2022年3月2日水曜日

パドレたちの北紀行Ⅸ(中休み2)


 さて,二人のパドレの北紀行ですが,もちろん,彼等自身が書いた記録が直接入手できればいいのですが,それは不可能です.一つには,彼等の報告書(手紙)はある宗教団体が管理しているもので「存在するものかしないものか」がわからず,あることがわかったとしても「全部出てきているものかどうかが分からない」わけです.まれにその宗教関係者もしくはそれに無関係な人が報告することがありますが,この資料の実在確認も一筋縄ではない.ヨーロッパ世界の性質として,似たような言語で違うような似たような言語に翻訳してある場合,原意が変わっていないかどうか確認のしようがない.どれが「元」なのかの確認もなかなか困難だということになります.


 残念なことに,私はポルトガル語もイタリア語もフランス語も,不自由なことこのうえない.だから日本語に訳された文書を見るしかないのですが,たとえば,一旦フランス語に訳された言語があって,そのフランス語を日本語に訳されたものを見るわけですから,このうえなく心もとないわけです.


 一方で,パドレたちの報告書は,我々になじみのない言語で記されており,しかも大部分はめったに門外不出の宗教団体の書庫にあるわけですから,一般日本人が(じつは)見たりすることが困難なわけです.ということは,吉田小五郎訳のレオン=パジェス版「日本切支丹宗門史」か,書庫からまれにでる二人のパドレの報告書のみが,「情報元」として成立するわけです.そういう目で見れば,引用文献もなく「独自の」情報を示す文献(書籍,講演)は無視しても構わないのではないかと思われます.

 なお,「パドレたちの北紀行Ⅰ」で示したように原著Pagès (1869)にしても,歴史資料として取り扱って良いのか,という疑問があります.これも,傍証が見つからない限りは「?」マーク扱いのほうが安全でしょう.


 以下,資料のリストアップ&チェック・再チェック


ジロラモ・デ・アンジェリス(Girolamo de Angelis),

ディオゴ・デ・カルヴァーリョ(カルバリオ)(Diogo de Carvalhoのレポート

 直接の確認は不可能ですが,存在することはほぼ間違いないもの.


Pagès (1869)

Pagès, Léon, 1869; Histoire de la religion chrétienne au Japon.

 【仏語版】残念ながら入手しても読めない.吉田(1938訳)参照.「パドレたちの北紀行Ⅰ」参照.


ヴィリヨン・加古(1887;初版~第六版)

 表題は「日本聖人鮮血遺書」.「仏国ビリヨン閲/日本加古義一編」になっている.

 ヴィリヨンはヸリヨンなどとも表記される.最近はビリオンと表記されているので,以下ビリオンと表記する.

 ビリオンの講話を加古が聞き取り,編集したとされる.ビリオンはPagès(1869)を再編したというが,怪しげな部分も多い.

 いくつかは国会図書館のデジタル文庫にある.


ヴィリヨン・加古・松崎(1926)

 同上を松崎が再編したもの.表題は「校注 切支丹鮮血遺書」となっている.

 松崎が再編集し,校注を加え,当時の“現代語”訳したもの.Pagès版を参照し,多くの間違いを訂正したという.

 国会図書館のデジタル文庫にある.


姉崎正治・山本信次郎(1926監修)

 上記と同じ1926年発行.「日本聖人鮮血遺書 ヴィリヨン」(日本カトリック刊行会刊)と中表紙にある.


入江浩(1996編訳)

 「現代語訳・切支丹鮮血遺書」と題する.ヴィリヨン口述を現代語訳したと称しているが,内容は大幅に省略され,長崎で殉死した二十六聖人に限っている.

 デ・アンジェリスやデ・カルバリオの話は出てこない.これで,松崎編と同じ題名を使うのはいかがなものかと思わせる.


姉崎(1930a, b

 【Pagès版】を情報源とするといわれている.入手済み.こちらの目的には合わない.


レオン・パジェス(1869)日本切支丹宗門史(上~下巻)(吉田小五郎,1938訳)

 入手済み.年号順の記述.人物中心ではなく,事件中心である.逮捕された切支丹と役人あるいは現場に居合わせた一般人の感想,会話などまで含まれており,疑問な点も多い.

 下巻末尾に人物名索引があるが間違いが多い.理由は,登場人物はほぼ“聖名”であるため,同姓あるいは同名が多いためと思われる.


フーベル, G.1939

 【Pagès版】が主de Angelis, de Carvalhoの直接の引用はない).

 いくつか別の文献からの引用があるが,引用形態が特殊なので,追跡困難および不可能(「備考並びに参考書目」とある).おおくは宗教関係組織の蔵書らしい.なおフーベルは,デ・アンジェリスは1616, 1618, 1621, 1622年の4回,デ・カルバリオは1617, 1620, 1623年の3回訪蝦していると明言している.



 以下,1941年から兒玉作左衛門が登場する.

 兒玉は,有名な北海道帝大教授.アイヌを差別的に扱った研究でも有名である.


 彼が登場してから,研究は大きく進展したが,一方で多くの混乱ももたらした.彼の研究を引用して(しかも引用は示さない)論じた書籍は多く出版されたが,初期の混乱がある時代の論文を引用しているものが多い.その出版が,兒玉が混乱を整理した論文を出したあとに出版されているのにもかかわらず.これが混乱を増幅させている.

 しかし,兒玉の研究は外人宣教師の「アイヌおよびアイヌモシリについての記述」の研究であるから,わたしの目的とは似て非なるものである.以下,兒玉の研究については別に設けよう.


(つづく)


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