林子平の地質学
林子平は「江戸時代後期の経世家」として知られる.
1738(元文三)年生まれ.1793(寛政五)年に死去.
俗に「六無の歌」と呼ばれる「親もなし妻なし子なし板木なし金もなければ死にたくもなし」が,彼のすべてを表している.
「板木」とは「版木」のこと.彼は「板木」と書いたのだが,のちの人間が勝手に「版木」に書きかえたらしい.この「板木」とは「三国通覧図説」(1785;天明五),海国兵談」(1786:天明六)の版木のこと.両著は幕府重鎮の逆鱗に触れ,発売禁止の上,版木は没収された.
天明六年といえば,江戸幕府内で経済改革をおこない,蝦夷地開発を進めていた田沼意次が失脚した年.何が起こったか想像できるであろう.一方でこの年は,意次が派遣した蝦夷地探検隊の一人・最上徳内が千島を探検して得撫(ウルップ)島に到着している.
さて,子平の「三国通覧図説」の「蝦夷」には,以下のような記述がある.本人の著作権は切れているので,できれば原文を載せたいところだが,いわゆる“お宝”なのでトラブル回避のため,わたくしめの現代語訳を示す.
【現代語訳】
蝦夷地には,まず金山が非常に多いことが挙げられる.しかし,それを掘ることが知られていず,埋もれたままになっている.これは銀山や銅山もまた同じである.
さらに砂金の出る地域が多い.それはクンヌイ(*1)、ウンベツ(*2),ユウバリ(*3),シコツ(*4)、ハボロ(*5)などである.この砂金は川に流れ出たものだけではなく,その産地は数10kmにわたって一面に生じる.たとえば,ハボロの砂金は海底より打上るとみえて,北西風で大荒れした後は浜に百数十㎞にわたって一面に金色になるといわれている.
これらの金銀を採取せずに放置することは,まことに残念なことである.強く思うに,今これを採取せねば,こののち必ずロシア(*6)が取るであろう.ロシアがこれを採取したのちに後悔しても時既に遅しである.
一説に,砂金を取ろうとしてハボロで越冬すれば極寒のため必ず死ぬという.たとえ死に至らなくても病を得て廃人となるのは必至で,行く人はいないと聞く.思うにそれは準備不足が甚だしいからである.ハボロにおいて寒さのために死人がでるのならば,ハボロより北に住む人たちはどうやって生きていけるというのだろうか.寒さのために人が死ぬというのは,暖かい地域の住人がなんの準備・対策もなく酷寒の地に行くからである.寒さ対策があれば,どうして死ぬことがあろうか.考えるべきである.
---
*1:クンヌイ:kunne-nay (?) 「黒い川」というアイヌ語が語源とされる.訓縫(現在の長万部町字国縫)の事.「黒い川」の意味には諸説あり,川底が砂鉄で黒いからとか,川口から尾根まで10kmもなく日が暮れるのが早いからとかいわれている.別に伝説の巨鳥フリカムイが飛んできてあたりが暗くなったからというのもある.どれもイマイチ.さて,クンヌイの事であるが,実際は峠を一つ越えた今金町の利別川上流地域のことである.
*2:ウンベツ:不詳.様似郡を流れる「海辺川」流域か.様似町町勢要覧には1635(寛永十二)年「運別(西様似)の東金山で金採掘を行い,その河川に繁華な部落が形成された」とある.
*3:ユウバリ:夕張川のことと思われるが,その流域は広く,特定できない.しかし,石川貞治(1896)は「ユーバリ金田」の砂金・砂白金について書いている.このユーバリ金田とは主夕張川(シューパロ川)流域のことである.
*4:シコツ:「シコッ(sikot)」とはアイヌ語で,「大きな窪地」を意味するという.これは現在の「支笏湖」を意味するとか,支笏湖から流れ出る「川」(現在の千歳川:シコツの音が悪いので箱館奉行が縁起のいい「千歳」に改めたという)を意味するとか,諸説あるようであるが,たぶん両方なんだろうと思う.支笏湖周辺には「光竜鉱山・恵庭鉱山・千歳鉱山」などの金銀鉱山があった.
*5:ハボロ:現・羽幌川付近.ハボロに該当するアイヌ語は諸説あって不詳.子平はハボロについて詳しく著述しているが,実際にこの付近の海岸段丘・河岸段丘および沖積層の砂礫中には砂金および砂白金が含まれていることが知られている.羽幌の北約10kmの初山別村第二栄(旧セタキナイ)南方,南セタキナイ川上流では三浦鉱山が稼行していた.
*6:ロシア:原著では「莫斯哥未亞」(モスコウビアと読むか?)とある.
さて,子平の原著では,蝦夷の地理・風俗に詳しい解説があるが,この部分の砂金に関する記述も,恐ろしく詳細である.では,これはどうやって入手した情報なのだろうか.
じつは既に調べが付いている.詳しくはのちほど.乞う御期待.
0 件のコメント:
コメントを投稿