2020年2月25日火曜日

北海道における石灰岩研究史(3)


北海道における石灰岩研究史(3)

「鉱物調査報告(北海道之部)」の時代(1893-1924:明治26~大正13年)
(田中 1973の「2)「北海道鉱物調査報告」の時代」改題

 田中(1973)には「北海道鉱物調査報告」とありますが,実物の表紙には「鉱物調査報告(北海道之部)」とあるので,上記時代名を改称します.
 なお,鉱物調査報告については植村(1968)に詳しいです.また,調査報告のリストについては,こちらを参照のこと(もとに戻るときは,ブラウザの戻るボタンで).
 その調査は1910(明治43)年に始まり,関東大震災後の緊縮政策によって1924(大正13)年に閉じられるまで14年間続きました.報告書は1911(明治44)年から1930(昭和5)年の37号まで刊行されましたが,最後の37号の発行は36号の発行から5年の空白期間がありました.

 この調査は,明治43年から大正6年までの前半期と,大正7年から同13年までの後半期で,その性質が異なります.前半期は地下資源分布の広域調査で,これにより有望地域を抽出すると同時に,地質の分布および構造を理解し,将来の地質調査の基盤を築くことでありました.後半期は前半期の調査結果から抽出した地域の精査で,天塩・釧路炭田および天塩油田・ガス田の調査に重点が注がれました.
 要するに,これまでの調査では北海道全体での資源開発としては充分ではなく,効率的かつ経済的な判断も含めたということでしょうか.たとえば,同じ資源で同じ埋蔵量ならば,運搬積み出しに有利なものを選ぶというような.
 前半期の調査員は伊木常誠,大日方順三,小林儀一郎,岡村要蔵,山根新次,清野信雄,門倉三能,納富重雄です.後半期には,若手の飯塚保五郎,鈴木達夫,六角兵吉および植村癸巳男らに引継がれています.


4号コンテンツ

 報告書第4号では,岡村(1910)が日高沙流川流域のニセウ河口で,静内・新冠・三石三群地方では三石川,染退川,新冠川の石灰岩を記述していますが,交通の便が悪く採算が合わないとしています.
 一方,同第4号中で,山根(1910)は幌別川「シュンベツ」の石灰岩,新様似の「エサマンベツ」と「メナシュエサマンベツ」の合流点附近にある石灰岩は,どちらも品質も良く,馬で運搬が可能である,としています.
 また第5号で,小林(1911)が胆振国勇払郡鵡川流域の「ニニュー」附近で二層の石灰岩を認めたが両層とも「大ナラス」としています.
 同5号では,伊木(1911)が日高国元浦川流域および浦河附近で,元浦川支流「シーホロカアンベツ」川および幌別川支流「シュンベツ」川下流に露出するとし,後者は「ルーチシャンベツ」河口附近に「大ナルモノ一條」あるものの小塊が非常に多い,としています.これらは,何れも(当時の)古生層中とされ、化石は認められていません.
 第12号では,大日向(1913)は渡島国江良町の清部鉱山附近の“古生層”は「往々「レンズ」状の石灰岩」を挟在するとし,また大鴨津川,小鴨津川の石灰岩も記述しています.
 これらの報告書群には,小さな岩体を含めて多くの石灰岩の位置が報告されました.前記以外にも北見国枝幸郡の咲来峠,紋別郡上興部,上川郡奥士別のもの等があり,また十勝支庁管内では足寄郡螺湾のものが初めて知られるようになりました.調査の目的が金属,非金属,石炭,石油などの鉱物資源であり,網羅的に調査されたため,このころはまだ利用価値の低かった石灰岩も多く見いだされたのでしょう.

 この「鉱物調査報告(北海道之部)」ではありませんが,この時代の地質調査所報告に,納富(1919a)が石狩及び十勝国境附近の鉄道沿線地質調査で南富良野村鹿越の石灰岩を,また納富(1919b)が北見國紋別郡遠軽から石狩國上川郡永山までの道路沿線調査にて比布の石灰岩(現.突哨山石灰岩)について報告しました.このとき比布の石灰岩については,既に5年前から焼成石灰を販売していたといいます.
(つづく)


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