2020年2月23日日曜日

北海道における石灰岩研究史(1)

北海道における石灰岩研究史(1)

 「勝手にジオパーク」を再開しようとして,「まぼろしの鷹栖石灰岩」について書こうとしたら,なんとブログで一切触れていないことに気がついた.
 しからばと,まとめ始めたら,「オルビトリナ」も「石灰岩」も混乱(わたしの中だけの混乱ですが(^^;)してることが判明.今,北海道の石灰岩研究史から整理中.急がば回れです.

 地下資源の代表である金属資源鉱山や,エネルギー資源である石炭山も根こそぎ廃山したあとも,石灰岩は日本で唯一,自国で賄うことのできる鉱産物であり,コンクリートの材料としても肥料としても,重要な資源として各地で採掘されています.
 北海道の「石灰岩調査史」については,田中寿雄が博士論文の中でまとめています.しかし,残念なことに少し時代が古いこと,また田中の興味は「鉱床としての石灰岩」にあるようなので,そのままでは現代的ではありません.そこで,田中(1973MS)をベースに「石灰岩研究史」を作り直してみたいと思います.この論文は,どこで入手したのか忘れましたが,活字で組んだ小冊子の形態をとってました.

田中寿雄の「北海道における石灰石鉱床の調査史」

 田中は「北海道における石灰石鉱床の調査史」を三つの時代にわけています.それは…

  1)くさわけ時代(1874-1892:明治725
  2)北海道鉱物調査報告の時代(1893-1924:明治26~大正13
  3)北海道有用鉱産物調査報告の時代(1925-1945:大正14~昭和20
  4)戦後の再吟味時代(1945-1969:昭和2044

 1)「草分け時代」は北海道というよりは,日本全体で「地質調査」が始まった時代でした.そしてその調査は未開の北海道では,まさに「草やぶを分ける」時代でした.ライマンやその弟子たちの一連の仕事や,神保小虎石川貞治横山壯次郎浅井郁太郎たちの調査があります.実際にはライマンの地質調査と神保らの調査の間には,10年の空白がありますが,それもまた,一つの特徴なのでしょう.

「來曼先生と其の若かりし門下生」

 2)「北海道鉱物調査報告」については,植村(1968に詳しいです.これは農商務省「地質調査所」の所管事業として行われたもので,明治43年から大正13年(19101924)の14年間にわたって実施されました.したがって,田中の「明治26」年からというのは空白期間を多く含み正確とはいえません.大正13年に,この鉱物調査報告が終了したのは,関東大震災が原因です.例によって,北海道は国策のダンパーとして,そのときどきでいいように扱われてきたのですね.この鉱物調査報告の前には「北海道庁地質調査(「新地質調査」という俗称もあるらしい;もちろんライマン等の調査が「旧」ということでしょう)」として石川貞治,横山壯次郎らの「鉱物調査報文」(1894),「鉱物調査第二報文」(1896)が出されています.

 3)「北海道有用鉱産物調査」については,佐藤・斎藤(1968)にその概略が記されています.昭和4年,北海道庁が工業試験場を使って全道の有用鉱産物調査を行うことになりました.その報告は第1報から第10報(昭和511年)まで発行されています.その間に北海道大学に地質学鉱物学教室が設置されています.また北海道庁,札幌鉱山監管局,帝室林野局,札幌鉄道局,北海道帝国大学などと民間業界の援助によって,財団法人北海道地質調査会が昭和6年(1931)に設立され,北海道の地質に関するデータは飛躍的に増大した時代でもあります.
 「北海道有用鉱産物調査」については,いつかブログで紹介したいと考えていますが,古書店で入手したものの,一部欠如してますし,なによりも付属しているはずの地質図が抜かれていますので,いつになるかわかりません.

 4)太平洋戦争の敗戦によって,戦争によって得た植民地とその産出資源はすべて失われました.復興のためには,どうしても国内の資源調査が必要でした.そのため未調査部分の多い北海道には多くの期待がかけられたのでした.そして地質調査所北海道支所1948:昭和23年),北海道立地下資源調査所1950:昭和25年)が設置されました.
 田中の論文は1973年ですから,当然その後の研究史については示されていません.では,田中のいう意味での「戦後の再吟味時代」は,その後も続いているかというと,そうとは思えません.現在は既に地質調査所北海道支所は閉鎖され,北海道立地下資源調査所は「道立地質研究所」と名前を変え,その業務内容も大きく変わってきています.では,その後の時代はいつ始まり,なんと名付けるべきか.それは,この後,歴史を整理しながら考えてゆくことにしましょう.

(つづく)

0 件のコメント: