2008年11月26日水曜日

石川貞治・横山壮次郎の地質学(4)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

「閑話」
 前に「ライマンの一目惚れ」という記事を書きましたが,このときのライマンの恋敵が「森有礼」という人物.森は若い頃に米国留学していて,米国風のスタイルを身につけ,男女平等論を日本に植え付けようとしました.とにかくカッコ良かったらしい.今でいう「イケメン」ね.米国留学を果した秀才で,仕立てのいい洋服がよく似合い,男女平等論をぶつ.「アラ・フォー」のおっさん・ライマンが勝てるわけがないです….
 そんなわけで,ライマンが惚れた女性と森は対等の立場で結婚します.
 ところが,この森という人物,相当いい加減なやつで,アメリカに居るときはアメリカ風,でも日本に帰ってくると日本風,に思想がかわってゆきます.明治も20年頃になると,「男女平等」ではなく「良妻賢母」教育に方針が変わります.身も蓋もない言い方をすれば「軍国の母」という言い方が一番よくあっているようです.森の変節とともに,それまでの妻では都合が悪くなったのか,離婚.以後,森家では前妻のことは「タブー」となったそうです.
 森は,1889(明治22)年2月11日にテロにあって翌日死亡.
 森がテロにあった日は,「大日本帝国憲法」の公布式典の当日でした.
 「大日本帝国憲法」は(ま,評価はいろいろあるでしょうけど)ドイツの憲法を手本にしたといわれています.アメリカ合衆国と国交を開くことで鎖国を解き,文明開化まっしぐらにやってきた日本,アメリカ式自由主義は明治初期には日本人のあこがれだったようです.しかし,明治も20年ほどたつと揺れ戻しが….日本の指導者たちは「ドイツ国家主義」が日本に合うと考え始めました.世の中はそういう風に流れていたらしい.
 そういう時代だったのですね.
 森の変節もその典型だったようですが,どうも,この典型が札幌農学校にも現れているようです.

 クラーク博士が始めたマサチューセッツ農科大学式全人教育が崩れ始めます.一般知識中心だった教科が専門色の濃い教科へ変わってゆきます.外国語は英語だけだったのがドイツ語中心へ.本科は農学科だけだったのが,「農学科と工学科」に増えます.実習コースである「農芸伝習科」も.さらに「兵学科」や「兵学別科」も.
 もちろん,息も絶え絶えだった「札幌農学校」を復活させた“佐藤昌介改革”のことを,こういう風にいうのは気が引けるのですが….

 クラーク博士の言葉「Boys, Be Ambitious」.クラークはこんなことはいわなかったという説もよく聞きます.「言った」か「言わなかった」かは,見送りにいって,その場にいた札幌農学校一期生しかわからないことなので,今更何をいっても水掛け論にしかならないのは明らかです.「個人より国家」を優先しようという時代には,クラークはそんなことはいわなかった方が都合がいいわけですね.だから,「言わなかった」説がでてくる.
 「言わなかった」と主張する人たちの大きな根拠になっているのが,クラーク博士が去ってしばらくの間はこの言葉が話題になっていないことがあげられています.明確に話題になったのは,札幌農学校創立15周年の記念式典での第一期生・大島正健の講演でのことといわれています.創立15周年記念式典は「北大百年史」には記録がありませんが,計算上は1891(明治24)年になります.「個人よりも国家」の風潮が進行しているこの時期,クラーク博士の精神を思い出せよと,その言葉が「象徴」として取り上げられたのも,理解できるような気がします.
 クラーク博士が死去したのが1886(明治19)年3月9日.すでに一つの時代が終わっていたのです.

 最近また,クラーク博士は「そんなことは言わなかった」説が流れているようですが,「個人より国家」の時代がまたくるのかと不安です.

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