地質学史に関係ない女性を追いかけています.
理由は一つ.以前「ライマンの一目惚れ」を書いたときに,ライマンの人となりがよくわかり,同時にそのころのライマンを取り巻く社会がよく理解できたような気がしたから.歴史は,点ではなく連続,過去現在未来という線でもなく広がりを持ったものだから….うまくいくかどうか.乞う御期待.
最上徳内妻「ふで」は1770(明和七)年,茂辺地の廻船問屋・島谷清四郎の娘として生まれた(島谷の屋号は「島屋」らしい).1788(天明八)年,最上徳内(三十四歳)と結婚.1836(天保七)年,徳内を送り,四年後病没.徳内と同じ墓に埋葬.七十一歳.
われわれが,徳内の伝記として読める書籍には限りが有る.1977(昭和52)年,島谷良吉が著した「最上徳内」(人物叢書)が一般的であるが,この書はすでに絶版.徳内という人物すらも,すでに知ることが困難になっているのに,その妻などわからないことの方が多い.でも,わたしが知りたいことは,だいたいみんな知ることが困難な事ばかりなので,今さらとして,探ってみることとする.
「ふで」の実家は島谷家である.島谷といえば,1977年に徳内の伝記を書いた著者は島谷良吉という.たぶん,島谷ふでの家系なのだろう.だが,人物叢書「最上徳内」には,明確には書かれていない.「はしがき」の最後の一行に「私の島谷宗家にもその御厚意に対し深甚なる謝意を表して止まない」とあるだけである.
島谷(1977)には,わずかに「ふで」に関しての記述がある.
第四章の四に「島谷ふでとの結婚」という節があるが,5頁にわたるこの節で「ふで」に関する記述はほとんど無く,野辺地の由来と町の概要が大部分を占め,その町に失意の徳内がやってきたことで占められる.徳内が参加した「天明の“蝦夷地探検隊”」は田沼意次の失脚により頓挫.再度蝦夷地に渡ろうとするも松前藩に阻止され,南部領野辺地で船頭・新七に厄介になっていた.
そのころ,茂辺地の廻船問屋・島谷清四郎(島谷家三代目:清吉)は徳内が遠縁に当たること,また蝦夷地探検の有名人であることを知り,島谷分家の後継にと,清吉「妹ふで(秀子)と結婚」させることとした.この時,1788(天明八)年,上記のように,徳内は三十四歳,ふでは十九歳であった.それがいつの日のことであったのかは記述されていない.また,「ふで」は「秀(ひで)子」という別名を持つのか,あるいは単なる誤記なのかも,ここではわからない.
1789(寛政元)年五月,クナシリ騒動の報が伝わり,徳内は青嶋俊蔵と合流し野辺地を発つ.松前に上陸したのは七月十五日というから,徳内とふでの新婚生活は一年前後であったろう.
つぎに「ふで」が登場するのは,翌年,1790(寛政二)年である.クナシリ騒動後,青嶋俊蔵の獄死,俊蔵に随行した徳内も入牢の上死刑という噂が野辺地に伝わった.徳内を心配した「ふで」は神仏に祈ったが耐えきれず,七月末,“八戸の神事見物に行く”と偽り,家を出た.そのとき「幼い男児」を背負っていたという.「ふで」が二百里余りの道を歩き通し江戸に着いたときには,すでに十月になっていた.男脚の約二倍の日数がかかっている.
江戸に着いた「ふで」は日本橋に宿を取り,徳内の無事を神仏に祈願したあと人通り多い道筋にたち,見知った顔を捜し徳内の消息を得るつもりであった.七日後,知り合いを見つけ徳内の消息を聞くと,すでに罪を許されて本多利明宅にいるという.そのまま本多宅へ向かう道で,偶然にも徳内に出会い,涙の再会を果たした.
二人は,そのまま江戸は神田に借家し,親子三人で暮らし始めた.しかし徳内は,その年十二月二十二日,再び蝦夷地御用を仰せつけられ,二十九日には江戸を立った.二ヶ月足らずの家庭であった.
その後の徳内の八面六臂の活躍は詳述されているが,「ふで」についての記述は見当たらない.最終章の「家庭生活」にもほとんど記述はない.ただ,徳内はたくさんの蔵書を持っていた“らしい”ので,その支払いを任されたであろう「ふで」はよき妻であった“のだろう”としかない.わずかに徳内八十歳の時に,野辺地に送った書簡の中から,当時の徳内の家族構成が示されている.そして最終章のあとに「最上徳内家系図」が掲載されているが,本文とはほとんど整合しない唐突さである.
末尾には「略年表」がある.そこには,徳内二十九歳の時(ふでは十四歳),「一女ふみ生まる」とあるが,徳内と「ふで」が結婚したのは,上記のように1788年,徳内三十四歳の時である.「ふみ」は徳内が江戸で修行中の時に生まれたのだ.島谷はこの件に関してはなにも語っていない.
「ふで」の実家の家系であろうと考えられる著者・島谷の割には,島谷良吉自身は分家である(明瞭には書いていないがそう読める)とはいえ,島谷宗家に謝意を表しているにもかかわらず,「ふで」の姿は見えてこない.
こうなると,性格の悪い私は「ふで」の姿を追い求めてみたくなる.「ふで」と地質学はまるで関係がないのであるが,ご容赦(m(_ _)m).
次回に続く…
2 件のコメント:
地質屋さんが、徳内を調べているのは奇異にみえる。さらに、その妻にも興味津々とは! 小生と同じく凝り性のように見受けられた。 この頁は多分2度目かも知れない。島谷の最上徳内の記述を筑波大で再確認しようとしたが、習近平コロナで 入館証を持っているにもかかわらず、一般人入館禁止で閲覧できず。この、Websiteに戻ってきました。下記の、数件について教えていただければ幸いです。
1)徳内が、寛政4年(1792)にカラフト見分の下命で探査していますが、探査は徳内一人で行ったのでしょうか? この時の随行者は誰であったか、小生のメモに書き落としているためお尋ねします?
2)根室に出張した普請役田辺安蔵、小人目付田草川伝次郎及び医師元安がいますが、彼らは徳内とは別個に、江戸から下ったのでしょうか?
3)徳内と田辺安蔵(寛政2年には蝦夷地御用で同道、両者とも身分は普請役?)は 身分として同じ普請役?のようですが、序列としてどちらが上でしょうか?
4)次年の正月まで松前に留まった徳内は 田辺に何かと指示したと思われますが、どのような指示/助言でしょうか?
厚かましい質問ですが、教えていただければ幸いです。
以上は、コメントでありませんので公開はされないように願います。
宇都宮陽二朗
茨城県つくば市観音台1-13-3
y_utsu@qb3.so-net.ne.jp
、
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