2018年12月6日木曜日

家大人小傳

「家大人小傳」

 この文章は,かなり前に書いたものであるが,その後よりディープな探索中である.で,正確でないことはわかっているが,もったいないので投稿しておく.


 「蝦夷地質学(*1)」で「皆川の記述は,徳内の「自叙伝ともいうべき『家大人小傳(*2)』」から引用してるようだが,島谷の文献リストには「家大人小伝」は,「高津鍬五郎著」になっている.なお,「高津鍬五郎」は,徳内の養子である.「家大人小伝」というのはその所在は不明である.」と書いておいたが,その後,探検中にいくつかわかってきたこと(?わからないこと?)があるので記しておく.

 この「家大人小傳」は山形県村山市の文化財として現存することがわかった(*3).しかし,完全な「お宝」であるから,これを検討することはわたしには不可能であろう.それはともかく村山市HPによれば「女婿・鍬五郎が書いたものを、その死後、次男・鉄之助が校定印刷したものです。」とある.
 女婿・鍬五郎とは何者か.そこで,島谷良吉の「最上徳内」から「第十一 家庭生活」を見てみると,おかしなことがわかる.本文文章の記述と家系図とに整合性がない.たとえば徳内の妻の名は,本文では「ふで」であるが家系図では「秀子」になっている(無断引用を禁ず,とあるので図示しない).鍬五郎は長女「ふみ」の夫「高津鍬五郎」.これでは徳内は鍬五郎の義父ではあるが,婿養子とは見えない.徳内の長男は幼くして死亡したようであるが,総領として「效之進」がおり,婿養子をもらう必要もないのだ.ちなみに,村山市HPにある「鍬五郎の次男・鉄之助」は島谷の載せた家系図には出ておらず,娘の名「きよ」は出ているものの,男子の方は「男」ひと文字で略されている.
 そこで,皆川新作の「最上徳内」から家系をひろってみると,じつは「ふで」は再婚であり,長女「ふみ」とされる女性は「ふで」の先夫の子となっている.これでは「ふみ」が「高津鍬五郎」と結婚していたのだとしても,鍬五郎が徳内を「家大人(=父親)」と呼ぶのは奇妙である.

 そう思って,島谷の「最上徳内」の年譜ながめて,またまたびっくり.
 徳内は,1788(天明八)年,「島谷清吉・妹ふで(19歳)と結婚」とある.もっと驚くことには,結婚を遡ること五年前,1783(天明三)年に「一女ふみ生まる」とある.19歳で既に離婚歴があり,しかも13~14歳で生んだ娘を連れて再婚….あり得なくはないけど,なにかおかしい.皆川の示した系図がおかしいのだろうか.
 1801(享和元)年二月十日,「長女ふみ(さんに改名)の婿養子・鍬五郎病没(20歳)」とある.結婚したのがいつであったか書いていないのでなんだが,この年「ふみ」は18歳のはず.この部分では鍬五郎が徳内を「家大人」と呼ぶのは整合する.しかし,村山市HPを信ずれば,20歳でなくなった鍬五郎には「次男・鉄之助」が既にいたことになる.これはおかしい.
 なんとならば,1810(文化七)年五月六日,「高津家より養子に迎えたる鉄之助病死す(27歳)」とあるからだ.この年,1781年生まれの鍬五郎は生きていれば29歳.鉄之助27歳ならば,鍬五郎の次男は鍬五郎が3歳の時に生まれたことになるからだ.したがって,鉄之助は高津家の生まれであるにしても,「鍬五郎の弟」というのが,一番あり得るところだろうか.であるとすれば,鍬五郎が徳内を「家大人」と呼ぶのは整合する.それでもこの時期,徳内の嗣子・效之進は健在であるし,鍬五郎と結婚していた「ふみ」は山城充之進と再婚しているので「鉄之助」を養子にする必然性はないのであるが….
 つまり,よくわかってないことが,あちこちに書いて印刷してあると云う事ね.

 さて話は変わるが,「家大人小傳」では,なんのことかわからないので,「家大人小傳(最上徳内小伝)」とでもした方がいいだろう.
 なお,人物叢書に「最上徳内」を書いた島谷良吉は,徳内の妻・ふで(もしくは秀:ひで)の実家の系譜な可能性が高いが,明示されていない.

以下,よりディープな世界に移動・探索中…

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*1:蝦夷地質学:地団研・北海道支部のHPに連載していた.北海道支部がいつの間にか崩壊状態となり,こちらには何の連絡もないままにHPは閉鎖され,今は“まぼろしの「蝦夷地質学」”となっている.支部はほぼ無政府状態(だれに連絡すればいいのかサッパリわからない)なので,こちらで勝手に復活させようかな,とも考えている.
*2:家大人小伝:家大人(かたいじん)とは,自分の父親を敬っていう語である.したがって,高津鍬五郎は徳内の息子ということになる.

*3:村山市のHPにて紹介.公開はされていない.

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