノマ石炭

(地名)
後志國イワナイ郡「イワノイ」*1より北三里餘なる「カヤノマ」村*2の溪間にあり.南「シブイ」*3「チャツナイ」*4の兩村に接し,東北「ホリカ」*5の背後に連る.其區域は海岸より山に入る一里餘にして,石炭の露出せるもの諸所に在り.
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*1:後志國イワナイ郡「イワノイ」:後志国岩内郡岩内.
*2:「カヤノマ」村:茅ノ澗村.現在の古宇郡泊村茅沼村.
*3:「シブイ」:渋井.現在の古宇郡泊村渋井.
*4:「チャツナイ」:茶津内.現在の古宇郡泊村茶津.
*5:「ホリカ」:堀株.現在の古宇郡泊村堀株.

(炭砿位置)
(「開礦百年史」より.地名の参考まで)


(發見の原由幷に坑業の景況)
安政三*1辰年四月,茅潤村住民・武井忠兵衛*2,鱈釣船頭役に雇入たる加賀出生の忠藏と申者,漁具・櫓櫂伐採の爲め登山し,帰路に際し「イワ炭」と申者なりとて右(上)忠兵衛方え持來り.試みに爐に焚きくるに,火勢烈しくして異なるより,雇漁夫寄り集り,噂に聞く唐船(滊船を云)にて焚く石炭とか申すものなるへしと評せり.其後,右の忠藏,現品を持参して「ウスベッ」*3村番屋(舊請負人出張所を云ふ)・平森徳藏宅に到り,産地を告け,然して番屋・徳藏は「イワナイ」運上屋(舊請負人)・佐藤仁左術門に告け,同人より則ち領主・松前御役所へ上申したり.翌安政四年己九月,松前御役入(舊福山藩士)・櫻場丈左衛門,來着し番屋・平森徳藏に命して,人足五六人を出さしめ,彼の「イワ炭」を掘採し,叺三拾個程「カヤノマ」村に持参り,直に「イワナイ」に運搬す.安政五年八月其頃,「ウタスツ」詰の公義御役人・長谷川儀三郎及下た役・大島佐十郎・土屋文治兵衛・川久保龜太郎と共に來り,石炭の檢分を為す.然して長谷川儀三郎は歸り,下た役二人殘り居り,人足をして石炭叺入百個程「イワナイ」に運搬したり.斯くの如くなすヿ年々續きたり.

文久三*4亥四月,舊幕府開採の議を起し,大島惣左衛門*5をして試掘せしめ,慶應元丑年に至り一旦廢業す.
慶應二年*6丙寅十月廿五日,舊幕府本坑輸出の盛大を謀り,實地の測量をなさしむ.海岸より大澤炭床の距離を測量するに凡一万零六百六拾尺ありと云ふ.
同三年丁卯,蛯原某(調役)・石井某・川久保某・郷田某・英国人イー=エチ=エム=ガール*7を鑛山師として來り,開坑の業に着手す.實に六月卅日なり.坑夫五名を「ハコダテ」に,土工を各地に募り,先つ「カヤノマ」海岸より炭坑迄,道路を開通し,坑夫は更に坑業に従事し,始めて一の炭坑を開く.今の本口,是れなり.
同年十月,道路落成し,官舎を築造す.
同四年,戊辰の亂*8,起る.
明治二*9巳己年,當地騒然として休坑に屬せるが如し.同年八月に至り,鈴木金吾*10來り主任となる.官吏屢交代せり.此年始て車道を作り,四噸車を運轉し,且つ坑内一輪車を用井たり.
同五年,事業大に進み,始て新口坑を開き,同六年,伊地知季雅*11來り多量坑を開く.二三番の石炭庫を新築し,海岸石垣を築き,同九年,大澤二番西向,同三番等の諸坑を試掘せしむ.
十年,石炭庫二棟を建築す.
同十一年,「チャツ」煤炭に着手す.同年六月,チャツ一番抗より稲荷坑迄道路を開鑿し,十二月四日,季雅病に罹り卒す.氏の當鑛に盡力し功を奏したるは許多なりと云ふ.
仝十二年二月五日,物産局長・佐藤秀顯*12來り見る.此時中功坑を伊季鋪と改む.是れ伊地知季雅の功を表せしものと云ふ.仝年九月十一日,煤田開採事務係りの所轄となる.仝年十月十五日,火薬庫一宇焼失せり.
仝十三年辰一月十二日,伊季坑中に火起る.其原因と發所を詳にせす.諸官吏百方消滅に力を盡す.
仝十六年一月十一日,「カヤノマ」炭山事業廢止の令を聞き,「イワナイ」「フルウ」兩郡に有志を募り,炭抗并に軌道,諸建物,諸器械等に至る迄,拜借の上坑業を興し,専ら鰊釜焚用に供せんヿを目的とし,武井忠兵衛外貳拾名,一つの組合を結ひ,明治十六年二月物件拜借開坑の儀を出願したり.尤も拜借の炭庫倒潟場等は破損數ヶ所に及ひたり.且,石炭及留木,矢木等御拂下け願,其他諸官舎建物,舎具等は當地に於
て悉く御拂下け又は取毀「イワナイ」へ運搬したる者なり.

  明治十七年四月,拝借物件左(下)の如し.
一,「カヤノマ」炭坑
    附属物件
一,坑内外の軌道据置きの儘.
一,大小炭車,坑内外運搬車,拾六輛并に一輪車,貳拾輛.
一,貯炭庫并見張所及倒潟塲とも建物   八棟
一,附属山林并に(炭庫軌道)鋪地とも惣坪數六百八万貳千五百九拾三坪七分五厘
    右(上)は拜借
一,殘石炭貳千六百五拾噸并採炭用留木矢板及石叺
    右(上)拂下け

右(上)出願,明治十七年四月十日を以て許可せられ,出願者及「イワナイ」「フルウ」兩郡有志者をして株金千二百五拾圓を募り(但一株金拾円),尚金千百七拾六圓を六名(武井忠兵衛,佐野川弘治,大崎龜吉,安田半兵衛,長濱彦太郎,澤口荘助)より出金す.
明治十七年七月より右(上)拂下石炭の販賣に盡力すと雖とも,一旦粗悪の評判を受けたる者なれは,絶て買ふ者無く,只坑内外貯炭庫軌道等の修繕のみを爲せり.而〆採炭着手の協議をなすも,組合出願者にして開鑛熱心の者,僅に四五名にして餘は集合に應せす.爲めに空しく數ヶ月を経過せり.
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*1:安政三年:1856年.
*2:武井忠兵衛:鰊漁の網元.初代,武井忠兵衛.当主は代々忠兵衛を名のるらしい.「北海道開拓の村」には「武井商店酒造部」の建物が移設されている.
*3:「ウスベッ」:臼別(古宇郡泊村臼別).
*4:文久三年:1863年.
*5:大島惣左衛門:大島高任.
*6:慶應二年:1866年.
*7:イー=エチ=エム=ガール:Erasmus H. M. Gower.(「蝦夷地質学の参」参照)
*8:同四年,戊辰の亂:1868(慶応四)年の戊辰戦争のこと.のちの明治政府によってかなり歪められた歴史が伝えられているが,この時点では江戸幕府軍と薩長連合軍による内戦である.
*9:明治二年:1869年.
*10:鈴木金吾:開拓使官吏,不詳.
*11:伊地知季雅:伊地知李雅と表記されている場合もあるが,季雅が正しいようだ.開拓使五等属.不詳.ライマン調査隊に同行したことがある.
*12:佐藤秀顯:佐藤秀顕.開拓使八等出仕.ライマン付け通訳および助手として探検に随行したことがある.明治18年,永山武四郎に同行,近文山山頂で国見をしたと伝えられる.
  

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