今村義孝(1960)秋田の切支丹.
今村は1909年,熊本市生まれ.東京高等師範を卒業して,当時秋田大学教授だった.秋田大学は むかしから鉱山関係が有力で,その理由は…たぶん…この後わかるだろう.
秋田藩は近世初期のキリスト教伝道には後進地であった.今村はキリシタン宗門の歴史を
第一期:1548(天文十八)年から1587(天正十五)年
第二期:1587(天正十五)年から1614(慶長十九)年
第三期:1614(慶長十九)年から1640頃(寛永鎖国前後)
の三つにわけ,秋田藩への伝道は第三期に始まるものとしている.期区分の根拠は述べられていない.
想像するに豊臣秀吉が伴天連追放令を出したのが1587年7月24日(天正十五年六月十九日)であり,大坂冬の陣の始まり(豊臣家が滅び徳川家康が天下を取った)が1614年12月19日(慶長十九年十一月十九日)からであろう.
1613(慶長十八)年のある記録によれば,「ペードロ人見は数年前伏見で洗礼を受けた一人のキリシタンで,京都」から「出羽の国に往き,200人以上に洗礼を授けた」という.
その頃,「院内銀山(雄勝郡雄勝町:現・湯沢市院内銀山町)の山奉行であった梅津正景の1613(慶長十八年四月)の日記の中に、ペイトロ(Pedro)、ミゲル(Miguerl)、ジュアン(Juan)、アンナン(Anna)などキリシタン武士と考えられる人々との文通が記録されている」という.
また,「寛永元年(1624)三月十一日付けで佐竹義宣が江戸から梅津憲忠に送った書状の中に、」
「秋田仙北郡金山に居候者の中にタイウス宗旨(キリスト教)の者これある由、他国の者に候間、私に成敗致す儀、如何これあるべく候。」とあるそうである。
これにより今村は「ペードロ人見の影響を受けた者のほかに、仙北地方の諸鉱山にはキリシタンである他国者が鉱夫として、多数働いていたことを示している。」としている.
付図1(今村,1960より)
「慶長年度以来元和年間にかけて、院内銀山をはじめ各地に金・銀山が開発きれてきた(付図1参照)。そのために、多数の稼ぎ人をこれらの山に吸収することになった。この時期は関ケ原戦の後をうけ、敗れた西軍の大名で除封されたり、滅封されたりした者が多かったので、多数の武士が牢人となって放出された。反対に大名に成り上がったり、増封された大名たちは家臣団の拡張に努めたので、牢人の中には、新たに主取りできた者も多かったが、食を求めて流浪する者も多数あつた。」
「慶長一二年(1607)院内銀山で始めて山仕置奉行が置かれた時の調べによると、全国各地から牢人や山師が多数おり、その中には備前浮田氏の重臣田太市右衛門もいたことが知られる。寛永元年(1624)院内銀山で捕えられたキリシタンについて、その負える国名や地名を見ると、仙台・関東・越後・越前・駿河・尾張・伊勢・播磨・備前・石見などが知られ、そのことを裏書している。いかに院内銀山が栄え、そのために各地から人口集中が行われたかは、一六二五年(寛永二年)の日本年報の中に、」
「出羽国の仙北と呼ばれる地方に、院内(Ianai)という土地があって、きわめて豊富な銀山であって、日本全国から人が集まっている。」
「と、あることや、開山された頃、山小屋千軒、下町千軒、数二千軒の銀山町ができたことでも知られるであろう。」
院内銀山の山奉行の調査によれば,「全国各地からの牢人や山師が多数」いた.
「日本年報」:正式には「イエズス会日本年報」というらしい.1597(天正七)年,布教のため来日したイエズス会士によって毎年作成された報告書のこと.「日本の政治情勢、教会の状況、各地のようすなどが報告された」という事なので,なにかありそうだが,現在入手不可能.
ここでも「…千軒…」が出てくるが,実際に千軒あったというよりは,鉱山開発などでたくさんの人員が必要な場合,短期間でたくさんの住み処が建てられるこの様子を表したものという,ことであろう.
今村のいう第一期に膨張したキリシタンは武家社会のみならず,各階層にキリシタンを多産した.一方で,豊臣から徳川に天下が変わった社会情勢からは,多数の余り者を生み出し,そうした余り者を吸収する場所として,当時盛んに開発された鉱山は格好の受け皿だったのだろうと.今村は以下のようにいっている.
「むしろ、院内銀山のキリシタンたちの中には、そのような各地のキリシタンの中で、安住の地を鉱山に求めて、集まり住んだものもあったにちがいない。」
今村(1960)は「二 伝道とコンフラリヤ」という章の中で「ジロラモ・デ・アンジェリス」と「ディエゴ・カルバリオ」という項目を設けている.
以下,「ジロラモ・デ・アンゼリス(Girolamo de Angelis)」より.
「慶長一九年(一六一四)江戸幕府は全国的なキリスト教禁教令を公布すると共に、京阪地方の主要なキリシタンを津軽(青森県)外ヶ浜に追放した。そのキリシタン等はそこで貧困な状態のうちに開墾に従事し、物質的にも精神的にも救済を求めていた。」
京阪地方:前出に「京坂地方」があるのだが,大坂が大阪になったのは明治なってからの事なので,ここでは「京坂地方」が正しい.
津軽(青森県)外ヶ浜:現在の外ヶ浜町とは違う.当時は陸奥湾西南部(竜飛から青森を通って狩場沢辺りまで)のこと.
「津軽キリシタン救済のために、九州の信徒の集めた金と布施とを持って、元和元年(一六一五)東北地方に赴いたのがパードレ・ジロラモ・デ・アンゼリスであった。その時以来、信仰の自由が認められていた仙台を根拠地として、東北地方に伝道の旅をつづけ、特に出羽・津軽・エゾ地における開教者となったのである。その東北伝道は命を受けて江戸に去った元和七年(一六二一)までの六年間であった。」
東北地方に伝道の旅をつづけ、特に出羽・津軽・エゾ地における開教者となった:このようにいわれることが多い.たぶんそうなのであろう.しかし,記述に具体性を欠き,余り参考になる事例は見つからない.
続いて「ディエゴ・カルバリオ(Diego Carvaglio)」についての記述がある.
日本では,当人の記述はめったに見つからない.この時点でググっても出てくるのは私のブログだけである.一方,Wikipediaには英語版・独語版・仏語版・波蘭語版・葡萄牙語版に「Diogo de Carvalho」の項目がある.内容的にも,当時蝦夷地へやってきた人物に違いない.
参考までに,各国版の名前
Diogo Carvalho(独語版)
Diogo de Carvalho(英語版)
Jacques Carvalho(仏語版)
Jakub Carvalho(波蘭語版)
Diogo de Carvalho(葡萄牙語版)
という風に,Diego Carvaglioという表記は見つからない.なお,当人はポルトガル人であるから「Diogo de Carvalho」と綴られるべきであると思うが,これを日本語カタカナ表記でどうすべきかはわからない.
「アンゼリスに次いで秋田藩領の伝道に最も深い関係を持ったのはパードレ・カルバリオであった。カルバリオが東北にきたのは元和三年(一六一七)であって、それ以来出羽・津軽及びエゾ地の伝道に従事した。その伝道は寛永元年(一六二四)に仙台領下嵐江で潜伏中捕えられるまで七ヵ年つづけられたのである。」
元和三年(一六一七):こちらも,今村は旧来の説を遵用し児玉説は取らない.あるいは児玉ほか(1954)を読んでいないのかも知れない.
出羽・津軽及びエゾ地の伝道に従事:その時期などを知りたいのだが,これでは残念.
「その場合に問題になるのは、外国人宣教師としての言葉の障害や困難な風習の理解と、潜入伝道のむずかしさであった。元和三年(一六一七)秋田領から津軽に潜入したヤコモ・ジュウキ(Iacomo Giuchi ディエゴ結城師父)のように、日本人の場合は問題はなかったと思われるけれども、外国人として未知の地方ヘ伝道するのに、アンゼリスは「善く日本語に通ず」といわれ、カルバリオは「少しく日本語を解す」とあっても、日本人同宿の援助が必要であった。いわば、同宿はパードレと同行し、その手先となって伝道に力をつくした人たちであった。」
言葉の障害や困難な風習の理解:日本人に化けるにしても,髪の色はともかく虹彩の色などは変えようもなかったので,潜入は難しかったと思う.また,一年やそこらの日本語学習で,役人にバレないほどの方言や生活習慣を身に付けられたのか疑問に思う.特に藩ごとに独立していた当時の社会では,他国のひとや幕府の隠密などに警戒が厳しかったと思われ,外国人がうろついていたら,まずキリシタンと思われるのが間違いないところだろうとも思う.
同宿で回りを覆って,本人は出来るだけ目立たない様にでもしていたのだろうか.
「元和元年(一六一五)津軽に潜入したアンゼリスは医者をよそおい、元和五年(一六一九)カルバリオは仙北の鉱山地帯に伝道する時や、その翌年(一六二〇)秋田から松前(北海道西南半島部)に渡る時には、鉱山の監督として潜入したり、鉱夫の服装をして渡海している。山師・金掘りに偽装したのは、この頃の金・銀山開発の奨励のため、それらが諸国鉱山を自由に遍歴し得る特権が与えられていたのを利用したものである。またその年秋田から津軽へ潜行する時にはカルバリオは商人の服装をして、ワタ・カンエモン(Vata Canyemon 和田勘右衛門)と名のり、同行の同宿はイタヤ・キヒョーエ(Itaya Chifioye 板谷喜兵衛)と改名して、共に津軽の番所を通過している。その帰りに秋田から仙北地方のキリシタンを訪問する時には百姓の服装をしていたというように、それぞれの場合に応じて偽装潜行しなければならなかったのである。」
アンゼリスは医者をよそおい:パジェス(1869;吉田,1938訳)には医者を装ったという記述はない.初出か? また,出典はなにか?
鉱山の監督として潜入したり、鉱夫の服装:パジェス(1869;吉田,1938訳)には「旅手形には,坑夫として書いて貰つた」とあり,「監督」は初出である.
その年秋田から津軽へ潜行する時:パジェス(1869;吉田,1938訳)には「一神父は坑夫として…」としているだけで,カルバリオとは書いていない.初出か?
伝道当時の峠越えの道は余り明らかでないが、一七世紀後半に仙台領から秋田領にはいるには三つの道があったという.
(1)仙台領尾ヶ沢―水落峠(鬼首峠、八三〇米。雄勝郡雄勝町秋ノ宮)―下院内(雄勝郡雄勝町)。:すでに地名情報が古いので書き直し:国道108号線軍沢より鬼首道路沿いに旧道に入り,大崎市鳴子温泉⇄鬼首峠(815m)⇄湯沢市秋丿宮⇄湯沢市下院内
(2)仙台領寒湯―四段長根(七四六米。雄勝郡皆瀬村)―湯沢(湯沢市)。:すでに地名情報が古いので書き直し:国道389号線沿い.栗原市花山本沢温湯⇄花山峠(741m)⇄皆瀬川⇄湯沢市
(3)仙台領下嵐江―柏峠(一〇一八米)―幡松峠(雄勝郡東成瀬村)―増田(平鹿郡増田町):すでに地名情報が古いので書き直し:“下嵐江”は現・奥州市奥州湖に水没.柏峠,幡松峠はすでに国土地理院地図より消滅.旧称仙北街道といわれ,下嵐江から小胡桃山~大胡桃山を通り,ツナギ沢に降りて栃川を下り,小出川を渡って向いの尾根筋を登り,そのまま尾根沿いを柏沢を見下ろしながら1018mピークに向かって西進し東成瀬村界沿いに行くところを「柏峠」と呼んだらしい.そのまま岩ノ目沢を見下ろしながら東成瀬村と奥州市胆沢の境界沿いに,959mピーク,887mピークを渡って秋田県側にはいるルートがあったらしい.(岩手県文化財報告書,43集)
(付図1参照)
そして,いずれも「山坂難処にして、牛馬通ぜず」といわれる難所である.
今村(1960)は「下嵐江からの道は、その東端に仙台領水沢があり、そこは仙台藩キリシタンの中心後藤寿庵領見分に近く、多数のキリシタンがいた。下嵐江もまたキリシタンの村であり、峠を下って山道を出れば、仙北の平野がひろがり、周辺の鉱山入の道も開かれていたので、最も利用されたものとも思われる。」としている。
一方,秋田から津軽へいく道は,矢立峠(北秋田郡花矢町矢立:現・大館市長走陣場)を越えて碇ケ関にでる羽州街道が利用されたようであるとしている.
また,元和八年(一六二二)には荘内地方のキリシタンに招かれたカルバリオが、酒田に三日滞在した後、そこから秋田藩の久保田(秋田市)に行ったとあるから、由利を経て潜入する場合もあったとある.
由利とは,秋田県(出羽国・羽後国)にあった「郡」のこと.現在の「由利本荘市」・「にかほ市」・秋田市の「一部」にあたる.
カルバリオの伝道の詳細については明らかではないが,元和五年(一六一九)仙北と秋田で半月間、その翌年(一六二〇)には久保田(秋田市)のほかキリシタンの地七箇所、銀山一箇所を廻り、その旅は三ヶ月にわたったといわれる。また,イエズス会の記録では以下.
院内(雄勝郡雄勝町院内。奥羽線院内駅下車)*1、寺沢(雄勝郡雄勝町寺沢。奥羽線横堀駅下車。秋宮温泉行きバス10分)*2、薄井(平鹿郡大雄村。奥羽線横手駅下車。横荘鉄道館合駅下車)*3、善知鳥(仙北郡千畑村善知鳥。奥羽線大曲駅下車。羽後交通バス黒沢行一丈木下下車。徒歩一時間)*4、久保田(秋田市)*5の五箇所であって、これに万治二年(一六五九)キリシタン調べにあらわれている、下院内(院内の一部)*6、横堀(雄勝郡雄勝町。奥羽線横堀駅下車)*7、湯沢(湯沢市)、豊前谷地(平鹿郡浅舞町地内。横荘鉄道浅舞駅下車)*8、角館町(仙北郡角館町。奥羽線大曲駅乗換え、生保内線角館駅下車)*9、刈和野(仙北群西北仙北町刈和野。奥羽線刈和野駅下車)*10、上淀川(仙北郡協和町。奥羽線羽後境駅下車、東南二粁)*11、比井野(山本郡二ツ井町。奥羽線二ツ井駅下車)*12、小勝田(北秋田郡鷹巣町小田。奥羽線鷹巣駅下車。西南約4粁)*13の九箇所を加えると一四箇所となり、広範な地域に伝道されたことがわかるのである(附図1参照)。
地名は,現在大きく変わっているので以下に示す.大合併は大迷惑である.
*1:院内(現・湯沢市上院内小沢)
*2:寺沢(現・湯沢市寺沢)
*3:薄井(現・秋田県横手市雄物川町薄井)
*4:善知鳥(現・仙北郡美郷町千屋善知鳥)
*5:久保田(現・秋田市千秋公園)
*6:下院内(現・湯沢市下院内)
*7:横堀(現・湯沢市横堀)
*8:豊前谷地(不明.浅舞町は現・横手市南西部.備前谷地なら現・横手市平鹿町中吉田備前谷地)
*9:角館町(現・仙北市角館町)
*10:刈和野(現・大仙市刈和野)
*11:上淀川(現・大仙市協和上淀川)
*12:比井野(現・能代市二ツ井町比井野)
*13:小勝田(秋田市豊岩豊巻小勝田)
今村(1960)は,秋田領にはこれほど広域にかつ大人数のキリシタンがおり,堅く組織されていたからこそ,パドレたちが潜入でき,ある種拠点のようにここからまた別の地域に潜入できたに違いないと言っている.
逆にいえば,これほど大規模な秘密組織が国内に形成されたからこそ,弾圧が強まったといえるだろう.
この時期(1622(元和八)年),仙北地方に起きた事件に「大眼宗」事件というものがある.大眼宗なるものの正体もよくわかっていないのだが,今村の示すところによると「大眼宗は鉱山地帯で多く信仰され、その宗旨は神仏を信ぜず、太陽と月とを崇拝し、奇蹟を行ったとあるから、一つの民間信仰として発達したものであろう。」とある.「…とある」と書かれているが,なにに書かれてあるのかも不明な曖昧な書き方である.
その曖昧な情報をまとめてみると,1)鉱山地帯に信者がおおくいた,2)「神仏を信ぜず」が「宗教」といえるのかどうかは定かではないが,「キリスト教の神」や「八百万の神」を信じないというのはある意味理解できる.また「仏を信じない」というのは「覚者を信じない」という意味を計りかねる言葉になるので,よく意味合いが分からずにどこかから引用したものであろう.「太陽と月とを崇拝し…」は太陽と月を“神”として崇拝したとなるから,文中矛盾が生ずる.これはやはり,既存の「仏教でいう仏」や「八百万の神」また西洋から入り込んだ「キリスト教の神」も信ぜずに「太陽と月とを崇拝し」たということであろう.この当時でも,科学的思考の人たちは少なからず,いたのかも知れない.
その大眼宗の起こした事件というのは,これもまた曖昧であるが,「その信徒と横手城士との衝突事件をいう」とある.「起承転結の起」がないため,何ごとが起きたのかわからないが,「承」として「信徒六〇余名が捕えられ、処刑された」という.そして「転」として「その中に二人のキリシタンがいたため」、「結」として「大眼宗とキリスト教とが混同され、迫害がキリシタンの上にはねかえってきたのである。」というまったく分けのわからない事態が生じる.
この通りだとすると,取り締まる側が取り締まる連中のことを区別できずに処刑しているので,まずあり得ないことだろう.なにか重要な情報が欠如しているに違いない.関係研究者の更なる努力を望むところである.
しかし,この二年後から弾圧が強化され,キリスト教徒であるかないかにかかわらず,疑いが持たれたものは捕縛され,処刑されるようになっていったらしい.以下,しばらく処刑の様子が続くが,このレポートとは関係が無いので,略する.
やがて,「寛永元年(一六二四)の一月パードレ・カルバリオが仙台領下嵐江で捕えられて後、キリシタンを救済し、信仰をひろむべき宣教師の潜入も絶えてきた。」.さらに「秋田領のキリシタンは継続的な弾圧の嵐の中に次第に埋没して、消え去って、その跡を残すことがなかった。」とある.
残念なことに,デ・カルバリオの足跡はたどれなかったが,当時のキリシタンにとっての秋田領という地域はどのような意味を持つか,何がしか知ることができたろうと思う.