2008年11月26日水曜日

石川貞治・横山壮次郎の地質学(3)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

横山壮次郎

●横山壮次郎の履歴
 横山壮次郎は1869年8月10日(明治2年7月3日)鹿児島に生まれました.
 横山壮次郎の「壮」は,旧字体で「横山壯次郎」と表されている場合もあります.まれに同一人物と思われるひとで「横山荘次郎」とされていることがありますが,これは誤植あるいは誤変換でしょう.
 1889(明治22)年に札幌農学校を卒業し,翌年,1890(明治23)年12月に「土壌学」の嘱託講師として札幌農学校に雇われています.そのとき,横山の本職は北海道庁の技手でした.札幌農学校はこのときすでに北海道庁の管轄下にありましたから,横山は兼任ということになります(北大百年史・通説,第3章の付表一,二).
 また,「同・通説,第3章の付表一」には,その後,
  92.2~94.9:助教授:道庁技手兼任
  94.9~95.2:助教授
  95.2~95.5:助教授:道庁技手兼任
 となっています.チョット意味不明なんですが,90.12~92.2は道庁技手が本職で農学校の(非常勤)講師,92.2~94.9は道庁技手が本職で農学校助教授を兼任し,94.9~95.2は農学校助教授が本職で道庁技手を兼任し,95.2~95.5は(元に戻って)道庁技手が本職で農学校助教授を兼任ということらしいです.職制としてはともかくとして,ただ複雑になるだけですし,助教授と技手を兼任していたことには違いないので,92.2~95.5:道庁技手で札幌農学校・助教授兼任ということで進めさせていただきます.

 したがって,以下のようになります.
1869年8月10日(明治2年7月3日):鹿児島県に生まれる.
1889(明治22)年7月:札幌農学校卒業
1890(明治23)年12月:札幌農学校卒業の嘱託講師(土壌学)となる.
1892(明治25)年2月:札幌農学校の兼任助教授となる
1895(明治28)年5月:札幌農学校の兼任助教授を離任する

●横山壮次郎の担当教科
 前述したように,横山の嘱託講師時代の担当は「土壌学」になっています.しかし,この時期,本科である「農学科」や「工学科」で「土壌学」という授業が行われた形跡はありません.そういう専修科目自体が見あたらないのです.並置されている実習コースである「農芸伝習科」(修業2年)では「土壌論」が行われていたようですから,横山は「農芸伝習科」で教えていたのかもしれません.

 湊正雄「北大における地質学と北海道」(北大百年史・通説,「北大100年の諸問題」)中に示された「表1.札幌農学校本科における地質学の授業」には横山壮次郎の名はありません.もちろん,みた範囲では工学科の授業でも横山の授業はありませんでしたので,横山はもっぱら「農芸伝習科」で「土壌学」の教鞭を執っていたと考えるべきなのでしょう.

●横山壮次郎の学歴
 横山壮次郎が札幌農学校に在学していたころは,不幸なことに学生のデータがほとんど残されていません.書いてあるのは鹿児島県出身で1889(明治22)年7月の卒業ということだけ.
 これではどうしようもないので,いくつか仮定を加えてみることにします.
 まずは,横山は健康で優秀な学生だったとします,そうすると,

  1年級:1885(M.18).09~1886(M.19).06.
  2年級:1886(M.19).09~1887(M.20).06.
  3年級:1887(M.20).09~1888(M.21).06.
  4年級:1888(M.21).09~1889(M.22).06.
だったことになります.

 この時期,「地質学」の授業は,通常第3年級の後期に行われることになっていました.したがって,横山は1888年の1月から行われる後期の授業で「地質学」を受けていたはずです.しかし,この時の「後期時間割」には「地質学」はなく,「春季休業後より『地質学及び金石学』を授業す」という但し書きありました.
 さらにしかし,ですが,これは実現しなかったようです.
 と,いうのは横山が四年生になった年の前期の授業時間割が残されていて,それには,月曜日の11:30から12:30まで「地質学」の授業をストックブリッジが行うことになっています.おかしなことに,この時期通常一週間に5回授業を行うのが普通ですが,なんと,このときはたった一週間に一回だけでした(もしかしたら,三年生の後期に一部授業が行われ,不足分を四年生の前期に補習したのかもしれませんが…ま,三年生から四年生への進級の判断ができなくなるので,これは難しいといえば難しいですがね).
 さらにもっと不思議なことに,この授業が行われている最中であるはずの11月1日に,突然時間割が改正されています.そして「地質学」の授業が忽然と姿を消すのです.それだけでなく,前年の1888(明治21)年の四年生後期の授業では,「獣医学」・「農学」・「農業経済及農業法律」・「土木工学」・「物理学」・「獣医学実験」など多彩な授業を展開していたのに,改正後には「獣医学」・「独逸語」・「物理学」しかありません.
 いったい何が起きたのでしょう.

 1889(明治22)年2月22日に出された「札幌農学校沿革略」によれば,
「明治21年10月,雇教師ストツクブリチ公用を帯び米国へ帰省せり.」
 !?ストックブリッジは日本に戻らぬままに,
「明治22年1月,曩に帰省せし雇教師ストツクブリチ,満期離任す.」

 付け加えておけば,「明治21年10月,雇教師ブルツクス,22年8月まで雇継の処,願に拠り本月20日限り解約離任」
 授業が進行している最中に,外人教師の一人が突然離任,もう一人の外人教師も故国へ帰ったまま離任.いったい何が!?

 これに呼応するように,1888(明治21)年10月,北海道庁技師試補の「吉井豊造」が嘱託講師となり,翌年9月に教授として雇傭されています.湊先生の表によれば,吉井は1889年から「地質学」を担当していることになっていますが,当然ストックブリッジがやり残した旧課程・第四年級の授業をやっていたとも考えられます.なお,吉井の専門は「化学」・「農芸化学」でした.
 この交代劇には,なにか意図的なものを感じさせます.この頃,外国語にドイツ語が取り入れられたり,米人教師を日本人に置き換える現象が見られます.明らかに当初のアメリカ・マサチューセッツの影響下からドイツの影響下への転換期にあたるようです.

 1889(明治22)年1月,後期授業が始まりますが,もちろん「地質学」の授業はありません.この年の旧課程最後の卒業生17名が農学校を旅立ちます.その一人が横山壮次郎でした.

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